ぶるうす


1.
 想像したこともないくらい、綺麗な声だった。何を唄っているのかは分からないけど、とにかく、素晴らしい声。物悲しくて、透き通った声。時々、掠れた感じになるのが、なんだか胸を引っ掻かれているみたいで、否応無しに響く声。
 声は、川の向こうのヘンテコな形の山の人影から聞こえてきた。その山の奇妙さと言ったらない。まばらにしか植物もいないのに朝から夕方まで沢山の同じような人が集まるのだ。でも、夜は静か。あの人達は夕方になると急にざわめき出して、ちりぢりにいなくなってしまう。大勢の人達が集まるあの山に、あの声の持ち主がいるというのなら、僕も一遍、あの山のてっぺんに行ってみようと思った。

 山のてっぺんから突き出した崖には、やはり一人だけ人がいた。他の人と同じ黒っぽい格好だ。
「ねぇ、いつもみたいに唄ってよ」
 声をかけると、その人は僕が来たのに驚いたのか、ちょっと後退った。
「恐がらないで。いつも歌を聴いていたんだ。凄く綺麗な声だよね」
 僕はいつも聴いていた歌をまねて、メロディーを口ずさんでみた。あんな、綺麗な声は真似できなかったけど、出きる限りまねて唄った。僕は歌はヘタクソで、よく母さんに笑われてるけど、あの素晴らしい声を思い出しながら唄うと、それだけでとても気持ちが良いのだ。
 その人は僕の唄うのをみて、くすっ、と微笑むと、銀色の板を口に当てた。なんだろう、と思っていたら、たちまちあの綺麗な声が響き渡った。夕焼け色に染まった空に、溶け込むような美しい響き。ヘンテコ山のてっぺんから川の向こう、僕のお気に入りの高台まで純度を損なわない確かな声。僕も一緒に唄い始めると、妙なる声の持ち主も楽しそうに、一層声を張り上げた。一瞬、声が掠れる。掠れた声も味がある。例えるならば、夕焼け時、だんだんと朱に染まっていく空の色だ。

 やがてどちらともなく唄うのを止めると、僕達は微笑みあった。
「…………」その人が呟く。唄ってる時とは全然違った声。……どうやら、この人は巧く口がきけないみたいだ。何を聞いても不明瞭。でも、僕はこの人が羨ましかった。僕は変な声だし、見た目だっておかしい。この人は見た目も綺麗だし、なにより素晴らしい声を持っている。今日は取り敢えずここら辺でお暇しよう。残念ながらここでお喋りをして、友達になるのは難しいみたいだ。また今度来た時に挑戦しよう。
 川の向こうから僕を呼ぶバカでかい声が聞こえた。母さんだ。僕の未来の友達は母さんの方を指差している。帰るのか、とでも訊いているようだ。
「また明日くるよ。またね」僕はサヨナラをして家に帰ることにした。
 川の真ん中辺りに差し掛かった時、またあの人の声が聞こえてきた。ヘンテコ山の方を見ると、あの人が手を振っている。もう、日は完全に沈んで、夕焼けは闇のカーテンに隠れてしまった。僕は、闇に溶けるように、母さんの元へ空を滑り降りていった。

2.
 ハーモニカが、私の日課だった。毎日、放課後になると学校の屋上で、お気に入りの曲の練習をしていた。題名は「鴉のブルース」といい、人間に慣れた幼い鴉が偶々自分の鳴く先々で人に死なれ、疎まれ、最後は自分で命を絶つと言う、結構泣ける内容の歌詞の付けられた曲だ。
 この曲をここで吹いていると、川の向こうの高台に何羽かの鴉がいるのが見える。割と人に散々な言われ様をしている鴉だが、こうして見ているとのん気なものだ。この歌の歌詞さえ疑ってしまう。何とも気持ちの良いのんびりした声で「くわぁ〜」等と鳴いているのを聴くと、こっちまで欠伸が出てしまいそうだ。

 背後で、その「くわぁ〜」という、間延びした鳴き声が聞こえた。
 驚いて振り向くと、鴉が大口を開けている。こんなに近くに鴉を見たのは初めてで、私は思わず後退った。しかし、よく見るとその鴉はまだ幼いのか、とても小さい。今度は大きな口は開けずに「くぁ、くぁ、くぁ」と可愛らしい声で鳴き出した。息継ぎさえもどかしいように絶え間なく鳴き続ける、微笑ましい姿を見ていると、段々と、この子は歌を唄っているのではなかろうか、と思い、ハーモニカの音を重ねてみた。予想外に、鳴くのを止めない。曲名は勿論「鴉のブルース」……私達はまるで共演しているかのように、夕焼け空に音を撒き続けた。

 私はこの曲が本当に好きだった。聴いていると、鴉と私をいつも重ねてしまう。
 交通事故で両親と弟を亡くし、もう高校生だから、と親族の好意を断って始めた一人暮らし。最初のうちはやっぱり辛くて、慣れるまでは何度も一人で泣いた。そのうち、友達が生まれたての子猫をくれて、「ミーミ」と名づけてからは、大分精神的に健康な生活を送ることができた。毎日、面倒を看るのは確かに大変だったが、ミーミはすくすくと成長し、その成長ぶりを見守るのも私の日課になっていた。
 しかし、そのミーミも半月前、交通事故であっけなくこの世を去った。
「アンタがちゃんと躾ておいてなかったから!」ミーミをくれた友達にはそう詰られた。彼女は私の元を度々訪れて、一緒にミーミと遊んでいたのだ。ミーミもよく懐いていた。
 みんな、私の所為で死んだんだ。そう思っていた時、あの曲に出会った。……私はあの鴉と同じだ。私と親しい者はみんな消えていってしまう、私に孤独と罪悪感を残して。

 「鴉のブルース」を演奏し終えると、私と鴉はどちらともなく唄うのを止めた。
「どうも、共演ありがとうございました」驚かしては悪いので軽く頭を下げる。目の前の鴉に言葉が通じないのがもどかしい。
 その時川の向こうから「カァーッ! カァーッ!」というお馴染みの鳴き声が聞こえてきた。こんな子供ではない成長した鴉の声だろう。もしかしたら、この子のお母さんなのかも知れない。ほら、向こう。川向こうの高台を指差す。子鴉は、私にサヨナラでもするかのように「くぁ!」と鳴くと、そちらの方角へ向かって飛び立っていった。羽ばたく美しい漆黒の翼、私はそれに向かって手を振ってみたが、鴉の黒い姿は夜の闇に紛れて、すぐに見えなくなってしまったので、闇に向けて振る片手はそのままに、ハーモニカを口に当てた。
「鴉のブルース」をワンコーラス分吹き終えると、私はどうしたことか、ハーモニカを川に向けて思いっきり放り投げた。暗くてよく分からなかったが、勢いからしてハーモニカは川には届かず、手前の茂みの辺りに落ちただろう。

「あ〜ぁ、なにやってんだろぅ」わざと声に出してみた。台詞とは裏腹に、妙に晴れ晴れしい気分だ。最期に珍しい体験が出来た。さて、これから私はあの歌の鴉と同じ運命を辿ってみようと思う。……私は両手を大きく広げて屋上の縁を乗り越えた。

3.
 次の日、明け方に母さんが言った。
「お前、あのヘンテコ山の麓に新鮮なお肉が落ちてるよ。みんなで食べにいくから、お前も行っておいで」相変わらずのざらついた声だ。
 だけど、僕はヘンテコ山の麓には興味がなかったので行かないことにした。夕方まで残っていれば、あの歌を聴きに行った帰りにでも、ちょっと突っついてこよう。

 ヘンテコ山に向かう途中、川を越えた辺りの茂みで、あの人が持っていたような銀色の板を見つけた。木漏れ日を反射して眩しく輝いていた。でも、僕はあの人に会いに行くのだからこんな物に興味はなくて、黙って通りすぎた。
 崖には他の人ばっかり沢山いて、あの人はいなかった。次の日も、次の日も、あの人の姿は見つからない。そのうち、崖の淵には大きな植物がずうっと上まで成長していて、飛び越すのが面倒だった。でも僕は、気の短い方じゃない。

 ずっと、ずぅっとでも待ってるよ。
 いつかあの声をもう一度聴けるのなら、いくらでも、待ってる。


後書き

 山崎まさよし主演(もちろん音楽も担当)の映画『月とキャベツ』の中で、山崎まさよしがハーモニカを吹くシーンがあり、その時に「この音を鳥か何かが声だと勘違いするのはどうだろう」と思いついて書きました。叙述トリックっぽいのが入っているのは個人的な趣味です。
 俺は鴉という鳥が大好きで、「鳥」と言われると先ず鴉を思い浮かべます。中途半端に頭がいいから、何を考えているのかが結構分かるんです。あと、子供の鴉がとても可愛い鳴き声を出すのは本当です。以前、田舎で飼っていた鴉の「かーこ」は叔父が近づいてくると「くぁ、くぁ」と鳴きながら寄って行く、可愛いやつでした。
 ゴミを漁るとか、人を襲うとか悪い噂ばかり聞きますが(俺も一度、高校の頃に強襲をうけてビビッタ)、それでも絶対に鴉を嫌いにはなりません。鴉=かーこ=イノセンスの図式が確立されています。
 ところで、『月とキャベツ』は本当に良い映画なのでお薦めします。アレを見て以来、名曲『One more time,One more chance』を聴くだけで涙腺が緩みます。いや、その前からかも。

戻る