僕のバンドのボーカル、佐伯沙希のことを、僕は心底崇拝している。
とは言え、彼女がそんなに超然とした女性なわけではない。笑いもするし、怒りもする。失敗もするし、魅力的ではあるけれど、別段変わった性格をしているわけでもない。
それでも、彼女がステージに立つだけで、箱の空気が一瞬にして澄み渡る、そんな錯覚を覚えるのだ。
僕だけじゃない、他のメンバーも、大勢ではないけれどファンの皆も、ボーカルの立ち位置に収まった時の、沙希のカリスマ性に付いては認めている。
今日はそんな僕等の最後のライブの日だ。沙希はもうステージに立つことが出来ない。僕を含めた他のメンバーも、沙希自身も納得済みの解散ライブだ。
既にリハーサルは終わった。箱は超満員とは言わないけれど、沙希はリハーサルに参加しなかったけれど、それはいつものことだ。本番の準備は出来ている。
会場に来てくれているお客さん達は、沙希がどういう人間なのかを既に知っている。だから沙希はステージに立てるのだ。
ライトが灯る。
観客が息を飲む。
演奏が始まる。
沙希はマイクを握り締め、大きな振りで唄う。今、彼女は唄っている。
たとえ彼女の口から声が出ていなくても、マイク自体ミキサーに繋がっていない、形だけのものであっても、それでも彼女は唄っているのだ。
僕達には、観客には、その声が聞こえている。沙希の声。美しいメロディ。流れるような旋律。空気は微動だにしなくても、その声は会場中に鳴り響いていた。
ライブが終わり、会場は拍手に包まれた。ステージから去る途中、僕は彼女に囁いた。
「結婚、おめでとう」
ありがとう
と、彼女の唇がそう動くのが見て取れた。
後書き
1992年のオムニバス沖縄映画『パイナップルツアーズ』という名作(←個人的に)の中に登場する「麗子おばさん」というキャラクタを取っ掛かりにして書いた超短編です。
その「麗子おばさん」は沖縄出身のオペラ歌手なのですが、原因不明の病気によって声が出なくなってしまい、沖縄の呪い師「ユタ」の元に相談に来ている、という設定です。作品後半で、声の出ない麗子おばさんが三線の伴奏で歌う仕草をして、周りの住人が聞き惚れる、というシーンがとても印象的で感動しました。
あんまりにそのままなのもアレかなぁ、と思ったので「結婚、おめでとう」というのを加えたのですが、これはもちろん寿退社というか結婚(妊娠)で引退ってところです。