Climax Together


1.
「そうだ、遠野。お前さん、ライブ見に行かないか?」
 寮の自室でのお茶会時の唐突な提案だった。お茶会、とは言っても、二人の同居人の内の一人、羽ピンはまたどこぞをほっつき歩いているようなので、参加者は必然的に二人しかいないのだが。
 同室のこの月姫蒼香は度々「ライブ」に行く、と言う理由でこっそりと外泊する。しかし、私が誘われるのは初めてのことだ。
「いやな、よく一緒に行く奴らがさ、外泊見つかっちゃってな、今、家からも学校からも監視がきついんだよ。折角チケット3枚あるからどうかな、とね。まぁ、立ち見だけどさ」
 蒼香は手に数枚の紙切れを持ってヒラヒラと振っている。どうやら、あれがチケットのようだ。
「でも、羽居は今無理なんじゃない? 最近またなんか内職に忙しそうだし」
「別にもう一人が羽居って訳じゃないさ。あの子は駄々こねるかもしれないけどね」
 蒼香がニヤッと顔を綻ばせる。明らかに何か私にとって良くない事を企んでいる笑みだ。
「悪いけど、お断りするわ。大体私、「ライブ」って行ったこともないし」
「まぁまぁ、何事も経験だろ? あたしは大人しく最前列の方にでもいるからさ、おまえさんは後ろの方でお兄さんとくっちゃべっててくれ。まぁ、あんまりムードの出る音楽じゃないのは悪いがその辺りは多めに見てもらうとして」
 な……!?
「なんでそこに兄さんが出てくるのよ!?」
「おや、ご不満かい? こうしてあたしがアンニュイな雰囲気を漂わしているルームメイトにストレス発散のチャンスを提供しようってのに」
 蒼香はベッドの端に背を預けると腕と足を組み、こんな時特有の「ニヤリ」という不吉な笑みを見せる。
「それは蒼香が面白がりたいってだけでしょう?」
「そいつは二の次だ」
 コイツ、二の次だろうがなんだろうが、その気があるにはあるわけか。っとまぁ、蒼香の思惑は兎も角、提案自体は割合面白そうかもしれない。
 ただ一つ気になる点があるとすれば……
「安心しろ、おまえの大切なお兄さんを取っちまおうなんてことは考えてないよ。それにあたしは遠野秋葉の姉だなんて大役まっぴらだしな」
「蒼香!!」
 私が必中の狙いと必殺の威力を込めて投げたスリッパは、サラリと蒼香に回避され……
「あいたっ!!」
 ちょうど良くドアを開いた羽ピンにヒットしていた。
「ううー、きゅぅぅー」
 ぐらりと仰向けに倒れる羽ピン。スリッパのつま先の部分がいい具合に額に直撃だったので、もしかしたら軽く脳震盪ぐらい起こしたんではなかろうか? って、冷静に観察なんかしてる場合じゃない!!
「は、羽居!? ゴ……ゴメン……」
「羽居! 大丈夫か!?」
 わたしが固まっている間に蒼香が羽居を抱き起こした。咄嗟の時に冷静になれるのはいいのだが、冷静になりすぎて思考に走ってしまうのがわたしの悪い癖だ。
「きゅぅぅぅぅ……」
 蒼香の後ろから覗き込んで見ると、羽居の額に赤く痕が残っている。
「全く、避けるなら避けるで後方確認くらいしなさいよ」
「バカッ、それどころじゃないだろっ。遠野、氷水とタオルを早く! ……あっちゃー、酷いなこりゃ、首にダメージは無いものの、ただのスリッパでなんちゅう威力だ、妙な投擲技術でも持ってるのかお前は……暫くは痕が残るぞコレ」
 適度な冷静さで適切な処置を施していく蒼香。実は結構ちゃんと女の子なんじゃないかとか思いつつ、致命傷を負った羽ピンの介抱を交代すると、蒼香はベッドに潜り込んでしまった。
「まぁ、そう言うわけであたしは会場の近くで待ってるから、お前さんは麗しの兄上様と一緒に来てくれ。あと、羽居に謝っとけよ。それじゃ、おやすみ」

2.
「そうだ、兄さん、ライブを見に行きませんか?」
 ロビーでの朝のお茶会時の唐突な提案だった。いや、唐突どころではない。秋葉の口から聴き得る筈のない単語が発された気がする。
「ごめん、秋葉。もっかい頼む」
「今度の週末にライブを見に行きませんか? と訊いたんです」
 意外や意外。ある意味、籠というか檻というかの中で育った秋葉からそういった誘いを受けるとは思わなかった。これがどこぞの美術館とか奏楽堂だったりしたら有り得るかもしれないが。いや、まてよ……
「ライブというのは……その、クラシックのコンサートとかそういうのか? 俺はそういうのはちょっと……」
「違います。ロックのライブです」
「へ?」
「ですから、ロックバンドのライブをライブハウスに見に行きませんか? と訊ねたんです」
 少しいらついた様子で秋葉は言う。秋葉の口からロックやらライブハウスという単語が飛び出た事実に一瞬言葉を失ってしまう。
「あ、あぁ。いや、それは全然構わない。寧ろ嬉しいくらいだ」
「兄さん、どうしたんですか? 何かちょっと歯切れが悪いようですけど、何か他に予定でも?」
 一転して表情の曇る秋葉。こういった挙動が可愛らしいと思えてしまう俺は多分にして兄馬鹿なのかも知れない。
「そういう訳じゃないんだけどさ。いや、秋葉がライブなんて珍しいな、と思ってね」
「えぇ、私も友人から誘われたんです。チケットが余ってるから兄さんを誘って遊びに来ないか、と」
「へぇ、浅上にもそういう子はいるんだな。兎も角、それはOKだよ。週末だな」
「はい。ありがとうございます」
 秋葉は妙に嬉しそうだ。週末か……確か有彦が何か言ってたような気もするが、この際それはほっといてライブを楽しみにしていよう。

3.
「志貴さま……そろそろお目覚め下さい。今日は秋葉さまとお出かけになる予定がおありの筈です」
 カーテンの開かれた窓から射し込む光と囀るような誰かの声にゆっくりと目を覚ました。
「ん……あれ? 翡翠? もうそんな時間?」
「はい。秋葉さまは早くから御仕度をなさっているようですが、志貴さまはどうなさいますか?」
 確かライブは夕方からだった筈。おかしいな、と時計を見るとまだ8時数分前。
「なんでこんな時間から仕度なんてしてるんだ? 秋葉のヤツは」
 独り言のように発した問いに翡翠が答える。
「秋葉さまは、らいぶの前に志貴さまと何処かにお出でになるようなことを仰ってましたが?」
「何処かって……あぁ、そうか」
 確か、そんな約束も一緒にしたんだっけ。どうせならどっかでお茶でもしてから行こうか、って俺のほうから言い出したんだった。
 いや……しかし待てよ、一体何処に連れていけばいいんだ? 秋葉が喜びそうな店なんて俺には検討がつかないぞ?
 ここは一先ず、取り敢えず朝食だけとって秋葉の様子でも見てみよう。
「じゃあ、取り敢えず朝食にしたいんだけど」
「はい、準備は整っていますので、食堂でお待ちしています」
「ありがとう、じゃあ着替えたらすぐ行くよ」
 翡翠は一礼すると、踵を返して部屋を出ていった。

「おはようございます。志貴さん」
 食堂では琥珀さんと翡翠が朝食の準備をしていた。
「おはよう、琥珀さん」
 そういえば、と思い出して翡翠の方に向き直る。
「翡翠も、おはよう」
「おはようございます、志貴さま」
 例の如く翡翠は深々と頭を下げ、先ほど忘れていた朝の定例行事を済ました。満足気な笑みを浮かべる俺と翡翠を見て琥珀さんはクスクスと笑っている。なんだか気恥ずかしいが、やっぱり朝の挨拶は大事だろう。
「琥珀さん、秋葉のヤツは朝食まだですか?」
「秋葉さまはもう朝食は済ませましたよ。志貴さんも朝食をお摂りになったらご様子でも伺ってきたら如何ですか?」
 琥珀さんはポットにお湯を注ぎながら答える。……紅茶だろうか。
「なんで俺が秋葉の様子を見てくる必要があるんですか? 追い出されちゃいますよ」
「秋葉さまは御召物で大分悩んでいるようですから、志貴さんがひとつ兄としてアドバイスでもしてあげちゃえばいいんじゃないですか」
 俺は、あぁ、と納得して頷いた。そういうことか。
 遠野秋葉は正真正銘のお嬢様だから俗世間に出るような御召物は持ってない、と。そういや秋葉の普通の格好って見たことないな。いくらなんでも一着もないってことはないと思うけど……

 コンコンコン

「あきはー? 入って大丈夫か?」
 食事を終えて、琥珀さんの言う通りに秋葉の部屋を訪ねた。
「あ、兄さん、丁度良かった。入ってください」
 さて、部屋に入ったが……
「兄さん? 入ってくるなり固まって、どうかしたんですか?」
「前言撤回、俺が甘かった……」
 そう、秋葉は秋葉なりの『普通』の服を着ていた。これが秋葉にとっての『普通』の外行きの服装なのだろう。その詳細については多くは語るまい。一言で言えば、ゴージャス、これに尽きる。
 そういえば、秋葉の部屋って結構ゴージャスな感じだな。フリルとか付いてて、案外こういうのが趣味なのかも知れない。それは兎も角として、この服装はあまりにもヤバイ。
「えぇっと、一応明るめの服を選んで見たんですけど……」
「却下」
「はい?」
「却下だ却下、ビジュアル系バンドのライブ見に行く電波ちゃんじゃないんだから」
「電波ちゃんって? お友達ですか?」
 お嬢様ならではのボケをかます秋葉は放っておくとして、それ以前に秋葉がこんな格好をしてビジュアル系のライブに行ったら、俺は兄としてその行為を止めなければいけない気もするが……
「兄さん! その電波さんと兄さんのご関係を私が納得いくよう説明してください」
 何やら抗議の声をあげる秋葉を無視しながら衣装ダンスを覗く。
「……はぁ」
 流石はお嬢様。この中にある服一着で、俺の持ってる服全てよりも値が張るかもしれない。
「もうちょっと普通な服はないのか?」
 秋葉は小首を傾げて
「ええっと……普通と言うと?」
「そう言われてもなぁ……妥協しても、全身で3万……いや、5万は超えないくらいかな。勿論手作りとかも却下だからな」
 そういう俺も、女の子の服のことなんか全然知らない。勿論、全部憶測だ。
「これでは、超えてしまいますか?」
 秋葉は難しい顔をして自分の服装に目を下ろす。真面目に考えこんでいるらしい。……どうやら秋葉は自分の服の値段も分からないようだ。
「あぁ!! もう分かった、琥珀さんから適当な服借りてくるよ」
 ドタドタドタ……
 俺は一路、琥珀さんの部屋に向かう。
「琥珀さーん、いますかー?」
「あ、はい。どうぞー」
 バッ!!
 部屋に入った俺の目の前に突き出されたのは、そこそこの大きさのある紙袋だった。
「そろそろいらっしゃる頃かなー、と思って準備してたんですよー。えっと、ジーパン、Tシャツにジャケット、あと履物とアクセサリが数点なんですけど、こんなもので大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます……って、なんで用件分かったんですか?」
「秋葉さまの御召物は私が一番把握していますから」
 会心の笑顔でそう答える。
「あぁ、成る程。って、じゃあ最初から琥珀さんが……」
「それじゃあちっとも面白くならないじゃないですかー」
 会心の笑顔は揺るがない。いや、そこに面白さを求めるのは何か間違っているような気がするが……
「それにしても志貴さん、気になりませんか?」
「えっ?」
 琥珀さんの意図するところが掴めずに訊き返してしまう。
「秋葉さまがこういう格好したらどうなるか。私、とっても興味あるんですよー」
 あ、それは確かに……新鮮……かも。
「絶対似合うと思いますよ、秋葉さまに似合わないのは胸を強調した御召物だけですから」
「こっ、琥珀さん……」
 大分はっちゃけたことを口にする琥珀さんに一抹の不安を感じ、部屋を後にする。……こんなシチュエーションの場合、ドアの前で様子を見に来た秋葉が立ち聞きしていた、なんて展開になりそうで怖い。
 部屋を出てあたりを見まわすが、どうやら秋葉に聞かれていた、ということはなさそうなので取り敢えず胸を撫で下ろした。
「ふぅ……」
 秋葉の部屋に戻ると、秋葉は早速持って来た紙袋に目をつけた。
「兄さん、あったんですか?」
 とか訊きながらも、その視線は紙袋に釘付けだ。
「あぁ、琥珀さんが用意しててくれたみたいだ」
「あら、それだったらもっと早く持ってくればよかったのに」
「まぁまぁ」
 と、俺は紙袋の中身を確認しながら出していく。琥珀さんのコーディネイトした『一般人の服』は、まさに俺が求めていた類の普通だった。
 流行のサーフブランドのTシャツは、繁華街に出れば同じようなTシャツを来た女の子に数人出くわしそうな柄だし、ジャケットはユニ○ロで売っているようなシンプルな物だ。ジーパンはブランド物のブーツカットで、これは少し値が張るかもしれないが、秋葉の普段着と比べたら月とスッポンだ。靴はスポーツ向けなスニーカー、これも別段変わったところはない。あとは、少し余らせるような長めなベルトと、琥珀さんもそれだけではちょっと味気ないと思ったのか、シルバーのネックレスとブレスレットが入っていた。ちゃんとバックまで用意してある所に気遣いを感じる。
 流石は琥珀さん、通俗的な知識は一番ある。
「じゃあ、ロビーで待ってるから、準備終わったら出かけようか」
「はい、ちょっと時間がかかるかもしれませんけど構いませんか?」
「あぁ、それじゃ、また後で」
 秋葉の部屋を後にすると俺はなんだか堪らなくワクワクしてきた。純粋に一般人と化した秋葉の姿を見るのが楽しみなのだ。
(流石にちょっと兄馬鹿が過ぎるかなぁ……)
 と一抹の不安を抱かないでもないが、純粋芸術と市民性の融合と言う新しい美術の開拓の成果が、もうすぐ俺の目の前に実現するのかと思うと自然と顔がにやけてしまう。まぁ、それまではゆっくりとロビーでお茶でも飲んで……
「あ、志貴さま……」
 ロビーには秋葉より一足早く純粋芸術と市民性の融合を果たした、我が家のメイドさんが待っていた。
「あ……え……? ひ、翡翠?」
「はい」
翡翠はボーダーのキャミソールにデニムのミニスカート、白い肩と真っ赤に染まった顔のコントラストが激しく可愛らしい。
「これ……ね、姉さんが」
「あ……あぁ」
 コクンと頷く。それしか出来ない。
 翡翠と俺との間になんとも生々しい緊張感が走る……
「あー! 志貴さん。如何ですか? 翡翠ちゃんの服は?」
 トタトタと階段を降りて来た琥珀さんが救いの船となった。が、しかし、
「こっ、琥珀さんまで……」
 琥珀さんは目の前にいる翡翠と全く見分けのつかない格好をしていた。双子トリックと言う奴だろうか。
「いったいどうしたんですか?」
「折角だから私達の分も一緒に買って来たんですよー。どうですか? 似合います?」
「そりゃ、二人とも似合ってますよ。見立てもモデルもバッチリです」
 大体、基本的に美人は何を着たって綺麗なものだ。似合ってなくたって綺麗なものは綺麗なのだ。似合う似合わないは体型的な問題……例えば胸が無い……とかがあるけど、琥珀さんと翡翠には特にそういったネックはない、と思う。
「大体、琥珀さんと翡翠の場合、似合わない服を探す方が難しいと思いますよ」
「あはっ、そう言われると照れちゃいますねー」
 赤い顔のまま俯く翡翠の隣で、全く照れる素振りを見せずに言う。
「それで、その服は普段着にするんですか?」
 私服、と言うのも、何だか変だ。二人ともいつもの服装が板についているからちょっと違和感が……いや、違和感以前に見分けがつかないのが問題か。
「これは外行きにするつもりです。仕事をするにはちょっと……」
 と、俯いていた翡翠が言う。
 それは翡翠の言う通りだろう。普段のメイド服は仕事着、と明確に認識できたから意識しないで済んでいるものの、朝からこんな服装の翡翠に起こされたら気がどうにかしてしまいそうだ。いや、ある意味では普段のメイド服にも素晴らしくそそられるものがあるのだが。
「でも、外行きって言ったって……」
 翡翠が外出することなんて滅多にないと思うんだが……
「だからぁ! そこは志貴さんが外に連れて行ってくれればいいんじゃないですか」
 なるほど。俺がどっかに連れていかなきゃ、二人のこういった服装は拝めないわけか。
「ま、それはそのうち、ね」
「そうですね、今日は秋葉さまがお相手ですし」
 お相手って言っても妹なんだけどなぁ。まぁいいか。
「じゃあ、私達は秋葉さまがいらっしゃる前に着替えてきますね。こんな服装秋葉さまに見つかったらクビにされちゃうかもしれませんから」
 そう言い残すと、琥珀さんと翡翠はそれぞれの部屋に戻っていった。
「さてと」
 俺はソファーに腰掛けると、秋葉を待つことにした。
 久々に自分で淹れた珈琲を飲み終えた頃、秋葉は着替えを終えて現われた。こちらも、琥珀さんと翡翠に優るとも劣らない芸術性と市民性の融合を果たしている。琥珀さんの用意してくれた服をほぼ完璧に着こなしている、というか着こなすも何もないんだけど。
「兄さん、本当にこんな格好をして行くんですか?」
「こんな格好って、秋葉、お前なぁ……」
 俺としては、さっきの電波ちゃんの方がよっぽど「こんな格好」だと思うのだが……と言いかけてやめた。
「その服装だって結構似合ってるじゃないか」
「そ……そうですか? 兄さんがそう言うんでしたら私はいいんですけど」
 秋葉は赤面して忙しなくブレスレットを弄くっている。
「そろそろ出れるか?」
「あ、はい」
 そこに、着替えを終え、彼女達にとっての普通の服装に身を包んだ琥珀さんと翡翠がやってきた。
「じゃあ、そろそろ行ってくるよ」
「はい、志貴さま、お帰りは何時頃になりますか?」
「うーん、凄く遅くなるようなことはないと思うけど……時間が判ったら電話するよ」
「はい」
 琥珀さんはなにやらゴソゴソやっていたかと思うと、
「はい、志貴さん」
「はい?」
 渡されたのは財布だった。それもかなり重い。
「必要なだけ使ったら、残りはちゃんと返してくださいね。志貴さん、殆どお金を持ってらっしゃらないでしょう?」
「えぇ、でも、いいんですか?」
「はい。これは遠野家のお金ですから、ひいては志貴さんと秋葉さまのお金なんです」
 実際の所は一家の主である秋葉のお金ってことじゃないか。何か立場が格好悪いような気がするが、お金がないのも全くもって事実なので大人しく使わせてもらうことにしよう。
「ところで志貴さん、秋葉さまはあのままでいいんですか?」
「え?」
 俺の後ろではしゃがみこんだ秋葉が、必死になって靴紐を通している。その姿を傍らで翡翠が心配そうに覗き込んでいた。
「秋葉、大丈夫か?」
「大丈夫です。ちょっと黙って待っていてください」
 ヤバイ、いらついてる。
 全員が心配そうに秋葉を見つめること20秒……
 だんだんと秋葉の髪が赤味を増してゆく……
 プチン
 ついにキレた。靴紐ではなく秋葉が。
「大体!! こんな不親切な設計が良くないんです!」
「おいおい、ちょっと待て。いくらなんでも紐くらい通せるだろう」
「通せません」
「紐靴くらい秋葉だって履くだろ?」
「私が履く時には紐は通してあります!」
 ぐ、なんというお嬢様っぷり。
「仕方ないなぁ」
 俺は秋葉の向かいにしゃがみ込む。
「ここをこうやって……」
「はい……あ、分かりました」
 秋葉にバトンタッチをすると、面白いようにスルスルと紐を通してゆく。
「何だ、出来るじゃないか」
「出来る出来ないの問題じゃなくて、分かる分からないの問題ですから」
「そうですよー、元々秋葉さまは手先が器用なんですから」
「秋葉さま、私より早い……」
 ようやく準備が整った所で二人のメイドさんに従われて門を出た。
「「では、いってらっしゃいませ」」

4.
 時間は間もなく11時をまわろうかという所だった。坂の途中、並んで歩く秋葉がぼそりと呟く。
「兄さんの学校に通ったとき以来ですね、こうやって一緒に歩くのは」
「そうだな」
 いや、あれには本気で驚いた。少し前のことなのにやけに昔のことのように、それでいてやけに鮮明に覚えている。
「その前はいつのことだったんでしょうね」
「え……?」
 気がつくと声は背中から聞こえていた。振り向くと、歩みを止めた秋葉を見上げる格好になる。微かな風に揺れる髪に、常世のものとは思えないような存在の危うさと、それ故の美しさが混在していた。烏の濡れ羽色、という表現は、この艶やかな美しさにこそふさわしい。その緩やかになびく髪が、不意に大きく波打って揺れる。秋葉が2、3歩、小走りにこちらへ駆け寄って来たのだ。
「あの頃は、いつもこうやって兄さんを追いかけていました」
「そうだったな、いつも俺と四季の後にくっついて来てた」
「だからきっと、こうやって歩いたことは数えるほどもないんですね」
 そう言って秋葉は、俺の手を取ると、その手を握り締めた。
「な、なんだ? いきなり」
 俺は秋葉の手を振り解く。
「ふふ、兄さん、照れてらっしゃるんですか? 兄妹同士でも手ぐらい繋ぎますよ」
 不覚にも今の俺の顔は赤く染まっていることだろう、しかし、俺だけではない。秋葉の頬にも紅が差し、化粧っ気の少ないその顔に艶を添えている。初めて目にする服装の所為なのかも知れないが、俺には秋葉が見知らぬ異性のように感じられてしまった。
「ところで兄さん?」
「ん?」
「アルクェイドさんやシエルさんとはこうやって歩いたことはあるんですか?」
 な……!?
「なんでそこで、その名前が出てくるんだよ?」
「私の素朴な疑問です。兄さんは気になさらないで下さい」
気にするなと言われても……
「大体な、あの二人とは何でもないんだぞ、俺は」
「ふぅん、何でもないってどういう意味なんですか? 詳しく具体的に説明して頂けないかしら?」
 秋葉は攻勢の手を緩めてくれない。
「だから、こうやって手を繋ぎながら歩くような関係じゃない、ってことだよ」
「そのセリフ、是非お二人に聞かせてあげたいですね」
 意地悪な笑みと鋭い視線。先程までの秋葉よりも秋葉らしいとは言える。
「そうやってまた騒ぎを招くようなこと言うなよ。想像しただけで頭が痛くなってくる」
「どうしてですか? 兄さんの仰ったことが事実なら、騒ぎなんて起こりようもないと思いますが」
 やけにこう、今日の秋葉は突っかかってくるなぁ。こういう時は話を反らして逃げるに限る。
「そうだ、秋葉。ちょっと早いけど繁華街で食事でもして行かないか?」
 我ながらなんとも捻りの無い話題の振り方だ。
「そうですね、どこかでゆっくりと兄さんを問いつめる、というのも悪くないかも知れません」
 そうですね、以降の台詞は聞かなかったことにしておこう。
 それにしても、どこに秋葉を連れて行こうか、というのは結構難題だ。なんせ秋葉は学食の購買パンさえまともに食えない、筋金入りのお嬢様だ。と、そう言えば前に晶ちゃんを立ち食い蕎麦屋に連れていった覚えがあるが、あれはセーフだったんだろうか?
 しかし、まさか秋葉が立ち食い蕎麦を喜んで食すとは考え難い。ここは無難にリクエストでも取ってみるか。
「ところで秋葉、何か食べたいものあるか?」
「食べたいもの、ですか……」
 秋葉は「うぅん」と頭を捻っている。
「そうだ、兄さん」
「アルクェイドさんとはこの辺りで一緒に食事されたことはありますか?」
 なんとなく、秋葉の考えていることが分かった気がした。が、アルクェイドと一緒に入った店ってファーストフード店だったのだが……
「あ、あぁ。あることにはあるけど……」
「じゃあ、そこに連れていってください」
 やっぱり……
「言っとくけどな、秋葉。アイツと行った店って只のファーストフードだぞ。お前の毛嫌いするような俗世間の象徴と言っても過言じゃないんだ。それでもいいか?」
「構いません」
 即答だった。全く、何を考えているんだか。
 いや、しかし……今の格好であんまり上品な店に行っても目を引くだけかもしれないな。形から入る意味では、今の秋葉の服装は丁度良い。
 俺は秋葉を大手チェーンのファーストフード店に連れていくことにした。
「ところで兄さん」
「ん、どうかしたか?」
「いえ、ただちょっと……」
 秋葉は何かを言いにくそうにしている。
「どうした秋葉?」
「……あの、ファーストフードって……何ですか?」

5.
 目の前では秋葉がハンバーガーと無言の格闘を繰り広げていた。ジイッとにらんで、時々持ち上げては口に運ばずに下ろす。
「気にせずに食べちゃえよ。みんなそうしてるだろ」
「で……でも兄さん」
「何事も挑戦だ」
 キョロキョロと辺りを見回して意を決したのか、目を瞑ってハンバーガーを口に運んだ。かぶりついた、と言える程豪快なものでは全くなかったが、少しは口に入ったようで、それを飲み込むとすぐにゴシゴシと口を拭いた。
「ファーストフードって、難しいものですね」
「ややこしいマナーとか考えるからだろ、こんなに周りを気にせずに食べられるところはそんなにないと思うけどなぁ」
 まぁ、マナーを考えるな、と言うのは秋葉には無理な注文なんだろうけど。
 それにしても……
「こうして見てると、秋葉の方がアルクェイドよりよっぽどお姫様みたいだな」
「あ、当たり前です。私は遠野の当主としてどこにでても恥じることのない……」
「じゃあ、恥ずかしがらずに気前よく食べてくれよ、ハンバーガー」
 微かに一口だけ欠けたハンバーガーを指差す。
「むぐ……」
 恨めしそうな視線を俺に向けながらも、二口目はさっきよりも自然に口に運んだように見える。
「そうそう、その調子で気前良く平らげてくれ。コーヒーが冷めちゃったじゃないか」
 俺はとっくに自分の分を平らげてしまい、コーヒー一杯で秋葉の戦いを見守っている。
「そうだ兄さん、ぬるいコーヒーとアイスコーヒーではどちらの方が好みですか?」
 秋葉がふと思いついた表情で訊ねてきた。
「そりゃあ中途半端に冷めてきたのより冷たい方がいいよ」
「そうですか、それは好都合です」
「好都合って……?」
「独り言です。気になさらないでください」
 秋葉が一度バサッと髪をなびかせると、陽に当たったのかその長髪が朱い色に見えた。
「兄さん、コーヒーを一口飲んでみて頂けませんか?」
「ん? なんで?」
 不審に思いながらもコーヒーを口に運ぶ。
「あれっ?」
「どうしました?」
「冷たい……」
「そうでしょうね。私がお淑やかに時間をかけて食事している間に冷めてしまったんでしょう?」
「いや、これは……」
 それどころの冷たさじゃない。普通に出てきたばかりにアイスコーヒーと同じくらい冷えている。どう考えても放置しておいただけではこんなに熱を奪われることは有り得ない。
 ……まて、熱を奪われる?
「秋葉、お前まさか……」
「ふふふ、遠野の血がこんなところで役に立つこともあるんですね。一瞬だけですけど、髪の色に気付かれなくて良かった」
 やっぱり、あれは陽が当たって朱に見えたんじゃなかったわけだ。
「あんまり無闇やたらに変な力使うなよ」
「あら、有るものを使うのは悪いことではないと思いますけど」
 すました顔で三口目を食べる。どうやら精神的に余裕が出てきたみたいだ。
「それにしても、俺がアルクェイドと入ったことがある店とは ……なんでシエル先輩じゃなかったんだ?」
「あの人とはどうせカレーショップに入られたのでしょう?」
「あ、あぁ、そうだけど」
「カレーだけは食べるな。と、琥珀に何度も聞いています。アレは高貴な家柄の人間が食べるものではない、と言っていました」
 そんな、ゴータマ様を含むインドの王族に失礼なことを秋葉に吹き込んでいたとは、琥珀さんのカレー嫌いもそこまで極まっているということか。
「さて、兄さんの期待通りハンバーガーも食べ終わったことですし、そろそろ会場へ向かいましょう」
「今から行ってもまだ早すぎるんじゃないか?」
「友人が早く来てる筈です。三人で喫茶店で御一緒する予定になってますから」
 なんだ、最初から予定が入ってたわけだ。アーネンエルベでも行ってお菓子でも御馳走したら喜ぶかな、と思ってたんだが。
「さぁ兄さん、行きましょうか」

6.
 到着と共に蒼香を見つけた。既に約束していた場所に着いていたようだ。赤い髪の男の人と一緒なのでかなり目立っている。
「あ、有彦!?」隣で兄さんが素っ頓狂な声を上げた。
 そうだ、そう言えば蒼香と一緒にいるのは兄さんの友人の乾有彦さんだ。
 どうして蒼香と乾さんが一緒に? 格好でいえばどことなく共通したものを感じないでもないが、だからといって一緒にいる理由にはならない。
「お待たせ、蒼香。どうして乾さんが一緒に……」
「んなっ!! とっ、遠野!?」
「秋葉ちゃん!? な、なんて素敵な」
 しまった!!
 こんな格好を兄さん以外の人に見せるのを全く意識していなかった……不覚。何たる不覚。しかし、遠野秋葉たるものこんなことで動揺するわけにはいかない。
「あ、この服装? あんまり乗り気じゃなかったんだけど変に浮いた服装して来るのもなんだったから」
「い、いやぁ、良く似合ってるぞ遠野……。くっ、くくく」
 途中から押し殺した笑いに変わる。……あぁ、やっぱりこんなの着てくるんじゃなかったかも。
「いや、ほんと。新鮮だよ。目の保養目の保養」
 乾さんがやけに輝かしい笑顔で視線を向けてくる。
 社交界の、あのジメジメとした下心の混ざった視線ではなく、虚勢の張りどころもないので、悪い気分ではないがやっぱり恥ずかしい。
「ん、なに? 有彦って遠野の知り合い?」
 蒼香は訳が分からない、という表情で乾さんを仰いだ。どうやら、その点に関しては全く情報がないらしい。
「そう、どうして蒼香と乾さんが一緒に?」
 話題を転換したいのが半分、純粋に疑問なのが半分だったが二人が順々に話し始めた。どうやら服装に関してこれ以上の追求は免れたらしい。

 それぞれの話を聞くに、こういう話だった。
 乾さんは元々このライブを見に来るつもりで兄さんを誘った。しかし、兄さんは私との約束が入ってしまったのでその誘いをキャンセルした。仕方なく乾さんは一人で会場に来ることになった、というわけだ。
 そして、そこで喧嘩をしていた女の子を助太刀したら、それが蒼香だった。
「だってさ、ロック通を気取った顔した奴等声掛けてきたからさ、今更ニルヴァーナのフォロアーなんて勘違いも甚だしい、って言ってやったんだよ。そしたらそいつ等がキレちゃってさ。あたしはカートを馬鹿にしてるわけじゃないのに。あいつ等自分達がニルヴァーナの価値をおとしめてるって分かってないんだよな」
「そこで、この正義の味方乾様が助太刀してやったわけよ」
 と、有彦さんがグッと腕をまくる仕草をする。
「でも、蒼香だったら助太刀の必要なんて無かったんじゃない? こう得意の足技でパパッ、っと」
 そう、この蒼香というヤツは、身体こそ小さいがその巧みな足技で、喧嘩になったら男数人相手でも平気な顔をして伸してしまう。組み伏されてしまえば、力はないので大したことはないのかも知れないが、不意打ちでもしなければそんな間合いには近づけないだろう。ちなみに、彼女の名誉のために言っておくが、彼女は決して喧嘩っぱやいわけではない。あまりに正直に物を言い過ぎるので相手を怒らせてしまうことが多いだけなのだ。
「そうそう、そしたら俺が一人と殴りあってる間に他の全員ぶっとばしちゃってて、俺の面目丸潰れ」
「大体、助太刀なんて珍しいことするからだ。派手に喧嘩してる横を涼しい顔をして通り過ぎるクセに」
 ずっと黙って話を聞いていた兄さんがそう指摘する。兄さんと乾さんは風貌こそ全く違うが、学校では名コンビとして有名らしい。勿論、本人達は「腐れ縁だ」と強く否定しているが。
「そりゃあお前、目の前で喧嘩やってて、正論言ってる側の人間が可愛い女の子だったら、肩入れするだろ」
「全く、行動理念が単純過ぎだ」
「何だよ、じゃあ秋葉ちゃんの友達が喧嘩してんのを黙って見過ごせば良かったのか?」
「い、いや……そういうわけじゃなくて」
 む、乾さんが若干優位か。
「冷たい男だなぁ、遠野は」
「ん? そっちが遠野の兄貴?」
 今気付いた、とでも言うかのように蒼香が兄さんを見上げる。
「そうよ」
「今気付いた」
 ……本当に言った。
 まったく、どこを見ていたのだろうか、等と考えると嫌な答えにたどり着きそうなので、その問いは保留しておく。
「始めまして、秋葉の兄の遠野志貴です。秋葉がお世話になってます」
「遠野をお世話だなんてとんでもない。そんな人間がいたら是非一度拝ませて貰いたいね。あたしは月姫蒼香、蒼香でいいよ。それに丁寧な言葉使いも結構」
 蒼香はいつもこんな感じだ。琥珀を紹介してやったら崇めでもするのだろうか。
「秋葉ちゃんと蒼香ちゃんがお友達だとは意外だよな。浅上って結構凄い人材育ててる学校なんだ」
 乾さんが私と蒼香の顔を見比べる。確かに普段見ない組み合わせかも知れない。
「あたしと秋葉は校内でも両極端だからね」
 自分を極端だと自覚している蒼香はそう言うが、私は自分を極端だとは認めていない。ただ、人より少し権力と腕力の使い方が上手なだけだ。……多分。
「私から見たら乾さんと兄さんが親友、というのも意外でしたよ」
 これは全くの本心だ。兄さんが赤髪の一見不良生徒と仲良く食事をしているのは、最初は少し抵抗があった。兄さんと付き合いのある人間は、信用の出来る人間でなければならない。これも以前から変わらない全くの本心。訳あって赤い髪を悪く言うことはしたくないが、乾さんの場合、社会的な信用は持たれないかも知れない。しかし、実際話してみて個人的に信用できる人だと私は思っている。
 兎に角、乾さんが兄さんの親友だという事実を、私は意外に思いながらも歓迎しているのだ。
「まぁほら、立ち話もナンだし、どっか入ってゆっくりしないか? あそこのことだろ、喫茶店って」
 兄さんが先導してすぐ近くの喫茶店に向かう。続いて乾さん、私の順になると背中ごしに蒼香が私に耳打ちした。
「いやぁ、色々驚かせてもらったぞ」
 何故か、今の所蒼香の一人勝ちの様な気がしてならなかった。

7.
「さて、一先ず落ち着いたところで……」と、腕を組んだ有彦さんを蒼香が制した。
「なぁ、遠野。おまえさんの兄貴ってさ、どう見ても人畜無害そうだよな」
「オイ待て」有彦さんが身を乗り出す。
「折角俺がこう、話の主導権、言わばパーソナリティ役を買って出たと言うのに、そんな邪険にするのか」
「あたしはそんなもの売った覚えはないよ」
 蒼香は軽く言い放つとコーヒーをすする。大体、蒼香のキツイ一言を貰った人間はその時点で引いてしまうが、その点、有彦さんの打たれ強さは常人離れしたところがあるので、良い組み合わせなのかも知れない。
「むぅ……大体な、遠野が人畜無害そうなのは外見だけだぞ。なんせコイツは俺が生涯の好敵手と認めた……」
「それじゃあ大したことないんだね。そもそも、一人殴り倒すのにあんなに時間かかってるアンタの好敵手程度じゃ、この遠野秋葉の兄なんてつとまらないよ」
 ビシッ! と、わたしを指さして蒼香は言う。
「蒼香! あなた根拠もなしに言いたいほうだい……」
 蒼香の不敵な笑みに言葉が遮られる。
「ほぉう、ここで根拠を挙げていいんだね。折角お兄さまの前だから伏せといてやろうと思ったんだがね……」
「さぁて、どの話にしようか……」等と呟きながら指折り数えている。「そうだ、こないだの四条の時の話なんて面白そうだと思わないか?」
「蒼香、いい加減に……」
 四条つかさの話なんてしたら、それにまつわるわたしの数々の失態まで暴露されてしまうではないか。
「分かった分かった。じゃあ、あたしとしては不満だが、一つ先輩方絡みの武勇伝で我慢しとこうか。嫌と言うなら、四条の話でもいいんだが?」
 ぐ、完全に玩具にされている気がする。
「くっ、あははは……」
 こんな時に笑い声を上げているのは兄さんだ。全く、妹のピンチを助けてやろうという気はこれっぽっちもないのだろうか?
「兄さん、何が面白いのですか!」
 思いっきり敵意を含ませた目で兄さんを睨んでやる。
「いや、秋葉が学校でも結構元気にやってんだと思ってさ」
「当たり前です。わたしが不満に思っていることなんて、兄さんの生活態度の他には一つもありません」
「兄馬鹿と妹馬鹿の兄妹か。こりゃ病理は深そうだね」
 これ見よがしなため息混じりに蒼香が呟く。
「蒼香、何か言った?」
「いんや、お前さんの空耳だよ」
 本当に、蒼香の誘いを受けた時点で何か間違ってしまっていたような気がする。
「おい、そろそろ行かねぇと最前列逃すぜ」
「ちっ! まぁいいか。遠野秋葉の武勇伝はまた別の機会だな」
 もう蒼香と兄さんは二度と合わせまいと誓いつつ、わたしはライブ会場に移動を始めるのだった。

8.
 どうも、ガシャガシャした音楽は性に合わない。「ココハドコダソシテコノオレハダレダー!!」と始まったライブの雰囲気が俺に再確認させたのはそれだった。音楽自体はそれほど不快なわけではない。しかし、ライブ会場の雰囲気、人の熱気には正直言って結構参っていた。……加えて言えば、このバンドのファンは「電波ちゃん」ばかりだった。普通な服装をしている俺達四人が確実に浮いている。まぁ、「電波ちゃん」の意味が分からない秋葉にその辺りを突っ込まれることはないだろうけど。
 ハイテンポな2ビートに合わせて隣の有彦の赤頭が縦揺れする。有彦に隠れていてよく見えないがその向こうの蒼香ちゃんも同じだろう。
 ボーカルが客席側にマイクを向けるのと同時に「マヒルニーフルエーナーガーラー!!」と会場全体が合唱する。
 俺も、そして秋葉も会場の雰囲気に合わせるように身体をゆすったり、恐る恐る腕を振り上げたりしてはいるが、ライブの空気に飲まれているというのが正解だ。現に、秋葉の片手は俺の手を確りと握り締めていた。
「秋葉、大丈夫か?」
「はい。ちょっと雰囲気に飲まれてしまって……」
 どうやら曲調は幅広いものの基本的に割と重い曲が多いようだ。観客のボルテージも落ち着くことはなく熱気はまったく止むことがない。特別に激しい曲が始まって会場全体が揺れるようなテンションに包まれる度に、秋葉の手が不安げに俺の手を掴んだ。
 激しい曲が終わりスローテンポの曲に変わる。どうやらさっきのような曲ばかりのバンドではなかったようだ。静かな曲はライブの終わりまで取っておくという粋な選曲というやつだろうか。この曲は電子音主体でギターの音も控えめだ。激しい縦ノリの静まった会場を見まわし、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、ようやくゆっくりと曲を聴く余裕が生まれてきた。
 赤、黄色、紫、橙、群青と色の名前を連呼している。歌詞自体には特にそういった感じはないのだが、ボーカルの祈りを捧げるような独特の振りがこの曲をレクイエムであるかのように感じさせていた。

 イメージは深い深い、殆ど黒に近い青。
 デジタルな極彩色を抜けた先に、その月世界は広がっている。
 そこが夜の空なのか海の底なのか宇宙なのかは分からない。
 しかし、月は海面に移っているかのように揺らめいている。
 月を目指して走る、泳ぐ。

 繰り返しの多い歌詞を覚えて、いつの間にか呟いている自分に気付いた。手に握った秋葉の掌の感触が、さっきよりも暖かく、鮮明に感じられる。

「波に漂う 月の光 昏睡の中 月の光」

 録音であろうコーラスに乗せた二重唱を聴いているうちに、胸が締めつけられるような感情が吹き出すような勢いで生まれてきた。
「有彦、この曲どういう曲なんだ?」
 そのキャラクタに似合わず、隣で心地良さそうに身体を揺り動かしながら聴き入っている有彦の耳元にそう呟いた。
「あぁ、お前が知らないのも無理ないか。この曲、月世界っていうんだけどよ、いつかのツアーの最中にこのバンドと仲の良かったギタリストが自殺しちまってよ、それ以来、そのツアーのアンコールで餞っつぅの? レクイエムとか、そんな感じに歌ってた曲なんだよ。ま、今回は本編をこの曲で締めて、その後に人気曲でアンコールってことになるんだろうけどな」
 それだけ言うと、有彦はまたステージに目を戻した。
 死者への餞の月世界。歌というものの威力を思い知りながら、灰と消えたクラスメイトの姿を思い出しながら、半ば堪えるようにして曲の終わりを待った。
 まずい。動揺が大きすぎて頭が朦朧としている。次に始まった曲が俺の頭の中でハウリングを起こしているのが分かる。何とか体制を整えようと手を伸ばすのと、何か強い衝撃が身体に加わるのと、そして意識が途絶えるのがほぼ同じ瞬間に起こった。

9.
「おい! 大丈夫か!? 遠野!?」
 乾さんが兄さんの肩を掴んでいた。兄さんは両目を閉じ、真っ青な表情をしている。乾さんの助けを借りて何とか立ってはいるが、きっとまともに意識はないだろう。さっきまでは私の手を握り返してくれていた手の力が今は全く感じられなかった。
「兄さん!? しっかりしてください! 兄さん!!」
「秋葉ちゃん、取り敢えず遠野を後ろまで連れてってくれ。いつもの貧血だったらちょっと休めばすぐに良くなる」
 乾さんの言葉に従って、兄さんに抱きつくような格好のまま会場の後方、人の少ない所まで連れていく。どさくさ紛れに「上手くやれよ」なんて耳打ちする蒼香なんて勿論無視だ。いや、蒼香の意図は分かっている。それでも、それに感謝している心の余裕もない。
 なんて、なんて失態だろう。驕りでもなんでもなく兄さんの身体のことはわたしが一番分かっているのに、それに気付けなかっただなんて。これじゃあ、いち早く兄さんの不調に気付いた乾さんに嫉妬する資格もない。
 会場の最後方、ほとんど観客のいない壁に兄さんを寄りかからせて、わたしは兄さんに流れる力、わたしの命を調節する。すぐだ、すぐに良くなる。
 段々と兄さんの頬に赤味が差し正常な人間の肌の色に戻っていく。
「大丈夫ですか? 兄さん!?」
 兄さんの頬を両手で包み込むようにしながら、兄さんの体温が戻ってくるのを感じていた。「ん、あき……は?」
 兄さんの意識が戻った。わたしの感じている兄さんの命も随分安定したものになっている。さっきまでの自己嫌悪も安心と共に薄らいでいった。
「あれ? わ、悪い……俺、また倒れてた?」
「もう大丈夫です、兄さん。それに兄さんが謝ることなんてありません」
 兄さんの顔が苦笑いに変わる。
「折角秋葉が誘ってくれたんじゃないか。秋葉の方から謝罪を要求したっていい位だぞ。これじゃ兄貴失格だ」
「失格かどうかはわたしが決めることです。兄さんにはその権利はありません。それより兄さん?」
「どうした?」
「謝罪の代わりに要求したいことがあるんですけど、いいですか?」
「あ? あぁ、勿論……なんだ? 要求って……」
「じゃあ、もう暫くの間、この曲が終わるまで、こうさせてもらっていて、いい……ですか?」
 わたしは兄さんの頬にあてていた両手を背中に回し、額を兄さんの胸に押し付けた。
 兄さんは無言のまま片手でわたしの背中を、片手でわたしの頭を抱きかかえてくれた。微かに息がつむじにあたってなんだか妙にこそばゆい。それ以外にも理由があるのだろうか?
 誰かが見てる? そんな訳がない。観客はみんなステージに釘付けだ。それに、見られていたとしてもそんなこと気にもならない。
「ありがとう、秋葉。秋葉がここまで連れてきてくれたんだな」
「はい、妹として及第するなら当然の行いです」
「及第かどうかは俺が決めるよ」

 ステージではアンコール曲がクライマックスを迎えていた。

「キコエル? アナタノナカニハボクガイル
 キコエル? ワタシノナカニハキミガイル」

 うん、聞こえる。


後書き

 月姫SSコンペ参加作品……はい。秋葉ラブです(死
 出てくるバンドは勿論BUCK-TICK。ラストの曲は『キミガシン...ダラ』。タイトルもバクチクのライブビデオから拝借しました。とても好きなフレーズです。
 なんというか、バランスが悪いです。いろんな意味で徹しきれていなかった感があります。秋葉好きとしては色々と心残りがあります。ぬぅぅ……

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