Short Dope〜僕の短い飛行(非行)体験


 ぼんやりと、目下の海を見つめていた。
 立ち入り禁止の柵を越えて、切立った崖の淵、ギリギリの場所から荒々しい冬の海を眺めると、波間の細かな泡が眩しく輝いて視神経を刺激する。
 両腕を開いて瞼を閉じると全身に潮風が感じられた。
 僕の足は、今も地に触れているのだろうか?
 既に周りは潮騒に満たされ、自分が自分の形を保っていられているのかさえ曖昧だ。肌に、そして少し伸びた髪に絡みつく風は、吹き抜けていってもなお、その名残を冷たく刻み付けていく。鼻腔を柔らかくくすぐる香りに、海風特有の仄かな味わいを探り出し、それがすぐに僕の中に染み込んでくる。
 そう、染み込んでくる。その表現がジャストだ。海は僕の五感すべてを通してこの身体に染み込んでくる。この時間だけ、僕は海と一体になる。この風景と一体になる。
 麻薬を打ったらこんな気分だろうか。
 いや、多分それでもこの感覚にはかなうまい。浮遊感……一体感……自己拡大……そして自己喪失……今だけは、自我なんていらない。少しでもこの景色と混ざり合いたい。そう思って、僕は思考を停止した。

 最近では日課と呼べるくらいの頻度でここへやってきている。半年ほど前、この土地に引っ越してきたばかりの頃にはこの場所のことを知らなかったのだが、ここは自殺の名所として有名らしい。数ある実例の中でも取り分け有名なのは、観光で崖にやってきた旅行客が前触れもなく身を投げてしまう、という事例がいくつかあるということだ。
 ……僕には、自殺をした旅行客の気持ちが分かるような気がした。その人達は何か悩んでいたわけでも、勿論死ぬ為に来たわけでもなかったのだろう。あの場所から海を見て、僕と同じように海に混ざって……そう、飛べるとでも思ったんだ。彼らは自分の殻の存在を忘れて、海になって、風になって、より深く、あの風景に溶け込もうとしたのに違いない。ちょっとだけ、彼らのことを羨ましく思ってしまう。
 僕はいつも、いつ、どうやってこの海に飛びこんでやろうかと考えを巡らすのだけれど、その夢想は毎回ある一つの映像によって尻切れに終わってしまう。それは、数年前に海難事故で命を絶った弟の、水死体の記憶だった。
 確かあの頃、僕は中学の一年、少し年の離れた弟は小学三年生だった。通っていたスイミングスクールの遠足で隣の県の海岸へ遊びに行った際に、事故は起こった。事故とはいっても大それたものではないようで、話を整理すると、自分の力を過信した弟が少し油断したうちに沖合いに流されて、戻れぬままに幼い体力が尽きてしまった、という、そんな単純な話だ。
 スクール側の指導員の人数が少なかったのではないか、という問題が浮上し、結果として海岸遠足はその年を最後になくなったが、言うなれば弟の自業自得だ。僕はその日の朝に、
「海はプールと違って潮の流れがあるから、あんまり調子に乗ってると流されるぞ」
 と、言ってやったのをまだ覚えている。あの弟のことだから、一月前に合格したばかりの背泳ぎでも泳いでいたのだろう。海で泳ぐのにはスクールで合格したくらいの背泳ぎでは全然実力不足だ。スクールの合格基準なんて「次のクラスで苦労しない程度に進めば良い」といういい加減なもので、キャッチと呼ばれる水を掴む動作も行わずに、腕をただ真っ直ぐにして回すだけの背泳ぎでは推進力も少なく、海の激しい流れにかかれば簡単に方向を変えられてしまう。
 無知で無謀だった弟は、それでもやはり僕の弟だったわけで、あの時は随分やるせない気持ちになったのを覚えている。しかし、弟が海で行方不明になった、と最初に知らせを聞いた時は、吃驚して信じられないと心配に思う一方、本当だとしたら、アイツよくやりやがった。と、先を越された気持ちがあったのも事実だ。そんな羨むような妬むような気持ちは、数日後発見された、かつて弟だった物の姿を見た瞬間に裏切られた。
 それは、吐き気がするほど酷い有り様で、実際、姿を見た途端に気を失った母は別として、僕はその場で嘔吐し、父もトイレに駈け込んだ。
 酷い臭いだった。それは卵が腐った臭いを何倍も強くして、その上に鼻をつく酸っぱい匂いが混ざったような異常な臭いで、脳味噌が直接揺さぶられるようだった。僕の生者としての全てがその存在を否定するような、そんな拒絶感を覚えた。眼窩には人形のような無機質な穴が開き、身体は膨れ上がりながらもぼろぼろ。白く、ぶよぶよになっていて、所々の皮膚が破け、肉が見えていた。中でも肩は骨までもが剥き出しになっており、その部分の肉は海から引き上げる際にずり落ちたのだと説明を受けた。
 僕は周りの人が強く止めるのを押し切って、半ば無理矢理にその姿を見たことを本気で後悔した。「弟に……会わせて下さい」といって嘘泣きをしてまで目にした、かつて弟だった物の姿は、僕の甘い感情の全てを裏切って、まるで呪いのように脳裏に染みついた。
 僕はそれ以来、海で死ぬことに戸惑いを感じるようになった。「死ぬなら海で」心に決めていたのに、弟の姿がそれの邪魔をした。自分が海に飛び込む瞬間を想像すると、それに連鎖してぶよぶよでぐちゃぐちゃになった自分が網に掛かって引き上げられるシーンが連想されてしまう。
 立ち込める腐臭。
 崩れる身体。
 そんなものは違う。全然違う。
 僕は聖地ともいえる海で、その神性に包まれて死ぬ筈なのに、その姿は神性の欠片どころか呪いでもかけられたかのように見える。だから、僕はいつでも考えている。海と同化できる死に方を考えている。
 琵琶湖に沈んで回遊死体になるのはいい手かもしれないと思った。琵琶湖には湖流という流れがあるらしい。そこに80メートルくらい沈むと、その辺りは一年中低い温度に保たれていて、海と比べ圧倒的に生物が少ないことも手伝って、腐らないまま湖流に乗って死体が回遊する、という噂を聞いたことがある。
 しかし、いくら広い琵琶湖とはいえ、湖は湖だ。海ではない。そう思うと乗り気になれない。
 結局、僕はまた立ち入り禁止の柵の中で海を感じてお終いなのだ。その先があるのに、存在は分かっているのに辿りつけない。海に溶け込んでいた自我が、意識が僕という殻を取り戻すと、最高の気分から最悪の気分に突き落とされてしまう。
 それでも、この儀式はやめられないのだ。快楽の度こそ違っても、中毒性と依存性はさながら麻薬みたいだな、とつくづく思う。

 女の子を見つけた。いや、女の子に見つかったと言うべきかもしれない。とにかく、その女の子はわざわざ柵を越えて僕に声を掛けてきたのだった。
「ねぇ」背中に声がかかり、僕は急に現実に引き戻される。「いつもここから海を眺めてるのね」
 振り向くと、丁度僕と同じ位か少し下くらいの少女がそこに立っていた。
「寒くないの?」
 と言いながら、彼女は僕の隣まで歩みを進める。高所恐怖症の人間には絶対に立てない位置だ。
「寒くないよ。寒くなってきたら帰ることにしてるんだ。……君は?」
 君は誰? と問い掛けたつもりだったが、彼女は自分が寒くないのかと訊かれたのだと思ったらしい。コートのフードを被って「大丈夫だよ」と意味もなく微笑んだ。僕はその仕草を不思議に思ったけど、冷たい海風に曝された為か、透けるように白い彼女の笑顔がとても綺麗に見えたので何も言わなかった。
 確かに彼女の防寒対策は万全と言えるようだった。フードを被った今でもバランスが悪いくらいに頭が小さく見える。きっと、コートの下にも随分重ね着をしているのだろう。厚手の手袋も、デザインよりも機能性重視のようだし、どうみても、日常生活の為の出立ちではない。つまり……
「もしかしてさ、君も海を眺めに来たの?」
 僕がそう問いかけると、彼女は一瞬「え?」という表情を浮かべ、
「あれ、気付いてなかったの? 向こうの方から何回も貴方を見かけたのよ」と、右手の崖を指し示した。ここよりも低いが手前の崖なので僕の視界には入っていなかったのだろう。
「毎日のようにここにいるから気になって来てみたの。ほら、ここって自殺で有名でしょ。もしかしたらそういう人なのかな、って思って」
「あぁ、自殺か。俺は自覚もせずに心配されてたんだね。大丈夫、自殺なんてしないよ、ただ景色を眺めに来てるだけだから」
 僕はそう言って再び海に向き直った。少女も「そう」と言って体を海に向ける。
「でも、心配したわけじゃないよ。別に身を投げようと思ってたとしても止めないから。……ただ、なんで自殺するのかな、って訊こうと思ってただけ」
 そう言いながら、いつも僕がしているように両手を広げて体全体に風を受ける。
「ここでね、こうやってると、自分が海とその周りの風景に溶け込んだみたいな感じがするの。私の体なんかなくなっちゃって海と一つになっちゃうような……こうしていると、このまま海に向かっていっても平気な気がしてくるの。みんなそうやって死んじゃったのかなって」
 彼女の言うことは僕が常日頃抱いている妄想と全く同じ物だった。同じ感性を共有する彼女に好意を抱き始めているのが自分でも強く自覚された。
 彼女はフードを外し、首に手をやるとコートから髪を引き出した。長い髪が風に靡いて僕の目の前まで流れてくる。潮の匂いとは別の、何か温かみのある香りがして、僕は自分の鼓動の音が聞こえた気がした。
「時々、それもいいな、って思えるの。ここから海に身を任せて海と一体になれるんだったら……海になって、風になって、流れるような、飛ぶような……そうなれるんだったら、今ここで死んじゃってもいいな、って、そう思えるの」
 その言葉に僕は自分と彼女との違いを見つけた。僕にはその望みを抑制する忌まわしい記憶がある。そして、彼女にはない。同じ麻薬に溺れていても、その違いは大きいものだ。僕はここで死ぬことの出来る彼女が羨ましくもあり、また、そんな彼女をあのようなおぞましい姿で死なせてはならない、とも思うのだ。
「君は俺がここから飛んでも止めないかもしれないけれど、君が飛ぼうとするのなら僕は止めるよ」
「それは貴方がこの感覚を知らないからよ」彼女は少し悲しそうな顔をして僕の方を振り向いた。「この感覚はまるで……」
「まるで……麻薬でも打ったかのような浮遊感」と、僕は彼女の言葉を遮って、奪った。「……一体感……自己拡大……そして自己喪失。自我なんていらなくなるような、体なんていらなくなるような」
「違う?」と問い掛けると彼女は唖然とした表情を浮かべている。
「じゃあなんで……」俯いたまま独り言を呟くように彼女の口から言葉が紡がれる。「なんで、貴方は私を止めるの?」
 問い返す彼女に僕は出来るだけ素っ気無く言った。
「弟がさ、死んだんだ。溺死でさ。君は弟のようになるつもりかい? あんな人間の尊厳の欠片もない生ゴミで作った風船みたいな姿に」
 僕はそれから弟の死に関する記憶を全て、余すところなく彼女に伝えた。そして、その記憶が僕に与えた呪いのような変化も全て。彼女は僕の話を聞き終えると俯いたまま、しゃくりあげるように泣いていた。落ちた涙が強風に煽られ、僕の右手に当たった。
 呪いが伝染した。
 その時、僕はそう思ったけれど、どうやらそうではないようだった。彼女は痛々しい作り笑いをすると、突然僕にキスをした。唇を押し当てるだけのキスが済んで、彼女に抱きつかれても、未だに僕はものを言えないでいた。
「やっぱり……貴方は……」
「えっ?」しどろもどろの僕がやっとの思いで口に出来たのはそれだけだった。
「私はもしかしたら、とは思ってたんだけど、でも、本気で死なせるつもりじゃなかったんだ。でも、もしかしたら……もしかしたら貴方を独り占め出来るかも、って、そう思って……」
 彼女のその言葉で僕が全てを悟るのと、彼女が僕から体を離して崖から身を翻すのと、ほぼ同時だった。

 どれくらいの間、放心していたか分からない。崖から降りて海辺の岩場に立つと、彼女の身体が流れ着いているのを見つけた。
 ズブ濡れになりながら引き上げると、予想していたことではあったが彼女はもう息をしていなかった。脈もなく、完全に息を吹き返す余地がないのが分かった。
 しかし、彼女は死してなお綺麗だった。
 どんな化粧を施したとしてもこんなに繊細な顔色は表現できないだろう。ヒビの入ったガラスでは既に砕けたガラスの美しさを真似ることは出来ないように、彼女のそれは壊れそうな繊細さではなく、既に壊れてしまったものの寂静とした美しさなのだから。
 僕は彼女の頬をひと撫でして立ち上がった。……まだ、やらなきゃならないことが残っている。

 まだ弟が生きていた頃、近所に弟とよく一緒に遊んでいた女の子がいた。弟と学校で同じクラス、確かスイミングスクールも一緒のところで……名前はもう思い出せない。何度もウチに遊びに来ていたので、よくその子の相手をしてやった覚えがある。
 一般的に、女性は男性よりも恋愛感情を持つのが時期的に早いというから、あの頃に既にそういった感情を抱いていたとしても不思議ではない。しかし、背伸びをして年上に憧れたり、恋愛対象に近づく者に男女を問わずライバル意識を持ってしまう、という辺りが子供らしいと言うのだろうか。
 重いポリタンクを持って崖の下までついた時には辺りは暗くなっていた。目の前には彼女の身体が引き上げた時と変わらぬ様子で横たわっている。
 念の為、彼女の服を脱がせることにした。服は水を大量に吸っており、彼女の死後硬直も終わっていないのも手伝って、まともに脱がせるのは困難に思えたので、僕は半ば服を引き千切るようにしてそれを除いていった。
 彼女を一糸纏わぬ姿にすると、持ってきたタオルで身体の水分を丁寧に拭き取っていった。流石に汚物処理のようなことをしている間は嫌悪感があったけど、その作業を終えてみると、その全てが報われたような気がした。
 彼女の体は思っていたよりもずっと華奢だった。肩も、胸も、細い腕も、一様に生という色彩を失くし、透き通るような……まるでこの海のような透明さで壊れた美しさを湛えていた。
 だからこそ、僕はこの使命を全うしなければならないのだ。もうこの容器は彼女には必要ない。彼女はもう、この海に溶け込んでいるのだから。なお強い意思を持ってポリタンクを傾け、彼女の身体を浸していった。
 僕は痺れた右腕でショートホープを取り出して、一本口に咥えた。火をつけると、それを彼女の唇の間に挟んで咥えさせる。
「あいつが生きてたら今年で十六歳。ちょっと不良ぶったり、大人ぶったりしそうな年頃だ。君も同じだろう?」
 自分の分に火をつけて、暫くの間ゆらゆらと立ち上る紫煙を眺めていると、少し強い風が吹いた。彼女が咥えていたショートホープが倒れると同時に、一気に彼女の体とその周りから火の手が舞い上がった。跡形も無くとはいかないだろうが、この様子なら十分だろう。ここにはもう、彼女の跡は残らない。少し中身の残ったポリタンクを炎の中に投げ入れて、僕はその場所を後にした。
 いつもの崖の上から、燃え盛る炎をずっと眺めていた。やがて、火が消えると、僕は海の方へ目を移した。もう、とうに陽が落ちているので海の姿は見えない。ただ潮騒の奏でるような音だけに耳を傾けていた。

 これで、海を見るのは最後にしようと思う。僕には僕のカタチを消し去ってくれる誰かもいないし、なにより海にはあまりに先客が多すぎる。


後書き

 以前書いた超短編『冷たい海と罪と罰』という小説を書き直したら、随分と内容が変わってしまいました。
 夢を見ているような文章感をメインに据えたかったのですが、今読み返してみると、ちょっと固すぎるかもしれない、と反省。
 水泳をやっているにも拘らず海で泳ぐ機会が少ないので、夏の海というのはなかなかイメージが湧きません。冬の海のイメージは東映の映画の最初に出てくる場面です。夏は砂浜、冬は岩場でしょうか。
 タイトルは煙草の銘柄のもじりで。そういうタイトルのシリーズというか、色んなジャンルの作品で作品集を作ろうと企んでいた頃の小説です。結局頓挫。いつか企画復活できたら良いなぁ、と思ってます。

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