The day, signs come


/Prologue

Rose are red,
Violets are blue,
Sugar is sweet
And so are you.

この愛は恥ずかしくて はにかんでしまう
まるで赤い薔薇のように

でもこの愛は とても誠実なもの
まるで青い菫のように

砂糖は甘いけれど
それは貴方だって同じ

/The day, signs come

 歌が聞こえる
 何処かで聞いた声
 歌声はやがて掠れ
 すすり泣きに変わり
 消える

 何故だったのだろう? 無意識に自分の身体をよじったような心地がした。その瞬間に俺は目覚めたのだろう。
 もう少し眠っていたい気分だが、カーテンから漏れ入ってくる陽がそれを阻もうと、再び瞼を閉じた俺の網膜を刺激する。それもそれで心地よいので、もう少しこのまま微睡んでいようと思っていた矢先、ドアをノックする音が聞こえて意識が現実に浮かび上がった。
「失礼いたします」
 部屋に入ってきた翡翠は、すぐに俺が起きているのに気付いたらしい、毎日起こしに来ているとそういった挙動にも敏感になるのだろうか。無防備な自分を見透かされている少し恥ずかしい心地で俺は体を起こし、枕元に置いてある眼鏡を手探りで探してかけた。
「おはようございます。志貴さま」
 いつものように深々と頭を下げてお辞儀をされ、思わずこっちも「おはよう、翡翠」と言いながら頭を下げてしまう。同年代の男女が朝っぱらからこんな仰々しい挨拶を交わしているというのは実に奇妙な光景かもしれない、等と胡乱な頭に浮かばせている俺を余所に、翡翠はカーテンと窓を開け放った。
 冷えた空気が部屋に流れ込み、上半身をベッドから出している俺の頭の歯車は、無理矢理に噛み合わされた。だんだんと覚醒の度合いが高まるにつれて、絶えず流れ込む冬の空気の冷たさをより痛烈に感じる。
「悪いんだけどさ、翡翠……」窓を開けるのは着替えてから自分でやるから、と言いたかったのだが、翡翠の挙動が目についてその言葉を飲み込んでしまった。
 翡翠は開け放たれた窓から何かを探すようにして庭を見下ろしている。
「翡翠?」
 もう一度声をかけると、翡翠は庭を見回すのをやめ、窓を閉じた。部屋は冷え切ってしまったが、空気の流れはないのでさっきよりは随分マシだ。
「翡翠、どうしたんだ? 庭に何か落ちてたのか?」
「いえ、恐れ入りますが志貴さま、ご来客があったのではありませんか?」
「へ? 来客って?」
「ですから、アルクェイドさまか、シエルさまがいらしていたのではないのですか?」
 俺の質問に質問で返され、翡翠の意図したところがなんとなく理解できたような気がした。翡翠は俺がこの時間に起きていることを不審に思ったのに違いない。最も、普段だったら断続的に声をかけられても、後1時間は目覚めない筈なのだから、不審に思われても文句は言えないが。早く起きたことになにか理由があったとしたら、それは突然やってくる窓からの来客であったに違いない、そう翡翠は考えたのだろう。確かにアルクェイドやシエル先輩が夜中に窓から遊びに来ることはあるが、昨晩、そして今朝はそんなことはなかった。本当に偶然早起きをしてしまっただけなのだから。
「いや、誰も来てないよ。大体、珍しく早起きしたからって、すぐそんな憶測をするなんて……俺ってそんなに信用ないかな」
 殊、起床に関しては信用を失うに足りる醜態を幾度も演じている自覚はあったのだが、それを面と向かって非難するような翡翠ではない。ちょっと意地悪してやりたい気分の俺の予想通り、彼女は慌てて首を横に振って否定した。
「い、いえ、そういうわけでは……」俺の枕元を指差して言う。「あの、わたしは、それが……」
「それ?」
 翡翠が指差した先、いつも眼鏡を置いている場所の脇辺りに、小さな包みが置いてあった。少女趣味な包装が施され、ピンクのリボンで口が結んである。
「なんだコレ?」
 思わずそう口をついて出たものの、中身が何かなんて考えるまでもないだろう。今日は2月14日、バレンタインデーなのだから。
「いや、でもなんでこんなところに?」
 断言するが、昨晩この場所にこの包みが置いてあったということは絶対にない。眼鏡を外して目を瞑ってしまうのは寝る直前で、その時に枕元は視界に入っているのだ。いくら鈍感やら愚鈍やらと馬鹿にされる俺だって、枕元にこんな派手な包みが置いてあれば気づかないということはない。
 ならば、本当にアルクェイドかシエル先輩の仕業なのだろうか。確かにそう考えるのがこの場合自然だろう。まともに考えれば有り得ない話かもしれないが、あの二人には前科が何件もあるのだから。
「でも、どうも腑に落ちない所もあるんだよなぁ……」
 第一、あのアルクェイドがそんなロマンティックな手法を考え付くだろうか。基本的にバレンタインのチョコレートは面と向かって渡すのがメジャーなので、クリスマスのプレゼントと混同でもしない限り、彼女がこんな真似をするとは思えない。
 シエル先輩にしたって、学校で会うことになるのは確かなのに、いちいちこんな不自然な形で渡す必要があるとは思えない。いつものように食事時にでも落ち合って、その時にでも渡そうとするのが自然だろう。
 俺がそう首を捻っていると、「姉さん……?」と翡翠が呟くのが聞こえた。確かに琥珀さんなら夜の見回りの時にでも俺の部屋に入って、この包みを置いていくことくらい簡単に出来ただろう。情けないことだが、俺もそのくらいでは目覚めない自信が充分にある。
「まぁ、朝食の時にでも聞いてみればいいんじゃないかな。隠すようなことでもないんだし」
 そう言うと、翡翠は納得したのか「では、食堂でお待ちしています」と頭を下げて部屋を出ていった。

/Case1.琥珀

「おはようございます、志貴さん。今日はいつになく早いお目覚めですね」
「おはよう、琥珀さん」
 着替えを済ませて食堂に入ると丁度、琥珀さんが俺の朝食の準備を済ませた所だった。これだけ早く起きてきたのだから、まだ秋葉も食事を終えてはいないだろうと思っていたが、食堂には琥珀さんと、壁際で姿勢よく立っている翡翠だけで、秋葉の姿はなかった。
「琥珀さん、秋葉の奴はもう食事済んじゃいました?」
 椅子に腰掛けながら、小さな皿を運んできた琥珀さんにそう訊ねる。
「えぇ、秋葉さまも何故か今日は普段より早く起きちゃったみたいですよ」
 そう言いながら琥珀さんは、持ってきた小皿を俺の目の前に置いた。そこには四角い物体が三つのせられている。
「あ、これって……」
「ハッピーバレンタイン! ですよ」一際眩しい笑顔で琥珀さんが微笑む。「秋葉さまには一つっきりですけど、志貴さんには特別サービスで三つプレゼントです。よく冷やしておきましたから、早めに召し上がってくださいな」
 そう言うと、琥珀さんは俺の様子を楽しそうに見つめている。きっと、俺がこのチョコレートを食べることに期待しているんだろう。その期待を裏切る理由なんてどこにもないので、一つ口に運んだ。
「……美味しい。コレ、琥珀さんが?」
「はい。とは言っても、生チョコを作るのは割と簡単なんで自慢は出来ないんですけど、お口に合いましたか?」
「うん。専門的なことは分からないけど、甘過ぎないところとか、すぐに溶けるところとか……凄く美味しい」
 基本的にビターなチョコレートの味と、表面にまぶされたココアパウダーの味が、控えめな甘さを演出している。元々あんまり甘すぎる味が苦手な俺には丁度いいバランスだった。流石は琥珀さん、俺の好みを熟知しているらしい。
「あはっ、作った甲斐がありましたー」厨房に戻っていく途中で足を止めた。「あ、もうすぐ秋葉さまがロビーにいらっしゃると思いますから、お茶にしましょう。志貴さんも食事を終えたらいらしてくださいねー」
 琥珀さんが厨房に消えると、翡翠が近づいてくる。
(志貴さま、どうやら姉さんでは……)
(うん、違うみたいだね)
 そこで、さっきの琥珀さんの言葉を思い出した。確か、秋葉が何故か普段より早く起きた、と言っていた筈だ。もしかしたら、秋葉が早朝にこっそり俺の部屋にあの包みを置いていったのかもしれない……そう考えると、我が妹ながら可愛いところもあるじゃないか、と自然と顔が綻んでくる。しかし、まだ確証が掴めたわけではないので、俺は顔を引き締めて食事を済ませることにした。

/Case2.遠野秋葉

 食事を終えてロビーに行くと、秋葉と、一足先に食堂を後にしていた翡翠が二人で紅茶を飲んでいた。秋葉と琥珀さん、翡翠と琥珀さんというツーショットは見かけることが多いが、この二人の組み合わせというのは少し珍しい。
「おはよう、秋葉」
「おはようございます、兄さん」
 挨拶を交わしながらソファに腰掛けると、翡翠が用意していたカップに俺の分の紅茶を注いでくれる。
「お、ありがと」
 受け取って一口飲みながら秋葉の表情を伺ってみると、なにやら険しい表情をしている。またなにかヘマでもしたかな、と昨日の自分の行動を振り返ってみるが、ここ最近は特に秋葉の機嫌を損ねるようなことはしてない筈だ。
「どうした、秋葉? 早起きのしすぎで寝足りないのか?」
「そんなことはありません。寧ろ普段より確りと覚醒してるくらいです」
 俺が早く起きてくると、大体秋葉の機嫌は良いものなのだが、今日は何故か違うようだ。
(なにか心当たりない?)
 チラッ、と隣の翡翠に目で合図をするが、翡翠もその理由は測りかねるらしい。
 秋葉の無言の重圧に何とか耐えていると、朝食の片づけを終えた琥珀さんがやってきた。
「さぁ、琥珀特製バレンタインチョコレートですよ。遠慮せず食べてくださいねー」その手には、チョコレートが山のようにのせられた皿を持っている。「秋葉さまのチョコレートも美味しいですけど、琥珀特製チョコも負けてはいませんよー」
「こっ、琥珀!? あなた……」
 秋葉が半ば立ち上がりながら顔を真っ赤にして言う。
「琥珀さん、秋葉のチョコレートって?」
 そう、確かに今、琥珀さんはそう言ったのだ。秋葉もチョコレートを用意していたということなのだろうか。
「あれ? 秋葉さま、まだ仰ってなかったんですか? 夜のうちに志貴さまの部屋にこっそりチョコレートを置いてきた、って」
「い、言えるわけないでしょう!? そ、そんな、めめ、女々しいこと……だ、第一わたしは……」
 恐慌状態に陥ろうとしている秋葉をなだめすかしつつ、琥珀さんの話を反芻すると、やはりあの包みは秋葉の用意したチョコレートだったようだ。琥珀さんが袖の下から怪しげな注射器を取り出して「えいっ」と秋葉に注射すると、秋葉は次第に冷静さを取り戻していった。
「そんなに取り乱すことないじゃないか。あの包みは夜のうちに秋葉が持ってきてくれてたんだな。誰なんだろうと思って翡翠と悩んでたんだよ」
 秋葉はまだ俯いたままプルプルと震えている。チョコをこっそり渡したことがそんなにバレて恥ずかしいことなんだろうか。
「秋葉さま、そんなに気を病むことはございません。とても可愛らしい包装で、わたしもとても素敵だと思います」
 翡翠が気を使ってそう言うと、秋葉は突然立ち上がってこう叫んだ。
「わたしの用意したものと、あんな……あんな低俗なデザインのものを一緒にしないでください!!」
「はい?」
 一瞬、秋葉が何を言っているのか分からなくなった。『あんな低俗なデザインのもの』というのは今朝、秋葉が俺の部屋においていったものだろう、で、それは秋葉の用意したものとは一緒にしてはいけなくて……?
「わたしは確かに今朝、兄さんの部屋にいきました。でも、なにも置いてきてはいません!!」
 秋葉が握りこぶしを震わせながらそう言った。
「秋葉さまは予定通りチョコレートをこっそり置いてこようと、志貴さんの部屋に忍び込んだものの、先に別のプレゼントが置いてあったのを見つけて、予定を破棄してそのまま戻ってきてしまった、というわけですね?」
 元々の事情を知っているらしい琥珀さんがそう整理した。寧ろけしかけたのは十中八九この人だろう。秋葉は琥珀さんの言葉に頷いて、学校の鞄の中から自分で用意したものらしい包みを取り出す。俺の部屋に置いてあったものと対照的な、上品なデザインのものだった。可愛らしさはないが、美術品といった感じの清潔さがある。
「これ……わたしが用意していたチョコレートです。それとも兄さんはもう可愛らしくて素敵なチョコレートを貰っているようですから、必要ありませんか?」
「いえ、秋葉さま、この包装の方が遠野家らしい気品に満ち溢れて、とても志貴さまにお似合いかと……」
 翡翠が必死でフォローにまわる。『可愛らしくて素敵』という言葉を引用されたのに負い目を感じているようだ。
「そうだよ、そんなこと言うなよ秋葉。俺が秋葉のくれるものを喜んでもらわないはずがないだろ」
 そう言って秋葉から包みを受け取る。
「ありがとう、秋葉。後でゆっくり食べさせてもらうよ」
「は、はい……遠野グループの一流パティシエにオーダーメイドで作らせたものです。絶対に兄さんの口に合う筈です。あんな誰が持ってきたのか分からないものより絶対に……」
 と言って、秋葉は鞄を持って立ち上がった。
「琥珀。もう出ます」
 そのまま、玄関の方へ早足で歩いていく。
「はい、秋葉さま」笑顔で琥珀さんが立ちあがる。「あ、わたしの特製チョコレート勿体無いから志貴さんと翡翠ちゃんで全部食べちゃってくださいねー」
 その言葉で、まだ一つも琥珀さんのチョコレートに口をつけていないことを思い出した。山のように盛られたサイコロ状のチョコレートを前に、俺と翡翠は顔を見合わせる。
「これを……全部か?」
 お茶会なのに自分のチョコレートに手をつけてもらえなかった琥珀さんの腹いせなのかもしれない。

/Case3.アルクェイド・ブリュンスタッド

 胃が重く、学校への道のりが普段よりも長く感じられた。
 ビターとは言えチョコレートはチョコレートだ。流石に全部とはいかなかったが、琥珀さんお手製の生チョコを結構な量食べたので、甘味が堪えた。秋葉が折角用意してくれたチョコレートも食べるのは明日以降になるだろう。秋葉には悪いが、元々甘いものが苦手なのだからこればかりは仕方ない。願うならば、秋葉のチョコレートも琥珀さんのもののように、ビター風味だったらいいのだが……
 そんなことを考えながら交差点に差し掛かる。赤信号に足止めを食らっていると、横断歩道の向こうにアルクェイドの姿が見えた。こっちに向かってしきりに腕を振っている。金髪と美形の所為でそもそも目立ってしょうがないくらいなのに、ブンブンと効果音が付きそうなくらい派手に腕を振るものだから、周りの人々の視線は一つも例外もなくアルクェイドに集まっていた。
 出来るだけ人の注目を避けようと、一番後ろから横断歩道を渡ろうと思っていたが、それよりも先にアルクェイドがこちら側に渡ってきた。もう一度赤信号に立ち止まらされるわけにはいかないので、俺も仕方なく歩くと、横断歩道の丁度ど真ん中で合流した。
「おはよ、志貴」……被害妄想かもしれないが、周囲の視線が痛い。「しーき―? どしたの?」
 そのまま人通りの少ない路地までアルクェイドを引っ張っていった。
「カカオ!」
 ようやく落ち着いたと思ったら、今度は敬礼するようなポーズで意味不明瞭なことを言い出した。俺は半ば呆れてものも言えない。
「あれ? 挨拶が間違ってたから黙ってたんじゃないの?」
「あー、もぅいいよ、おはようアルクェイド。で、そのカカオっていうのは何?」
 真っ直ぐになった掌を指差して言う。
「これ? バレンタインデーの挨拶ってこうやるんでしょ?」
 もう一度敬礼のポーズを取って、「カカオ!」と挨拶(?)をした。どこからか聞こえてくる「My Funny Valentine」の演奏に申し訳無くなってくる。
「どこでそんな馬鹿げた知識仕入れてきたんだよ」
「え? これ違うの? わたしの読んだ本にそう書いてあったんだけど」
 大体、コイツがどんな本を読んで知識を仕入れているのかが疑わしい。時事解説に載っているようなことも、週刊誌や月刊の情報誌に載っているような記事も全て等価値に吸収しているのではないだろうか。この件に関して言えば、情報源はさしずめギャグ漫画か何かといったところだろう。
「そんな挨拶する奴はいないよ。普段と違った挨拶をするなんて、日本じゃ新年くらいのモンだよ」
 そう言ってやると、「へぇー」と素直に感心している。
「じゃあさ、今年のタイガースは優勝間違い無しですなぁ、っていうのも挨拶にならないの?」
「それは関西の呑み屋限定。それに阪神タイガースの成績が良い時じゃないと、厭味だと思われて文句言われるぞ。間違っても巨人の優勝が決定した時なんかに使っちゃいけない」
 いや、阪神の成績が良い時の関西の呑み屋でも、アルクェイドが言うと挨拶じゃなくなりそうな気がする。中高年のオッサン限定も追加しておくべきかもしれない。
「志貴って何でも知ってるんだね」
 そう微笑みかけられると何故か反論する気も起こらない。
「あ、そうだ、忘れてた。……はい、これ」
 アルクェイドに30センチ程のラグビーボール状の物体を手渡された。
「って、これカカオの実じゃないか!? なんでお前こんなもの持ってるんだ?」
「んー、ホントは手作りのチョコレートがいいっていうのは知ってたんだけど、わたし、空想具現化でカカオだったら作れても、手作りでチョコレートなんか作れないし、折角だから志貴に作ってもらおうと思って。ほら、志貴ってラーメンとか作るの上手いし」
 無論のこと、俺だってチョコレートの作り方なんか知らない。ラーメンだって、それくらいしか作れないだけで得意なわけじゃないし、第一、麺を最初から作っているわけでもない。市販のチョコレートを溶かして、型に入れて冷やして出来あがり、というわけにはいかないのだ。
 しかし、アルクェイドの喜ぶ顔を見たいというのはある。ラーメンを作ってやっただけであれだけ喜んでいたコイツのことだ、手の込んだチョコレートを作ってやれれば大喜びすること間違い無しだろう。幸い、遠野家には琥珀さんというコーチもいるわけだし……と考えた俺は、
「分かった。すぐには無理だけど、そのうち作ってやるよ」と安請合いしていた。
「ホント!? やったぁ! 楽しみにしてるからね」アルクェイドはすでに大はしゃぎだ。
 時間が気になって時計を見てみると既に登校時間ギリギリを指している。
「やばい! 早く行かないと。じゃあ、アルクェイド、また」
「うん。じゃあ、また後でねー」
 挨拶もそこそこに脱兎の如く駆け出した。奇跡的に早起きが出来た日でも、結局こう、遅刻寸前になってしまうのは最早避けられないのだろうか。小さめなラグビーボールを片手に走っていると、アメフトの選手になったかのような気分だった。

/Case4.シエル

「トライ!!」と叫びたくなるのを必死で堪えて教室に飛び込むと、どうやら間に合ったようだった。年に二回、バレンタインデーとクリスマス直前のみに漂う、テストの日とも違った特殊な緊張が張り詰めた教室で、一人だけ意気揚揚とした男がいた。
「よう、遠野。カカオ!」
 先ほどのアルクェイドと同様の挨拶を繰り出す有彦を当然の如く無視して、俺は自分の席につく。
「おうおうおう、遠野さんよー。遅刻ギリギリで来てつれないじゃねぇか。でもよ、お前のセンスは認めるぜ、まさかバレンタインデーにマジモンのカカオを持って登校するとは。俺も考え付かなかった。流石は遠野ってとこだな」
 勝手な評価を下して、有彦は自分の鞄をゴソゴソと探ると、俺の机の上に小さな箱を置いた。
「ほれ、これ姉貴がお前に、って。俺にはチロルチョコ一個だっつーのに、姉弟の絆ってのはそんなにも細っこいもんかね」
「一子さんが?」
 有彦のお姉さん、乾一子さんは身持ちのはっきりしない人だが、なにかと乾家にお邪魔することは多かった俺は、結構可愛がってもらっていた。有彦に言わせると、俺が一子さんの相手をしているようにしか見えないらしいし、確かにそういった節も少しはあったのかも知れないが、何にしても人に好意を抱かれるのは気分の悪いことじゃない。
「あぁ。兎に角、俺はちゃんと渡したからな。ネコババしたら殺す、って脅しかけられてたんだ」
「あ、あぁ、ありがとう。一子さんにもお礼言っといてくれ」
 俺はクラスメートの視線を気にしながらその箱を鞄にしまった。一部の女子に「遠野くんと乾くんって相思相愛」等とあらぬ噂を立てられているらしい身としては、こんな場面を見せるわけにはいかない。
「じゃ、そうゆうことで、俺は帰る。勿論三年の教室に寄って。では、さらばだ」
 これから有彦はシエル先輩の所に「本命チョコを受け取りに」行くらしい。馬鹿馬鹿しくて突っ込む気にもなれないので放っておくと、本当に教室を出ていってしまった。時間からして今から三年の教室へ行っても授業が始まってしまうだろうが、いずれにせよ、今日、有彦が教室に戻ってくることは、まず有り得ないだろう。
 それにしても、有彦のキャラクターだと本命を山程とはいかないだろうが、義理チョコやなんかは結構貰えると思うんだが、こう、いたりいなかったりの激しいアイツの場合、そういう機会をみすみす逃しているんじゃないだろうか。それとも、男性に受ける男性は女性からは支持されない、という法則が成り立っているのだろうか。そう考えているうちに先生が現れ、授業が始まった。

 午前の授業が終わり昼休みに入ったが、案の定、有彦は戻ってこなかった。ちょっと姿を消しただけで戻ってこなかったりする有彦が「帰る」と宣言したのだから当然だ。
 購買でパンを買ってシエル先輩のいるであろう茶道部の部室に向かう。有彦と同じように、シエル先輩もチョコレートくれたりしないかなぁ、なんて期待が全くなかったといえば嘘になる。
「あ、遠野くん。こんにちは。やっぱり来てくれましたね」
「こんにちは、先輩」
 予想通り、茶道部ではシエル先輩が一人で昼食を取っていた。俺はシエル先輩に勧められるままに畳に正座して、お茶をすする。遠野の屋敷に移って以来、こうやって畳に正座してゆっくりとすることが少ないので、ここにくると気が落ち着く。たまに離れの屋敷に忍び込んだりはするものの、あそこでは本格的なお茶は飲めない。やはり畳敷きには日本茶がぴったりだと思うのだ。
「そういえば、有彦の奴が行きませんでした?」
 有彦のあの気合の行方が気になっていたのでそう訊いてみると、
「はい。最初の休み時間に来ましたよ。丁度よかったのでチョコレートあげちゃいました」
 どうやら、結局始業前には間に合わなかったらしい。だったら、一時間目の授業だけでも受けてからいけばよかったのに、それをしないところが有彦らしいところだ。
「はい、これは遠野くんの分です。折角だから一緒に食べようと思って、用意しておいたんですよ」
 勧められた皿の上にチョコレートらしき物体がのっかってはいるが……この匂いは……
「ほらほら、パクッと食べてみてください。パクッと」
 言われるままに一つ口に入れてみると、思った通り、普通のチョコレートではなかった。カレー風味のチョコレート? いや、それ以前にこれはチョコレートなのだろうか。
「折角色が似ているからと思って、カカオマスにカレーペーストを加えてみたんですけど、脂肪分の所為か、なかなか風味が出なくって……って、遠野くん? どうしました?」
「い、いや……なんというか独創的なテイストで……カレーとチョコの調和というか何というか……」
 グルメ番組のコメンテーターの大変さを噛み締めながら、何とかそれだけコメントした。
「そうでしょう!! カレーの特性を考えればチョコと調和するのも当然です。カレーは数々のスパイス、食材を混ぜ合わせることで深みを増した味わいを生み出すのですから」
 これをもってしてカレーと呼ぶのかと疑問に思ったが、それに関しては口をつぐんでおく。口に入れてしまったチョコ風味カレーをようやく胃に流し込んだ頃に、背後のロッカーがゴトゴトと音を立て始めた。
「ここで張っていればこの場面に出会えると思っていたニャー! ほら志貴、臆することはない。こんなカレー臭いチョコレートが食えるかと、正直に言ってしまうニャー」
 ロッカーから飛び出してきたのは二頭身の猫アルクだった。凄いスピードでシエル先輩のチョコレート(カレー?)を一個奪うと、それを口の中に放りこむ。
「うげっ、マズッ! こんなもん食い物じゃニャいニャー! 即刻廃棄! 即刻廃棄!」
 シエル先輩の頭の辺りから、プチン、という音が聞こえたような気がした。
「こんのあーぱー吸血鬼がぁぁ!! 言うに事欠いて食べ物じゃないとはどういう了見ですか!!」
 正座の状態から猫アルクに飛びかかる。どういった身体能力をしているんだろうか。
「カレーに謝れ! カレーに謝れ! インドに謝れ! インドに謝れ!」
 と、フリッカーパンチを連続して繰り出す先輩に、猫アルクも得意の猫デンプシーで対抗する。いつぞやに見たことのあるような光景が展開されていた。
「大体、バレンタインデーだからって、シエルのカレーネタに結びつけるのがつまらニャいんだニャー。こんなので笑いが取れるわけがニャいニャー」
「たわけたことを! バレンタインデーにかこつけたカレーネタだって、作者の筆力次第では充分に面白い話になるんです! それを中心に据えないのは、一重に作者の筆力不足なんです!!」
 随分とメタな話題に踏み込みながら乱打戦を繰り広げる一人と一匹。……大体、作者が自分のギャグセンスに絶望しているからこそカレーネタを中心に据えないのであって、無いギャグセンスを振り絞ってギャグ小説を書こうとしていた頃よりは成長しているんじゃないだろうか……って、これもメタレベルな話か。
「こんの化け猫がぁ! カレーの神様に謝れ!!」
「お前は食の神様に謝るニャー!!」
 ゴグッ! と破壊音が響くと同時に、二人はクロスカウンターの状態で停止していた。これもいつか見た風景だ。
「さて……と、戻るか」
 俺は少し冷めてしまったお茶を飲み干して、茶道部の部室を後にした。

/Case5.翡翠

「琥珀さん、カカオからチョコレートの作り方って分からないかな? よかったら教えて欲しいんだけど」
 夕食を終え、四人で食後のお茶を楽しんでいる時に訊いてみた。
「えぇ、分かりますよ。今朝のはカカオマスから作りましたけど、何度か作ったことはありますから」
「よかった。折角だから、ホワイトデーにはお返しに作ってみようと思うんだ。ほら、カカオの実も貰ったのがあるし」
 と、アルクェイドから貰ったカカオをテーブルに置く。
「兄さん、失礼ですが、一体何人にお返しをするつもりなんですか?」
 秋葉が言った。秋葉、琥珀さん、アルクェイド、シエル先輩、一子さん、差出人不明のも含めると……
「えっと、貰ったのは六個かな」
「じゃあ、翡翠ちゃんの分も含めて七人分ですねー。ほら、翡翠ちゃん」
 琥珀さんに突っつかれて、翡翠が赤い顔をしてテーブルを指差す。
「姉さんに手伝ってもらって、私も作ってみたんですが、よろしければ召し上がって頂けますか……?」
 今朝と同じくテーブルにはサイコロ型のチョコレートが皿に積まれていた。てっきり琥珀さんが作ったものの残りかと思っていたが、そうではないらしい。試しに一つ食べてみた。
「うん。琥珀さんのも美味しかったけど、翡翠の作ったのもなかな……!?」
 最初はよかった。少し甘めの味ではあったが、市販のチョコレートと比べても見劣りのしない味だと思う。しかし、その中心部から染み出してきたのは、日本人に馴染み深い……梅の味だった。
「翡翠……これ、梅?」
「はい。姉さんと同じでは志貴さまにも申し訳無いと思いましたので、中に梅の果肉を入れてみたんですが……」
 申し訳無くない! 全然申し訳無くないから普通のチョコレートで勘弁してくれ!! という魂の叫びを押し殺して、何とか果肉部分を飲み下した。何と言うか、最悪の相性だ。
「よ、よかったですね、兄さん。う、梅の風味が好きだと前も仰っていましたし……」
 秋葉の声も心持ち震えている。俺の受けている責め苦を想像すれば当然のことだろう。
「こちらは、梅でなくイチゴで作ったクリームを入れたものです」
「そっかー。じゃあこっちも食べてみないとな」
 一度酸味が広がった口に、チョコレートの甘さの不協和が結構響いたが、すぐに落ち着き、こっちのチョコは普通に食べられた。
「うん、こっちも美味しいよ」
「あ……ありがとうございます」
 琥珀さんが半ば涙を浮かべながら、俯いた翡翠に見えないようにして、こちらに向かって掌を合わせている。お礼のつもりなのだろう。勿論、何のお礼なのは語るべくも無い。翡翠も喜んでいるようだし、努力の甲斐があったというものだ。
「で、兄さん。七人分のチョコレートを作るつもりなんですね」
「うん、カカオの実って結構大きいから、七人分くらい作って丁度いいと思うんだけど」
 プッ、と秋葉が吹き出した。
「琥珀。ベネズエラ辺りからカカオマスを取り寄せておきなさい。カカオの実からチョコレートが作れるなんて思ってる兄さんに一から作らせるなんて無理ですから」
「え? チョコレートってカカオから作るんじゃないのか?」
「失礼ですが、志貴さま。チョコレートはカカオの種から作るものだと……」
 梅入りチョコレートを平然とした表情で口に運んだ翡翠が言った言葉に、俺は赤面した。一人だけ勘違いしていたなんて凄く惨めじゃないか。
「志貴さん、安心してくださいね。翡翠ちゃんは兎も角、秋葉さまがそれを知ったのもつい最近のことですから」
「よ、余計なことを……わ、私はただ忘れていただけです」
 秋葉が眉間に皺を寄せると、「さっそく注文しておきますねー」と言って、琥珀さんは退散するかの如くにロビーを後にしてしまった。いつも笑顔の琥珀さんだが、こういう時が一番楽しそうに見える。
「ところで志貴さま、今朝のあの包みが誰からのものだったか分かったのですか?」
「いや、全然」
 結局、心当たりのある人物からはみんなに貰ってしまったわけで消去法で考えても一人も残らない状態になってしまった。
「まぁ、いいのかな、とも思ってるんだけどね。別に誰か分からない人物の恨みを買ってるわけでもないし」
「でも兄さん。兄さんが気付いてあげなかったらその人も可愛そうよ」
 今朝、低俗やら何やらと散々なことを言っていた秋葉にそう言われるのは少々癪だが、それも確かだ。
「うん。それは分かってる。何にしても後一ヶ月。ホワイトデーまでには誰だったのか見当付けないと、お返しも渡せないしね」

/One month after

 一ヶ月間、期末テストもあるというのに、空いた時間を見つけては琥珀さんにチョコレートの作り方を教わっていたので、もう、以来数年分のチョコレートを食べたと言ってもいいだろう。自分で練習した分だけでなく、琥珀さんが手本として作ってくれた分も、果てには翡翠までもう一度作り出したものだから、明らかにみんな揃って糖分の取り過ぎだ。ただ一人、秋葉だけは「遠野家の主としてそんな余計な真似はしていられません」と断言して、チョコレート作りには参加しなかったが、味見だけは一人前にするうえに、俺の作ったものだけにいちゃもんをつけ続けた。
 こんな生活を続けているうちにバレンタインデーという日自体に興味を持ったので図書室などで調べてみた。有彦などは俺がテスト勉強でもしているのかと思ったのか、散々「裏切り者!!」と罵っていたが、テストの結果は揃ってズタボロだったので、すぐに機嫌を良くしていた。
 バレンタイン、というのはキリスト教関連の祝日によくあるように、聖人の名前から取ったものなのだそうだ。一時期強兵政策の為に結婚を禁止していたローマで、バレンタインという司祭が多くの若い兵士達を結婚させたため、ついには皇帝の怒りを買い二月一四日に処刑されてしまったらしい。元々、バレンタインというのは故人を謹み偲ぶ行事だったわけだ。

――実を結ぶことの無い愛情――掟を破り通じる想い――故人を謹み偲ぶ――それはまるで――

 俺は暗くなった路地を歩いている。手にはようやく完成したチョコレート。練習の時に散々作っていた普通の四角いだけのスィートチョコとは違い、ちょっとした工夫が凝らしてある。我侭を言って、別の素材まで用意してもらった甲斐があったというものだ。
 路地裏の突き当たりにつくと、俺は手にしていたチョコレートを端に置き、少しの間、目を閉じた。
 これが正解かなんて俺には知る術は無い。でも、きっとこうすることは、俺にとって大切なことだったのだと思う。もし……もしあのプレゼントが聖人の慈悲の賜物だったのなら、その奇跡をもう一度授けて欲しい。それだけを強く祈って、俺はそこを後にした。

/Epilogue

 Dear Satuki
 From Shiki

 一つ一つのチョコレートに、ホワイトチョコで一文字づつアルファベットが記されていた。それを覗きこんだ二つの影、そのうちの、白い髪をした青年が、クククッと笑みをこぼした。
「ほらな、言った通りだろ。アイツだって少しは夢見がちなトコあるんだぜ。俺が言うんだから間違い無い」
 0度近くまで冷え込んだ大気の中で、彼は着流し一枚で平気な顔をしている。隣の少女も制服を身に纏っているだけで、北風にツインテールの髪を流されるのも厭わずに、ただ呆然とそのプレゼントを見つめていた。
「それにしてもつれねぇよなぁ、俺には何にも無しかよ。まぁ、アイツになんか貰っても気持ち悪いけどな」
 青年はそう言って大袈裟に笑う。今にも泣き出しそうな隣の少女を元気付けようとするかのように。
 両目に涙を溜めていた少女は、それを見て少し微笑むと、チョコレートに手を伸ばした。
 左下、「F」「r」「o」「m」の四つを取り出すと二つを自分で、残りを青年の口に押し込んる。
「おっ、おい! なにしやがんだっ……」
 抵抗しながらも二つのチョコレートを口に押しこまれてしまった青年は、どうやら甘いものが苦手らしく、顔をしかめていたが、すぐにその表情を変えた。
「んー、まぁ、この程度の味だったら及第点か……って、俺チョコレートなんて殆ど食ったこと無いからわかんねぇけど」
 その評を聞き、今度は確りと笑顔を取り戻した少女は、チョコレートの箱を青年に向ける。
「ほら、これで満足?」
 一単語抜けたチョコレートを覗きこんだ青年の顔が、見る間に泣き笑いのように歪められる。
「ば……馬鹿野郎っ! なんでお前がこんな余計なこと……」
「あれが私にとっての奇跡なら、今日のことは彼にとっての奇跡でしょ。いいじゃない、彼と同じ名前のアナタにだって、奇跡が起こっても」
「こっ、こんな小細工が奇跡かよ……」

 説得力の無い顔で強がって見せる青年。
 大切なプレゼントを胸元に抱える少女。

 いつのまにか、雪が降り出していた。人々は珍しいと言うだろう。もう、春は近い。
 新しい季節に歩んでいく世界に取り残され、見守り続ける運命に、この時だけは世界が寄り添うように、雪は街を白く彩る。


後書き

 月姫二次創作小説の第二作です。バレンタインディのお話。マザーグースの訳に手間取りました。詩の翻訳は花言葉を活かさなければ重要な部分が伝わらないので難しいです。それにしては下手な訳でごめんなさい。マジで。
 取り合えず、五人のヒロインは全員登場させようと奮闘しました。書き始めた時点ではスジが全然決まっていなかったので、(いつもの事ながら)付け足しっぽいラストになってしまいましたが、それにしてはそこそこちゃんとまとまったかと思っています。

戻る