万葉の妹山を特定するにあたって、古南海道が何処を通って、何処を越えたのかが、一つのポイントと考えました。
推定の根拠
1.紀伊続風土記 荻原村の項に「・・・今の街道より少し北にあり古道は村中寳来山神社の社前を過ぎて兄山の北の方を越えたりといふ今明神の境内に船繋松といひ傳ふ是に因るに古は河筋も今の街道より北なりし事明なり後世川筋も變し小田の堰溝をァちしより地形大に變す・・・・」
この記述された事と現地が一致していることを確認できます。
特に注目したのは、「今の街道」=大和街道より北に「古道」=古南海道が寳来山神社の社前を通り背ノ山の北の方を越えたと刻銘に説明されています。更に注目したのは今の大和街道より北側に紀ノ川の河筋があったと説明されている点です。
2.紀伊名所図会 荻原古駅の項に「今荻原村といふ。往還より少し北にあり。粉川より名手荘丹生谷村西の山馬宿を経て、背山の北手を越えて當村に出づるを古道とす。」
この古道を粉河・井田から荻原まで、現地踏査すると地形が川の浸食等でかなり変化しているが、やや直線上に古・里道等が確認できます。
「・・・ 往還より少し北にあり・・・背山の北手を越えて・・・」にも注目しました。
3.県文化財センタ−がかせ田荘絵図の大道が南海道と想定して、発掘調査の結果「・・・中世以前の道−絵図に描かれている『大道』については、今回実施された沖積低地部にその存在を求めることは困難といえよう。それではこの『大道』をどこに求めるべきであろうか。今回の調査地より南側は紀ノ川の流路であり、北側の下位段丘面に求めるのが当然の帰結と思われる・・・・・」と調査報告されている。
4.昭和55年発行県教育委員会編「歴史の道調査報告書」・『背山越え』の項で、「・・・紀ノ川を挟んで南岸の妹山と対峙し、真土をしのぐ峡隘部を形成している。そのために背山(兄山)はまさに南海道上に立ちはだかる趣を呈し、そしてそれ故に、ここが畿内の南境に指定されたのである。背山を通過する道は、山の南か北かを迂回しなければならなかった。その際はしかし、多分南を迂回することはなかったであろうと考えられる。南斜面は急崖が直接紀ノ川に落ち込む原地形で、古代の道路がこのような地形を回避した例は、恭仁京内ほかいくつかの箇所で指摘できるからである。『和歌山県聖蹟』第三篇第四章第1節の記述も、「今は大和街道は背山の麓を迂回しているが、もとは南海道は背山を越して通っていた」という立場をとっている。断定は難しいが、恐らく背山北麓の、北西−南東方向 池列によって地形図上に示される谷をたどって、背山の難所を越えたのであろう。」と報告されている。
もし、背山の南側を古南海道が通っていたとしたら、川中島の絶景地舟岡山が万葉集に詠まれるのが当然ですが、1首も詠まれておりません。地元万葉歌研究者も謎だと説明されています。
5.地形上から考察するため、28水害・伊勢湾台風時の洪水水際を調査しました。佐野では、現在の住民会館付近まで洪水時の水際まで達していました。笠田東では国道二十四号の一寸北方まで。笠田中・荻原では、国道二十四号西寄で堤防上約10センチ越えて、JR際付近まで達していました。
もし、かせ田荘絵図の大道が南海道としたら完全に水没しております。
まさに万葉時代の紀ノ川を再現したかに思われます。
6.流れ井戸
万葉の旅人、ひと休みの場・流れ井戸が推定古南海道沿いに確認できました。
これらの流れ井戸は、和泉山脈伏流水として現在もこんこんと綺麗な水が湧き出ています。
7.中国的な直進南海道・条里制に基づいた古道が、かせ田荘絵図の『大道』=南海道だと想定して現場踏査をしてみましたが、今の時点では具体的な事実に接しておりません。
古代の中央集権的な国家体制を支配するため、中央と地方を緊密に連絡し、有事の際には急激に軍隊を移動する直線的な道路整備が必要であった。その一つが南海道で紀ノ川流域に直線的に道路整備がされた。しかし、和泉山脈と紀伊山地が双方押し合う妹山・背山の地形が直線指向を阻害して、山際に古南海道が迂回させたのでないかと考えられます。
当初は直進南海道が建設されたが、暴れ河紀ノ川の影響で山際コ−スに迂回したのではないかとも考えています。
笠田万葉サ−クル
