第一章 鍾 愛(前編)

丘   浩  美


お迎えの日

 人混みの中を押しつぶされさそうになりながら、小柄な少女が改札口から出てきた。駅の大きな丸時計は、まもなく九時になろうとしていたが、乗降客が絶え間ないのは土曜日ゆえであろうか。紺やグレーのスーツに身を固めたビジネスマンに代わって、行楽地に向かう家族連れが目に付いた。
 駅を出た少女は、すぐ横にある郵便ポストの前に立った。
 約束の時間まで、まだ十分ほどあったが、すべて計画どおりに推移しているようだった。念のため、ハンドバックから写真を取り出して見比べてみたが、『栗原美咲』本人に間違いなかった。淡い水色のブラウスに紺のカーディガン姿は、あらかじめ手紙で知らせてきた服装である。目印に着けてくると云っていた小鳥のブローチも、ちゃんと左胸に輝いていた。
 誰か同伴者がいては……と、思い辺りに目を走らせたが、それらしき人は認められなかった。
 物陰から少女を観察していた婦人は、写真をバッグにしまうと、さりげない風を装いながら、獲物を驚かさないようにそっと近づいていった。
「栗原ぁ、美咲さん?」
「はぃ……そうですがァ……」
 見知らぬ人に突然声を掛けられて、少女が警戒するような視線で答えた。彼女は、半年近く前から文通をしているペンフレンドと初めて会うために来ていたのだった。それが、自分と同じ歳の女の子ではなく、シックなスーツに身を包んだ中年の婦人に呼びかけられたのである。
「初めまして、大島でございます。朝早くからご免なさいねぇ、栗原さん。実は、うちの美智子、今朝、少し調子が悪くてねぇ……それで、代わりに迎えに来たのよぅ」
「美智子ちゃん、大丈夫ですかァ。おじゃまして、ご迷惑になりません?」
 事情をきかされて警戒心を弛めた少女が、小首をかしげるようにして尋ねた。小柄な身体は、中学一年生の平均身長に達しているのであろうか。若さを象徴するようなつややかな黒髪は、学校指定の髪型にカットされていたが、頬のあたりにまだ子供の面影を色濃くとどめていた。
 この春から三年生のはずなのに、小さな胸は小学生のように幼く見えた。
「もう、たいしたことはないのよぅ。熱も下がって本当は、出かけても大丈夫なんだけど、用心のために外出させなかっただけですからねぇ。うちの美智子ったら、どうしても会いに行くんだって、もう今朝から大変。お願い、栗原さん。今日は、是非我が家にいらして下さいな。その代わり、いっぱいご馳走しちゃうからぁ」
 反論の隙を与えない巧みな弁舌に、十四歳の少女は、気が付くと訪問の約束をさせられていた。誘われるまま駅前駐車場へ付いていくと、ペンフレンドの母親は、VIPを迎えるときのように後席のドアを開けてくれた。
 靴のまま乗っていいのか迷いそうな豪華な車内には、女の子の大好きなキャラクター物のティッシュケースやアクセサリーがさりげなく配されていて、夢見がちな年頃の関心をそそった。
 窓にレースのカーテンがかけられていたが、それにまで隠し絵のようにキャラクターの刺繍が編み込まれているのだ。宝石箱のような調度に夢中の少女は、外からの視線をさえぎるため、わざと後部座席に乗せられていることに思い至らなかった。罠に誘い込む餌として用意された様々な小物に心を奪われている様子をルームミラーで観察しながら、ニンマリと笑みを浮かべた。
 大島夫人の運転する車は、静かに駐車場をはなれた。車内は、エアコンの微かな音以外に、何も聞こえない。雑踏の騒音が遮蔽された静かな室内からレースのカーテンを隔てて外をながめていると、駅前の賑わいが妙に幻想的に見え、空想好きな少女は、馬車でお城の舞踏会へと向かうお姫さまになったような気がしてくるのだった。
「どれでも、好きな物を召し上がってねぇ」
 信号待ちの間に、大島夫人が冷蔵庫の在処を教えてくれた。手紙の様子では、自分とほとんど同じごく普通の家庭の子だとばかり思っていたのに、自家用車に冷蔵庫まで備え付けられているとは……。
 笑みを絶やさない大島夫人とあれこれ話をしているうちに、すっかり打ち解けた美咲は、輸入物の高価なコーヒー缶を開けた。甘さを抑えた大人の味が、思春期の味蕾を心地よく刺激した。
「栗原さん、この曲がお好きなそうねぇ。美智子が、どうしても持ってくように言ってたのよぅ」
 しなやかな指がカーステレオに伸びると、大好きな『夢見るメロディ』が流れてきた。引き込まれるように聞きながら目を閉じると、高級車特有のクッションが心地よい眠気を誘った。
 目を閉じ、CDのクリヤな音に聞き入っているうちに、車は徐々に速度を上げていった。だが、振動の伝わってこない室内にいる少女には、まったくスピードが感じられなかった。生まれて初めて受ける豪華な扱いに、少しでも大人に見られたい年頃の少女は、有頂天になってしまっているのだった。
「あのゥゥ……お家、まだ遠いんですかァ……」
 カーステレオが奏でる音楽が途切れたとき、ふと外の景色に視線を移すと、いつのまにか市街を離れ、人気のない山道を走っていたのである。レースのカーテンをめくると、窓ガラスには更に遮光用のフィルムが貼られていた。薄茶色のフィルターをかけたような窓から後ろを覗くと、ずっと遠くに民家が数件見えた。
 美智子ちゃんのお家は、たしか市内のマンションのはず……。どことも知れぬ場所へ連れて行かれる不安が頭をもたげ、急に心細くなってきた。
「美智子は、気管支の弱い子でねぇ……週末は、空気の良い田舎で過ごすことが多いのよぅ……ほうら、あそこが入り口よぅ」
 急に速度を落とした車が、脇道に入った。角に、『大島牧場・私道につき、通行は、ご遠慮願います』と書かれた看板が立っている。
「エッ、牧場ってェ……わァ、すごいィ……」
「看板はそのままにしてあるけど、今は牧場なんかじゃないのよぅ。空気のきれいな所に住む方が、美智子の身体に良いからってお医者様が言うものだから、昔牧場があった土地にセカンドハウスを建てたのよぅ」
 新緑の落葉樹林の中を、本道と遜色のないりっぱな舗装道路がのびていた。だが、路肩の草が奔放に伸びている様は、この道が車すらめったに通らないことを無言で表していた。梅雨の季節を迎えて一段とあざやかさを増した緑の中を、車は再び速度を上げた。
 美咲を乗せた車が通り過ぎると、草むらからゴトゴトと鉄の門扉が滑ってきて、私道を閉鎖した。門の両翼は、目立たないよう緑に塗装された高い鉄柵につながり、広い牧場用地の外縁をぐるりと取り囲んでいた。部外者の侵入を拒むため普段は閉めたままにしておくのだが、可愛い招待者に不信をいだかせないように、一時的に開けていおいたのである。
 だが、写真でしか見たことがないペンフレンドにもうすぐ会えると、気もそぞろの少女は、帰り道が閉ざされたことはおろか、門の存在にすら気付かなかった。
「ここから頂上まで、少しカーブが続きますからねぇ」
「頂上って、美智子ちゃんのお家は、山の上にあるんですかァ」
「うフフ……大丈夫よう、山といっても、小高い丘ですからねぇ。もうすぐよぅ……」
「エーッ、それじゃぁ、丘全体が、お庭なわけェ」
「まぁッ、そんな、オーバーなぁ……牧場って、広い土地が必要でしょう。その頃の名残なのよぅ。昔は、この辺も放牧地になっていたって聞いているけど、今はごらんのとおり。もう何年も人手が入っていないから、すごい山奥に来たように見えるでしょう。牧場に興味がおありなら、お爺ちゃまに聞いてみると言いわねぇ」
 スピードを落とした車が、曲がりくねった山道を登りながら進んでいくにつれて、森は深山の趣を増し始めた。ツタがからまり、棘のある低木が密生している森は、人が分け入るのを拒んでいるように見えた。
「お爺ちゃまぁ、お元気ですかぁ。美智子ちゃんからのお手紙で、とってもすてきな方だって、うかがってましたけどゥ」
「もちろん、元気よぅ。元気すぎて、困ることもありますけどねぇ……ずっと前から、美咲ちゃんが来るのを、それは、それは、楽しみにしていらっしゃったのよぅ。だから、きっと驚くほどの歓迎をうけるわぁ」
「ワァ、うれしィ」
「うフフ……旦那様ったらねぇ、可愛い子が遊びに来ると、すぐ孫にしたいって、言い出すのよぅ。美咲ちゃんも、旦那様の孫娘にされちゃうかもしれなくってよぅ……」
「エッ、本当ですかァ……でもゥ、一度でいいから、こんなお金持ちの家の子になってみたいィ……」
「今のお返事を聞いたら、きっと、とっても喜んでよぅ。それじゃぁ、今日は、美咲ちゃんも我が家の一員ね。こんな可愛い孫ができたら、旦那様は、もう帰さないっていうに違いなくってよぅ」
「まぁ、こわい。でもぅ、大事なお爺ちゃまをとられたって、美智子ちゃんに怒られないかしらァ……」
 笑い声に満ちた車の前に、突然緑の壁が現れた。びっしりと潅木を植え込んだ土手が、道路を横断し鬱蒼と茂る木々の間をどこまでも続いているのだ。周囲の緑に溶け込んで、遠目には森の一部のように見えたが、高さは四メートル近くもあろうか。土塁を思わせる急峻な斜面は、中央に車が通れるほどのトンネルが穿たれ、鉄の扉で塞がれていた。
「牧場があった頃、家畜が逃げ出さないように作ったものなのよぅ。ここをくぐると、すぐに我が家が見えますからねぇ」
 運転席から車のライトを数回点滅させると、金属の擦れあう重い音をたてながら、ゆっくりと門が開いた。家畜の管理のために作られた物にしては、あまりにも大仕掛けである。美咲を乗せた車がトンネルを抜け出ると、鉄扉は自動的に閉じ始めた。
 西欧の城門が開く時のような不気味な音が車内にまで響き、眠っていた警戒心を呼び覚ました。
 もし、あの扉が、二度と開かなかったら……後ろの窓から土手を見上げてみると、垂直に近い斜面は、とても登れそうになかった。
「お待ちどうさま、美咲ちゃん。山道をゆられて、疲れたでしょう。もうすぐ到着よぅ」
 招待客の不安な気持ちを察した大島夫人が、さも気遣うような笑みを浮かべながら声をかけた。
「あッ!」
 誘われるままに視線を前方に移すと急に視界が開け、運転席の窓から指さす方向に、白壁が見えた。
 丘の上に作られたという牧場は、今ではその面影すらなかったが、あたり一面クローバーの花が咲き乱れる野原になっていた。土手の内部も、かなりの広さである。道にそって流れる小川といっしょに、ゆっくりと屋敷に近づいていくに連れ、土手の圧迫感が薄れ、高山のお花畑に迷い込んだような気分になってきた。屋敷の前まで来ると、あれほど不気味に思えた緑の土手が、クローバーの絨毯にすっかり溶け込み、緩やかな丘の起伏の一部にしか感じられなくなった。
 どっしりと瓦を乗せた和風の門構えは、牧場のイメージとかけ離れていたが、巧みに樹木が配されているゆえであろうか。心を落ちつかせてくれる長閑な光景は、里の庄屋を連想させた。表門を過ぎたところに車が出入りする専用口があり、大島夫人が運転席で何やら操作をすると、この扉も自動的に開いた。
「さぁ、着きましたよ。中へ、どうぞ」
 車を車庫に納めると、微かな音がしてドアのロックが解除された。
「あッ、ありがとうございます。美智子ちゃんのお家ってェ……すごいィ」
 車から降りた少女が、キョロキョロと辺りを見回した。白壁の中は、手入れの行き届いた日本庭園になっていて、車庫から格子戸のある玄関まで踏み石が並んでいた。いったい、どれくらいの広さがあるのだろうか。庭の奥の方から、遠くカッコウの声が聞こえている。
 美智子ちゃんのお父さんは、普通のサラリーマンだとばっかり思っていたのにィ……。
 豪邸と呼ぶに相応しい屋敷は、とても転地療養のためだけのセカンドハウスには、見えなかった。
「どうぞ、どうぞ、こちらです」
 先に立った婦人が、玄関の格子戸を開けた。
 すぐにも美智子ちゃんに会えるものと思っていたのに、広い玄関には人影がなかった。
「さぁ、お上がりなさい、栗原さん」
 先に立った大島婦人は、奥に向かって廊下をすたすたと歩きはじめた。
「はぃ、あッ、あのうゥ……」
 スリッパに履き替えた美咲が、あわてて後を追った。肩からかけた手作りのポシェットが、可愛く揺れた。
 薄暗い廊下は、うねうねと折れ曲がり、どこまでも続いていた。大股で歩く婦人からはぐれないよう早足で付いていくうちに、美咲はすっかり方向感覚を失してしまった。
「すごく広いお屋敷なんですねぇ……」
 静まりかえった廊下は、二股に分かれたり十字路になっていりして、まるで迷路を歩かされているように思えてきた。白壁に黒々とした柱が通る廊下は、どこもかしこも一緒に見えるのだ。これでは、同じ場所を二度歩かされても気が付かないに違いない。
「昔、取り壊されそうになった大名屋敷を移築したんだそうよぅ。廊下が長いので、驚いたでしょう。玄関のある方が表屋敷で、廊下を通ってこちらが、家族の住む奥屋敷。そこの角を曲がったら、もうすぐよぅ……ちょっと待ってねぇ。こうして、ベビーフェンスを元に戻して置かないとねぇ」
 初枝が、壁にたたまれていた蛇腹状のフェンスを引き出して、廊下を閉鎖した。青竹を組み合わせた矢来を思わせる折り畳み式のバリケードは、目をはなした隙に赤ちゃんが危険な個所に近づかないように通路を塞ぐ、育児用品である。
「ベビーフェンスってぇ、赤ちゃんが、いらっしゃるんですかァ」
「ウフフッ、とっても元気な子でねぇ、お外に出たがって、困るのよぅ。さぁ、こちらですよぅ」
 妖しい笑みを浮かべる婦人の後について、また一つ角を曲がった。玄関がどっちだったのかまったくわからなくなたころ、ようやく部屋に通された。
「どうぞ、おかけ下さい。今、お紅茶をお持ちしますからねぇ」
 笑みを絶やさないペンフレンドの母が、座布団をすすめた。
「あッ、どうぞおかまいなく」
 母親が出ていった後、美咲は物珍しそうに室内を見渡した。落ちついた作りの和室は、中央に黒檀のどっしりとした座卓が置かれていた。彼女の座っている席の正面が床の間になっていて、山水の軸が掛けられている。
 床柱の前に大きな座椅子が置かれていたが、この家の主人が座る席なのであろう。見慣れぬ書院風の調度に、マンション住まいの少女は気圧されたように身を縮めて正座した。
「おまたせ、美咲ちゃん。さぁ、どうぞ、召し上がれぇ」
 蒔絵をほどこしたお盆を抱えて戻ってきた婦人が、白いティーカップとチーズケーキの入った皿を置いた。
「あッ、すみません……あのゥ、美智子ちゃんはァ……」
「ご免なさいねぇ、美咲ちゃん。うちの美智子ったらぁ、本当にのんびり屋さんなんだからぁ……さぁ、冷めないうちに召し上がれ。トワイニングだから、とっても美味しくってよぅ。すぐ、美智子を呼んできますからねぇ」
 美咲が、紅茶を口にするのを確認した婦人は、いそいそと部屋を出ていった。

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