ルームメイト

ルームメイト

高木かおり



 それは、待ちに待った給料日がやって来て、久しぶりの豪華な夕食を二人で食べていた時のできことだった。
 坂本杏子がワイングラスに手を伸ばそうとした時に、山口智佐が自分の口を両手で押さえて急に立ち上がり、慌ててダイニングルームからとび出して行ったのだ。
「ちょっと、智佐。いったい、どうしたっていうのよ?」
 智佐がテーブルにぶつかった衝撃でワイングラスが倒れそうになるのをかろうじて支え、自分も急いで立上りながら杏子が叫んだ。頭の中には、まさか私が作った料理のせいじゃないでしょうね──という思いがちらと浮かんだが、自分はなんともないようなので、その考えはじきに捨て去ることができた。
 杏子が智佐のあとを追って廊下に出た時、洗面所の方から水の流れる音が聞こえてきた。それを耳にした杏子が、バタバタと足音をたてて洗面所に向かう。
 杏子が到着したのは、吐くべき物は吐き終えてしまったのか、智佐が苦しそうな表情を浮かべながらも、汚物で汚れた洗面台を水道の水で洗っているところだった。京子は智佐の背中に右手を回すと、数度静かに擦ってから声をかけた。
「どうしたの? 何か体が受け付けないような材料を夕食に使ってた?」
「……違うの。杏子の作った料理が原因って訳じゃないのよ。ごめんなさい、心配かけちゃって」
 ふと杏子の顔を見上げた智佐の目には、うっすらと涙が溜っていた。
 こちらもなんとなく気落ちしてしまった杏子だが、それでもいたわるような口調で尋ねてみる。
「じゃ、何が原因……」
 何が原因なの?と言いかけた杏子の口の動きが不意に止まった。そして、何かを思いついたような表情になると、僅かに震える声で言葉を続ける。
「まさか、妊娠……?」
 杏子の言葉を聞いた智佐の顔に、泣き笑いのような表情が浮かんだ。その表情が、無言のうちに杏子の質問に『イエス』と答えている。
「……相手はね、会社の上司なのよ……」
 杏子が尋ねるより先に、智佐が自ら説明を始めた。その方が少しは自分が惨めにならない、とでもいうように。
「杏子にも内緒にしてたんだけど、入社して一年が経った頃かしら──直属じゃないんだけど、サッカーの観戦に誘われて、それで……」
「相手は独身なの?」
 杏子が、智佐の言葉を遮るように鋭く訊いた。
 智佐は弱々しく首を振ると、ポツリと応えた。
「奥さんと、二人の子供がいるわ」
「どうして、そんな軽はずみなことをしたのよ。何かあったらお互いに相談しようねって、あれほど誓い合った仲なのに……」
 智佐は首をうなだれた。
 そんな様子を見守る杏子の胸に、知りあったばかりの頃の、若々しい智佐の顔が浮かんできた。
 二人が知りあったのは、短大の入学式でのことだった。学科ごとに指定された席についた時、隣どうしになったのがきっかけだった。お互い少し離れた地方から出てきて一人暮らしだということから話しが弾み、その日のうちに、十年来の友人のような間柄になってしまったのだ。
 それから二年の月日が過ぎ、いよいよ卒業という時になっても二人の絆は弱まることなく、結局は、卒業後も共同でマンションを借りて生活することになった。就職先は別々になったが、かえってそれが良かった(へんに同じ職場だと、いろいろと欠点も目につくだろう)のか、喧嘩もせずに今まで無事に生活を続けてきた。
 その智佐が、不倫のみならず妊娠という事態にまで足を踏み入れたのだ。
「……で、相手の上司は、妊娠のことを知ってるの?」
 杏子は、自分の言葉が咎めるふうに聞こえないよう気をつけながら訊いてみた。
 智佐は小さく首を振ってから、ポツリと応えた。
「まだ報せてないわ。私も昨日病院へ行ってきたところだから……でも、産ませてはくれないでしょうね。むこうには大切な家庭があるんだから……」
「そんな……」
「……でも、ま、なんとかなるでしょ──せっかくの豪華な夕食が冷めちゃもったいないわ。ダイニングルームに戻りましょう」
 これで会話を打ち切ろうとするように、智佐はムリヤリ笑顔を作ってそう言うと、先に立って歩き始めた。
 杏子の口からは、それを拒否する言葉は出せなかった。




 それから一週間が過ぎた。
 会社から帰ってきた杏子が玄関のドアに手をかけると、キーも差し入れていないのにノブがスムーズに回り、ドアが開いた。一瞬、泥棒かしら?という不安が頭をよぎったものの、ドアの隙間から玄関の中に智佐の靴が見えたため、やれやれと安心した。
 中に入った杏子はドアをロックし、防犯チェーンをかけたが、その時になって、どうして智佐はドアにロックもしないでいるんだろう?と思った──ほんと、不用心なことね。
 杏子が気になったのは、それだけではなかった。普段の智佐の性格に似合わず、靴の脱ぎ方が乱雑だったのだ。いつもならきちんと揃えて置いている筈が、今は、左右の靴がそっぽを向いたような状態で、片方の靴などは裏返しにさえなっている。
 杏子の胸に、不安な気分がもくもくと湧き上がってきた──智佐に何かあったんだ。
 杏子は自分も靴を揃える間もなく廊下に跳び上がると、小走りで智佐の部屋を目指した。
 智佐の部屋に辿りついた杏子は、ノックすることも忘れてドアを引き開けた。
 だが、そこに智佐の姿はなかった。
 杏子は慌てて部屋に足を踏み入れ、キョロキョロと部屋中を見回した。しばらくそうしていた杏子の目に、不自然に盛り上がっているベッドの毛布が映った。ひょっとして……と思いながらベッドに近づいて行く杏子の耳に、微かに泣き声のようなものが聞こえてきた。それは、怒りや屈辱や哀しみといった、マイナスの感情が全て混ぜ合わされ、溶け合ったような、杏子がこれまでに聞いたこともないような声だった。
 ベッドのすぐ横に立つと、杏子は確認するように声をかけた。
「智佐……?」
 しかし毛布の中から返事はなく、あいかわらず凄惨とも聞こえるような泣き声が聞こえてくるばかりだった。
 杏子は下唇を前歯でギュッと噛むと、何かを決心したような表情で両手を毛布にかけた。そして、無言のまま、一気に毛布を剥ぎ取ってしまう。
 毛布の中から現れたのは、枕に顔を押し付けて涙を流している智佐だった。
 何があったの?と訊くために顔を智佐の方に近づけかけた杏子の目に、智佐が左手に握りしめている紙片が映った。ギュッと握られているためにシワだらけになっていたが、その紙片に書いてある、『領収書』という文字と『三村産婦人科病院』という文字が杏子の目にとびこんできた。
 そうだったのか──杏子は体中から力が抜けて行くのを感じ、ヘナヘナとその場に座りこんでしまった。

 しばらくは杏子も何も言う気になれず、膝を抱えるようにして体を丸めて床に座っていた。
 それでも、二人してこうしていても……という思いがふと湧き上がり、体に僅かに残っていた力を絞り出すようにして、智佐の頭に掌を載せて声をかけた。
「ねえ、智佐──元気を出してよ。元気を取り戻して、あの明るい智佐に戻ってちょうだいよ」
「……」
 智佐からの返答はなかった。ただただ体を震わせて泣きじゃくるばかりだ。
「ねえってば──私にできることなら何でもしてあげる。だから、ね?」
 智佐の目が杏子の方に向けられたように思えた。それに力を得た杏子が尚も励まそうとするところへ、智佐の恨めしそうな声が聞こえた。
「……なによ、ひとごとだと思って──『何でもしてあげる』ですって?私の気持もわからないくせに、そんなおためごかし言わないでよ」
「そんな……私は心の底から……。ねえ、長い間、私達は親友だった筈よ。だから、
私の言うことを信じて」
 杏子もいつのまにか涙声になっていた。
 その声を聞いた智佐はハッとしたように口をとざし、ギュッと目を閉じてから、ポツリと言った。
「ごめん。自分のことで頭がいっぱいで、杏子の優しさを素直に受け取れなかったの……でも、わかった。ありがとう」
「いいのよ……」
 それだけを言うと、杏子の言葉が途切れた。見れば、杏子の両目からもぼろぼろと大粒の涙がこぼれている。
「……いいのよ。もう一度だけ言うわ──私にできることなら何でもしてあげる。だから、元気を出してちょうだい」
 智佐は小さく頷いた。




 杏子の言葉で一見元気を取り戻したかに見えた智佐だったが、現実はそれほど簡単に済むことではないようだった。朝から晩まで何かを思いつめるように部屋に閉じこもってふさぎこんでいる日があるかと思えば、手術の影響がまだ残っているだろうに、どこかへ出かけてしまう日があったりと、なにやら尋常ではない行動が目立つのだっ
 その日も、杏子が会社から帰ってみると智佐の部屋はもぬけのからで、どこへ行ったかの書き置きも見当らなかった。
 その智佐が帰ってきたのは、午後七時過ぎだったろうか。冷蔵庫の残り物で簡単なおかずを作った杏子が一人でわびしい夕食を摂ろうとした時に、玄関のドアが開く微かな音がダイニングルームまで聞こえてきたのだ。ハッとした杏子が立ち上がろうとすると、足音はもうすぐそこまでやって来ていて、杏子が振り向くと同時に、ダイニングルームのドアが開いた。そして入ってきたのが、これまでとは微妙に雰囲気の違う智佐だった。雰囲気が違うといっても、それは悪い方向に変わったのではない。あの日以来沈みこんでいた智佐の表情が、この時は明るく見えたのだ。
 智佐は両手に提げていた大きな紙袋をダイニングルームの隅に置くと、大きな声で言ったものだった。
「ああ、お腹ペコペコ。ねえ、何か食べる物あるかしら?」
 それは、短大で知りあったばかりの頃、お昼になるのを待ちかねるようにファーストフード店へとびこんで行った時の智佐の屈託のない声だった。
 杏子は智佐の変わりように一瞬とまどったが、次の瞬間には嬉しさのあまりクスクス笑い始めた。
 それを見た智佐が、怪訝そうな表情で杏子に問いただした。
「……なによ。いったい、何がそんなにおかしいの?」
 それに対して、杏子は笑い声のままで、こちらも明るく応えたのだった。
「おかしいんじゃないのよ──ただ、嬉しいだけ。あれだけ落ちこんでた智佐が元気を取り戻したみたいだから、それが嬉しいのよ」
「……心配かけたわね。でも、もう大丈夫。私はこうして立ち直ったわよ」
「よかった──でも、急にどうして? 何かいいことでもあったの?」
 その質問に今度は智佐がクスッと笑うと、悪戯っぽく小鼻にシワを作ってみせながら言った。
「そうよ。だけど、何があったのかは、ヒ・ミ・ツ──でも、一つだけ言っておくわ。私が元気を取り戻せたのは杏子のおかげよ。ありがとう」

 それから数時間後。久々に二人で賑やかな食事を摂り、とっておきのワインを飲んだ杏子は、ベッドの上でスヤスヤと安らかな寝息をたてていた。
 そこへ、そっとドアを開けて忍び込んできた人影があった。両手には、大きな袋を提げている。
 人影は足音を忍ばせてベッドのすぐ近くまで歩いて来ると、杏子の寝息を確認するように、その顔を静かに杏子の鼻の上までおろしていった。そして、しばらくそうした後、僅かに頷いてから壁際の整理タンスの方へ向かって足を踏み出した。
 その時、月にかかっていた雲が切れたのか、カーテンの細い隙間から冷たい光が洩れてきて、そっと歩いて行く人影を仄かに照らし出した。その白い光に浮かび上がったのは──妖しく目を輝かせた智佐の顔だった。
 智佐はタンスの引出を下から順に静かに引き開け、その中に入っている洋服や下着類を次々に床に放り出していった。そうして遂に最上段の引出を空にしてしうと、今度は、自分が持ってきた袋から様々な衣料をつかみ出し、代わりにタンスの引出に詰めこんでゆくのだった。
 三十分ほどもかけてタンスの中身と袋の中身とを入れ替えてしまった智佐は、もう一度杏子の寝顔をちらと確認してから、入ってきた時と同様、足音一つたてずに部屋から出て行った。
 しかし、智佐の異様な行動はそれで終わった訳ではなかった。
 しばらくするとドアが開き、今度は大きなバスケットを抱えた智佐が再び部屋に戻ってきたのだ。そしてさきほどと同じように、猫のようにしなやかな足取りでベッドのすぐ横までやって来くると、抱えていたバスケットをそっと床の上におろし、自由になった両手を、杏子の体にかかっている毛布に向かってそろそろと伸ばしていった。
 智佐が毛布を剥ぎ取っても、ワインの酔いのためか、涼子が目を開けるような気配はなかった。それを感じ取った智佐の行動は、ますます大胆なものになってゆく。
 いつのまにか、杏子は一糸まとわぬ姿でベッドの上に横たわっていた。その姿に、智佐は薄く笑いかけた後、ゆっくりと腰をかがめて、床に置いておいたバスケットを持ち上げた。そのバスケットに月の光が当たり、さきほど智佐がタンスに収納したばかりのものと同じような衣類が、色とりどりに浮かび上がって見えている。智佐はそれらの衣類を一枚一枚いとおしそうにつまみ上げると、まるで着せ替え人形にでも着せるように、杏子の裸体を包んでいった。




 翌朝、目覚まし時計のベルが鳴っても杏子の目はなかなか開こうとはしなかった。
軽い頭痛と微かな胸やけ──ワインをあんなに飲むんじゃなかったなという思いが京子の胸をよぎった。
 トントンと軽やかなノックの音が聞こえ、続いて智佐の声がドア越しに聞こえてきた。
「杏子、起きてるの? 時間は大丈夫なの?」
 杏子は迷った──このまま頭痛をおして起きるのが本当だけど、どうしようかな?溜ってた仕事も片づいちゃってるし、月末の忙しい時期でもないしなあ。
 しばらく逡巡してから、杏子はわざと苦しそうな声で、ドアのむこうの智佐に呼びかけた。
「ああ、智佐?──わるいんだけど、私の会社に電話してもらえないかしら。熱っぽくて体がだるいのよ」
「あら、それはいけないわね。わかった、電話してくるわ──でも、宿酔ってことは内緒にしておいた方がいいわね?」
 智佐はそう言うとドアの前から離れて行った。その口調に、こころなし笑い声が混ざっているように杏子には感じられた。

 なんとなく安心したような気分になった杏子は再び目をつぶり、ウツラウツラと心
地良い朝の寝坊をきめこむことにした。
 しかし、その天国のような甘い時間は長くは続かなかった。カチャッというノブの回る音がして智佐が戻ってきたのだ。
 ボンヤリと焦点の合わない目を向けると、智佐は白いトレイを持っているようだった。
「頭が痛いのよ。悪いんだけど、一人にしておいてもらえないかしら?」
 杏子は、バツわるそうに頭まで毛布にもぐりこむようにしながら、智佐に言った。
 それに対して智佐はクスッと笑うと、
「宿酔には温かいミルクがいいのよ。持ってきてあげたから、飲むといいわ」
と言って、杏子の毛布を一気に剥ぎ取ってしまった。
 キャッという悲鳴を上げて杏子が上半身を起こした時には、毛布は杏子の足元に小さく丸まっている。
 杏子は思わず、両手で自分の体を抱くような恰好になった。その時、自分の体を包んでいるのが、昨夜寝る前に着替えたブルーのパジャマではないことに気がついた。
 杏子は、それまで智佐に向けていた視線を慌てて自分の体の上に移し、上から下へと急いで眺めていった。その目には、信じられないような物が映っていった。
 杏子の体を包んでいるのは、よく馴染んだパジャマではないどころか、二四歳という年齢からすればまるで似つかわしくないような衣類だった。淡いピンクの柔らかい生地でできたその衣類にはレースやフリルの飾りがたくさん付けられ、裾には優しい曲線のギャザーがあしらわれている──それは、ベビードールという種類のネグリジェを更に可愛らしくデザインし直したような衣類だった。いや、もっとわかり易い表現をするなら、まるで赤ん坊が着るようなベビードレスそのままなのだ。
 しかも、そのベビードレスの裾から見えている下着は、スキャンティやショーツといった『普通の』ものではない。ベビードレスに似つかわしく、と言っていいのだろうか、これも赤ん坊が着けるようなオムツカバーなのだった。淡いレモン色の生地には白い水玉模様が描かれ、清潔そうな白の裾ゴムとあいまって、いかにも可愛らしいデザインに仕上がっている。
 杏子は慌ててベッドからとびおり、タンスの横に置いてある姿身に向かって駈けて行った。
 その大きな鏡に映ったのは、ついさっき肉眼で確認した通りの、まるで大きな赤ん坊のような恰好をした自分の姿だった。
 しばらく呆然とした表情で鏡を見ていた杏子が不意に智佐の方を振り返り、唇を震わせながら低い声で言った。
「……智佐、これはどういうことなの?ここには私とあなたしかいないんだもの、これはあなたの仕業でしょう──いったい、どういうつもりなの?」
「そうよ。杏子が気持良く眠っている間に、私がそのベビー服とオムツに着替えさせてあげたのよ。よく似合ってるわ」
 智佐は、ニコッと微笑んで明るく言った。
「もう一度訊くわ──どういうつもりで、こんなことをしたの?」
「そんなことより、頭痛はもういいの? さっきも言ったように、温かいミルクを持ってきてあげたのよ。飲まない?」
 智佐は杏子の言葉をはぐらかすように言うと、トレイの上に乗っている丸い壜を振ってみせた──それは、ミルクが七分目ほど入っている、プラスチック製の哺乳瓶だった。
 杏子の顔が、羞恥と屈辱とでカッと熱くなった。
 そんな杏子の顔色を楽しむようにしばらく眺めた後、智佐が静かな声で説明を始めた。
「どうしてこんなことをするのか、教えてあげるわ。
 私が子供を堕して泣きじゃくっていた時、杏子は言ったわよね──『私にできることなら、なんでもしてあげる』って。だから、その言葉に甘えることにしたの。
 私は赤ちゃんが欲しくてたまらないの。彼の子でなくてもいい……一度、自分のお腹の中に別の生命を育んでみて、よくわかったわ──私を頼りにして、私がいなければ何もできない、そんな存在を私はこの手に抱きたいのよ。でも、それはできなくなった。だけど、諦めきれない……。
 だから、杏子に私の赤ちゃんになってもらうことにしたの。難しいことでもなんでもないわ──ただ、私が持つ哺乳瓶からミルクを飲んで、私の手でオムツを取替えられるだけだもの、それこそ『私にできること』よ。
 その計画を思いついて、私は街に出かけた。杏子にピッタリのオムツやベビー服を作ってくれるお店を捜して、ね。それが昨日、とうとうできあがったのよ。
 さ、あなたは今日から私の可愛いい赤ちゃんになるのよ。私の胸でたっぷり甘えるといいわ」
 狂ってる──杏子の頭の片隅に、そんな思いが浮かび上がってきた。顔から血の気がスーッと退いてゆく──早く、ここから逃げ出さなきゃ。智佐は子供を堕した哀しみで、まともな精神じゃなくなってる。このままじゃ、本当に何をされるかわかったものじゃないわ。




 しかし、杏子の体は金縛りにでもあったように固くなり、その足は接着剤で床に貼り付けられたように一歩も動かすことができなかった。予想外のできごとにパニックになりかかっているところへ、もしも本当に智佐が狂っているのなら、へんに逆らったりしたらそれこそ怪我を負うようなことにもなりかねないという恐怖が杏子の体を石のようにしてしまっているのだ。
 まばたきすることも忘れたように大きく開いたままの杏子の目に、ゆっくり近づいてくる智佐の姿が映っている。徐々に大きくなってくる顔には微笑みが貼りついているが、その目は決して笑っていない。そしてその手には、ミルクの入った哺乳瓶。
 体はピクリとも動かないのに、杏子の心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされ、そのくせ、温かい血液は決して体中を駈け巡ってこわばった筋肉を解きほぐそうとはしない。杏子は、自分が犬のように、喘ぐような呼吸を続けていることを感じた。
 焦りとも恐怖ともつかない、なんとも表現のしようのない感覚が心を黒い雲のように覆う。背筋を、冷たいものが貫いた。
 遂に、智佐は杏子の目の前にまでやって来た。
 冷たい微笑みを杏子に浴びせながら、哺乳瓶を持った手をそろそろと伸ばしてくる。
 やがて哺乳瓶のゴムの乳首が、杏子の紫色の唇に押し当てられた。
 その柔らかで温かい感触が唇から脳に伝わった時、それまでの極度の緊張のあまりピーンと張りつめていた杏子の心の糸が、プッツリと音をたてて切れた。激しいストレスとゴムの乳首の温かさとの間の大きな落差が、緊張の糸を切ったのかもしれない。
 冷たくなった自分の体を温め、張り裂けそうな心を解きほぐそうとでもするように、杏子の口は無意識のうちにゴムの乳首をふくみ、哺乳瓶の中の温かいミルクをむさぼるように飲み始めていた。そして、いくらやめようと思っても、ミルクを吸う唇の動きは、杏子の意識とは無関係に決して止まろうとはしなかった。
 やがて哺乳瓶を空にしてしまってから、杏子はやっと我に返ったように顔をまっ赤にしながらゴムの乳首を吐き出した。彼女の目の前には、それを満足そうに見つめている智佐の顔がある。
 杏子は激しい屈辱を感じて顔を伏せた。そこへ、追い討ちをかけるような智佐の声が聞こえてくる。
「おいしかったでしょう? これからもミルクやジュースは哺乳瓶で飲ませてあげるわね、杏子ちゃん」
 智佐の『杏子ちゃん』という呼び方にますます顔を赤らめた杏子だったが、無意識のうちにとはいえ哺乳瓶を使ってしまった以上、智佐の言葉に反論することもできなかった。杏子にできるのは、羞恥と情けなさとに体を小刻みに震わせながらも、その屈辱に耐えることだけだった。
 それでも、智佐が
「さ、ミルクを飲んだせいでオシッコしたくなったんじゃない? オムツは大丈夫かな?」
と言って、杏子のお尻を包んでいる大きなオムツカバーに手を伸ばそうとした時には、さすがに身をよじって後ずさりしていた。
 しかし、二メートルも進まないうちに背中に何かが当たり、もうそれ以上は逃げることができなくなってしまう。おそるおそる首を回した杏子の目にとびこんできたのは、壁際に置いてあるタンスだった。
 杏子の表情が明るくなった──このタンスの中には、私の洋服が入っている。それに着替えてしまえば……。
 杏子がタンスの引出を開けようとするのを、智佐は妨害してはこなかった。そのことを意外に思う余裕もなく、杏子は急いで引出を引いていった。しかし、杏子の顔は次第に蒼ざめ、引出を開ける手がブルブルと震え始める──いくら捜しても、杏子のお目当ての衣類が目につかないのだ。そこにあるのは、今杏子が身に着けているようなベビー服とオムツばかりだった。
 最後の引出にも自分の衣類が入っていないことを確認した杏子が力なくうなだれるのを見て、智佐が冷たく言った。
「いくら捜しても、あなたの服はないわよ。私が夜のうちに処分しておいたんだもの。その代わりに、可愛いいベビー服を入れておいてあげたの。さ、こちらへいらっしゃい」
 杏子はその場にしゃがみこむと、無言で首を横に振った。
 そして次の瞬間、杏子は大きなアクビを洩らしてしまった。この緊迫した状況でよくもまあと自分でも呆れてしまうのだが、不意に睡魔が襲ってきたのだ。同時に、頭の中が白く濁ってゆくような感覚。
 次第にぼやけてゆく視界の中で、智佐がニコッと笑って声をかけてきた。
「あら、杏子ちゃんはオネムみたいね。いいわ。ママがベッドまで運んであげるから、そのままネンネなさいな」
 普段の精神状態なら屈辱的に聞こえるだろう智佐の言葉がこの時ばかりは甘く響き、それにつられるように杏子の瞼がトロンと閉じてゆく。
 床の上に横になって気持良さそうに眠りこんでしまった杏子の体をベッドに運びながら、智佐はとびっきりの笑顔を浮かべていた──ミルクに混ぜておいた睡眠薬がこんなに早く効くなんてちょっと予想外だったけど、まあ、いいわ。あとは、利尿剤の効果がどれくらい持続するか、だわね。




 重い瞼をムリヤリこじ開けるようにして杏子が目を醒ました。そしてボンヤリと、今何時頃だろう?と思って部屋の様子を見回してみたが、突然の睡魔に襲われて眠ってしまってから、たいして時間は経っていないように思えた。窓から部屋に差しこむ光の様子が、さほど変化していないように見えたからだ。
「あら、目が醒めたのね」
 不意にドアの開く気配がして、智佐の声が聞こえた。
 杏子は思わず上半身を起こして、声の方へ振り返ろうとした。その弾みに、杏子の体にかかっていた毛布が滑り落ちる。
 毛布の中から現れた自分の体を見た杏子の胸に、強い疑念が湧きおこった──あれ、これは眠る前に着せられていたベビー服じゃないわ。どうしたんだろう?
 杏子が不思議に思ったように、今着ているのは、淡いピンクのベビードレスではなく、肩紐とポケットの周囲にフリルがあしらわれたイエローのロンパースだった。
「ああ、そのロンパース?──夜中に着替えさせてあげたのよ」
 ロンパースを見つめている杏子の視線に気づいたのか、智佐が言った。
 その言葉に、杏子の疑問はますます深まっていった──夜中に、ですって?
 でも、あれからそんなに時間は経ってない筈よ。
 杏子のキョトンとした顔を見た智佐が、何かに気がついたような表情を浮かべると、面白そうな口調で説明を始めた。
「ひょっとして杏子ちゃん、丸一日以上も眠ってたことに気がついてないの?
 今は、杏子ちゃんが眠った次の日の、しかも二時間ほど経った頃なのよ」
 智佐の説明に、杏子はハッとしたように枕元の時計に目を遣った。確かに、ディジタル表示されている日付は一日進み、時間も二時間ほど進んでいる。
「わかったようね──それでね、杏子ちゃんたら今までに何度もオネショしちゃって、特に夜中のなんて、そりゃすごかったのよ。オシッコはオムツカバーの外へも洩れ出してベビードレスも濡らしちゃうし……幸い、ベッドの方はオネショシーツのおかげで大丈夫だったけど。それで、濡れたベビードレスのままじゃ風邪をひいちゃうから、このロンパースに着替えさせてあげたの」
 しかし、智佐の言葉は、すぐには杏子には信じられないものだった──私がオネショをしちゃったなんて、そんなバカな……。
「あらあら、疑ってるみたいね」
 杏子の胸の内を読み取ったように、智佐がフンと鼻を鳴らした。
「いいわ。それなら、ベランダを見てごらんなさい」
 杏子は、智佐に言われるまま、ガラス戸越しにベランダに視線を向けた。
 普段はそこにはプランターが並べられ、季節の植物が目を楽しませてくれるのだが、この時の杏子の目は、そんな物を見ている余裕はなかった。いつの間にか用意された物干竿や細いロープが杏子の目に映り、その物干竿にかけられた洗濯物に杏子の目は釘付けになってしまったのだ──そこには、無数の色とりどりのオムツが風に揺れていた。その中に、数枚のオムツカバーと、見憶えのあるベビードレスも混ざっている。
 思わず両手で口を押さえた杏子に対して、智佐が勝ち誇ったように言った。
「これでわかったわね? あれは全部、杏子が眠っているうちに汚しちゃったものばかりなのよ」
 そして、いつのまにかベッドサイドに立っていた智佐は、杏子のロンパースの股ホックに指をかけて言葉を続けた。
「さ、オムツは大丈夫かな? 調べてあげるから、おとなしくしててね」
 智佐の言葉にハッとした杏子は、それまでベランダで揺れているオムツに向けていた視線を自分の下腹部に移動した。改めて気がついてみると、下腹部からは、なにやらじとじとしたイヤな感触が伝わってきている。
 もうこうなっては、杏子の胸に、智佐への抵抗心が芽生えることもなかった。圧倒的な敗北感が先に立ってしまい、それ以外の感情が湧きあがるゆとりなど、微塵もなくなってしまっている。
 股ホックを二つ外して、その隙間から右手をオムツカバーの中に差し入れた智佐の口から、
「あらまあ、びっしょりだわ。気持悪かったでしょう?──いま、オムツを取替えてあげるから待っててね」
という、嬉しまそうな声が聞こえてきた。
 杏子は観念したような表情をうかべた顔を両手で覆いながら、諦めたように上半身を静かに倒していった。
きた。




 それから、更に一週間ほどが過ぎた。
 杏子の部屋の内装はすっかり育児室らしいものに変えられ、明るく楽しい雰囲気になっていた。四方の壁はアニメキャラクターの絵柄の壁紙に覆われ、天井には、可愛らしい人形の付いたサークルメリーが吊ってある。タンスも、杏子が使っていた整理タンスの代わりに、白く塗られた木製のベビータンスになり、その横には、ヌイグルミやガラガラが詰めこまれた玩具箱が置かれている。
 その育児室の中央付近に、育児雑誌のグラビアから抜け出てきたような可愛らしい女の赤ちゃんが一人、大きな熊のヌイグルミを抱いて遊んでいた。それこそが、杏子の今の姿だった。
 頭には純白の生地に小花の刺繍があしらわれたベビー帽子を被り、首から胸にかけては、吸水性の良さそうな生地でできたヨダレかけで覆われている。その下には半袖のコンビドレスを着ているが、そのお尻は大きく膨れ、オムツで包まれていることが一目瞭然だった。ソックスも、ふくらはぎの辺りに赤いボンボンが付いた可愛らしいもので、杏子の姿をいっそうあどけないものにしていた。
 ベランダから、一陣の優しい風が吹きこんできた。ふと顔をそちらに向けた杏子の目に、両手いっぱいに洗濯物を抱えた智佐の姿が映った。
 智佐はベランダに通じるガラス戸を開けて部屋の中に入ってくると、窓際の日の当たっている処に、取りこんできたばかりの洗濯物をそっとおろした。杏子が熊のヌイグルミから離れて、興味深そうに智佐の所へハイハイでやって来た。智佐は杏子の頭を数度優しく撫でると、ニコニコ笑いながら杏子に話しかけた。
「ほーら、たくさんのお洗濯でしょう? 杏子ちゃんがオムツをいっぱい汚しちゃうから、ママはなかなか休めないわ」
 以前の杏子なら、そう言われるだけで激しい羞恥に襲われ、体中をまっ赤に染めたものだが、今の杏子はそうではなかった。智佐の笑顔にニコッと微笑み返すと、自分が汚し、智佐が綺麗に洗濯したばかりのオムツやヨダレかけをじっと見つめるのだった。
 そんな杏子の様子を満足そうに眺めながら、智佐の手は忙しく動き続けた──山のようなオムツをたたみ、オムツカバーのシワをとり、ロンパースの肩紐のねじれを直

 洗濯物を片づけ終えた智佐は、ちょっと待っててねと言い残して部屋を出て行った。
 そして、杏子が再びヌイグルミを抱きしめ、何かを喋べりかけているところへ、白いトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはプラスチック製で可愛いい絵が描かれた幼児用の食器が載せられていて、その食器には、柔らかそうなベビーフードが盛られている。
 智佐は部屋の隅から小さなテーブルを持ってくると、その上にトレイを置き、ベビーフードをスプーンですくった。だが、そのスプーンは杏子の口元に運ばれずに、幸子の口に吸いこまれていった。
 それを見てやや不満そうな表情を浮かべた杏子がスプーンを取ろうとでもするように手を伸ばしかけるのを制し、智佐は自分の口を杏子の顔に近づけていった。すると、智佐の意図を理解したのか、杏子が急におとなしくなる。智佐の唇が遂に杏子の唇に触れ、僅かに開いた隙間から伸びてきた智佐の舌が、杏子の唇を押し開く。そこへ幸子が、自分の口の中に放りこんだばかりのベビーフードを押し出してゆく。杏子はうっとりしたような表情で、智佐の口から押し出されてきたベビーフードを咀嚼し始めた。
のよね」
 自分の口の中のベビーフードを全て杏子に与えてから、智佐は甘く囁いた。
 杏子の言葉に智佐が、うんと応える。その拍子に、杏子の唇からベビーフードが唾液の糸を引いてこぼれ落ちた。智佐は、あらあらと呟きながら杏子の顎にひっかかっているベビーフードをペロリと嘗めて取ってしまう。それから、唇の端から顎へかけてついた唾液の跡を、ヨダレかけの端で優しく拭いてやるのだった。

 全ての食器が空になり、哺乳瓶のジュースもなくなりかけた頃、杏子の表情が変化した。それまでの嬉しそうな表情が、急に泣き出しそうなものになったのだ。
 しかし、智佐は慌てはしなかった。杏子がそんな表情になる原因にじきに思い当たったからだ。
 智佐は杏子の体を抱えると、ヨイショというふうに自分の膝の上に座らせ、コンビドレスの股ボタンを一つずつ丁寧に外し始めた。そうして股間の部分の布を優しく捲り上げると、赤のチェック柄のオムツカバーがあらわになる。
 智佐は、オムツカバーの裾ゴムを僅かに広げるようにして左手を差し入れた。その手に、ぐっしょり濡れたオムツの感触が伝わってくる。
 オムツカバーから左手を抜き出した智佐は、杏子の体を床に上に横たえた。そして、腰紐をほどいてからボタンを外してゆく。
 全てのボタンを外し、前当てを開いてから横羽根を広げると、僅かに変色した動物柄のオムツが智佐の目にとびこんでくる。まだオモラシからそれほどの時間が経っていないようで、微かに湯気が立ち昇っているのが見える。
 杏子の肌にベットリと貼り付いたオムツを優しく剥がし、オムツカバーごとお尻の下からどけてしまう。それから、新しいオムツとオムツカバーを敷きこむ。
 そういった作業を続けながら、智佐の目は、杏子の股間の肌が少しばかり赤くなっていることを見逃さなかった。二日前にヘアを剃ってしまった時には童女のように白く輝いていたその部分が、少し爛れたようになっているのだ。
 智佐は薬箱から一つのチューブを取り出し、その中から絞り出した薬を杏子の股間に塗りこみながら、いたわるように話しかけた。
「可哀想に、オムツカブレになりかけてるのね──でも、大丈夫。ママがお薬をつけてあげるから、すぐによくなるわよ。杏子ちゃんはいい子だもの、ちょっと我慢しててね」
 薬を塗ってしまい、オムツをあて終えた智佐は、そろそろ会社に杏子の辞表を提出した方がいいだろうなと考えていた──いつまでも欠勤じゃ済まないだろうしね。理由は、一身上の都合でいいかしら? ああ、そうだ。どうせだから、私と杏子の養子縁組の届も役所に出しちゃおうかしら。でも、故郷の両親、すごくビックリするだろうな。知らないうちに、こんなに大きな孫ができちゃうんだもの。だけどかまわないよね。こんなに可愛い赤ちゃんだもの、きっと気に入ってくれるわ。さ、杏子ちゃん。
もう少ししたら新しいおばあちゃんとおじいちゃんに会わせてあげるわね。そして優しい田舎の空気に包まれて、いつまでもいつまでも一緒に暮らしましょうね。うふふ、杏子ちゃんが大人に戻れる日はもう来ないんだから。杏子ちゃんはずっとずっとママの可愛い赤ちゃんのままなんだから……。
 窓から差しこむ太陽の光が部屋を暖め、ポカポカと良い気持になった杏子の口から大きなアクビがこぼれるのにつられるように、智佐も大きくウーンと伸びをした。




終わり


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