さやか先生の物語

さやか先生の物語

高木かおり



 頑丈な壁に阻まれて、もう後へはさがれない。
 早鐘のように打ち鳴らされる胸の鼓動がはっきり感じられる。自分の荒い息づかいが、まるで嵐の音のように耳に届く。
 目の前に、三つの人影が迫っていた。
「も、もうやめましょうよ……」
 白百合短大二年生・内野さやかは、じりじりと迫ってくる恐怖に身をよじった。
 すぐ目の前に近づいてきた三人の内の一人が、にやにやと笑いながら、あとの二人に目配せをした。合図を受けた二人が同時に、緑色をした小さな何かをさやかに向かって投げつけた。
 そいつが、さやかの着ているトレーニングウェアの胸元にぴたっと貼り付く。
 おそるおそる自分の胸元に目をやったさやかの顔がこわばった。
 それから僅かな間があって。
「いや〜っ」
 さやかの悲鳴が周囲の空気を震わせた。
 三人は互いに目を見合わせ、満足そうに頷き合った。
 そこへ、新しい人影が走り寄ってきた。
 その気配に、三人がはっとしたような顔つきになって慌てて逃げ出した。しかし、後からやってきた人影の方が速い。
 三人はむんずと襟首をつかまれて足を止めた。
「くぉーら、さやか先生を苛めたらあかんゆうて、なんかい言うゆうたらわかるんや? 今度またこんなことしたら、その時は絶対に許さへんで。ええな?」
 三人を捕まえた人影は彼らをじっと見おろして、威厳に充ちた声で言った。
「ごめんなさい、まりあ先生。もうしません。もうしないから許してください」
 三人は急にしゅんとなって、伏し目がちに言った。
「ん。わかったらええねん。もうじき昼休みも終わるから、そろそろ教室に戻っとき」
 まりあ先生と呼ばれた人影は軽く頷くと、にこっと笑って言った。
 開放された三人はほっとしたような表情を浮かべて、年長組の教室に向かって歩き始めた。

 三人の後ろ姿を見送って、まりあは、壁に背中を押し当てて震え続けているさやかの目の前に仁王様のように立ちはだかって顔を睨みつけた。
「くぉら、内野。あんた、いったい何をしとんのよ。ほんまにもう、保育園児に苛められて、それでようまあ、保育実習にくる気になれたもんやな。んまに、先輩として恥ずかしいわ」
 字面だけを見ると、まりあが男か女かわからないかもしれない(これが、関西弁を字に書いた時の特徴といえば特徴だろう)。
 しかし、まりあはれっきとした女性だ。去年短大を卒業して、子鳩保育園に保母として勤め始めたばかりのまだ若い女性だ。しかも美人だったりする。その若くて美人の保母さんがバリバリの関西弁で怒鳴ったりするものだから、子供たちもまりあには一目置いている。保母になってまだ一年と少ししか経っていないのに、まりあは既にベテラン以上に園児を操る術を身に付けていると言っていいかもしれない。
 だから、この頼りない後輩(もちろん、さやかのことだ)の保育実習の様子を見ているとイライラしてくる。
「そ、そんなこと言ったって、生きた蛙さんなんて見たことも触ったこともないんですもの。それなのに……」
 さやかは言い訳がましく呟いた。そうして、(やめておけばいいのに)もう一度おそるおそる自分の胸元に目を向けた。もちろん、盛大に悲鳴をあげそうになる。
 まりあは慌ててさやかの口を押えた。それから、さやかの胸元にぴたっと貼り付いている緑色の可愛いいアマガエルを二匹ひょいと指でつまんで、すぐ側にある花壇に放してやる。
「あ、ありがとうございました。私、どうしても蛙さんだけは苦手で……」
 トレーニングウェアのそれまでアマガエルが貼り付いていた辺りをポケットティッシュでごしごし拭きながら、さやかはぺこりと頭を下げた。
「ほーお、苦手なんは蛙さんだけなんやな? ほな、毛虫さんやトカゲさんやミミズさんを見るたびに泣き喚いとったんは、あんたやない言うねんな?」
 まりあは腰に手を当てて、じと目でさやかの顔を覗きこんだ。
 さやかはびくっとして手を止めた。
「ご存じだったんですか……?」
 手を止めて、すがるような目でまりあの顔を見て言った。
「知ってるもなにも、職員室でも有名やで。園児と一緒に花壇の手入れをしとってトカゲが出てくるたんびに大声出しとったわ、桜の木からぶらさがっとるミノムシにびっくりして気絶しそうになっとったわゆうて。んまに、内野のせいで、白百合短大はお嬢様ばかりだからゆうて、うちまで職員室で笑われとんねんで」
 まりあは、ずいっと顔を寄せて言った。それから、はーぁと溜め息をついて、ぽんとさやかの肩に手を置くと、どんよりした声で続けた。
「お願いやから、もうちょっとだけしゃんとしてぇな。このままやったら、保育実習の点数、ものごっつう悪なるで。それどころか、単位もらわれへんかもしれへんねんから。そんなことになってみいな、短大の先輩であるうちの評判もがた落ちやで。園児の親からなに言われるかわからへんし、短大の同窓会にも気兼ねして出席でけへんようになるかもしれへん。――な、頼むわ」
 まりあが言ったように、さやかはまりあの短大時代の一年後輩だ。
 まりあは中学までは関西にいたのだが、高校に入る前に父親の転勤があってこちらへ引っ越してきた。そして、引っ越してきて入学したのが、白百合学園の高等部だった。こちらにどんな学校があるのか全く知らない両親が、少し名の知れた女子校なら間違いないだろうと勝手に決めたせいだった。白百合学園は幼稚舎から短大までの一貫教育を実践している、このあたりではかなり有名な学校だ。そのため、途中からの編入生を受け入れることは殆どないのだが、もともと成績もよくて父親も有力企業の中堅幹部ということで、まりあは意外にあっさり入学を許されたのだった。
 高等部の後は同じ学園の短大の保育科に進み、無事に教員免許も手に入れて子鳩保育園に勤め始めたのが一年と少し前。その子鳩保育園へ後輩のさやかが保育実習にやってくると聞いていろんなことを教えてやろうと張り切ったのが三日前。そして、さやかのあまりのふがいなさに最初の溜め息を洩らしたのは二日前のことだった。もともとお嬢様育ちで何もできないことは知っていたけど、まさかこれほどとは思ってもいなかったまりあだった。
「で、でも……」
 こちらも溜め息をつきそうな顔をして、さやかはおそるおそる言った。
「……年長さんたら、手に負えない子ばかりなんですのよ。さっきみたいに生きた蛙さんを私に投げつけたりするのですから」
「あんなあ、内野。そんなん、子供やったら誰でもするこっちゃで。そんなんを手に負われへん言うとったら、子供の相手なんかでけへんで」
 まりあは呆れて言った。
「けれど、私が幼稚舎の頃は誰もそんなこといたしませんでしたわ。みんなお行儀が良くて、先生方の言うことをちゃんときく素直な子供ばかりでしたもの」
 さやかがしれっとした顔で言い返した。まるで、子鳩保育園の園児が野生児だと言わんばかりだった。
 やれやれ。
 思わずまりあは肩をすくめてみせた。
「どうかなさいました?」
 さやかは気遣わしげに訊いた。
「ううん、なんでもない。けど、このままやったら、ほんまにあかんかもしれへんな。――しゃあない。うちが園長に、内野が年少組を担当できるように話つけたるわ」
「年少さん?」
「うん。三歳以下の子のクラスやねん。まさか、それやったら蛙を投げつけられたりはせえへんやろからな。そんで子供に慣れてきたら、また年中組とか年長組を受け持たせてもろたらええねん。どない、それやったらできそうやろ?」
「はい、ありがとうございます。先輩がいらっしゃる保育園で助かりますわ」
 さやかは上品に笑って優雅に頷いた。




 次の日。
 園長はまりあの申入れを快く受け入れて、さやかを年少組の担当に変更してくれた。ついでに言っておくと、まりあは年少組の副担任を務めている。
 職員会議が終わって少しすると、送迎用の園児バスや、父兄が運転する車に乗って園児たちが次々に登園してくる。その中には、毛虫がくっついた枝を目の前に突き出したりミミズを投げてよこす(さやかの目には悪魔のように見える)年長組の子もいたけれど、そんな乱暴とはまるで関係のない(同じく、天使のように見える)年少組の園児もいた。
 まりあは父兄から子供を預かると、優しく手を引いたり、まだちゃんと歩けない子は体を抱いたりして教室へ連れて行くのに大忙しだった。もちろん、さやかも黙って見ていたわけではない。細っこい小さな掌を自分の手で包みこむようにして、さやかが子供たちをいそいそと教室へ連れて行く姿は傍目にもなごやかな光景だった。

 しかし、昼休み前にもなると。
「先輩ぃ、疲れちゃいました〜」
 弱音を吐いているのは、もちろんさやかだった。
 年長組の園児に苛められる心配がなくなって(やれやれ)最初のうちこそ元気だったさやかも、しばらく小さな子供たちの相手をしていれば気疲れもしてくるし、ちょこまかと動きまわる相手に合わせて遊んでやるだけでも結構な運動になって、数時間もすればかなりバテてくるものだった。
「なに言うとんの。ほら、洋子ちゃんの様子がおかしいで。早いとこみてあげなあかんやないの」
 今にもへたりこみそうになっているさやかに向かって、まりあは容赦なく言った。もっとも、容赦なくといっても、決して意地悪をしているわけではない。年少組の園児たちを相手にしていると毎日が戦争みたいなもので、まりあにしたって、つまらないことで喧嘩を始めたばかりの子供どうしを引き離すのに手をとられてしまい、今は他の子供の様子をみている余裕がないのだから仕方ない。
「はぁい……」
 げんなりしたような声で返事をして、さやかは、まりあが指さした女の子に近づいた。
「どうしたの、洋子ちゃん? どこか痛いのかな?」
 さやかは教室の床に膝をつくと、元気なく伏し目がちにもじもじしている洋子に話しかけた。
「……」
 洋子は答えずに、恥ずかしそうに顔を伏せるだけだった。
「どうしたのか、先生に教えてくれないかな? じゃないと、先生も困っちゃうの」
「……」
 もうちゃんと喋べることもできる歳だろうに、それでも洋子はだんまりを決めこんでいた。
「えーと……」
 こうなると、あとはどうしていいのかわからない。さやかは洋子の目の前で、困ったような顔をして思いを巡らせるばかりだった。
 そこへ、やっとのことで喧嘩をやめさせたまりあがやってきた。
「何しとんの? ちゃっちゃとせなあかんやないの」
 洋子の前で考えこんでいるさやかの姿を目にして、まりあはやんわり叱りつけた。
「あ、先輩。あの、どうしても何があったのか本人が話してくれないものですから……」
 さやかはまりあの顔を振り仰いで、助けを求めるように言った。
「何があったか話してくれるんを待っとっても何もでけへんよ。その子の様子をちゃんと観察したら大概のことはわかるもんやで」
 まりあはさやかに代って洋子の前に膝をつくと、顔色や手の動きなんかをさっと見まわしてから、他の子供たちには見られないように注意しながら、洋子のスカートの中に手を入れた。
 年中組以上の園児は保育園の制服を兼ねた体操服を着ているのだが、年少組の園児は、子供たちの世話をしやすいように気をつけて各々の母親が選んだ私服を身に着けている。
だから、女の子だと、スカートを穿いた園児も少なくない。
「わかったで、洋子ちゃん。すぐに取り替えてあげるさかい、ちょっとだけ辛抱しといてな」
 洋子のスカートから手を戻したまりあは、力づけるように下の方から洋子の顔を覗きこんで小さな声で囁いた。
 洋子が、こくんと頷いた。
「ほな、内野。これも実習や、あとはまかせたで」
 優しくぽんと洋子の肩に手を置いて、まりあはさやかに耳打ちした。
「え? え? あの……」
 急に言われて、さやかは困惑した声を洩らしてしまった。
「なんや、わからへんのかいな? うちと洋子ちゃんの様子を見とったらわかってもよさそうなもんやのに。――ま、ええわ。洋子ちゃんのおむつを取り替えてあげてって言うとんや、うちは」
「え、おむつ……?」
 まりあにつられて、さやかもひそひそ声で訊き返した。
「そうや。おむつが外れるんは個人差があるから、一歳でもパンツで大丈夫な子もおるし、三歳近くになってもおむつの子がおるんや。そやから、そんな不思議そうな顔することあらへん。わかった?」
「はい……」
 さやかは、なんとなく要領を得ない顔で頷いた。
 そりゃ、子供の発達過程を教えてもらった短大の講義で、まりあが言ったようなことも教わったような憶えはある。でも、実際におむつを使った実習では、一歳くらいの子供をモデルにしたような人形ばかりを相手にしていた。だから、三歳児のおむつを取り替えてあげなさいと言われても、戸惑うばかりで手が動かない。
「なにしとんのよ。早よしたげな、洋子ちゃんが可哀相やんか」
 なかなか動き出しそうにないさやかに苛立ってきたのか、少しばかりトゲのある声でまりあが言った。
「は、はい」
 さやかは慌てて腰をかがめると、洋子のスカートのファスナーを手早く引きおろした。
 洋子が真っ赤な顔をまりあの方に向けて、泣き出しそうになっている。
「やめなさい、内野。そんなことしたらあかん」
 はっとして、まりあはさやかを止めようとした。
 けれど、その時にはもう洋子のスカートがすとんと床に落ちて、その下に着けているおむつカバーが丸見えになってしまっていた。
 教室の中がざわめいて、園児たちの目が洋子に集まった。
 洋子がぶるぶる震え出した。
 まりあは急いでお昼寝用の毛布を広げて洋子の体に巻きつけた。
「ようこちゃん、どうかしたの?」
 洋子と同じ歳くらいの女の子が駈け寄ってきた。
「ううん、なんでもないねんで。洋子ちゃんのスカートがちょっと窮屈そうやったから、さやか先生がファスナーをちょっとだけ緩めてあげようとしたら力が強すぎてん。それで脱げてしもただけ。わかった?」
 まりあは笑顔をつくって言った。
「ふうん……」
 わかったのかどうか、その少女はなんとなく興味を失ったような顔になって洋子の側を離れた。それが合図になったように、他の園児たちも再び自分の遊びにとりかかった。
 ただ、洋子だけが体を震わせてうつむいている。
「ごめん、ごめんな、洋子ちゃん。もう、みんな、洋子ちゃんのこと見てへんで。そやから、もう大丈夫やねんで」
 まりあはぎゅっと洋子の体を抱きしめた。
「あの……私、なにか悪いことしちゃったんでしょうか?」
 さやかは訳がわからず、どことなく他人事めいた口調で尋ねた。
「内野のあほ。んまに、なんちゅうことをすんねん」
 まりあは洋子を抱きしめたまま、子供たちに聞こえないように(そして、洋子にも聞こえないように)声をひそめてさやかを叱りつけた。
「え……?」
 さやかは目をぱちくりさせるだけだった。
「まだわからへんのかいな。あんな、三歳にもなっておむつが外れへんこと、洋子ちゃん自身も恥かしがっとるんやで。三歳児でおむつが外れてへんのは洋子ちゃんだけやし、二歳児でも半分以上はパンツになっとるしな。そやのに、教室の中でおむつを取り替えられてみいな、洋子ちゃんがどんな気持ちになると思う? ううん、それ以前に、スカートの中のおむつカバーを友達に見られただけでも泣きそうになってまうやろな。友達がそのへんのことなんとなく知っとるから、おむつカバーを見てもあまりうるさく言わへんかったけど、洋子ちゃんの身にもなってみいな。――なんで、こんなことも思いつかへんねん」
「あ……」
 言われて、さやかは息を飲んだ。
「まあ、しゃあないか。なんせ初めてのことなんやし。――そっちの壁にドアがあるやろ? ドアを開けたら、その向こうに小さな部屋があるねん。そこで取り替えたげて」
 唇を噛みしめるさやかに、まりあもそれ以上は叱りもできずに声を和らげた。
「……はい」
 さやかは力なく頷いた。
 しかし、さやかが洋子を奥の部屋に連れて行こうとしても、洋子は動こうとはしなかった。まりあにすがりつくみたいにして、その場に立ちすくんでいるばかりだった。
「可哀相に、怯えてしもとんな。――洋子ちゃん、まりあ先生も一緒について行ったげる。それやったらええやろ?」
 まりあはそう言うと、洋子の肩を両手で包みこむようにして歩き出した。こくりと頷いて、洋子もゆっくり歩き出す。

 とりあえずその日は、それ以上の騒ぎにはならならずにすんだようだった。
 たけど……。




 翌日。
 なんとなく胸騒ぎを覚えていつもより早く保育園にやってきたさやかを待っていたのは、洋子の母親からの、今日は保育園を欠席するという電話連絡だった。電話を受けたのは、さやかよりも更に早く登園していたまりあだった。
「私のせいです。私が洋子ちゃんに無神経なことをしたからです……」
 さやかはうなだれた。
「ま、そうやろな。昨日はなんとかすんだけど、ほんまは洋子ちゃん、ごっつう辛抱しとったんやと思うわ。それが、今朝になって、とうとう辛抱しきれんようになったゆうことちゃうやろか」
 まりあは、ボールペンを指にはさんでくるくる回しながら言った。
「私、どうしたらいいんでしょうか」
 すっかり責任を感じてしまって、さやかは蚊の鳴ような声を絞り出した。
「なってしもたことはもうしゃあないな。あとは、そこからどういうふうにフォローするか、や。うまいこといったら、洋子ちゃんと仲良しになれるかもしれへんで。ここは、プラス思考ゆうのをせなしゃあないな」
 身をちぢこませて立っているさやかに、まりあはわざと明るい声で言った。そして自分も椅子から立ち上がると、園長に向かって笑顔で言った。
「ということで、これから二人で洋子ちゃんを迎えに行ってきます。ちょっと時間がかかるかもしれませんけど、クラスのことはお願いできますか?」
 え、そんな……とさやかが言いかけたが、園長もにこっと笑って即座に応えた。
「いいでしょう。これも大事な実習経験になるでしょうから、内野さんを連れて行ってらっしゃい。クラスのことは、担任の先生と私とでなんとかしておきます。私も、たまには現場に出てみたいですからね」
「園長先生、おおきに。――さ、そうと決まったら、善は急げや。行くで、内野」
 まりあはさやかの腕をつかんで強引に職員室から連れ出すと、自分の車に乗りこんだ。

「すみません、先輩。私のせいで、いらない仕事を増やしてしまいました」
 助手席で、さやかがしおらしく言った。
「なに言うとんねんな。園長先生も言うとったやろ、ええ経験やて。気にすることあらへんやん」
 まりあの方はこともなげに言う。
「はい……。それで、洋子ちゃんのお家は遠いんでしょうか?」
 ようやく気を取り直してきたのか、さやかが僅かに顔を上げた。
「洋子ちゃんはS町の二丁目に住んでるんよ。すぐそこやわ」
「え? あの、でも、この道はS町とは反対方向じゃありません?」
 驚いて、さやかはフロントウインドーから見える道路に目をやった。
「ああ、そうやで。けど、これでええねん。洋子ちゃんとこへ行く前に、ちょっとうちに寄っていくから。準備せなあかんことがあるねん」
「あ、先輩のお家ですか。ええ、それはかまいませんけど……でも、準備しなきゃいけないことって何ですの?」
「うん、説明するんは難しいな。ま、洋子ちゃんに誠意を見てもらうためのもんやとでも思といてえな」
「お詫びの品物ですか?」
「ちょっとちゃうけど……ま、それに近いかな」
 不審顔のさやかを乗せたまま、まりあの運転する車は大きな屋敷の門をくぐり抜けた。




 しばらくして屋敷(つまり、まりあの家だね)から出てきた車は、S町にある洋子の家に向けて、来た道を引き返した。
 助手席に座っているさやかは、いつのまにか着替えていた。保母の制服と言ってもいいトレーニングウェア(だって、小さな子供たちの相手をしようとすると、動きやすい格好をしてなきゃいけないんだからね)ではなく、ミディのフレアスカートと花柄のブラウス姿だった。
 それだけじゃなく、さやかはなぜか頬をほんのり赤くして、両手の指先をもじもじと絡ませたりして、どういうわけか恥ずかしそうに目を伏せたりもしていた。

 車が洋子の家の前に停まった。
「さ、行くで」
 先に車からおり立ったまりあは、まだ助手席でもじもじしているさやかに声をかけた。
「あの……どうしても行かなきゃいけませんか……」
 窓ガラスをちょっとだけおろして、さやかは小さな声で言った。
「いまさら何を言うとんねん。ほら、いつまでもそんなとこにおらんと、ちゃっちゃとおりといで」
 まりあは窓ガラスに顔を押しつけるようにして、さやかを睨みつけた。
「はい……」
 は〜ぁと溜め息をついてから、観念したような顔になってさやかが車からおりてきた。
 爽やかな初夏の風が、さやかのスカートをそっと揺らした。さやかは慌ててスカートの裾を押えた。そのスカートは、どういうわけか不自然なラインを描いて僅かに膨らんでいるように見えた。

「わざわざすみません。先生方にご迷惑をおかけしまして」
 まりあとさやかを応接室に案内して、いい香りのするティーカップをテーブルに並べながら、洋子の母親が恐縮したような声で言った。
「いえ。――洋子ちゃんが保育園をいやがっとんのは、こちらの不手際が原因かもしれへんと思うんです。そやから、洋子ちゃん自身に問題があるわけやないと思います」
 ソファから少し身を乗り出して、まりあは母親に言った。
「先生方の不手際……? どういうことですの?」
 まりあの言ったことがわからないようで、母親は向い側のソファにそっと腰をおろすと、不審げな顔で尋ねた。
「あの……洋子ちゃんは、昨日保育園であったことをお母様に話してませんのん?」
「え? そうですわね……いつもなら保育園での出来事を楽しそうに話してくれるんですけど、昨日は何も。それに昨日は私の方もバタバタしていまして、こちらから聞いてあげることもしませんでしたし。――何かあったんですか?」
 母親の顔が僅かに曇った。
「ええ、ちょっと……」
 まりあは、横に座っているさやかの顔をちらと見てから言葉を続けた。
「……その前に、昨日から今朝にかけての洋子ちゃんがどんな様子やったか教えていただけませんか。それを聞かせてもろてからの方が説明しやすいと思うんです。何か、変わった様子はありませんでした?」
「ええと、変わった様子と言われましても……。あ、そうそう。昨日は保育園から帰ってくるなり、『もう、おむつはいや。洋子、赤ちゃんじゃないもん』って言うと、勝手におむつを外し始めましたっけ。――これまでもそういうことはありましたけど、なにか、昨日はちょっと思いつめたといいますか、そんな雰囲気がありましたかしら」
 母親は少し首をかしげて、昨日のことを思い出しながら話し出した。
「私としても、洋子がやっと自分からトイレへ行く気になってくれたんだと思うと嬉しくて、それで、おしっこが出そうになったら早めに教えるのよって言い聞かせて、おむつからトレーニングパンツに穿き替えさせたんです。まあ、最初からうまくいくわけもなくて、二度ほどはトレーニングパンツをびしょびしょにしてしまったんですけど、それでもおしっこを教えるのが少しずつ早くなってきて、ベッドに入る前にはちゃんと言ってくれたおかげで、その時にはトイレでできるようになったんです。それが子供心にも随分と嬉しかったんでしょうね、会社から帰ってきたお父さんに『あのね、洋子、もうおむつじゃないの。ちゃんとトイレなんだよ』って胸を張ってみせて。――ええ、お父さんの方も、えらいえらいって盛んに頭を撫でて褒めてましたわね」
「そしたら、もう洋子ちゃんはおむつが外れたんですね。なんや、えらい急やけど、うまいこといく時はそんなもんなんですやろね。――え、けど、それやったら洋子ちゃんはなんで保育園をいやがったんやろ? おむつが外れたんやったら、いままで以上に友達と遊びまわれるのに」
「やはり、そんなにうまくはいかないものなんですよ。ベッドに入る前はちゃんとできても、眠ってしまった後はまだまだなんです。夜だけは念のためにと思っておむつをあてようとしたんですけど、洋子が暴れるものだから、仕方なくトレーニングパンツで寝かしたんです。でも、案の定でした。まだまだおねしょの訓練はできていなかったものだから、目が覚めた時にはパンツもシーツもぐっしょりで。おむつとバイバイできたと喜んでいた洋子には、それは大変なショックだったかもしれませんわね」
「でも、昼間だけでもおむつが外れたんやったら、たいした進歩やと思います。おねしょくらい、三歳児やったら殆どの子が治ってへんくらいですもん」
「ええ、それは私もそう思います。けれど、本当におむつが外れたんだって勝手に思いこんでいた洋子にしてみたら、おねしょをしたことにとても強い罪悪感を覚えてしまったんでしょうね。そのショックのせいでしょうか、朝ごはんの後、トイレに間に合わずにおもらししてしまったんです。それで仕方なくおむつをあてたところ、保育園へ行くのはいやだって泣き出してしまって……」
 母親は溜め息をついて肩を落とした。
「そういうことやったんですか。――洋子ちゃんが急におむつを外す気になったんは、昨日の保育園での出来事がきっかけになったんやと思います。それで結果として洋子ちゃんが保育園をいやがるようになったのも、そのことが原因やということになりますやろね、たぶん」
 まりあはさやかに向かってそっと目配せしてから、保育園で何があったのかを話し始めた。




「まあ、そんなことがあったんですか。でも、内野先生も初めてのことで戸惑われたんだと思います。ええ、先生のせいだなんてことじゃありませんわ」
 まりあの説明を聞き終えた母親は、却ってさやかを励ますように言った。
「でも……」
 さやかは膝の上で指を組んで口ごもった。
 部屋の中がしんと静まりかえった。
 と、微かに廊下の鳴る音がドア越しに聞こえてきた。
 まりあはさっと立ち上がると、素早くドアを引き開けて廊下に出た。
 そこに、洋子の姿があった。
「おはよう、洋子ちゃん。お迎えにきたで。先生と一緒に保育園へ行こな」
 慌てて逃げ出しそうになる洋子の体を、まりあがきゅっと抱きした。
「やだ。ほいくえん、やだ」
 下の瞼にうっすらと涙を溜めて、洋子はまりあの手から逃げようと体をよじった。
「そんなこと言わんと、先生と一緒に行こ」
「やぁだぁ」
 じたばた暴れながら、洋子はぷっと頬を膨らませた。
「なんで? なんで保育園いやなん?」
 まりあは洋子の体を抱いたままゆっくり腰をかがめて、洋子の目の高さに自分の目を合
わせて言った。
「おむつ……」
 洋子はまりあの顔から目をそらせて小さな声で言った。
「おむつ?」
 まりあは優しく訊き返した。
「おむついらなくなるまで、ようこ、ほいくえんいかないの」
 洋子は横を向いたまま、拗ねたように言った。
「そうか、おむつか。――けど、洋子ちゃん。ちょっとだけ、こっちへ来てくれへん? 洋子ちゃんに見てもらいたいもんがあるねん。それを見てから、保育園へ行くかどうか、もういっかい考えてみよ。な?」
 まりあは洋子をそっと抱き上げた。
 洋子は両足をばたばたさせたが、まりあはそんなことおかまいなしに半ば強引に洋子を応接室へ連れこんで、さやかの目の前に立たせた。
「ほな、さやかも立ってみ」
 洋子が逃げ出さないようにそっと肩を押えて、まりあはさやかに言った。
 さやかはしばらくためらっていたが、やがて覚悟を決めたように大きく息を吸いこむと、ソファからそっと腰を浮かした。
「よお見ときや、洋子ちゃん」
 まりあはぽんと洋子の肩を叩くと、さやかに向かって頷いてみせた。
 さやかはもういちど大きく息を吸ってから、自分のスカートの裾に手をかけた。そうして、ぎゅっと目をつぶって、のろのろとスカートの裾を持ち上げる。
「え、先生、何を……?」
 思わず母親がおろおろした声を出してしまう。
 けれどさやかは母親には何も応えず、微かに震える腕をゆっくり曲げて、スカートをたくし上げた。
「え……?」
 とうとうスカートの中が丸見えになって、母親の目が点になった。
 さやかがスカートの下に着けていたのは、普通の下着ではなかった。さやかのスカートの中から現れたのは、クリーム色の大きなおむつカバーだった。
 さやかの顔が真っ赤になった。
「さやかせんせいもおむつ?」
 洋子が大きな声を出した。
 もう、まりあが逃げ出す心配はなかった。洋子は少し不思議そうな顔つきになって、け
れどすぐにきらきら瞳を輝かせて、さやかのスカートの中をじっと覗きこんでいる。
「そや、さやか先生もおむつやで。洋子ちゃんだけやないねんで、おむつしてるんは」
 まりあはそっと洋子の肩から手を離しながら言った。
 洋子はおそるおそる手を伸ばして、さやかの脚を触った。それから、さやかのお尻を包みこんでいるおむつカバーへ指を動かしてみる。
 温かい掌が動きまわる感触に、さやかの顔がますます赤くなった。
「さやかせんせい、ようこといっしょ。さやかせんせいもおむつだもん」
 洋子はさやかのおむつカバーの感触を確かめるように両手をひとしきり動かしてから、にっと笑った。
「そうや、洋子ちゃんとさやか先生は一緒やで。どっちが先にパンツになるか、二人で競争やな」
 洋子の久しぶりの笑顔に、まりあが大きな声で言った。
「うん、きょうそうきょうそう」
 洋子はさやかのおむつカバーから手を離すと、自分のスカートを捲り上げて、水玉模様のおむつカバーを見せびらかすように嬉しそうに言った。
「そや、競争や。けど、洋子ちゃんとさやか先生は仲良しやもん、さやか先生がおむつを濡らしてしもた時は、洋子ちゃんが取り替えてあげてな。まりあ先生も手伝うから」
 まりあは、さやかの顔と洋子の顔を見比べて悪戯っぽく言った。
「うん。さやかせんせいのおむつ、ようこがとりかえてあげるの」
 元気いっぱいに応える洋子だった。
「よっしゃ。ほな、先生と一緒に保育園へ行こ。洋子ちゃんがおれへんかったら、さやか先生がおむつを濡らしてしもても、取れ替えてくれる人がおれへんもん。そんなん、さやか先生が可哀相やろ?」
「うん。みんなでほいくえんへいこぉ」
 洋子はきゃっきゃっと笑って両手を高くあげた。




 この物語を読み終えた人ならわかっていますね? そう、さやか先生のお尻を包みこんでいたおむつは、洋子ちゃんのお家へ来る前にまりあ先生があててあげたものです。
 どうしてそんなことをしたかって? さやか先生も、まりあ先生のお家でおむつを見せられた時にはわかりませんでした。で、尋ねるさやか先生に、まりあ先生はこう言いました――自分で経験してみたら、おむつをあてとる子供の気持ちがはっきりわかるやん。それがどんな恥ずかしいことか、自分で経験してみな、なかなかわからへんもんやで。そやから、内野は当分の間おむつをあてて生活するんや。もちろん、保育園へ行く時にもな さやか先生はいやがりました。だって、大人なのにおむつなんですから。でも、まりあ先生から
「内野のせいで洋子ちゃんがどんな気持ちになったか考えてみ? そやのに、自分だけ恥ずかしいことはせえへんのかいな? これかて実習やで」
と言われて、しぶしぶ諦めたのでした。
 それに、ジャージで隠しちゃえば誰にもわからないだろうとも思いましたから。
 でも、まりあ先生はジャージを許してくれませんでした。洋子ちゃんと同じにせなあかんって言って、自分のブラウスとスカートを渡したんです。え、そこまでしなくても……とさやか先生は思ったけど、洋子ちゃんの気持ちを考えてみというまりあ先生の言葉には逆らえません。ショーツの代りにおむつをあてられたさやか先生はとうとう、トレーニングウェアからスカートに着替えさせられてしまいました。ちょっと強い風が吹いたらおむつカバーが見えちゃうし、園児たちと一緒に走りまわったらスカートが揺れておむつカバーが見えちゃうかもしれません。

 でも、この恥ずかしい経験は本当にさやか先生の役にたちました。こんなに園児と一緒になれる保育実習は、子鳩保育園以外のどこの保育園でもどんな幼稚園でも体験できなかったでしょう。
 さやか先生はその後、立派に保育実習を終えて教員免許もいただきました。
 そして今日も、さくらんぼ幼稚園で香苗ちゃんたちと一緒に楽しくはしゃぎまわっていることでしょう。



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