モデルのお時間




 日本中がフライパンになったのかと思うほどの、うだるような暑さだ。
 そんな夏の日、着ぐるみを被っていたりしたら、その中がどんな状態になるか、経験した人間でないとわからないだろう。しかも、着ぐるみを被ったまま走ったり跳んだりしなければいけなかったら尚更だ。
 ようやくのこと二回目のステージを終えて休憩室に戻った中山詩織は着ぐるみの頭を大慌てで脱ぐと、烏龍茶のペットボトルを鷲掴みにした。着ぐるみの肘の部分が折れにくくてペットボトルを口に持っていくのが大変だが、そんなことを気にする余裕もない。
 詩織の隣では、只野絵美が、同じように着ぐるみの頭を取ってペットボトルに手を伸ばしていた。けれど、詩織とは違って、なかなかペットボトルを掴めないでいる。
「何してんのよ、絵美。暑さのせいで神経やられちゃったの?」
 ペットボトルを一本空にしてようやく一息ついた詩織は、まだじたばたしている絵美を面白そうに見おろして言った。
「違〜う。ほら、これ。こんな手で簡単にペットボトルが持てるわけないじゃん」
 ぷいと頬を膨らませて、絵美は両手を詩織の目の前に突き出した。
 絵美の両手は着ぐるみの手だった。絵美は体から指先まで一体になった着ぐるみを被っていたから、一度全部脱いでしまわないと自分の手を外に出すことができないのだ。でもって、着ぐるみの手が、ペットボトルを上手に掴めるほど自由に動かせるように作ってあるわけがない。そういうことで、じたばたを繰り返しているというわけだ。
 その点、詩織の方は恵まれていた。手首までは着ぐるみなのだが、そこから先は白い手袋だったから、殆ど素手と変わらない。ペットボトルを掴むなんて、雑作もないこと。

 まず、この炎天下にどうして二人が着ぐるみなんか被っているのか、そこから説明しておこう。二人は、なにも好きこのんで暑っ苦しい格好をしているわけではない。仕事だから仕方なくやっているのだ。仕事とはいっても本職ではない。本職だけでは生活できないから、食べるために泣く泣くやっているアルバイトみたいなもんだ。ただ、本職で稼ぐギャラよりもアルバイトで稼ぐギャラの方が遙かに上だというあたりが二人にとって泣くに泣けない事情ではあるのだけれど。
 二人はモデル派遣事務所《リップル》の社員だ。派遣事務所とはいっても、詩織と絵美の他には和田久美子というモデルがいるだけの、こじんまりした会社。もともとは、服飾関係の専門学校の同級生だった三人が始めたサークルみたいなものだったのが、特に久美子の美貌とスタイルの良さのおかげでちょっと予想外に繁盛してしまったため、調子に乗って会社組織にしたのが始まりだった。今でも素人会社がどうにか潰れずに存続しているのも、つまるところ、久美子のおかげだった。はっきり言って、事務所の売り上げの大半は、久美子がその素晴らしいプロポーションと愛くるしい顔でもって稼ぎ出していた。しかも、営業から経理事務まで、久美子がいないと詩織と絵美だけでは何もできないといった状態で。そんなわけだから、二人は久美子に頭が上がらない。だけど、誤解しないでほしい。久美子は決して偉ぶらないし、尊大な態度を取ることもない。そういう意味でも、まさしく『いい女』な久美子だった。でも、そんな久美子に甘えてばかりもいられない。ということで二人が探してきたのが着ぐるみショーのアルバイトだった。少しはステージでの動きを身に付けているし、大勢の人間の視線を集めることにも慣れている。だから、お似合いといえばお似合いのアルバイトだった。もちろんギャラは、直接二人に渡るのではなく、事務所の口座に振り込んでもらうようにしている。そんへんのところは律儀な二人だった。
 ということで、今日も二人は某デパートの屋上にしつらえたステージで《星の子ルンルンの大冒険》という着ぐるみショーを元気に演じた後の休憩タイムに入ったところだった。
 さて、二人の着ぐるみの作りが違う理由は簡単。背の低い絵美が主人公である星の子ルンルンを演じているのだが、いかにも子供っぽい可愛らしい感じを出すために、着ぐるみは全体が丸みを帯びたシルエットになっていて、それに合わせて、指先まで丸っこくぷにぷにした一体型になっていた。それに対して、背の高い詩織が演じるのは魔法使い。ステッキや箒なんていう小道具を使わなきゃいけないから、手首から先は着ぐるみじゃなく、手袋を着けるようになっている。
 と、まあ、こういう事情で、詩織はさっさとペットボトルを空したというのに、絵美の方はまだペットボトルを掴むことさえできずにじたばたしているというわけだった。

「ったく、世話のかかる。ほら」
 見かねて、詩織がペットボトルを掴んで絵美の口に押し当てた。
 唇の端から烏龍茶が少しこぼれたけれど、そんなこと気にしない。くびぐびと威勢よく喉を鳴らして烏龍茶を飲み干した。
「はぁ、生き返ったよ〜」
 絵美は椅子にお尻をおろして溜息をついた。その顔は、奇跡的に砂漠からの生還を果たした冒険家さながらだった。
「だれてるんじゃないわよ。あと三十分で次のステージだからね」
 ようやく一息ついた絵美に向かって詩織が厳しい口調で言った。
 こう暑いと、ついつい攻撃的になってしまう。それに、そうでもしないと、なんだか自分がとても惨めに思えてくるのだ。本職では食えなくて、こんなアルバイトみたいな仕事ばかりしている自分が。
 絵美の方も詩織がどんな気持ちなのかよく知っている。なんたって、二人は同じ境遇なのだから。
 どちらからともなく顔を見合わせて、は〜あと大きな溜息を落とす二人だった。

 と、賑やかしくも勇壮なメロディが鳴り響いた。詩織の携帯の着メロだった。液晶には、リップルの事務所の電話番号が表示されている。
「はい、詩織。――うん、今週いっぱい。で、え、本当に? ん、わかった。上がり次第、絵美と一緒に事務所に行く」
 そう言って電話を切った詩織の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「どうしたの?」
 不思議そうな顔で尋ねる絵美。
「久美子からの電話だったんだけど、お仕事が入ったらしいわよ。新しいお仕事」
「ふぅん。で、今度はどんな着ぐるみを被るの? できれば、両手が自由になるのがいいんだけど」
 絵美はぽつりと言った。どうやら、自分の本職を忘れかけているようだ。
「いや、そうじゃなくて、モデルよ。モデルのお仕事」
「……本当に?」
「本当に」
「本当の本当に?」
「本当の本当だってば」
「本当の本当に本当なの?」
「ええい、あんたは幼稚園児か!」




 モデル派遣業・リップル。
 狭苦しい雑居ビルの一室のドアにそんなプレートが掛かっている。
 執務机に向かって座っているのが久美子。リップルのトップモデルであり事務員であり、ついでに代表取締役でもある。クリーム色のスーツを着ているところをみると、今日は営業職モードだろう。
「で、どんな仕事なの?」
 執務机のすぐ横にある応接セットのソファに腰をおろすなり、詩織が言った。
「すごくいい条件よ。直接の仕事は三週間後なんだけど、打ち合わせとか準備とかで来週から拘束期間に入るんだって。で、準備用の拘束期間も本番と同じギャラを払ってくれるそうよ」
「すごい。そんなクライアント、どこで探してきたのよ。さすが、久美子」
「ううん、私が営業かけたわけじゃないの。むこうからのご指名なのよ。どうしても二人に頼みたいって」
「ふぇ?」
 詩織と絵美は顔を見合わせた。
 はっきり言って、そんな好条件を提示されるほどの売れっ子モデルでないことは、自分自身がよく知っている。絵美の方は身長が一メートル五十センチに満たない。普通なら、モデルとしては致命的だ。詩織の方は身長こそ一メートル七十センチ以上あるからそれはいいのだが、バストの出っ張りは足りないし、ウエストのくびれも目立たないという、こちらも、普通なら絶対にファッションモデルになんてなれるわけがないという体型をしている。そんな二人をわざわざ指名してくるなんて。
「二人ともよく知っているクライアントよ。どこだと思う?」
 顔を見合わせる詩織と絵美の様子を面白そうに眺めながら久美子は言った。
「私たちが知ってるとこなんて、数は知れてるじゃない。殆どモデルの仕事なんてしてないんだし。……って、ううう」
 言わずもがなのことを口走って自己嫌悪に陥る絵美だった。
「そんなに落ち込まないの。この暑いのに着ぐるみを被って頑張ってるんだから」
 久美子としては精一杯慰めたつもりだろう。
悪気がないのはわかっているのだけれど、それにしても。
「ま、いいや。で、どこの物好きなの、そのクライアントは」
「株式会社サクラ、前に一度お仕事を貰ったところよ。あの時の二人の仕事が気に入ったからもういちど頼みたいって」
「えええ、サクラなのぉ?」
 声をあげたのは絵美。思いきり不満そうな声だった。
「なによ、嫌なの?」
「そりゃ、やだよ、あそこの仕事だけは」
 絵美はげんなりした声で言った。
 その横では詩織がどういうわけかにやにやと思い出し笑いをしている。
「どうしてよ。あそこの洋服を着てステージに立った詩織と絵美、とっても似合ってたのに」
「そりゃ、久美子がサクラの洋服を着たわけじゃないからね。あんな格好をさせられた人の気持ちは、あんな格好をさせられた人にしかわからないんだよ。んとに、花も恥じらう年頃の乙女にあんな格好させるだなんて」
 絵美は『あんな格好』という言葉をくどいほど繰り返した。
 絵美ががそれほど愚痴るのには、それなりの理由があった――。

 半年前、株式会社サクラの商談室に、詩織と絵美、それに、佐倉真奈美の姿があった。
 佐倉真奈美というのは、サクラで企画と広報を統括している取締役で、その若さに似合わず、なかなかの遣り手だという評判だ。それに、真奈美はオーナー経営者の娘ということもあって、実質的にサクラを取り仕切っているのは彼女だと言って間違いない。そんな真奈美が、零細モデル派遣業のリップルにわざわざ出向いて詩織と絵美に仕事を依頼したのだ。もちろん、二人に(そして、リップルの実質的な経営者である久美子にも)否はなかった。
 というわけで、商談室で打ち合わせに余念のない三人だった。
「当社は、主にレディス向けのアイテムを展開するアパレルメーカーです。これまでは順調に業績を上げてきました。ただ、これまでの商品だけに頼ってばかりじゃ将来の展望は開けません。そこで、これまで手がけたことのないアイテムを企画・開発する必要性に迫られました。幸い新商品の開発は順調に進んで、いよいよ関係者を集めての発表会を目前に控えるところになりました。その大事な発表会で当社のアイテムを身に着けてもらうモデルをいろいろ探していたのですが、なかなか、これはという人はいませんでした。でも、ようやく探し当てることができました。それがあなた方です。使命は重大です。よろしいですね?」
 真奈美は二人の顔を正面から見て言った。
「は、はい」
 真奈美の迫力に気圧されて、こわばった表情で二人はおどおどした様子で頷いた。
 はっきり言って、久しぶりにモデルのお仕事ができるねよかったねという感じでお気楽にやって来たのだ。そんな大事なステージだなんて思ってもいなかった。
 本当に私たちでいいんだろうかという不安が首をもたげる。
「心配することはありません。私が見込んだお二人です。うまくゆくに決まっています」
 二人の胸の内を読み取ったみたいに真奈美はきっぱりと言った。「私が見込んだのだから成功する」という言い方は聞きようによってはひどく嫌みな言い方だが、それだけの自信を持っているということにもなる。二人は少しだけ気持ちが軽くなる思いだった。
「では、お二人に身に着けていただくアイテムを見ていただきましょう」
 真奈美は軽い身のこなしで立ち上がると、商談室の一角に積み上げてあるダンボールの箱を一つ抱えて戻ってきた。
「バリエーションはいろいろありますが、とりあえずサンプルということで。――これは中山さんに着ていただく分ですね」
 真奈美は詩織にクリーム色のスーツを手渡した。スーツといっても、ビジネススーツではない。胸元に小さなコサージュをあしらった柔らかいラインのスーツで、なんだか、幼稚園の入園式に出席する若い母親が着そうなスーツだった。新しい商品というからどんな大胆なデザインの洋服が出てくるのかと思っていただけに、ちょっと拍子抜けしてしまう。
「それと、これが只野さんの分。中山さんのスーツと同じ生地で揃えてあります」
 真奈美が絵美に手渡したのは、詩織に手渡したスーツと同じ生地で仕立てたワンピースだった。
 手渡されたワンピースを手早く机の上で広げた絵美は、なんだか困ったような顔つきになって詩織の脇腹をつついた。
「ん、どうかした?」
 スーツを肩に押し当ててサイズをチェックしていた詩織が振り向いた。
 そうして、絵美のワンピースを見るなり怪訝な表情を浮かべる。
「あら、どうかしましたか? サイズが合わないとか?」
 二人の顔つきを目にした真奈美が尋ねた。
「あの、他のアイテムと間違っておられるんじゃないでしょうか。これ、どう見ても子供用のワンピースなんですけど」
 絵美はおそるおそる言った。
 絵美の言う通り、目の前にあるのは、どう見ても子供用のワンピースだった。クリーム色の柔らかな生地でできたワンピースは全体的に丸っこいシルエットに仕立ててあって、特に、肩口から袖口にかけてのふわっとした感じと、ハイウエストでふんわりしたラインのスカートが愛くるしい。袖口とスカートの裾にさりげなくあしらったフリルと小さな飾りリボンが見るからにキュートだ。
「それでいいんですよ。間違いじゃありません」
 真奈美は真顔で頷いた。
「で、でも……」
「これでどうですか。ほら、サイズもぴったりでしょう?」
 なおも言い募る絵美の胸に、真奈美がワンピースを机の上から掴み上げて押し当てた。
「へ〜え」
 詩織が思わず感心したような声を漏らした。真奈美が言うように、子供向けとしか見えないワンピースなのに、サイズは絵美の体にジャストフィットだ。
「お二人のサイズは細部に渡るまで前もって事務所に確認しておきました。最近の写真と数字があれば、まず間違いのない仕立てができます。株式会社サクラのデザイナーと縫製工は業界でも最高の技術を持っています」
 誇らしげに真奈美は言った。
 だけど、問題はそういうことではない。どうしてわざわざ子供向けのワンピースを絵美の体に合わせて作ったのか。言い換えれば、どうして絵美が子供用のワンピースを着なきゃいけないのか。釈然としないのはそこだった。
「サクラは新しく《プチフェアリー》というシリーズを展開することになりした。プチという言葉が付いていることからもわかるように子供向け、特に小さな女の子向けのシリーズです。子供の頃からサクラのアイテムに馴染んでもらって、大人になった時に自然とサクラのレディスアイテムを身に着けてもらうという、顧客の囲い込みを目的とした戦略の一環です。シリーズは幾つかのブランドから構成されます。その内の《プチフェアリー・ステージ》ブランドのアイテムの一つがこれです。幼稚園の入園式やピアノの発表会など、小さな女の子がステージに立つ時に映えるようなデザインに仕立ててあります」
 絵美の体に押し当てたワンピースを机の上に戻して、真奈美は二人に説明した。会議でもそうなのだろう、自信に満ちた堂々とした話し方だった。
 だけど、それだけでは説明になっていない。
「それなら、子役のモデルを使えばいいんじゃないんですか? そりゃ、私は小柄です。でも、幼稚園児よりはずっと大きいんですよ。私の体に合わせて特別に大きな子供服を作るより、子役のモデルを使えばずっと手間も省けるのに」
 わけがわからないって顔で絵美は言った。
「子役のモデルじゃ駄目なんです」
 真奈美は首を振った。
「子役じゃ駄目? どうしてですか」
 訊いたのは詩織だった。
「最初に言ったように、これは社運を賭けたと言ってもいいようなプロジェクトです。関係者を集めた発表会では些細なミスも許されません。残念だけど、そんな発表会をまかせられるような子役モデルを探し出すことはできませんでした」
 小さく溜息をつく真奈美。
「あの、でも、東京や大阪の大手のプロダクションに当たってみたらどうでしょう。子役専門のプロダクションもあるんだから、大丈夫だと思うんですけど」
「当たってみました。確かに、それなりのビジュアルとテクを持った子もいました。だけど、サクラの新しいブランドのイメージとは合わなかったんです」
「ブランドイメージに合わない?」
「新しい《プチフェアリー》シリーズは、子供の愛らしさを強調することを基本的なコンセプトにしています。美しいではなく、可愛い。大人顔負けの美貌ではなく、子供特有の愛くるしさ。ビューティフルではなく、キュート」
 真奈美は、絵美の目の前に置いたワンピースに目を向けた。確かに、そのワンピースには、真奈美が口にした可愛らしさのエッセンスがぎゅっと詰まっていた。一目で「わ、かっわいい」と言って抱き締めてしまいそうなデザインだった。
「でも、それなりのビジュアルとテクを持った子役モデルは、大人のモデルのミニチュアばかりでした。プロダクションがそうさせているのかステージママのせいか知らないけど、可憐さを誇ってセクシーなポーズを取るような子役モデルばかりでした。とてもじゃないけど、プチフェアリーのイメージじゃありません」
 真奈美の口調は愚痴めいてさえいた。
 ところが、真奈美は急に顔を輝かせて絵美の顔をじっと見つめて言葉を続けた。
「それで悩んでいたのですが、ある時、ちゃんとしたテクを持っていて尚かつ愛くるしいルックスの持ち主なら、なにも子役じゃなくてもいいんじゃないかと思いついたのです。大人でも、それなりに子供っぽく見えればそれでいいんじゃないかと。それで、いろいろ探しまわっているうちに或る着ぐるみショーを目にして、元気にステージの上を走りまわっている姿が気になって、そっと休憩室を覗きこんでしまいました。その時、ちょうど、着ぐるみの頭のところを外して素顔をみせた只野さんがいたんです。それからいろいろ手をまわしてリップルにお仕事を依頼することにしたという次第です。つまり、全ては只野さん、あなたの肩にかかっているんです。お願いしますよ」
「そんな事情があったんですか。なら、頑張らなきゃ。ね、絵美」
 うんうんと頷いて詩織が言った。真奈美の説明は一応、筋が通っている。
「で、でも……」
 絵美は言葉に詰まった。事情はわかるけど、いくらなんでも、二十歳を越えた年ごろの娘が子供服なんてなぁ。それも、幼稚園児あたりをターゲットにした服だなんて。
「あの、お願いできないんでしょうか?」
 困ったような顔で真奈美は言った。
「やっぱり、その、ちょっと引き受けにくいというかなんというか……」
 口の中でもごもご。クライアントのオフィスまで来ておいて仕事を拒否するのは気がひける。かといって、幼稚園児の格好は……。
「そうですか。そうすると、これを使わなきゃいけないんですけど、あまり使いたくありませんし、本当に困りましたね」
 真奈美は、ブリーフケースから遠慮がちに取り出した書類を絵美の目の前に差し出した。
 書類は、サクラとリップルとが取り交わした契約書だった。久美子に言われるまま、詩織と絵美も署名捺印した憶えがある。もっとも、細かい字が並ぶ契約書の内容なんて一行も読んでいない。
 真奈美が指さしたところに書いてある文字を目にして絵美は椅子から転げ落ちそうになった。
『違約金条項。契約を締結した後にモデルが契約の破棄を申し出た場合は、契約破棄を申し出たモデルが、個人の責任として依頼主に違約金を支払うものとする。尚、違約金の金額は……』
 金額の欄には、絵美の年収に匹敵する数字が書いてあった。
「仕方ありません。お二人の会社に電話して、その旨ご連絡いたします」
 真奈美は契約書をブリーフケースにしまいこんで受話器を手にした。
「ま、待ってください。せっかくのお仕事、私が断るわけがありません。喜んで引き受けさせていただきます」
 引きつった声で言いながら、絵美は、電話のボタンに指をかけた真奈美を慌てて押しとどめた。
「あら、引き受けていただけるんですか」
 真奈美はわざとらしく微笑んでみせた。
「当ったり前ですよ〜。やだなぁ、あはは」
 絵美の笑い声は虚しく商談室に響き渡った。
「そうですか。では、早速、アイテムの説明を続けましょう。ご覧のように、子供らしい愛くるしさを強調するために、ワンピースのスカート丈はかなり短くしています。見た目だけではなく、子供というのは活発でいつも動きまわっていますから、脚の動きの妨げにならないようにという配慮もデザインに活かしてあるんですよ。ただ、こういうふうに丈が短いと、子供がステージに立つとスカートの中が丸見えになってしまいます。それで、ワンピースとお揃いのオーバーパンツをセットにしてみたんです。ま、大人でいうところの見せパンみたいなものですね」
 絵美が考えを変えないうちにとでもいうみたいに早口で説明する真奈美。
 真奈美の説明を聞きながら、丈の短いワンピースの裾から、もこもこのオーバーパンツを覗かせた格好で発表会のステージに立つ自分の姿を想像して、ひたすら絵美は鬱になっていた。
 その横には、同じ絵美の姿を想像しながら面白そうににやにやと笑っている詩織がいた。
 そんなことがあって、詩織が母親役、絵美が子供役を演じる発表会のステージは好評のもとに幕を閉じたのだった。
 その後、絵美を子役のモデルとして使いたいというクライアントが幾つも現れたが、絵美は頑なに拒み続けた。あんな恥ずかしい格好は一生に一度でたくさんだった。

 ――サクラがクライアントだと聞かされた絵美が露骨に嫌な顔をする理由は、つまり、そういうことだった。
「でも、引き受けてくれるよね?」
 しれっとした顔で久美子が言った。手には、薄っぺらな紙を持っている。
 いや〜な予感がした。
 久美子は、手にした紙を絵美の目の前にずいっと突きつけた。
『雇用契約書』そんな文字が絵美の目にとび込んできた。それは、愛好会みたいなものだったリップルを会社組織にする時、三人が身勝手なことをしないよう、それぞれに取り交わした覚え書きみたいなものだった。たしか、理由もなく仕事を拒まないとかいうことも書いたような記憶がある。覚え書きみたいなものとはいっても、出る所に出れば、それなりの効力を持っている。まさか久美子が本気でそんな覚え書きを楯に仕事を無理強いすることはないだろうけど、それでも、無視するわけにはいかない。なんたって、事務所の経費から詩織と絵美の給料だって、殆どが久美子の稼ぎでまかなっているのだ。仕事を選り好みするような贅沢は言っていられない。
 けど、あのサクラの仕事だもんなぁ。
「私はやるよ。我儘を言ってられる身分じゃないんだから」
 詩織が笑顔で言った。
 そりゃ、詩織はいいよ。お母さん役なんていって、お洒落な若々しいスーツを着て子供役の私の手を引っ張ってステージを歩いていればいいんだから。そりゃ、ちゃんとしたモデルの仕事だよ。でも、私の方は。――今になって思い出しても顔から火が出るような恥ずかしさだった。そのせいで、ついついおどおどした歩き方になっちゃって、詩織の体の後ろに隠れるようにしていたのだ。それが却って初々しいとか言われて好評だったのは皮肉というものなんだろう。
「わかったわよ。やりゃいいんでしょ、やりゃ」
 追い詰められた絵美はぶすっとした声で言った。言わざるを得なかった。




 今度は、商談室ではなく、真奈美の部屋の隣にある応接室だった。
「おひさしぶり。また三人でお仕事ができて嬉しいわ」
 どっしりしたマホガニーの応接卓の向かい側に腰かけた真奈美が本当に嬉しそうに目を細めた。
「こちらこそ、あの節はお世話になりました」
 如才なく応じる詩織。
 それとは対照的に、絵美の顔はどんよりしている。
「あらあら、絵美ちゃんはご機嫌斜めだこと」
 前の仕事の途中から、真奈美は絵美のことを『只野さん』ではなく『絵美ちゃん』と呼ぶようになっていた。それほど、絵美の幼稚園児スタイルが可愛らしかったのだ。
「で、今度はどんなアイテムなんですか。前は幼稚園児だったから、小学生ですか」
 半ばやけっぱちみたいに絵美は言った。そうでもしないと、いい年をして子供みたいに『絵美ちゃん』なんて呼ばれる恥ずかしさに耐えられない。
「ううん、小学生じゃないのよ」
 真奈美はかぶりを振った。
「じゃ、中学生?」
 絵美の顔がちょっとだけ明るくなった。中学生くらいなら少しはマシだ。それに、最近の私立の中学校はお洒落な制服を採用しているところが多い。そんなだったら着てもいいかなと思わないでもない。
「ううん、中学生でもないの」
「じゃ、高校生ですか?」
 絵美の顔がますます輝いた。
「ううん、高校生じゃないの」
「じゃ、大学生」
 絵美は決めつけるみたいに言った。服飾関係の専門学校に行っていた絵美の周りは女の子ばかりで、男っ気というのがまるでなかった。偽りでもいい、華の女子大生に一度はなってみたい。でもって、発表会に招かれた若いバイヤーあたりと恋に落ちるのもいいかも。
「残念だけど、大学生でもないのよ」
「じゃ、社会人ですか? でも、それじゃ、サクラがもともと手がけてたアイテムだし……」
 絵美は首をかしげた。
「今度のブランドはね、《プチ・プチフェアリー》っていうの。プチよりもまだプチなのよ」
「プチよりもプチ?」
 絵美は更に首をかしげた。まるでわからない。
 見れば、隣の詩織も首をかしげている。
「やぁね、何をそんなに難しい顔してるのよ。簡単なことじゃない」
 前の仕事ですっかり打ち解けた(と自分では信じてやまない)真奈美は、馴れ馴れしい口調で言ってころころと笑った。
 詩織と絵美は顔を見合わせた。
「だから、プチフェアリーよりも小さな子供をターゲットにしたブランドだってこと。わかった?」
 真奈美は、人さし指を顔の前でちっちっちっと振ってみせた。
「プチフェアリーよりも小さな子供って……」
 呆然とした表情で訊き返す絵美。
「そうよ。幼稚園児や保育園児よりも小っちゃな子供。つまり、トドラー(よちよち歩きを始めるくらいの年頃の幼児)とかベビーなのよ、今度のブランドのターゲットは」
 なんでもないことのように真奈美は言った。
「えと、あの、確認しておきたいんですけど……今度は子役のモデルと契約してるんですよね? 私たちは、赤ちゃんモデルの付き添いか何かですよね? むずかってる子役のモデルを着ぐるみであやすとか」
 おそるおそるといった感じで絵美が尋ねる。
「前にも言った筈よ。社運を賭けたプロジェクトをまかせられるような子役モデルなんていないって。トドラーやベビーのモデルなんて尚さらよ」
 今さら何をわかりきったことをっていうような顔の真奈美だった。
「とすると、前の発表会と同じように進めるということですね」
 わざとのような事務的な口調で詩織が言った。
「そういうこと。さすが詩織さんは物わかりがいいわ。今度もお母さん役、お願いね」
 真奈美は大きく頷いた。
「まかせてください。もっとも、相棒が承知してくれたら、ですけど」
 詩織は背筋を伸ばして応えた。
 すぐ横に座っている絵美には、詩織が完全に面白がっているのが手に取るようにわかる。
「絵美ちゃんもいいわよね? 前の発表会の時よりも可愛いお洋服を着られるんだし」
 真奈美は絵美の顔を正面から覗きこんだ。口調こそ優しげだが、さすがに遣り手と評判の、有無を言わさぬ迫力がある。
「で、でも……赤ちゃん役だなんて……」
 絵美は口ごもった。
「今回の契約書、違約金の金額が前回の五倍になってること、絵美ちゃんも知ってるわよね?」
 真奈美はずけっと言った。
 絵美は初耳だった。
「引き受けてくれるわね?」
 念を押すみたいに真奈美は言った。
「……やります」
 絵美は、この世のものとは思えない深い溜息を漏らして言った。




「じゃ、これが詩織さんの分。それと、これが絵美ちゃんの分。他にもまだたくさんあるけど、とりあえずの見本」
 真奈美が、詩織と絵美の目の前に藤でできたバスケットを置いた。バスケットの取っ手には、ご丁寧にそれぞれの名前が書いてある。
 詩織はバスケットに目をやるなり、不思議そうな顔をして真奈美に言った。
「あの、ブラもアイテムの一つなんでしょうか。できれば自分のを使いたいんですけど」
 その言葉に、絵美も詩織のバスケットを覗きこんだ。確かに、洋服なんかの一番上に、きちんと折りたたんだブラが置いてあった。小さな花柄を散りばめた可愛らしい生地だけど、なんだか、少し厚みがあるみたいに見える。
「ええ、そのブラも新しいブランドを構成するアイテムなのよ。――何か不都合があるようなら考えてみるけど?」
「いえ、それならいいです。どうしてもというようなことじゃありませんから」
 応える詩織の声は少し沈んでいた。
 実は絵美は、詩織が自分のブラにこだわる理由を知っている。詩織のブラは「寄せて上げて」の矯正ブラなのだ。身長こそあるものの決してメリハリのある体つきとはいえない詩織は、矯正下着のセットを使って涙ぐましい努力をしている。特に大勢の目の前でステージに立つ時は尚さらだ。これでもかというくらい寄せて上げて、やっとのこと人並みのプロポーションに見せることができる詩織だった。
 そんな事情を知っている絵美だが、今回だけは同情する気にもならない。自分はお母さん役で普通の格好をできるからってんでさっさと仕事を引き受けた詩織にも天罰がくだったのだと思うと、少しだけ気分がよくなる。
「それじゃ、着てみて。サイズの確認だけ先にすませておきましょう。絵美ちゃん、先に詩織さんの着替えを手伝ってあげてね」
 そう言うと、真奈美は窓にカーテンをかけた。真奈美の部屋は最上階にあるから外から覗かれる心配はないが、それでも、まだ発表会も終えていない真っさらの新製品だ。念には念を入れるのが真奈美の習い性になっていた。

 だぶっとしたトレーナーにジーンズという、いかにも体型を隠しやすい服装は、脱ぐのにも便利だった。トレーナーを頭から引き抜いて、ボタンを外したジーンズを足首から引き抜けば、あとは下着だけになる。
 だけど、下着姿になってから体の動きがひどく遅くなる詩織だった。いくら女どうしとはいっても、いくらモデルとクライアントという関係でも、貧相な体つきを真奈美に見られるのは気が進まなかった。これでもまだブラを外す必要がないのならさほどでもないのだが、矯正用のブラを外すとなると、どうしても手の動きが止まってしまう。
 背中に伸ばした手を途中で止めて、お腹の前でもじもじと指を絡み合わせて、あらためて思い直して再び背中に腕を伸ばして。
 何度も何度も同じことの繰り返しだった。
「どうしたの、詩織さん。私も忙しいんだから、あまり時間は取れれないのよ」
 少し苛々してきたような声で真奈美が言った。
「あ、はい」
 ついに観念したのか、詩織があらためて手を伸ばした。
 と同時に、絵美がソファの上にひょいと立って、詩織のブラのホックを手早く外してしまう。
 詩織は絵美がそんなことをするだなんて予想もしていなかったから、ぱさりと音を立てて床に落ちるブラを途中で受け止めることもできなかった。それどころか、胸を隠すことも忘れて立ちすくんでしまう。
「あらあら、まぁまぁ」
 発育のいい小学生に勝負を挑んだらたちどころに返り討ちにあいそうな詩織の貧相な胸の膨らみを目にして、真奈美は意味をなさない声を漏らしてしまった。詩織が自分のブラに固執していた理由はわかったものの、今更それでもいいわよと言ったりしたら余計に傷つくだろう。
「何してるのよ、ほら」
 真奈美と目が合って気まずそうにしている詩織に、絵美がバスケットからブラを取り上げてひょいと手渡した。
「あ、ありがと」
 大急ぎでブラのカップを胸に押し当てる詩織。最初に見た時もそう感じたのだが、実際に身に着けてみると、特にカップのあたりがなんとなく厚ぼったいような感触がある。だけど、いつも矯正用ばかりで、いわゆる「普通の」ブラとは縁のない詩織は、ひょっとしてこんなものなんだろうかと思ってしまう。
 いつもの癖でつい胸の周囲のお肉を寄せて上げてしまいそうになった詩織は、はっとして手の動きを止めた。真奈美の微笑みが胸に痛い。
「ほら、さっさとする」
 外した時もそうしたように、絵美が詩織の背中に手を伸ばしてブラのホックを留めていった。
「これでいいかな」
 肩紐をそっと整えてから絵美はソファからとびおりると、詩織の体の前にまわりこんだ。
目の高さよりも少し下のあたりがトップの位置になる。だから、絵美は詩織の新しいブラのカップを正面から覗きこむような格好になるわけだ。
「ん?」
 不意に絵美は、見慣れない物をみつけたような表情を浮かべて、顔を詩織のブラに近づけた。
「な、何よ。どうせ、貧弱ですよ。なにもそんなに当てつけがましいことしなくても自分でわかってるわよ」
 すっかり被害妄想の虜になってしまった詩織だった。
「違うわよ。ただ、このラインは何なのかなって思ったの」
 詩織の被害妄想を軽くいなして、絵美は、ブラのトップの周囲を取り囲むように走る細い線を指さした。
「本当だ。何かしら、これ」
 絵美に言われて、詩織も自分の胸をじっと見つめた。
「ああ、それ。そうね、若い女性は知らないかもね」
 何だ何だと不思議がる二人のそばに近づきながら真奈美が言った。
「このブラ、赤ちゃんにおっぱいをあげるために少し細工がしてあるのよ。ほら、こんなふうに」
 真奈美はブラのカップに走る細いラインの一部に指をかけると、そのまま手前に引いた。べりりとマジックテープが外れる音がして、ブラのトップがぺろんと開いた。詩織のピンクの乳首が丸見えになる。
「ね、こんなふうになっていれば、授乳のたびにいちいちブラをずらさなくてもいいでしょ。それに、カップの内側が吸水性のいいパッドになっているから、少しくらい母乳が溢れ出しても洋服を汚す心配もないし」
 真奈美は、ぺろりと開いたトップの内側をそっと指で撫でてみせた。
「あ、そっかぁ。そんなふうになってたのかぁ」
 絵美は興味津々で、ますます顔を近づけて食い入るように見つめている。
「こら、絵美、やめなさいよ。いくらなんでも恥ずかしいじゃないよ」
 思わず詩織は掌で胸を覆い隠そうとする。
 それを真奈美が押しとどめた。
「駄目ですよ、詩織さん。発表会の時にはこの仕組みもちゃんとお客様にお見せしなきゃいけないんだから、これくらいで恥ずかしがってちゃ仕事にならないわ」
「でも、だって……」
 羞恥のあまり、詩織の体が赤く染まる。もちろん、乳房もだ。授乳用のブラを着用した詩織の乳房が赤く染まる様子は、どこか淫靡でさえあった。
「そうよ、詩織。このくらい我慢できなきゃ。それとも違約金を払って仕事をおりる?」
 思いっ切り意地悪く絵美が言った。天罰第二弾だと思うと気分も爽快。
「憶えてなさいよ、絵美。あとで泣いても知らないからね」
 詩織の両目が光った。
 だけど、ブラのカップをぺろんと開いて乳首を丸見えにした、見ようによっては随分とお間抜けな格好で言っても、ちっとも怖くなかった。

 その後もなんだかんだがあって、ようやくのこと詩織は、純白のシルクのブラウスに紺色のプリーツスカート、その上に花柄のエプロンという姿に落ち着いた。そんな格好をして、エプロンとお揃いのスカーフで髪を首筋の後ろにきゅっと結わえると、まるでどこか良家の若奥様に変身してしまう。胸が豊かでない、有り体に言って貧乳なのが、却って清楚な印象を与えるから不思議なものだ。
「授乳用のブラ以外は既存の商品だけど、よく似合ってるわ。若いお母さん専用のブランドを作ったら、詩織さんに専属モデルをお願いしたくなるほどお似合いね」
 決してお世辞ではなく、詩織の全身を丹念に眺めまわして真奈美は言った。
 そうして、くるりと絵美の方に向き直って微笑みかける。
「さ、いよいよ絵美ちゃんの番ね。こちらもお似合いだといいんだけど。――今度は絵美ちゃんの着替えを手伝ってあげてね、詩織さん」




 絵美のバスケットの上には、大きなバスタオルがかかっていた。だから、中に何が入っているのか、絵美もまだ知らない。
「さ、どうぞ」
 そのバスタオルを真奈美がつかみ上げて応接卓の上に置いた。それまで隠れていたバスケットの中身が二人の目にもあらわになる。
「え? また、タオルばかりみたいだけど……」
 戸惑ったような顔つきで絵美は両目をぱちくりさせた。真奈美がどけたバスタオルの下から現れたのは、何枚もの水玉模様の布地だった。長方形のその布地は、確かにタオルに見えなくもない。
「タオルだと思う?」
 真奈美はくすっと笑った。
「違うんですか?」
 思わず絵美は訊き返した。
「触ってごらんなさい」
 バスケットの中の一枚をすっと掴み上げて、真奈美は絵美に手渡した。
 実際に手に取ってみると、タオルとは微妙に違う手触りだった。タオル地のようにもこもこしているわけではなく、生地そのものがもっと薄い。それに、長方形だと思っていたのが、実は、その倍くらいの長さの生地の両端を縫い合わせて輪っかにしているのがわかる。生地はコットンだと思うのだが、あまり見たことのない織り方だった。
「それが何なのか、絵美ちゃんにわかる?」
 ちょっとしたクイズを楽しむみたいに真奈美は言った。
「どこかで見たような気はするんですけど、どこでだったかな」
 絵美は曖昧に頷いた。決して知らないものじゃない。確かに、どこかで見たことがある。それに、触ったこともある。
「どれどれ」
 詩織も、バスケットから一枚そっと掴み上げた。
 その途端、あっと絵美は声をあげた。
 エプロンを身に着けた、若奥様ふうの格好をした詩織がその布地を手にした姿を目にした途端、それが何なのか絵美にはわかったのだ。その柔らかな布地を手にした詩織の姿は、若くして母親になった姉の姿と同じだった。もう今は幼稚園に通っている筈の姪っ子が赤ん坊の頃、姉は、これと同じような布地をたくさん洗濯しては、よく日の当たる物干し場で乾かしていた。水玉模様のもあったし、動物柄のもあったし、無地のもあったけど、どれも今絵美が手にしているのと同じくらいに柔らかくて優しい生地でできていた。
「これって、ひょっとして……」
 絵美が声をあげるのと同時に詩織も呟いた。どうやら、詩織にもわかったみたいだ。
「これって、おむつなんじゃないの」
 二人は同時に叫んでいた。
「よくわかったわね、二人とも」
 二人の声を耳にして、感心したような顔つきで真奈美が言った。
「最近は紙おむつばかりだから、布おむつなんて知らないかなと思ってたんだけど」
「あ、あの、私には姉がいて、それで、姪っ子が生まれてからずっと布のおむつだったから」
 専門学校に入るために故郷を出てきてからこちら、もう何年も会っていない姉の面影をふと詩織の横顔に重ねて、なぜとはなしにどきどきしながら絵美は言った。
「私も同じ。姉は子供を布おむつで育てていましたから」
 言いながら、詩織も絵美の顔をちらと覗き見た。
「なるほど。じゃ、二人とも布おむつに少しは馴染みがあるんだ。よかった」
 真奈美は意味ありげに、にっと笑った。
「え、でも、どうして布おむつなんて私のバスケットに入ってるんですか」
 真奈美のどこか妙な感じのする笑い方を見て不意に我に返ったみたいに、絵美は真奈美の顔を振り仰いだ。
「プチ・プチフェアリーの大事なアイテムの一つだからよ」
 真奈美の返事は簡潔だった。
 簡潔すぎて、何を言われたのか一瞬わからなかった。
 けれど、じきに絵美は顔を真っ赤にして声を震わせた。
「嘘ですよね? まさか、そんな、冗談ですよね? いくらなんでも、私がおむつだなんて……」
 最後の方は声にならない。
「嘘でも冗談でもないわよ。うちのレディスのブランドは手作り感が売りなの。それと同じコンセプトをプチ・プチフェアリーにも持ち込みたいのよ。だから、これまでは殆ど出来合いのものしかなかった布おむつも、オーダーメイドに近い感覚で売り出したいの。そのために、ほら」
 真奈美はバスケットから何枚もの布おむつを掴み上げては応接卓の上に重ね、その下から出てきた布おむつを一枚、絵美の目の前でさっと広げてみせた。
 その布おむつには、水玉模様の代わりに、ハートの形にトリミングした絵美の小さな顔写真が幾つもプリントしてあった。
「出来合いのを買ってきて、要らなくなったら廃品に出すか知り合いに譲ってしまう。それが、これまでの布おむつの使い方だったのね。でも、新しいブランドは、布おむつの新しい使い方を提案したいのよ。その子だけのために用意した、その子だけの布おむつ。そうするために、おむつの生地を手軽に染めることのできる装置まで開発したのよ。水玉模様や動物柄なんてお手のもの。スキャナーで読み込んだ赤ちゃんの顔写真をプリントすることも、家紋を染め抜くこともできる装置よ。これなら、赤ちゃんが大きくなった後も記念に置いておけると思わない? 今度の発表会では、そのへんもちゃんと見てもらわなきゃ。だから、もちろん絵美ちゃんにはおむつもあててもらうわよ。それにだいいち、トドラーやベビーの着る物は、お尻がおむつで膨れた格好を前提にデザインするんだもの、その前提が崩れちゃ困るのよ」
 こともなげに真奈美は言った。
「いや。赤ちゃんじゃないのに、おむつなんて嫌!」
 真奈美が目の前で広げた自分の顔写真入りの布おむつをひったくるようにして絵美は叫んだ。
「でも、お仕事に含まれる事項なのよ。発表会の時は絵美ちゃんには赤ちゃんになってもらわなきゃ。さっきも言ったように、この布おむつは新しいブランドを構成する大事なアイテムなんだから」
 バスケットから顔写真入りの別の布おむつを掴み上げて真奈美は言った。
「嫌だったら、嫌なの!」
 絵美は激しく首を振った。
「じゃ、違約金を払って仕事をおりるのね? でも、今回の違約金は半端な金額じゃなかったわね。保証人になってる故郷のご両親に払ってもらうつもりなのかしら」
 さっきのお返しとでもいうみたいな口調の詩織だった。
「それは……」
 絵美は言葉に詰まった。専門学校に入るために故郷を出た時も、三人でリップルを立ち上げた時も、心配する両親や姉に大見得を切った絵美だった。私だってもう大人なんだから、心配してもらわなくて結構よ。私は私でちゃんとやってみせるから。
 今さら両親に泣きつくわけにはゆかない。
 急に部屋の中が静かになった。

「はい、話は決まったわね。じゃ、詩織さん、お願いね」
 沈黙を破ったのは真奈美だった。ぱんぱんと手を打つと、応接卓の上に置いたバスタオルを広げ始めた。
 そうして、次に、バスケットから布おむつを全部取り出して、その下に置いてあったおむつカバーを取り上げた。レモン色の生地にアニメキャラクターがプリントしてある、見るからにベビー用という感じの可愛らしいおむつカバーだった。けれど、赤ん坊が使うにしてはどう見てもサイズが大きすぎる。もっとも、絵美の体に合わせて特別に仕立てたおむつカバーなのだから不思議ではない。
「な、何をするんですか」
 絵美の唇が震えている。
「サイズのチェックに決まってるじゃない。詩織さんのは丁度だったけど、絵美ちゃんの分はまだチェックしてないんだから」
 絵美の方に振り向きもせずに、真奈美は、応接卓の上に広げたバスタオルの上に大きなおむつカバーを広げて置き、その上に水玉模様の布おむつを何枚も重ねていった。
「わ、私……」
 言うなり、絵美はソファから立ち上がると、ドアに向かって駆け出した。
 その前に詩織の大きな体が立ちはだかった。
 避けようとしたが、急なことで避けきれない。ぱふっ。絵美と詩織が正面からぶつかった。二人の体がもつれて、絵美は詩織の胸に顔を埋めるような格好で足を止めた。
「困った子ね。いつまで駄々をこねる気なの」
 絵美の背中に腕をまわして、それこそ本当に小さな子供に言うような口調で詩織が囁きかけた。
 若い母親そのままのいでたちでそう言う詩織の声に、なぜだか絵美はどぎまぎしてしまう。顔に触れる詩織の胸の感触が思ったよりも柔らかい。それまで貧乳だ陥没だとからかっていた詩織の胸が本当はこんなに柔らかくてぷりんと張りのあるものだとは思わなかった。厚いパッドの授乳用ブラを着けているからなのかもしれないけど、それにしても。
「大事なお仕事なんだから我儘ばかり言ってちゃ駄目。ちゃんとサイズをチェックしようね」
 これまで聞いたことのない詩織の優しい声に、絵美は思わず頷いてしまいそうになる。だけど、サイズをチェックするというのが、つまり、おむつをあててみるということなんだと気がついて慌てて首を振る。
「いつまで駄々をこねてるの! いい加減になさい!」
 詩織の声が一変した。それまでの猫撫声が、叱りつけるような厳しい口調に変わる。
 絵美はびくっと体を震わせた。
 体を震わせながら、なぜか、胸の中が懐かしさで一杯になる。なんだか、前にもこんなことがあったような気がしてならない。これって――ああ、そうだ。まだ私が小学生だった頃、どんなことがあったのかは忘れたけど、お母さんに向かって随分と駄々をこねてた時だっけ。お姉ちゃんがそんなふうに言って私を叱ったんだ。それまでおとなしくて静かなお姉ちゃんしか知らなかったから、そんなお姉ちゃんがとても怖かったけど、でも、なんだかとても大人に見えて。そうして、ますますお姉ちゃんのことが大好きになったんだっけ。
 絵美はおずおずと顔を上げた。
 絵美の目の先に、にこにこと微笑んでいる詩織の顔があった。さっきの怒声が嘘みたいな穏やかな顔だった。
「へへへ。こんな格好してるから、つい調子に乗ってお母さんみたいなこと言っちゃった。どう、似合ってた?」
 照れたように笑って、絵美の目の前で詩織はぺろっと舌を出してみせた。
 そう。詩織にとってはちょっとした冗談だったのだろう。授乳用ブラのことで詩織をからかった絵美にちょっとお返しをというくらいの軽い気持ちだったのだろう。
 けれど、絵美にとっては、それだけではすまなかった。詩織の姿を見て、詩織の仕種に触れて、絵美は、大好きな姉のことを思い出してしまった。思いきり懐かしくて、思いきり甘酸っぱくて、思いきり切ない思い出と一緒に。
「ちょっと、どうしたのよ、絵美。私の顔に何か付いてる?」
 いつまでも自分の顔を見つめている絵美に、詩織は怪訝な表情を浮かべて言った。
「え? あ、ううん、なんでもない」
 ぶるんと頭を振って、絵美は詩織の顔から目をそらした。
「じゃ、まじで仕事に戻るよ。拘束期間も本番と同じギャラを貰えるなんておいしい仕事、他にないよ。だから、ビジネスだって割り切って、ほら」
 いつもの口調でそう言って、詩織は絵美の背中を軽く押した。
「うん……」
 ビジネス。そう、これはお仕事だ。それも、破格の好条件のお仕事だ。いつまでも久美子の稼ぎにばかり頼ってちゃいけないんだ。お仕事なんだ、これは
 何度も何度も自分に言い聞かせてから、絵美は、おむつの準備をすっかり終えた真奈美が待つ応接卓に向かって歩き出した。




 ようやくふんぎりがついたのか、絵美はブラウスのボタンに指をかけた。
 その手を真奈美がそっと押しとどめた。
「え、何ですか?」
 絵美は真奈美の顔を見上げた。
「詩織さんに脱がせてもらいなさい。さっきは絵美ちゃんが詩織さんを手伝ったから、今度は詩織さんに手伝ってもらうといいわ」
「でも、わざわざ詩織に手伝ってもらわなくても」
「これは私からのオーダーです。発表会では、詩織さんがお母さん、絵美ちゃんがベビーというキャスティングになるわけだから、今のうちにそういう設定に慣れておいてほしいの。少しでも自然な感じを出したいからね。自分でお洋服を脱ぐ赤ちゃんなんていない筈よ」
「そんな……そこまでしなきゃいけないんですか?」
「後で説明するつもりだったけど、先に言っておいた方がよさそうね。――本番までの二週間の拘束期間というのは、アイテムのサイズチェックとか細かな打ち合わせとかもするけど、それ以上に、お母さんとベビーというキャスティングに慣れてもらうために設定した期間なのよ。二人ともプロのモデルだからステージ上の基本的な動きはマスターしているでしょうけど、今度の発表会は、それだけじゃ駄目なの。新しいブランドのイメージに合わせた、若いお母さんと可愛いベビーの結びつきを強調するためには、二人に、実の親子に負けないほどの関係を築いてもらう必要があるの。母親らしい優しい仕種と、赤ちゃんらしい愛くるしい仕種を身につけて、その上で、絵美ちゃんには詩織さんに頼りきる、そして詩織さんには絵美ちゃんに限りない愛情を注ぐ、そんな関係を観客に印象付けてもらいたいの。そのために、前の発表会で好評だった二人にもういちどお願いすることにしたんだから」
 真奈美の目は真剣だった。
「わかってもらえるわね?」
「あ、はい……」
 なんとなく曖昧に、それでも声を揃えて二人は頷いた。

 小柄な絵美だから、洋服を買いに行っても、レディスのコーナーには体に合う物がない。だから、仕方なくキッズとかジュニアのコーナーで買うことになる。今、絵美が着ている洋服もそうだった。ジュニアコーナーに並んでいる洋服の中で少しでも大人びたデザインのを買ってきたブラウスとキュロットだ。ただ、少しでも大人びたデザインのを選んだとはいっても、もともとが子供用だから、襟が丸襟になっていたり、袖がパフスリーブになっていたりする。そのせいで、どうしても、幼い感じになってしまうのは避けられない。
 そんな絵美の洋服を若い母親みたいな格好をした詩織が脱がせているものだから、傍目には、まるで本当の親子みたいに見えてしまう。それは絵美自身も感じているから、うっすらと顔が赤くなってしまう。
「あの、これでいいでしょうか」
 ブラウスとキュロットを脱がせて下着姿にした絵美の体を詩織が真奈美の目の前に押し出した。小柄な体と童顔にお似合いの幼児体型だった。
「それじゃ駄目よ」
 絵美の姿を見るなり、真奈美はきっぱり言った。
「ショーツを穿いたままじゃ、おむつをあてられないじゃない。それに、ブラも要らない。ブラを着けてるベビーなんていないでしょ。全部脱がせて、生まれたまんまの姿にしてあげて」
「は、はい」
 何か言いたそうにする絵美の体を強引に引き寄せて、詩織は真奈美に言われるまま、ブラとショーツとソックスを剥ぎ取ってしまった。抵抗するそぶりをみせた絵美だったけれど、体格に差がありすぎる。詩織が本気になれば、絵美の抵抗なんて何ほどのこともない。
「これでいいでしょうか」
 詩織は、すっかり丸裸に剥いた絵美の体を再び真奈美の目の前に押し出した。絵美は、左手で胸を、右手で下腹部を覆い隠して体を震わせている。
「いいわ。でも、その手が邪魔ね。絵美ちゃん、両手をおろしてちょうだい」
 すっと目を細めて真奈美は言った。
「で、でも……」
 小さな声で言って絵美は顔を伏せた。
「もう仕事は始まっているのよ。クライアントのオーダーが聞けないの?」
 これまで聞いたことのないような冷たい声だった。その声こそが、真奈美の本当の声なのかもしれない。
「仕方ないわよ、絵美」
 詩織も背後から囁いた。
「うん……」
 詩織に言われて、絵美は体の両側におずおずと両手をおろした。
 小振りながらつんと上を向いた乳首が現れ、飾り毛のない幼女のような股間があらわになる。
「ちゃんとお手入れしているのね」
 無毛の股間をじっと見つめて真奈美が声を和らげた。
「はい。いつどんな仕事が入るかわかりませんから」
 顔を伏せたまま絵美はぽつりと言った。
 実際、売れないモデルだからこそ、売れっ子モデルの代役が急に入ってきたりする。洋服を身にまとうこともあれば、水着姿になることもありし、ランジェリーの発表会という場合もある。そんな時に備えて、日頃から見苦しくないよう手入れをしておくのはモデルにとって習慣みたいなものだ。Vゾーンだけ整える者もいるけれど、絵美みたいに綺麗に剃ってしまう者も少なくはない。
「そう。丁度よかった。それなら、おむつかぶれになってもお薬を塗るのに邪魔になる物がなくていいわ」
 真奈美は冗談めかして言った。
 絵美の顔がかっと熱くなる。
「じゃ、始めましょうか。詩織さん、絵美ちゃんをこの上に寝かせてあげて」
 笑い声のまま、真奈美は、応接卓の上に広げたバスタオルを指さした。
「はい」
 言われるまま、詩織は絵美の体に手を伸ばして、そのままひょいと抱き上げた。体格は大人と子供ほど差があるし、重い着ぐるみを被って跳びはねる毎日を続けているおかげで体は自然に鍛えられているから、絵美の体を抱き上げるなんて雑作もないことだ。
 最初は詩織の手から逃れようとして手と脚をばたばたさせていた絵美だが、いざ抱き上げられてしまうと、今度は、間違って落とされでもしたら大変と、知らず知らずのうちに詩織の首筋に両手をまわしてすがりつくような格好をしてしまう。それは、若い母親に甘えてしがみつく丸裸の幼女そのままの姿だった。
「いいわ、お尻がここ――おむつの上になるようにおろしてあげて」
 応接卓のすぐそばに立った詩織に向かって、真奈美は、バスタオルの上に重ねた布おむつを手の甲で軽く叩いて言った。
 詩織が腰をかがめた。
 すっと体が下におりる感覚があって、お尻に柔らかい布が触れた。真奈美が用意した布おむつの感触だった。
 思わず絵美は、詩織の首筋に絡めた両手に力を入れてしまう。おむつの上におろされるのが嫌で、ついついそうしてしまったのだ。
「あらあら、甘えん坊さんだこと。そんなにお母さんの抱っこがいいの? でも、その前におむつをあてちゃおうね。おむつをあてたら、いくらでも抱っこしてもらえるんだから」
 からかうような真奈美の声が飛んできた。
 はっとして、絵美は両手の力をそっと抜いた。途端に体が詩織の腕から滑って、そのままバスタオルの上に落ちてしまう。もう殆ど高さはなかったから痛みは感じなかったけれど、お尻の下に感じる布おむつの感触が恥ずかしい。ドビー織りのコットンがこんなにも柔らかでふっくらしているだなんて思ってもみなかった。
「ふっくらでいい気持ちでしょう? プチ・プチフェアリーの特選素材で仕立てた布おむつですもの」
 絵美の胸の内を見透かしたように真奈美が言った。
「いい気持ちだなんて、そんな……」
 言葉を返すにしても、恥ずかしさのあまり、喘ぐような声になってしまう。
「そうね、いい気持ちだなんて言ってられないわよね。恥ずかしいわよね、おむつだなんて。でも、きっと、いい気持ちになってくるわよ。大勢の人に新しいブランドの魅力を伝えるのが絵美ちゃんの役割なんだもの、まず絵美ちゃんからおむつを好きになってもらわなきゃ」
 冗談とも本気ともつかない口調で真奈美は言った。
「そんな、おむつを好きになるだなんて……」
 絵美は真奈美の顔から目をそらした。そのままじっと見ていると、その大きな瞳に吸い寄せられてしまいそうになる。
「うふふ。ま、いいわ。今にわかるから」
 真奈美は意味ありげに笑って、詩織の方に振り向いた。
「じゃ、今から絵美ちゃんのおむつをあてるから、詩織さんはよく見ていてちょうだいね。次からはずっと詩織さんがあててあげることになるんだから、今のうちにちゃんとあて方を憶えておくのよ」
「これから、ずっと?」
 真奈美の言葉が胸にひっかかる。詩織は顔を真奈美の方に向けて訊き返した。
「後で説明するわ。今は、ほら、早くおむつをあててあげましょう。いつまでも裸のままじゃ風邪をひいちゃうかもしれないから」
 詩織が問い質すのを軽くいなして、真奈美は絵美の体を見おろした。そうして、両脚の腿をもじもじと擦り合わせている絵美の左右の足首を右手だけでまとめて掴むと、そのまま高々と差し上げてしまう。
「な、何をするんですか」
 絵美は怯えた声をあげた。
「何って、おむつをあてるだけよ。変なことはしないから心配しないで」
 病気でもない大人の女性におむつをあてるというのは充分に「変なこと」だと思うが、真奈美は意に介さない。
「ほら、こうして足首を持ち上げると、お尻がちょっと浮くでしょ? こうしておいて、おむつのずれを直すのよ」
 右手で絵美の足首を高く差し上げたまま、僅かに浮いたお尻とバスタオルとの隙間を使って、真奈美は左手だけでおむつの位置を整えた。
「それから、おむつの端を持ち上げて、両脚の間を通してお腹の方へ持っていくの。お尻をおろしてからでもできるけど、そうすると、お尻の重みのせいでおむつがお尻をちゃんと包みこまないことがあるのよ。そうなるとおしっこが洩れることが多いから、こうやって足首を持ち上げたままおむつを伸ばしていった方がいいの」
 おヘソのすぐ下まで持っていった布おむつの端をお腹の上で整えてから、真奈美は絵美の脚をバスタオルの上に戻した。
「脚をおろしたら、今度はおむつの右と左を持って広げるようにすること。両脚の狭い間隔を無理に通しておむつの端をお腹の上に持ってきたから、そのままだとちゃんと股に当たっていないの。だから、こうしてちゃんと広げるのよ。それと、こうしてる時に絵美ちゃんが脚を動かさないように注意していてちょうだい。まだ、おむつはお腹の上に載っかっているだけで、きちんと留まっているわけじゃないから」
 そうして真奈美は絵美のお尻の左右に広がっているおむつカバーの横羽根を持ち上げて、お腹の上の布おむつに重ねた。
「横羽根にはマジックテープが付いていて、ほら、こうしてお互いを重ねて軽く押し付けると、ちょっと引っ張ったくらいじゃ外れなくなるでしょ。こうすれば、おむつカバーの横羽根がおむつを押さえつけてくれるから、もう、絵美ちゃんが少しくらい脚を動かしてもおむつがずれることはなくなるわ」
 それから絵美の両脚の間に広がっているおむつカバーの前当てを持ち上げながら、何か思い出したような顔つきになって手を止めた。
「基本的なことを説明するのを忘れていたわ。おむつのあて方には二通りあってね、両脚の間を通したおむつと直角に横当てのおむつも使う方法と、今みたいに横当ては使わない方法があるの。少しでもおしっこが洩れ出すのを防ぐために昔は横当てを使う方法が普通だったけど、横当てのおむつが脚の付け根のところを圧迫するせいで股関節脱臼になる赤ちゃんが多かったらしいわ。それで、今は、横当てのおむつを使わない『股おむつ』というあて方が一般的になっているの。うちの新しいブランドのおむつカバーも股おむつ用に作ってあるから、そういうことも憶えておいて」
 真奈美はそう言うと、再び手を動かし始めた。
「横羽根はお腹の上でおむつを固定するためだけにあるのじゃないのよ。横羽根は後ろの方が広くなっていて、ほら、下の方は腿のあたりまで広がっているわね。これでお尻を包み込むようになっているわけ。で、前の方は表側にもマジックテープが縫い付けてあって、ここに前当ての端を重ねると、ほら、きちんと留まったわね。これで大体はできあがりなんだけど、最後に大事なことを忘れないでね」
 腿の内側や、お尻の後ろの方で、所々おむつがおむつカバーの裾からはみ出している。
「おむつカバーからおむつがはみ出していると、そこからおしっこが洩れちゃうのよ。だから、きちんとおむつカバーの中に押し込んでおくこと」
 言いながら、真奈美は人さし指と親指の腹で水玉模様のおむつをレモン色のおむつカバーの中に丁寧に押し込んでいった。
「さ、できた。これでいいわ。可愛い赤ちゃんのできあがり」
 大きく膨らんだおむつカバーの上から絵美のお尻をぽんと叩いて真奈美は微笑んだ。
 今、詩織の目の前にいるのは、上半身が裸で下半身はおむつカバーという、見ようによっては滑稽な、でも、見ようによってはひどく倒錯的でエロティックな姿をした絵美だった。年ごろの女性のおむつ姿は異様に見えたが、同時に、どこかなまめかしくも見える。
「おむつのあて方、ちゃんと憶えた?」
 絵美のおむつ姿にじっと見入っている詩織に、おむつカバーの裾を整え終えた真奈美が言った。
「あ、あの……はい……」
 なんとなく悪のりするみたいな感じで半ば面白半分に絵美を裸にして真奈美に言われるまま応接卓の上に抱き上げた詩織だったが、いざこうして本当におむつをあてられた絵美を目の当たりにすると、自分のことでもないのに恥ずかしさで顔がほてってくる。それに、なんていうか、恥ずかしさだけじゃなくて、なんだかわからないけど、絵美のことがとても可愛らしく思えて、ついつい、おむつで膨れたお尻に目がいってしまう。
「それならいいわ。さっきも言ったように、次からはずっと詩織さんがあててあげることになるんだからね」
「あ、そうだった。さっきもそう言って、それで、後で説明してあげるって……これからずっと私が絵美におむつをあてることになるって、どういうことなんですか」
 はっとした表情になって、詩織は絵美のお尻から真奈美の口元に視線を移した。
「若いお母さんと可愛いベビーの結びつきを強調するために、二人に、実の親子に負けないほどの関係を築いてもらう必要があるってさっき言ったわよね。母親らしい優しい仕種と、赤ちゃんらしい愛くるしい仕種を身につけて、その上で、絵美ちゃんには詩織さんに頼りきる、そして詩織さんには絵美ちゃんに限りない愛情を注ぐ、そんな関係になってほしいって。そのための準備期間として二週間を用意したのよとも。――私がそう言ったこと憶えているわよね?」
「え、ええ」
「なら、話は簡単。準備期間の間、詩織さんは若いお母さんとして生活してもらいます。絵美ちゃんは、もちろん、詩織さんの赤ちゃん。ステージ上の演技ではなく、本物の親子になってもらいたいの。だから、詩織さんには絵美ちゃんを本当の赤ちゃんみたいに扱ってもらうし、絵美ちゃんには詩織さんに甘える生活をしてもらいます。赤ちゃんだったらおむつをしているのが当たり前で、赤ちゃんのおむつをお母さんが取り替えてあげるのが当たり前。簡単な話でしょ?」
「そんな……」
 慌ててバスタオルの上に上半身を起こした絵美が抗議の声をあげた。
「馬鹿げてます。私たちにそんなオママゴトみたいな真似をしろだなんて」
 詩織の声が絵美の声に重なった。
「あら、『オママゴトみたいな』じゃないわよ。オママゴトなんて、せいぜい二時間もしたら飽きて終わっちゃうじゃない。でも、これは二週間も続く本当の生活なのよ。遊びじゃない、実生活なのよ。それも、ちゃんとしたビジネスとしての」
 真奈美は、腰に手の甲を押し当てて、少し身を乗り出すような格好で決めつけた。

「……おります」
 少し沈黙があって、それから、絞り出すような声で詩織が言った。
「こんな仕事、引き受けられません。私たちはおります」
 もういちど、今度は真奈美の顔を睨みつけるようにして言う。
「そう。それなら仕方ないわね。私も無理にとは言わないわ。やる気のないモデルを使ってもステージが成功するわけないものね。でも、ビジネスはビジネス。違約金は払ってもらいますよ」
 再び冷たい声に戻って真奈美が言った。
「それと、業界に回状をまわしておきます。リップルにはモデル派遣を依頼しないようにという注意書きをね。発表会の直前になって一方的にキャンセルだなんて迷惑を被るのは当社だけにしておかないといけないものね」
 詩織と絵美の顔がこわばった。そんな回状をアパレル業界全体にまわされたら、ただでさえ零細派遣業者であるリップルはそれこそお手上げだ。そんなことになったら、二人はともかく、これまで一人で会社を切り盛りしてきた久美子にとんでもない迷惑をかけることになる。
「……やろうよ、詩織」
 ぽつりと絵美が言った。首をうなだれると、レモン色のおむつカバーに包まれた自分の下腹部が見える。ひどい恥ずかしさを覚えながら、それでも絵美は観念したように繰り返した。
「一旦は引き受けたお仕事だもの、最後までやろうよ。久美子に迷惑かけちゃいけないよ」
「いいの?」
 思いもかけない絵美の言葉に、詩織は大きく目を見開いて訊き返した。
「私はまだいいわよ。ちゃんとした格好ができるんだから。でも、あんたは違うのよ。赤ちゃんの格好をしなきゃいけないのよ。赤ちゃんの格好をして……そうやって、おむつまであてなきゃいけないのよ」
「仕方ないよ。これまでずっと私たちの分まで頑張ってきてくれた久美子に迷惑かけられないもの。それに……」
 詩織の顔を振り仰いで、絵美は弱々しく笑ってみせた。そうして、何か言おうとして、慌てて言葉を飲み込んでしまう。
「それに? それに、何なの?」
 尋ね返す詩織。
「ううん、なんでもない」
 照れくさそうに目を閉じて絵美は口を閉ざした。
 なんだか自分でもわからない気持ちで胸が一杯になっていた。久美子に迷惑をかけちゃいけないから仕事を引き受ける。その気持ちも本当だ。でも、それとはまるで別の、それがどういうことなのか絵美自身にもよくわからない気持ちが胸を満たしていた。どういえばいいんだろう、詩織と一緒に二週間を過ごしてみたいというような、もっとはっきり言うなら、詩織に甘えられるなら、どんな恥ずかしいことがあっても平気みたいな気持ち。いったいどうしてそんな気持ちになっちゃったのか自分でもまるでわからない。わからないけど、とにかく、そうなっちゃった絵美だった。

「で、どうなったのかしら」
 少し身を乗り出した格好のまま、真奈美は詩織の顔を覗きこむようにして言った。
「あの、やっぱり、やります。やらせてください」
 ちょっとバツのわるそうな表情を浮かべて詩織は答えた。
「わかりました。さすが、私が見込んだ二人だわ。最初からそんなふうに気持ちよく引き受けてくれればいいのに、ほんとに意地悪なんだから」
 うって変わって馴れ馴れしい口調になる真奈美。経営者には、これくらいの変わり身の早さも必要なのかもしれない。
「そうと決まったら、次は上に着る物ね。おむつにお似合いの可愛いドレスなんかいいわね」
 言いながら、真奈美はバスケットからパステルピンクのベビードレスを取り出した。ベビードレスとはいっても、大きなおむつカバー同様、サイズは絵美の体に合わせて仕立ててある。それでも、デザインは確かにベビー向けだった。背中に三つ並んだボタンも、胸元と裾にあしらった飾りレースのフリルも、パフスリーブに仕立てた七分袖も、首筋を取り囲むようにふわっと立ったレースの襟も、そのどれもが、本当の赤ん坊が身を包むベビードレスそのままだった。
「はい、お手々を上げて」
 大きなベビードレスを二つに折って自分の肘にかけた真奈美は、絵美の手首を掴んで高々と差し上げさせた。
 仕事を続けると口では言った絵美も、いかにも赤ん坊向けといったデザインのベビードレスを目にした途端、体中が真っ赤になってしまう。
「それでいいわ。そのままじっとしているのよ」
 真奈美は、頭の上に差し上げた絵美の両手の先にベビードレスの裾を被せ、そのまますっと引き下げて袖口を手首のところで留めてから、レースの襟で首を包み込むようにすっぽり頭から被せて、もういちど裾をさっと引きおろした。そうすると、微かな胸の膨らみを通り越してお腹の上まで滑ってきたベビードレスの裾がふわっと広がりながら体を包みこんで、レモン色のおむつカバーを覆い隠す。けれど、おむつカバーは全部が隠れたわけではなく、丈の短いベビードレスの裾から、まだ三分の一ほどは見えている。
「もう、お手々をおろしてもいいわよ」
 絵美が両手を体の両側におろすのを待って、真奈美は背中のボタンを留めてからベビードレスの裾を何度か軽く引っ張って乱れを直した。
「うん、よくお似合いよ。じゃ、次はソックスね。――詩織さん、絵美ちゃんの右足をちょっとだけ持ち上げてちょうだい」
「あ、はい」
 ベビードレスを着せられた絵美の姿に目が釘付けになってしまっていた詩織が、我に返ったように返事をして、言われるまま絵美の右足を持ち上げた。その手つきは、まるで、壊れ物に触れるような手つきだった。それとも、幼い赤ん坊の体にそっと触れる母親の手つきと言った方がいいのだろうか。
「そう、そのままにしていてね」
 真奈美は、応接卓の上に浮いた絵美の右足に、藤でできたバスケットから掴み上げたばかりのソックスを履かせた。ベビードレスと同じ色合いの、足首のところにサクランボのボンボンが付いたソックスだった。
「はい、次は左足」
 詩織の手が動いて、今度は絵美の左足をそっと持ち上げた。そこへ真奈美の手が伸びて、さっとソックスを履かせる。
「いいわよ。あとは髪の毛だけね。これで完璧よ」
 両方の足にソックスを履かせた真奈美は、それもバスケットに入っていたのだろうか、小振りのヘアブラシを手にすると、絵美の髪を撫でつけ始めた。肩に届くか届かないかの長さの髪の後ろの方をさっと左右に分けて両方の耳の上で房にし、ソックスと同じサクランボの付いたカラーゴムできゅっと結わえる。そうしておいて、前髪をふんわりしたウェーブにして目の上に垂らす、幼い女の子がよくそうしているようなヘアスタイルに手早く整えてしまう。
「どう、詩織さん。ママの目から見た絵美ちゃんは?」
 すっかり赤ん坊の装いに身を包まれた絵美の体を頭の先から爪先まで不遠慮に眺めまわして真奈美は言った。
「どうって言われても、あの……」
 詩織は戸惑っていた。まさか、絵美がこれほど可愛らしい赤ん坊に変身するとは思ってもみなかった。たっぷりのおむつで膨らんだおむつカバーを三分の一ほどベビードレスの裾から覗かせて、ベビードレスと同じ色のソックスを履いた絵美は、体の大きささえ気にしなければ、まるで本当の赤ん坊だった。そんな絵美についつい目を奪われてしまう詩織。
「うふふ、すっかり可愛らしくなって、ママのお気に入りのベビーに変身しちゃったでしょう? うん、サイズもぴったりみたいだし、これでいいわね」
 まともに応えられない詩織の顔を面白そうに眺めて、真奈美は大きく頷いた。
 と、執務机に置いたインターフォンから電子音が聞こえて、それに続いて秘書らしき女性の声が流れてきた。
『そろそろ昼食のお時間ですが、どのようにいたしましょうか』
 その声に真奈美は腕時計にちらと目を走らせると、もうこんな時間なのと呟いて、インターフォンのトークバックボタンを押して言った。
「こちらの準備はだいたい終わったから、例の部屋に運んでおいて。あ、でも、私は自分の部屋に戻ってから食べるわ」
『承知しました。では、お二人の分はあのお部屋にお運びいたします。常務の分は後ほどお部屋にお持ちいたします』
 簡潔な返事があって、インターフォンは再び静かになった。
「聞いての通りよ。いつのまにかお昼になっていたのね。一段落つけて、昼食にしましょう」
 執務机から応接机の前に戻って、真奈美は二人に言った。
「昼食って、例の部屋って、あの……」
 不安を隠しきれない声で言ったのは絵美だった。まさか、こんな格好でどこか外へ連れ出されたりしたらと思うと気が気ではない。
「大丈夫よ。すぐ隣の部屋、ほら、あのドアでつながっている部屋に昼食を用意してもらったから」
 くすっと笑って、真奈美は部屋の一角にあるドアを指さした。
「将来的に生産資材を世界中から調達する計画があって、そのためのオペレーションルームに使える部屋を前もって用意しておいたのよ。世界中が相手だから二十四時間体制でオーダーを出したり貨物追跡をしたりできるよう、仮眠室からお風呂まで揃えた、わりと広い部屋なの。でも、まだ具体的な計画は実行に移されていないから、今のところは空き部屋のまま。それで、発表会までの準備期間、あの部屋を二人で使ってもらおうと思って手を入れておいたってわけ。――外へなんて連れ出さないわよ。これで安心?」
 胸の内を見抜かれたみたいに思えて、絵美は無言で頷くしかなかった。




 真奈美の部屋とドア一つでつながっているその部屋に足を踏み入れた途端、詩織と絵美はその場に立ちすくんだ。
 世界中から生産資材を調達するためのオペレーションルームと聞かされていたからいかにも近代的な内装を施してあるのだろうと漠然と思っていたのに、まるで違っていた。いくら手を入れたとはいっても、その部屋の様子は、二人の思っていたのとはあまりに違っていた。その部屋は、近代的なオフィスどころか、まるでどこかのマンションの一室にでも迷い込んだのかと思ってしまいそうになるような内装になっていた。
 純白のレースのカーテンがかかった大きな窓。窓際に据えてある豪奢な造りのクイーンサイズのベッド。大きなベッドの横に並べておいてある、白い木製のベビーベッド。淡いクリーム色の壁。壁際に置いてある、たくさんの着替えを収納するのに便利そうな大振りの整理タンス。整理タンスの隣には、ベビーベッドと同じ木製の真っ白のベビータンスが並んでいる。さほど大きくないシャンデリアを吊った高い天井。ベビーベッドの上には、サークルメリーも吊ってある。
 それは、少し裕福な家庭の寝室そのままだった。それも、生まれたばかりの赤ん坊のいる、若い夫婦の寝室。
「気に入ってもらえたかしら?」
 二人の背中を押すようにして部屋に入った真奈美が詩織と絵美の顔を見比べて言った。
「ここは……?」
 呆然とした顔で詩織が呟くように訊いた。
「だから、ここが二人の部屋よ。発表会までの二週間、二人はここで暮らすのよ。若いママとベビーとしてね。詩織さんの着替えは整理タンスにしまってあるし、絵美ちゃんの着替えはベビータンスに入っています。着替えの他にも必要な物はみんな揃えたつもりだけど、足りない物があったら遠慮しないで言ってちょうだい」
 真奈美は大げさに両手を広げてみせた。
 詩織と絵美は顔を見合わせた。これ以上はないくらいの困惑の顔つきだった。
「あの、それじゃ、ひょっとして、あのベビーベッドに絵美が寝ることになるんでしょうか」
 おそるおそるといった感じで詩織が訊いた。
「そうよ。そのためにわざわざ特別に作らせた、絵美ちゃんが窮屈じゃない大きなベビーベッドなんだから。あ、でも、ママが恋しくて一人じゃ寂しいのなら、そっちのベッドで一緒に寝てもいいのよ。それは二人の決めることだものね。――ついでだから、部屋の中を案内しておきましょう。ついてきて」
 真奈美は絵美に向かってウインクしてみせると、さっさと歩き出した。
 仕方なく二人も真奈美につき従うことになる。詩織はまだいいのだが、可哀想なのは絵美だった。たっぷりあてられたおむつのせいでどうしても両脚を閉じることができなくて、僅かながら開きぎみになってしまう。それに加えて、一歩でも脚を動かすたびに、布おむつが下腹部をさわっと撫でるような感触が股間から伝わってくるし、おむつカバーの裾ゴムがきゅっと腿を締め付けるような感覚が伝わってくるため、どうしてもまともに歩けない。なんだか、足取りのおぼつかない、ようやくよちよち歩きを始めたばかりの幼児みたいな、少し進むたびに右に左に大きくお尻を揺らすような歩き方になってしまう。そうして、そのたびにベビードレスの裾が僅かながらふわっと舞い上がって、ただでさえスカートの下から少し見えているおむつカバーがますますあらわになってしまう。
 絵美のそんな事情を知っているのだろう、わざとゆっくり歩を進める真奈美だった。

「ほら、ここにドアがあるわね。これを開けると」
 部屋の一番奥の所にあるドアを真奈美が引き開けると、その向こうは、リビングルームふうの内装を施した部屋になっていた。
「オペレーションルームになる予定のこの部屋をリビングルームに改装して、仮眠室になる予定の部屋をさっきの寝室にしておいたの」
 真奈美が二人を連れて行った部屋は、確かに真奈美の言う通り、よくあるようなリビングルームふうの作りになっていた。上面がガラスになっている座卓に、座り心地のよさそうな座椅子。それに、大画面のテレビとビデオデッキ、サイドボードやマガジンラックも揃っている。
「で、こっちのドアがバスルームにつながっているの。フィルターを通して濾過したお湯をいつも循環させているから、二十四時間、いつでもお風呂に入れるようになっています。で、向こうのドアは外側の廊下につながっています。給湯室は廊下の突き当たりあるから、自分でお茶を煎れる時は、向こうのドアから廊下に出てちょうだい。お茶っ葉とインスタントコーヒーはいつも置いてあるから遠慮しないで使ってもらっていいわ」
 座卓のそばに立って、真奈美は、向かい合わせになった二枚のドアを順番に指さして説明した。
「およそのことはわかってもらえたかな。じゃ、お昼にしましょう。松屋の仕出弁当を頼んでおいたのよ。ここいらじゃ、あそこのお弁当が一番だものね。私は次の仕事の段取りがあってご一緒できないから、二人で食べておいてちょうだい。空になった容器はドアの外に出しておいてもらえば私の秘書が片づけるから」
 真奈美は床に膝をついて座椅子を一つ手前に引いた。
 真奈美の言うように、座椅子の前の座卓には、見るからに豪勢な仕出弁当が置いてあった。贅沢な食事には無縁な詩織も名前だけは聞いたことがある老舗割烹の仕出弁当だった。けれど、仕出弁当は一つしかなかった。
「あの、もう一つのお弁当は?」
 遠慮がちに詩織が尋ねた。
「あら、お弁当は詩織さんの分、これ一つよ。私の分は自分の部屋に運んでもらっているから」
 わざとのようにとぼけた声で真奈美は言った。
「いえ、あの、絵美の分は……」
「ああ、絵美ちゃんの分? それだったら、詩織さんのお弁当の横に置いてあるじゃない。ほら、その白いトレイに載せて」
 真奈美は意味ありげに微笑んだ。
「これですか? これが本当に絵美の分?」
 その白いトレイには詩織も気づいていた。でも、まさか、それが絵美の昼食だとは思わなかった。だって、その白いトレイに載っているのは。
「そうよ。ミルクに、野菜のペーストとチキンのシチュー。デザートにプリン。こんなメニュー、絵美ちゃんは嫌いなのかな」
 真奈美はトレイに載った食器を数えるようにして言った。
「で、でも……それってみんな、赤ちゃんの食べ物ですよね?」
 おそるおそる詩織は言った。
 わざわざ確認しなくても詩織の言う通りだった。ミルクは哺乳壜に入っていたし、野菜のペーストもチキンのシチューも、子供用のプラスチックの食器に盛りつけたベビーフードだった。トレイの上に並んでいるのは、どれも赤ん坊が口にするような食べ物ばかりだった。
「あら、赤ちゃんがベビーフードを食べるのが変かしら。おむつをあててベビードレスを着た赤ちゃんがベビーフードを食べるのがそんなに変? 一日も早く赤ちゃんの生活に慣れてもらわなきゃいけないのよ。それをわかってもらった上で仕事を引き受けてもらった筈だけど」
 真奈美は微かに首をかしげた。
 そう言われると、返す言葉もない。
「わかってもらえたならいいわ。さ、どうぞ」
 真奈美はあらためて詩織に座椅子を勧めた。
 諦めたように頷いて、詩織は座椅子におずおずと腰をおろした。
「駄目よ、そんな座り方じゃ」
 突然、真奈美がぴしゃりと言った。
 けれど、言われた詩織は何がいけないのかわからない。自分では行儀良く正座したつもりだ。
「脚を伸ばさないと、絵美ちゃんが座れないじゃないの」
「え?」
「え、じゃありません。ほら、こうして」
 言うが早いか、真奈美は両手を詩織の膝にかけて、半ば強引に脚を伸ばさせた。
「こうすれば、詩織さんの脚の上に絵美ちゃんが座れるんだから。それとも、なぁに。赤ちゃんを一人で座椅子に座らせてご飯を食べさせるつもりだったの?」
 その言葉を聞いて、ようやく詩織は真奈美が何を言っているのかわかったような気がした。つまり真奈美は、絵美を詩織の膝の上に座らせてご飯を食べさせてあげなさいと言っているのだ。
「ほら、絵美ちゃんはここにお座りするのよ。いらっしゃい」
 真奈美は絵美の脇の下に両手を差し入れて抱き寄せると、そのまま詩織に押しつけた。
「あ……」
 強引に体を引き寄せられて脚がもつれた絵美は、まるで倒れ込むようにして詩織の膝の上にお尻を落とした。
 プリーツスカートから伸びた詩織の膝に、おむつで膨らんだおむつカバーの生地が触れる。どこかつるんとした生地の感触が、絵美のお尻を確かにおむつカバーが包んでいるんだとあらためて知らせる。どういうわけだか、詩織は胸がきゅんと締めつけられるような思いにとらわれた。
「それでいいわ。じゃ、ママにご飯を食べさせてもらって、その後はお昼寝をするなりヌイグルミと遊ぶなり、絵美ちゃんの好きなようにするといいわ。発表会まで、ここで暮らすんだからね。その間にちゃんと赤ちゃんになっておくのよ」
 あやすように言って真奈美はすっと立ち上がると、外の廊下につながるドアに向かって歩き出した。
 その背後から、急に何かを思いだしたとでもいうような詩織の声が聞こえた。
「待って、待ってください」
「何かしら」
 ふと立ち止まって真奈美は振り返った。
「バスルームと給湯室の場所は聞いたんですけど、あの、トイレはどこにあるんでしょうか」
 ちょっと言いにくそうに詩織は尋ねた。
「ああ、トイレなら、給湯室の手前にあるわ。給湯室の手前に予備の資料室があって、その手前」
 真奈美の言葉を聞いた絵美が慌てて聞き返した。
「あの、この部屋のどこかにないんでしょうか? ……廊下に出なきゃいけないんですか?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「だって……廊下に出たりしたら、誰かと会うかもしれないでしょ? こんな格好を誰かに見られるなんて」
 詩織に抱っこされたまま、絵美は弱々しく首を振った。
「あら、それじゃ、トイレに行かなきゃいいじゃない。詩織さんはそうも言ってられないけど、絵美ちゃんはトイレに行かなくても大丈夫な筈よ」
 真奈美は意味ありげに目を細めた。
「ど、どういうことですか」
 絵美は真奈美の顔を振り仰いだ。
「だって、絵美ちゃんはおむつをあててるんじゃなかったの? 何ためのおむつなのかしら」
 にっと笑って真奈美は言った。
「そんな、そんな」
 絵美は激しく首を振った。
 けれど、もう真奈美はドアの方に向き直って歩き出している。そうして、ドアを開けて出て行く間際にこう言った。
「念のために忠告しておくけど、この部屋には監視カメラが幾つも取り付けてあるからね。勝手にプチ・プチフェアリーのアイテム以外の物を身に着けたら、その場で契約破棄とみなします。お二人のプライバシーに関わることだから他の社員に見せることだけは絶対にしないけど、夜もテープに録画していることは忘れないでちょうだい。――ああ、そうだ。汚れ物は朝のうちにドアの外に出しておいてもらえばこちらで洗濯して夕方には届けるようにします。だから、絵美ちゃんも遠慮しないで、たくさんおむつ汚してもいいのよ」
 ドアが閉まる音を聞きながら、詩織と絵美は顔を見合わせた。




「とりあえず、ご飯にしようか」
 真奈美が出て行った後、なんだか長い間言葉を交わすことも忘れて沈黙を続けていた二人だけど、先に口を開いたのは詩織だった。
「ご飯って、それのこと? 赤ちゃんでもないのに、哺乳壜とベビーフードなの?」
 絵美は不満そうに口を尖らせて、座卓の上に置いてあるトレイを顎先で指した。けれど、おむつカバーにベビードレスという格好で詩織の膝に抱っこされた絵美がそう言っても、てんで説得力がない。むしろ、小さな子供が「あたし、もうお姉ちゃんなのに」と言って拗ねているようにさえ思えてしまう。
「二週間の我慢よ。あっと言う間だから辛抱しましょう」
 膝の上に座らせた絵美のことがなぜだかいとおしく思えて、詩織は絵美の身体をぎゅっと抱き寄せるようにして哺乳壜を持ち上げた。
「そんなに力を入れたら痛いったら。それに、本気で哺乳壜でミルクを飲ませるつもりなの? そんなことしないで、詩織のお弁当を半分ちょうだいよ」
 いやいやをするみたいに絵美は何度も首を振った。
 そんな絵美を、更に力を入れて抱き寄せる詩織。
「これもお仕事なんだから我儘を言わないの。私がキャンセルしかけたのに、絵美が引き受けちゃったんだからね。ご飯も、監視カメラで見張られてるんだもの、勝手な真似はできないわよ」
「だって、でも……」
 近づいてくる哺乳壜を振り払おうと伸ばしかけた絵美の手の動きが止まった。詩織に抱き寄せられたせいで、詩織の胸が横顔に触れている。エプロンとブラウスの生地を通じて、授乳用ブラのパッドの感触が伝わってくる。微かに、本当に微かに、どくんどくんという心臓の鼓動さえ感じられる。その鼓動を感じた途端、絵美は手の動きを止めてしまったのだ。なんだか、とても奇妙な気持ちが溢れてくる。
「はい、あーんして」
 詩織は絵美の唇に哺乳壜の乳首を押し当てた。奇妙な気持ちになっているのは詩織も同じだった。少し前までは専門学校の級友で、今はリップルの同僚の絵美に向かって幼児に対して言うような言葉をかけ、哺乳壜を口にふくませようとしているのだ。本当ならそんなこと、とてもじゃないけどできるものではない。なのに、膝の上に座らせた絵美の体重を感じ、絵美のお尻を包みこんだおむつカバーの感触を感じ、そうして、授乳用ブラのパッドを通して乳房に絵美の顔のほてりを感じているうちに、そうすることが、なんだかとても自然なことのように思えてきてしまう。
 詩織にされるまま、絵美はゴムの乳首を口にふくんで、そっと唇を動かした。
 口の中にほのかに甘い香りが広がって、舌いっぱいにミルクの味が広がる。
「いや……」
 一度は哺乳壜の乳首を咥えた絵美だったけれど、冷たいミルクの感触で我に返ったのか、ぶるんと首を振った。哺乳壜が離れて、半開きになったままの唇の端からミルクが細い条になってこぼれ出す。
 唇から溢れたミルクは絵美の頬を伝い、小さな滴になって顎先から胸元に滴り落ちた。
 慌てて哺乳壜をトレイに戻した詩織は、何か拭く物がないかと、あらためて座卓の上に目を走らせた。と、ベビーフードを盛りつけたプラスチックの食器の横にタオル地の布が置いてあるのが目に留まる。詩織は急いでその布地をつかみ上げた。
 けれど、タオル地に細い紐が何本か縫いつけてあるそれは、オシボリでもナプキンでもなかった。詩織が大急ぎで広げたそれは、小さなフリルで縁取りしたタオル地でできた涎かけだった。
 自分が手にしたのが大きな涎かけだとわかった詩織は少しだけ迷ったが、すぐに、その涎かけで絵美の唇から顎先にかけて、こぼれ出たミルクをそっと拭った。
「いや、そんなので拭かないで」
 詩織が持っているのが大きな涎かけだということは絵美にもすぐわかった。絵美は詩織の手から逃れようとして体を退いた。けれど、詩織の左手と胸に阻まれて、じきに身動きが取れなくなる。
「ほら、じっとしてなさい。ちゃんと拭いておかないと、せっかくの可愛いベビードレスまで汚しちゃうでしょ」
 言いながら詩織は丁寧にミルクの条を拭い取ってから、もういちどきちんと涎かけを広げて絵美の首筋に巻き付けた。
「なに、何をする気なの」
 身動きできないのはわかっているのに、それでも絵美は体を退こうとする。そんな絵美の体を詩織がいとも簡単に押さえつけてしまう。
「そんなに暴れないの。これをしておけばミルクをこぼしても大丈夫なんだから」
 首の後ろで細い紐をきゅっと結び、続いて背中でもう一本の紐をきゅっと結わえて、ようやく詩織は絵美の体を押さえつけていた手を離した。そうして、大きな涎かけで覆われた絵美の胸元に目をやる。涎かけの真ん中あたりにあしらった子犬の刺繍が愛くるしい。
「ん、いいわ。これなら、少しくらいミルクをこぼしてもベビードレスは汚れないわね」
 満足そうに頷いて、詩織は絵美の涎かけを二度三度と優しく撫でた。
 詩織の掌の感触が涎かけやベビードレスの上から伝わってくる。その感触に、さっき感じた奇妙な気持ちが少しずつ蘇ってくる。絵美は、自分の心臓の高鳴りが次第次第に大きくなってくるのに気づいて、なぜとはなしに頬を赤らめた。
「じゃ、あらためて」
 詩織はもういちど哺乳壜を持ち上げて、ゴムの乳首を絵美の口にふくませた。
 絵美の唇がおずおずと動いた。ミルクの匂いが口の中いっぱいに広がって、舌を伝ってミルクが喉の奧に流れて行く。もう今度は絵美は哺乳壜の乳首を吐き出さなかった。さっきのことにしても、本当はそうするつもりはなかった。ただ、哺乳壜を口にするということが思いのほか恥ずかしくなって、無意識のうちについつい首を振ってしまっただけだ。だって、絵美は本当は心の中では詩織の手で飲まされる哺乳壜のミルクをそんなには嫌がってはいなかったのだから。
 けれど、そんな心の動きの本当の意味には絵美自身もまだ気がついていない。ただただ、わけのわからない奇妙な気持ちとしか感じていない。そう、まだ、今のところは。
「そうそう。お上手よ、絵美ちゃん」
 ミルクを飲ませながら、詩織はまるで幼児にするように絵美の背中を優しくとんとんと叩いた。
「絵美……ちゃん?」
 詩織が自分のことを真奈美がそうしたように『ちゃん』付けで呼んだことに気がついて、ゴムの乳首を咥えたまま絵美は小さな声で呟いた。
 途端に、半開きの唇からミルクが流れ出す。
「あ、ほら、ミルクを飲んでる時に喋るから」
 詩織は哺乳壜の乳首を絵美の唇から離して、絵美の首に巻き付けた涎かけの端で絵美の口元をそっと拭った。そうして、苦笑するような顔つきになって小声で言った。
「私、そんな呼び方した?」
「……うん」
 こくんと絵美は頷いた。
「そう。なら、そうなんでしょうね。絵美のことをいつかそんなふうに呼ぶんじゃないかなって自分でも思ってた。特に、佐倉さんがそう呼んでるのを耳にしてからは余計にね」
 ふっと息を吐き出して照れたように詩織は言った。
「どういうこと?」
「さあね。――それより、ご飯の続きよ」
 言葉を濁した詩織は、プラスチックのスプーンでチキンのシチューを掬って絵美の口に押し込んだ。そうしないと、絵美に本心を見透かされそうだったから。そのまま話していると、詩織の胸を満たした思いを絵美に知られてしまいそうだったから。
 とはいえ、本心といっても、それが本当はどんな気持ちなのか、詩織自身にも実はまだよくわからない。今のところは、絵美が胸の中に抱いている奇妙な気持ちと同じようなものだ。それでも、なぜだか、自分がそんな気持ちを持っていることを絵美に知られるのがとてもいけないことのように思えてならない。そう、まだ、今ところは。
「むぐ。……何、これ。ちっとも味がしないよ」
 無理矢理みたいに口の中に押し込まれたベビーフードだけど、いつまでも口の中に入れたままにもしておけない。渋々のように絵美はベビーフードを飲みこんだ。もともと赤ん坊が食べられるように柔らかく調理してあるから噛む必要もない。味付けも、全く味がしないといっていいほどの薄味だった。
「そりゃそうよ。小っちゃな赤ちゃんの食べ物だもの、香辛料なんて殆ど使ってない筈だからね。今は頼りなく感じるでしょうけど、二週間もすれば絵美も慣れるんじゃないの」
 今度は『ちゃん』を付けずに絵美の名を呼んで詩織は言った。
「やっぱり、こんな食べ物ばかりなのかな」
 絵美はぽつりと言った。
「そりゃそうよ。絵美は赤ちゃんだもの。赤ちゃんはベビーフードなのよ。――はい、今度は野菜のペースト」
 くすっと笑った詩織は野菜のペーストをスプーンに掬って絵美の口に近づけた。
「……あ、待って」
 突然、絵美が弱々しく首を振ってベビーフードのスプーンを拒んだ。
「ん、どうしたの?」
 訝しむような表情で詩織が訊いた。
「ご飯よりも、あの……」
 言いかけて、絵美は途中で言葉に詰まった。
「だから、どうしたのよ」
 スプーンをトレイに戻して詩織は訊き返した。
「あのさ、あの……」
 絵美はまだ言い淀んでいる。
「ちゃんと言わなきゃわからないでしょ」
 詩織は絵美の耳元に唇を寄せて囁くみたいにして言った。
 ようやく決心がついたのか、きゅっと下唇を噛んで、絵美は詩織の顔を見ないようにして言った。
「お、おしっこなの」
「なんだ、おしっこだったの。そうね、打ち合わせの時はちっとも休憩時間なんてなかったし、そのままこの部屋へ来ちゃったんだもの、トイレへ行く暇なんてなかったよね」
 絵美の言葉を聞いた途端、詩織はおかしそうに笑った。何かもっと困ったことがあったのかと思っていたのだ。もともと、どちらかというとトイレが近い絵美に対して、詩織の方は滅多にトイレへ行かない。だから、詩織にしてみれば、打ち合わせの途中から実は絵美がトイレへ行きたがっていただなんて思いもしなかった。
「なんだ、じゃないわよ。人ごとだと思って」 詩織の膝の上で絵美は拗ねたように頬を膨らませた。その姿に、詩織は胸がきゅんとなる。
「だって、そんなに大げさなことでもないじゃない。トイレへ行けばすむことなのに……あ、そうか」
 急に納得したように詩織は頷いた。真奈美が言っていたように、トイレは外の廊下の奧にある。社員や訪問客が忙しく行き交っている廊下を通らなければいけないのだから、全く誰の目にも触れずにそこまで行くことなどできるわけがない。その中を、ベビードレスにおむつカバー姿で歩く勇気は、とてもではないが絵美にはない。発表会の時には嫌でもこの姿を大勢の目にさらさなければいけないのだが、今の絵美にとっては、それはまだずっと先のことだ。
「やだ。詩織に言ったら、余計にトイレ行きたくなっちゃった。どうしよう、詩織〜」
 それまで目をそらしていたのに、今は助けを求めるように詩織の顔を見上げて両脚の腿をもじもじと擦り会わせる絵美だった。
 絵美が両脚を動かすせいで、詩織の膝の上で絵美のおむつカバーが動く。少しつるっとした生地が膝を撫でる感触に、詩織の胸がどきんと高鳴った。
「いいじゃない、そのままやっちゃえば。せっかくおむつあててるんだし」
 詩織は冗談めかして言った。
「詩織までそんなこと言わないでよ。もう本当にぎりぎりなんだからさぁ」
 絵美の目が潤んでいたりする。そんな絵美に上目遣いで見られて、胸が妖しく騒ぐ詩織だった。
「じゃ、バスルームでやっちゃおうか。シャワーで流しとけばすむし」
 ちょっと考えて詩織は言った。
「あ、そうか。バスルームがあったんだ。ちょっと恥ずかしいけど、もう、それしかないみたい」
 絵美の顔がちょっとだけ輝いた。
「それじゃ、はい」
 詩織は、それまで膝の上で横抱きにしていた絵美の体をひょいと抱き上げて床に立たせた。
「駄目、詩織。もう少しそっとしてよ」
 顔を輝かせたのも束の間、またまた瞳を潤ませる絵美。
「え、どうしたの?」
 何かまずいことをしてしまったのかと心配になって、詩織は早口で尋ねた。
「もうぎりぎりなのに、そんな乱暴に床に立たせるから……」
 恨みがましい目で絵美は詩織の顔を見つめた。
「だから? ――あ、まさか」
 詩織は何か思いついたような顔になって絵美の顔を覗き返した。
「……ちょっとだけど……」
 今にも消え入りそうな声で言って絵美は俯いた。
「ごめんね。まさか、そんなに切羽詰まってるとは思わなかったから」
「ううん、いい。ちょっとだけだし、詩織のせいじゃないし……本当にちょっとだけだから」
 何度も何度も『ちょっとだけ』と繰り返して、やっとのこと絵美は顔を上げた。
「自分で歩いて行ける? 抱っこして連れて行ってあげようか?」
 詩織は気遣わしげに言った。
「いい、自分で歩いて行く。赤ちゃんじゃないんだから」
 赤ちゃんじゃないんだから。自分に言い聞かせるようにそう呟いて、絵美はおぼつかない足取りで歩き出した。
 赤ちゃんじゃないんだから。けれど、ベビードレスのスカートをおむつカバーで丸く膨らませて両脚を開きぎみにして一歩一歩ゆっくり歩く絵美の姿は赤ん坊そのままだった。ミルクのシミの付いた涎かけで胸元を覆って、ちょっとだけとはいってもおしっこで濡らしてしまったおむつに包まれたお尻をひょこひょこ揺らして歩く絵美の姿は小さな女の子そのままだった。汗とおしっこの湿気で下腹部の肌に絡みつく布おむつの感触にぞくりとし、おむつカバーの裾ゴムが腿を締めつける感触を覚えながら一歩ずつ歩いて行く絵美の姿は、よちよち歩きを始めたばかりの幼い子供そのままだった。




 詩織が引き開けたドアを通って、やっとのこと絵美はバスルームに隣接する脱衣場に足を踏み入れた。
「じゃ、私が脱がせてあげる。はい、お手々を上げて」
 絵美に続いて脱衣場に入ってきた詩織はそう言うと、ベビードレスを着せた時に真奈美がそうしたように絵美の手首を掴んで高々と差し上げた。
「上は脱がなくていいよ。……おしっこするだけなんだから」
 微かに頬を赤くして絵美は言った。
「いいじゃない。ついでだから、体も綺麗にしておこうよ。昼間からお風呂だなんて贅沢、滅多にできることじゃないんだから」
 言いながら、詩織はさっさとベビードレスの背中のボタンを外している。
「そうかもしれないけど、でも……」
「これから二週間、ここで暮らすのよ。少しでも早くここの生活に慣れなきゃ。その手始めよ。はい、横になって」
 すぽっという感じでベビードレスを絵美の頭から引っこ抜いた詩織は、脱衣場の床に大きなバスタオルを広げて絵美の体を横たえさせた。
 へんに詩織に逆らって体に無理な力を入れたりしたら失敗してしまいそうで、絵美はおとなしく、詩織のするがままになっている。それでなくても、僅かとはいえおむつの股間のあたりがじくりと濡れているのだ。これ以上そんなことになったらと思うと、じっとしているしかない。
 詩織の指先がおむつカバーの前当てに触れたかと思うと、べりりっというマジックテープを外す音が脱衣場の空気を震わせた。途端に、絵美の顔がかっと熱くなる。それは、おむつをあてていることをあらためて思い知らせる羞恥の音だった。
 絵美は思わず瞼を閉じた。
 詩織の手が前当てに続いて横羽根を左右に広げると、絵美の下腹部を包みこんでいる水玉模様の布おむつがあらわになる。
 詩織は、五枚あてられている布おむつの内の一番上のおむつを指で掴んで、絵美の両脚の間に広げた前当ての上にそっと置いた。
 それから二枚目も同じように前当ての上に重ねると、その下のおむつが小さなシミになっているのがわかる。ちょうど、絵美の恥ずかしい部分がおむつに触れているあたりだ。それが、絵美が『ちょっとだけ』失敗してしまった恥ずかしい痕跡だった。
「うふふ、本当におむつを汚しちゃったのね、絵美は」
 残ったおむつをまとめて絵美の肌から剥ぎ取りながら、詩織はわざと意地悪く囁きかけた。
「ちょっとだけだったら」
 絵美は、バスタオルに載せた頭を幼児がいやいやをするみたいに何度も振った。
「そうね、ちょっとだけね。絵美は赤ちゃんじゃないんだもんね」
 詩織はくすっと笑った。
「詩織の意地悪」
 絵美はぷいと顔をそむけた。
「意地悪なんかじゃないわよ。本当のことだもの」
 まだくすくす笑いながら詩織が体をくねらせた。
 絵美がふと目を開けると、詩織はエプロンを脱いで、ブラウスのボタンを外しているところだった。
「なに、何をしてるの?」
 詩織が何をしようとしているのかわからなくて、バスタオルの上に横になったまま絵美が訊いた。
「何って、一緒にお風呂に入るだけじゃない。赤ちゃんを一人でお風呂に入らせるお母さんなんていないわよ」
 詩織は手早くブラウスを脱いでしまい、紺色のプリーツスカートのファスナーに指をかけた。
 ぱさりと音がして、プリーツスカートが詩織の足元に落ちた。ブラウスとスカートをきちんとたたんで脱衣篭にしまってから、詩織はストッキングを脱いで、これもきちんと折ってスカートの上にそっと置いた。そうすると、残っているのは下着だけになる。詩織が身に着けている下着は、絵美の下着とはあまりに違っていた。詩織は、授乳用とはいえちゃんとしたブラと、花柄のショーツに身を包んでいる。なのに、絵美の方は、ブラの着用は許してもらえず、ショーツではなくおむつで下腹部を包みこんでいるのだ。しかも今は、自分の汗とおしっこで僅かに湿った布おむつにお尻を載せた格好でバスタオルの上に横たわったまま詩織の姿を見上げているのだった。
 惨めだった。
 惨めだったけれど、それだけではない別の感情が沸き上がってくるのもまた本当だった。
 絵美は、自分で自分の気持ちがわからなくなりそうだった。
 気がつけば、もう詩織はすっかり丸裸になっていた。
「さ、行きましょう」
 長く伸びた肢体を優雅に動かして絵美の体を引き起こした詩織は、絵美の手を引いたままバスルームに向かって歩き出した。
 おむつが外れたおかげで、絵美の足取りは軽い。けれど、少しでも油断すれば恥ずかしい失敗が待っている。やはり絵美はのろのろと足を進めるしかなかった。

 バスルームは広々していた。バスタブも、大人が二人一緒に入っても窮屈さを感じさせない大きさだった。
「よく我慢できたね。絵美はいい子だわ」
 タイル張りの床を少し歩いてバスタブのすぐそばで立ち止まった詩織はそう言って絵美の頭を撫でると、すっと絵美の後ろにまわりこんで軽く膝を折り、絵美のお尻を掌で包みこんだ。そうして、絵美の背中に自分の胸を押しつけるようにして引き寄せ、そのままの姿勢ですっと膝を伸ばした。
「何するのよ、詩織。おろしてよ。おろしてったら」
 突然のことに絵美は手足をばたばたさせた。
 それでも、詩織は絵美の体を後ろから抱き上げて離さない。それどころか、そのままの格好で、ゆっくり歩き出した。詩織が絵美を抱き上げたまま歩いて行く先には、壁に填め込みになった大きな鏡がある。
「ほら、目の前の鏡を見てごらん。絵美が映っているでしょう? 赤ちゃんはね、こんなふうに抱っこしてもらっておしっこするのよ。今までよく我慢してたわね。でも、もういいのよ。ほら、しーしーしましょうね」
 詩織は、絵美の体がはっきり映るように鏡の正面で足を止めて囁いた。
「からかわないでよ、詩織。こんなの嫌だったら」
 絵美は激しく体を揺すった。
「駄目よ、絵美。そんなことしたら落ちちゃうわよ」
 その場で詩織はそっと膝を折ってしゃがみこむと、自分の膝で絵美のお尻を支えるようにして抱き直した。鏡に映る絵美は、背後から母親に抱かれておしっこをさせてもらう幼い子供と同じ格好をしていた。
「嫌だったら、こんなの嫌なの」
「さっきまであんなにおしっこだって言ってたのに、おかしな子ね。いつまでも我慢してちゃ体に毒よ」
 膝の上に絵美のお尻を載せ、左手で絵美の体を支えながら、詩織は右手を絵美の下腹部に這わせた。無毛の下腹部をそっと撫で、秘部の少し上をちょんちょんとつつく。
「駄目。駄目だったら、詩織。そんなことしたら、そんなことしたら……」
 絵美の体がびくんと震えた。
「何が駄目なの?」
 詩織の手の動きは執拗だった。
「いや。そんなことしたら出ちゃう」
 詩織の膝の上で絵美は盛んに身をくねらせた。
「出ちゃうって、何を言ってるの。おしっこを出させてあげてるんじゃない」
 詩織の指先が絵美の秘部に触れた。
「いや、いやだったらぁ!」
 絵美が体をのけぞらせて叫んだ。
 その直後、詩織は、温かい液体が自分の膝を濡らし始めたことを知った。
 最初は遠慮がちに小さな雫になって詩織の膝と腿を濡らし始めた生温かい液体が、次第次第に大粒の滴りになって、ついには一条の流れになって詩織の膝に伝い落ち、脚の上を流れて、しとどに腿を濡らしてゆく。
「鏡を見てごらん。ほら、鏡の中の絵美もあんなふうにおしっこしてるわよ」
 詩織はあらためて絵美を鏡に向き直らせた。詩織の言う通り、鏡の絵美も詩織に抱っこされて恥ずかしい部分からおしっこを溢れさせていた。絵美のおしっこは詩織の脚を濡らしてから足首を伝ってタイル張りの床に滴り落ち、小さな泡を立てて排水口へ流れて行く。
 自分の脚がおしっこで濡れることなんてまるで気にするふうもなく、詩織は絵美の体を抱き寄せた。
 背中に詩織の乳房が触れる感触を覚えつつ、いつ終わるともしれないおしっこを溢れさせる絵美だった。




「意地悪、詩織の意地悪」
 いつ果てるともしれないおしっこがやっと終わって洗い椅子に座らされた後も絵美は何度も繰り返した。ついさっきまで泣きじゃくっていたせいで目が真っ赤だ。
「ほら、いつまでも拗ねてないで綺麗に洗いましょう。特に、おしっこで濡れちゃったところは念入りにね」
 絵美に向かい合って洗い椅子に座った詩織は、あやすように言って、ボディソープを滲みこませたタオルを絵美の内腿に押し当てた。
「いや。そんなとこ触らないで」
 絵美は体を退いた。
 けれど、詩織が絵美を壁を背にするように座らせたためにその場から逃げることができない。
「いやじゃないでしょ。おしっこで汚れたままにしておくとかぶれちゃうのよ。それでもいいの?」
「だって、だって」
「だってじゃないの。ほら、いつまでも駄々をこねないの」
 詩織は絵美の両脚の間に自分の右脚を差し入れて強引に開かせ、ボディタオルを下腹部に押し当てると、少しだけ力を入れて上下に動かした。
 真っ白の泡が立ち始めたかと思うと、見る見るうちに小さくて柔らかな無数の泡が絵美の下腹部を包みこんでゆく。
 詩織が手を動かすたびに増えてゆく泡が次第に広がって、いつのまにか、絵美の腰から下はミルキーな泡だらけになっていた。すると、詩織はタオルをバスルームの床に投げ捨て、すっかり絵美の下半身を覆い隠してしまった細かい泡を両手に掬って自分の口元に近づけると、絵美の胸元を狙って、ふっと吹きかけ始めた。
 同じことを何度も何度も繰り返す。
 純白の泡を両手に掬っては、何度も何度も絵美の胸元から首筋に吹きかける。
 白い泡の塊が絵美の上半身を少しずつ少しずつ包んでゆく。
 詩織は、もういちど純白の泡を両手に掬って、その手を絵美の乳房の下に押し当てた。
「あん」
 乳房の下のあたりに感じるすべすべした感触に、呻き声とも喘ぎ声ともつかない声を絵美は漏らした。
「困った子だこと。赤ちゃんがそんな妙な声を出さないの」
 詩織は泡だらけの手を絵美の体に沿って滑らせた。
 絵美は、背筋がぞくりとするのを感じた。
なんだか、とても切なくて、理由もないのに泣きたくなってくるみたいだ。
 いつのまにか洗い椅子から立ち上がって絵美の背中にまわりこんだ詩織は、左手を絵美の乳房の下で左右に動かし、右手はおヘソを中心に円を描くようにゆっくり動かした。
「やめて、詩織。駄目だったら……妙な気分になっちゃうから」
 絵美の息が荒い。
「だーめ。やめてあげない」
 詩織は執拗に両手を動かし続ける。
「やめて。やめてったら、お願いだから」
 両目を潤ませて絵美は懇願した。
「そんなにやめてほしい?」
 詩織は絵美の耳たぶにふっと息を吹きかけて言った。
 絵美は無言でこくんと頷いた。
「じゃ、私のことをママって呼んでくれたらやめてあげる。わかるわね、ママよ」
 詩織は絵美耳元で囁いた。
「どうして? どうして詩織のことをママだなんて呼ばなきゃいけないの」
 荒い息遣いで絵美は訊いた。
「絵美は私の赤ちゃんだもの。赤ちゃんがお母さんのことをママって呼ばなきゃ何て呼ぶのよ。私は絵美のママで、絵美は私の可愛い赤ちゃん。私がいなきゃご飯も食べられないしおしっこもできない、私だけの赤ちゃん。もう、誰にも渡さないからね」
 詩織は、胸に溜めこんでいた思いを吐き出した。絵美のおしっこを自分の膝で受け止めているうちに、胸の中を満たしていた気持ちの正体に詩織は気づいたのだ。気づいたら、もう、胸の中にはしまいこんでおけない。普段の行動を見る限りではおとなしい詩織だけど、この時だけは違っていた。
 泡でつるつるの絵美の体を詩織は思いきり抱き締めた。
「いや、離して。離してったら、お願いだから」
 絵美は弱々しく首を振った。
 首筋に付いていた泡の塊が一つ飛んで、詩織の頬に貼り付いた。
「お願い、ママ――でしょ? ほら、ママって呼んでごらん」
 詩織は絵美の頬に自分の頬をすり寄せた。
「やめて、お願いだから……ママ」
 これ以上こんなことが続いたら自分がどうなってしまうかわからないという脅迫観念じみた不安に襲われて、とうとう絵美は詩織のことを『ママ』と呼んで手を止めてくれるよう懇願した。
「いいわよ、やめてあげる。でも、その前に一つだけしてほしいことがあるの。これをしてくれたら絵美が私のことを心からママって呼んでくれたと信じてあげる」
 なんともいえないような笑みを浮かべて、詩織は絵美の体を洗い椅子から抱き上げると、リビングルームでそうしたように膝の上で横抱きにした。
 そうして、自分の乳首を絵美の唇にぎゅっと押し当てた。
「いや、詩織、何を……ぐ……」
 絵美は両手を突っ張って詩織の体を押し返そうとするが、力の差は歴然としていた。
「絵美が私のことを心からママだって思ってるなら、私のおっぱいを飲んでくれるわよね。赤ちゃんはママのおっぱいが大好きだものね」
 詩織は絵美の頭の後ろを掌で包みこむようにしてぐいと抱き寄せた。
 冗談で貧乳とは言っても、ちゃんと乳房の膨らみがある。柔らかく張りのある乳房だ。強引に抱き寄せられた絵美は詩織の乳房に顔を埋めるみたいな格好になって、息ができなくなってしまった。
「ぐ……ぐぐ……」
 苦しさのあまり、それまでばたばたさせていた手足の動きが弱まってくる。
「ほら、おっぱいよ」
 詩織は絵美を胸に抱いたまま乳首を前に突き出すようにした。
 おそるおそる絵美は唇を開いて乳首を咥えた。
 絵美の舌が詩織の乳首の先に触れる。
 絵美はおずおずと唇を動かした。もちろん、詩織の乳首から母乳が溢れ出ることはない。それでも詩織は満足したように微笑んだ。
「そう、それでいいのよ。絵美ちゃんはママの赤ちゃんだわ。世界で一人きりの可愛い赤ちゃん」
 絵美のことを再び『絵美ちゃん』と呼んだ詩織は、うっとりした顔でいつまでもそうしていた。




「もう、本当にびっくりしちゃったじゃない。どうしてあんなことするのよ」
 長いお風呂が終わってようやく脱衣場に戻った絵美は、恥ずかしさのせいで詩織の顔を見ることができず、顔を伏せたまま言った。
「いいじゃない。絵美も満更でもなさそうな顔してたんだし」
 まるで幼児にそうするように絵美の手を引いてバスルームから出てきた詩織は、体に巻きつけたバスタオルの端を整えながら言った。
 詩織はそうやって胸元から腿の下までタオルで覆っているけれど、絵美の方は丸裸だった。もちろん絵美は「私もタオル」と言ったのだが、「赤ちゃんにタオルなんて要らないの」という詩織の一言でおしまいだった。
「そんな……」
 絵美は顔を赤らめた。実際、最初こそ嫌がっていたけれど、最後の方はまるで自分から進んでそうするように詩織の乳房にすがりついていたのだ。どうしてそんなことをしてしまったのか自分でもわからないけど、結果だけ見れば詩織の言う通りだったから返す言葉もない。
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。絵美は赤ちゃんだもの。はい、それじゃ、赤ちゃんの絵美はおむつにしようね。お風呂でおしっこさせてあげたから大丈夫だと思うけど、赤ちゃんは本当にいつお洩らししちゃうかわからないものね。さ、バスタオルの上に横になってちょうだい」
 詩織は丸裸の絵美の脇の下に両手を差し入れると、そのまま絵美の体を抱き上げて、おむつとおむつカバーを広げたバスタオルの上に寝かそうとした。けれど、ふと何かを思いだしたような顔つきになると、絵美を元の場所に戻してしまう。
「あ、そうだった。このおむつ、絵美がおしっこで汚しちゃってたんだっけ。新しいおむつを持ってこなきゃいけないわね」
「……ちょっとだけだってば」
 絵美の顔がますます赤くなる。

 いったん寝室に姿を消した詩織は、たくさんの布地を抱えてすぐに脱衣場へ戻ってきた。
「すぐに用意するからちょっと待っててね。えーと、その前に」
 抱えてきた布地をいったん脱衣篭に入れて、詩織は周囲を見回した。そうして、脱衣場の一角に置いてある透明のビニール袋をみつけると、それを二枚持ってきて、バスタオルの上に広げたままになっているおむつを放り込んだ。
「ん、これでいいわ。これをドアの外に出しておけばいいのね。あと、ベビードレスも。これはおむつとは別の袋に入れておかなきゃね」
 独り言みたいに呟きながら、詩織は、それまで絵美が身に着けていたベビードレスも透明のビニール袋に押し込んでしまった。真奈美がそうするように言っていたように洗濯を依頼するために。
「ち、ちょっと待ってよ、詩織。本当にそれ、洗濯してもらうの?」
 絵美は慌てて詩織の手を押しとどめた。
「決まってるじゃない。絵美のおしっこで汚れたおむつをいつまでも部屋の中に置いておけないもの」
「だから、ちょっとだけなのに……ううん、そんなことじゃなかった。ベビードレスはいいけど、おむつはやめとこうよ。ほら、なんならお風呂場で洗濯することもできるんだから」
「何を言ってるの。洗濯はできても、乾かすとこがないわよ。おむつはね、お日様の光をたっぷり当てて乾かさなきゃいけないんだから」
「だって、おむつを洗濯してもらうなんて……私が本当にお洩らししちゃったみたいで恥ずかしいよぉ」
「本当にお洩らししちゃったんじゃない、絵美は」
「だけど、ちょっとだけだもん。――でも、詩織、おむつを乾かす時はお日様の光じゃなきゃ駄目だなんて、よくそんなこと知ってるんだね」
 恥ずかしそうに俯いていた絵美が、ふと不思議そうな表情をして顔を上げた。
「……うん、ちょっとね、ちょっと事情があって、そんなことを知ってたりするんだ」
 絵美に指摘されて、少しばかり戸惑った顔つきで詩織は言った。なんだか、急に元気がなくなってしまったような感じ。
「ま、それも昔のことだからね。さ、用意できたよ。おとなしく寝んねしようね」
 なぜかしら沈み込んでしまったように見えた詩織だが、不意にわざとのように元気な声をあげて絵美をバスタオルの上に寝かしつけた。
 汗やおしっこでじっとり湿ったおむつではない新しいおむつはふんわかしていた。初めておむつをあてられた時もそうだったけど、今度も、柔らかいおむつの感触が絵美の羞恥を激しくくすぐる。
「確か、こうするんだったっけ」
 真奈美に教えてもらったことを思い出しながら、詩織は絵美の足首を高く持ち上げた。そうして、僅かに浮いた絵美のお尻と床との隙間を使っておむつの位置を整え、おむつの端をおヘソのすぐ下まで待ち上げる。それから絵美の脚を元に戻して、おむつのシワを取っておむつカバーの横羽根と前当てを重ね、それぞれをマジックテープでしっかり留めると、おむつカバーの裾からはみ出ている布おむつをおむつカバーの中に押しこんだ。
「はい、いいわよ」
 真奈美の真似をして絵美のお尻をぽんとおむつカバーの上から叩いて、詩織は絵美の手を引いてバスタオルの上に立たせた。こうしてあらためてよく見ると、小柄で幼児体型な上に幼女めいた髪型にした絵美は、おむつ姿がとてもよく似合っていた。
 詩織は絵美の全身をしげしげと眺めて、脱衣篭に手を伸ばした。
「さっきはベビードレスだったけど、お風呂から上がってすぐにエアコンの効いた部屋だと体が冷えるから、お腹の出ないお洋服にしようね」
 詩織が脱衣篭から取り上げたのは、丸っこい三分袖に丸襟の可愛いブラウスだった。胸元から裾にかけて並んでいるボタンが柔らかい布で包んであって、小さな子供のデリケートな肌を傷つけないよう細やかな配慮が行き届いているのは、先に発表した子供服ブランドから受け継いだノウハウだろうか。ブラウスは、丁度おヘソが隠れるくらいで、おむつカバーの上のところにかかるかかからないかの丈に仕立ててあった。
「じゃ、次はこれ。ブラウスの上からこれを着ればお腹が出ることはないからね」
 ブラウスに続いて詩織が取り上げたのは、さっきまで来ていたベビードレスと同じ色の生地でできたロンパースだった。幅の広いリボンになった肩紐と、お尻の後ろにあしらった三段の飾りレースが愛らしい。お腹が出ないようになっているからおむつを取り替える時にいちいち脱がせる必要があると思われるかもしれないが、股のところにスナップボタンが五つ並んでいて、このボタンを外せばお尻からお腹まで大きく開くようになっているから、おむつを取り替えるのも手間ではない。少し大きくなった子供には必要ない、おむつを手放せない幼児だけが必要な仕組みだった。 詩織は、股のボタンを五つとも外したロンパースを絵美の頭から体にすっぽり被せ、そのまま裾の部分をすっとおろして、リボンになった肩紐を絵美の肩の上できゅっと結んだ。そうして、お腹のところでとまっている裾の部分をもういちどすっと引きおろして、お尻の方からまわした裾とお腹のほうからまわした裾とを股間の少し前あたりで重ねて、スナップボタンを五つ順番に留めていった。それから、さっきと同じサクランボのボンボンが付いたソックスを両脚に履かせる。
「ん、できた。自分の目で見てごらん」
 詩織は絵美を抱きかかえるようにして、脱衣場の隅にある姿見の前に連れて行った。
「これが私……」
 大きな鏡に映る自分の姿を見るなり、絵美は言葉を失った。
 股のところにボタンが並んだ恥ずかしいベビー服のお尻をおむつで大きく膨らませ、後ろ髪をツインテールに結わえて前髪を眉の上に垂らして、ボンボンの付いたソックスを履いた両脚をほのかなピンクに染めたその姿は、どこから見ても幼い女の子だった。隣に立っているのが絵美と同じくらいに小柄な女性ならまだ少しは妙な感じがするのかもしれないが、大柄な詩織に寄り添うようにして立っていると、見るからに幼児めいて、ちっとも違和感がない。
「この子が私……」
 鏡に向かってもういちど呟いて、絵美はおずおずと詩織の顔を見上げた。
 詩織も絵美の顔を見返した。
 慈しみに満ちたその目は、いとおしい我が子を見る母親の目そのものだと言ってもいい。
 そんな詩織の目が急に涙で潤んだ。
 何が起きたのか、絵美にはまるでわからない。どうしたの詩織と絵美が訊こうとした瞬間だった。
「もう離さないからね。こんな可愛い子をどうして手放したりできるもんですか。今度こそ、今度こそママは絵美を守ってあげるからね」
 絵美と姿見の間にまわりこんだ詩織が、絵美の背中に両手をまわして力一杯抱き締めた。これまで何度も詩織が絵美にそんなふうにしたことはあったけれど、こんなに力一杯というのは初めてだった。あまりにもきつく抱き締められて、絵美は息が止まりそうになった。
「痛いよ、詩織。どうしちゃったのよ、いったい」
 絵美は振り絞るみたいにしてようやく声をあげることができた。
「困った子。本当に困った子ね、絵美ちゃんは。ママのことを詩織だなんて呼んで。何度注意したらわかるのかしら。ほら、ちゃんとママって呼ばなきゃ駄目でしょ」
 なおも絵美の体を抱き締める詩織の顔には泣き笑いのような表情が浮かんでいた。
 その表情を目にした絵美は少しばかり驚いたものの、だけど、なんだか胸の中が切なくなってきて、自分でも意識しないうちにこんなふうに言っていた。
「ごめんなさい、ママ。絵美、悪い子だったの? ねぇ、ママ」
 途端に、詩織の目から大粒の涙がこぼれ出した。
「いいの、いいのよ、絵美ちゃん。絵美ちゃんはちっとも悪くないの。絵美ちゃんは本当にいい子なのよ。悪いのはママの方なんだから」
 絵美の体を抱き締めたまま、詩織は床に膝をついて泣き崩れた。




「取り乱しちゃってごめんね、絵美。自分でもどうにもできなかったわ」
 しばらくして落ち着いてきたのか、少し照れたような表情で詩織は言った。
「うん。ちょっとびっくりしたけど、ま、いいや」
 幾分ほっとしたような表情で絵美は言った。そうして、どうしようかなと少し迷ってから言葉を続けた。
「じゃ、もう、おりてもいいかな」
 絵美は、昼食の時と同じように、リビングルームの座椅子に腰をおろした詩織の膝の上に座らされていた。それがそろそろ窮屈になってきていた。
「ううん、それはもう少し後にして。このまま絵美の温もりを感じていたいから。絵美の体の重さを感じながら話したいことがあるから」
 詩織は、自分の膝の上から床におりようとする絵美の体をそっと押さえつけた。
「どういうこと?」
 絵美は僅かに首をかしげて詩織の顔を見上げた。それは、気分のすぐれない母親の様子を気遣う幼い子供のような仕種にも見えた。
「絵美にも久美子にも話してなかったんだけど、実は私、子供を生んだことがあるのよ」
 少し考えてから、詩織はぽつりと話し始めた。
「そんな……冗談でしょう?」
 突然のことに、信じられない思いで訊き返す絵美。
「ううん、本当のことよ。生んだのは高校二年の冬。付き合っていた同級生の男の子との間にできた子なの。ちゃんと避妊はしていたつもりだったんだけど、何か手違いがあったんでしょうね」
 詩織は、遠い所を見るような目をした。
「今、その子はどこ?」
 詩織の膝の上で絵美は体をすり寄せた。
「高校生どうしで子供を生んでも育てられるわけがないし、かといって堕ろすのは絶対に嫌だったし……皮肉なことに、何年か前に結婚していた姉夫婦のところがどうしても子供ができなくてね……知り合いのお医者さんにお願いして出生証明書とかを書いてもらって……」
 それ以上は言葉にならなかった。
「じゃ、今は、お姉さんのところの子供として育てられているのね?」
 言いにくそうに絵美は確認した。
「そうよ。女の子で、名前は絵美っていうの。目がくりっと大きな子でね、そう、私の膝の上にいる同じ名前の絵美みたいに」
 詩織は絵美の体をあらためて抱き寄せて頬ずりをした。
 もうそれ以上、何を言っていいのか絵美にはわからなかった。
 けれど、詩織は独り言みたいに言葉を続ける。
「本当は私、地元の大学を目指していたのよ。だけど、そんなことがあって故郷にいるのがいたたまれなくなって、こっちへ出てきたの。あの専門学校に入るためにやって来たんじゃなくて、こっちへ来てから探したのがあの専門学校だったのよ。それで、卒業した後もどうしても故郷へは帰れなくて、久美子や絵美と一緒にリップルを続けることにして……」
 詩織の涙が絵美の頬を濡らした。
「……ごめん、ごめんね、絵美。私の身の上話なんて絵美にはちっとも関係ないよね。関係ないのに私ったら……」
 詩織は人さし指で涙を拭うと、無理矢理みたいに笑顔になった。
「でも、でも、もしも絵美さえよければ、一つだけお願いを聞いてくれないかな。こんなこと言うの、これでおしまいにするから」
「いいよ、何をすればいいの?」
 自分も泣きそうになりながら、絵美はこくんと頷いた。
「寝室に大きなベッドがあったでしょう? あのベッドで私と一緒にお昼寝してくれないかな。一度だけ、本当に一度だけでいいから」
 絵美が頷いたのに力を得て、頬ずりを続けながら詩織は言った。
「いいよ、そのくらい。でも、どうして?」
 いつのまにか絵美は、詩織の頬ずりを鬱陶しいとも感じなくなっていた
「絵美はね――私の娘の絵美は、分娩室からすぐ姉の手元に引き取られて行ったの。私が最初のおっぱいをあげることもなく、一度きりも一緒に同じベッドで寝ることもなく。姉に引き取られた絵美を私は一度も抱っこしたこともなくて……一度でもそんなことをしたら、それこそ私、絵美を姉の手に返さないだろうなって自分でわかってたから。でも、一度くらいは抱っこして同じベッドで寝かしつけてみたかった。どんなに泣いてもいい。どんなにむずがってもいい。暴れてくれるなら、暴れてくれた方が、少しでも手をかけられるから……だから、一度でいいから、絵美と一緒に寝てみたかった。添い寝っていうのをしてみたかったの」
 詩織は絵美の後頭部を両手の掌で包み込んで絵美の顔を自分の胸元に引き寄せた。
「……うん。絵美、ママと一緒にお昼寝するよ。ママに抱っこしてもらってお昼寝するの、絵美、大好きだもん」
 ちょっとだけ考えてから、絵美は上目遣いに詩織の顔を見上げて言った。




 体がどこまでも沈みこんでしまうのではないかと思うくらい柔らかいベッドだった。
 そんな豪奢なベッドに薄っぺらのタオルケットは似合わないかもしれないが、夏の日の小さな子供のお昼寝といえばタオルケットが一番お似合いだ。
「ほら、ちゃんとしないとお腹が冷えちゃうわよ」
 もともとベッドの上に置いてあった枕は床に上に放り出してしまい、腕枕で絵美を寝かしつけた詩織は、ベビータンスの中にあったタオルケットを絵美のお腹にかけて優しく言った。
「は〜い」
 絵美はわざと元気な声で返事をして、すぐ隣にある詩織の顔を覗き見た。
「どうしたの、絵美ちゃん」
 なんとなく照れくさそうに、けれど顔を輝かせて詩織が言った。
「お話、して。絵美、ママのお話、大好き」
 幼児の話し方を真似て絵美は言った。そうすることで詩織が本当に喜んでくれるのか、それとも辛い昔を思い出してしまうのか、絵美にはわからなかった。わからなかったけれど、それが絵美のできる精一杯の心遣いだった。
「いいわよ。何のお話がいい?」
 タオルケットの上から絵美のお腹を優しく叩きながら詩織は言った。
「んとね、白雪姫がいい」
 絵美は詩織に向かってにこっと微笑みかけた。
「そう。白雪姫がいいのね。じゃ、始めるわよ。とっても昔のことです。ある国に、とっても綺麗なお姫様が―― 」
 ゆっくりした口調で話しかけながら、絵美が窮屈に感じないよう、腕枕にしている腕の位置を細かく変えたり、絵美が体を動かすたびに少しずつずれてしまうタオルケットの位置を整えたりと、本当に小さな子供にするように世話をやき続けた。

 いつしか、すーすーという安らかな寝息が詩織の耳に届く。
 絵美の寝息だった。
「あらあら、白雪姫のお話を聞きながら眠っちゃうなんて、本当に赤ちゃんみたい」
 あどけないとさえ思える絵美の寝顔を眺めて、詩織はくすっと笑った。
 けれど、絵美が本当に眠ってしまうのも仕方ないほど穏やかな昼さがりだった。いつもなら、本職のモデルの仕事にありつけずに、炎天下のステージで着ぐるみを被って跳びはねている時間だ。それが、豪華な昼食を食べることができる上に、昼間からお風呂に入ってエアコンの効いた部屋でゆっくりしていられるのだ。そんなところに、柔らかなベッドで横になったりしたら、誰でも気づかぬうちに寝入ってしまうだろう。
 実際、絵美に白雪姫を話して聞かせているうちに詩織もうとうとしかけていた。だからこそ、絵美が眠ってしまったことに今まで気がつかなかったのだから。
「お姉ちゃん。待ってよ、お姉ちゃんたら」
 急に絵美の声が聞こえたのは、私もこのまま眠っちゃおうかなと詩織が思った時だった。
 驚いて絵美の顔を覗きこんだけれど、両目はしっかり閉じたままだった。なのに、誰かに向かって手を伸ばすみたいに右手を動かして、とても悲しそうな表情で叫んでいた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんたら」
 寝言だとわかっても、それはあまりにも寂しげな叫び声だった。

 詩織は知らなかったけれど、実は絵美の人生もまた寂しさと悲しみに満ちていた。
 絵美には少し年の離れた姉がいる。勉強ができてスポーツは万能でスタイルも性格も申し分のない姉は、小さい頃から絵美が目標にしてきた、憧れと尊敬の的だった。けれど、絵美が高校生になった夏、その姉は一人の男性と駆け落ち同然にして家を出てしまった。相手の男は金にだらしなく、生活能力もまるでない、これまでに二度の離婚を経験している、世間の噂でも決して良いことは聞かれない、どうしようもない男だった。聡明な姉がどうしてそんな男に惹かれたのか、絵美にはまるでわからなかった。もちろん両親もその男との交際には強く反対した。その結果が、駆け落ちだった。姉の駆け落ちを知った時、絵美は裏切られたように感じた。あれほど信頼し、あれほど目標にしていた姉から一番ひどい形で騙されたような思いがしたものだった。結局、自分がその男に騙されていたことに気がついて、姉は一年ほどで家に戻ってきた。だけど、その男との間にできた赤ん坊を連れての帰宅だった。それでも姉が無事に戻ってきたことで両親は安心したようだったが、絵美はどうしても姉を許す気になれなかった。姉も、姉を騙した若い男も、そうして、姉と男との間に生まれた姪も、絵美は決して許せなかった。そうして、姉や幼い姪と一緒に暮らすことが耐えられなくなって、高校卒業と同時に故郷を捨てたのだった。
 けれど、決して許すことはできなくても、姉を想う気持ちは実は昔のままだった。むしろ、意識としては姉を憎んでいる分、姉に対する思いは妙に屈折しつつ、ますます心の中で大きくなっていた。その想いが、絵美に寝言で姉を呼ばせていたのだ。
 詩織は、絵美のそんな事情は全く知らない。知らないのに、絵美の悲痛ともいえる叫びを聞いた途端、絵美の人生がどんなにか寂しいものだったかを直感してしまったのも事実だった。ああ、この子もまた自分と同じくらいに辛い人生を送ってきたのだと、詩織はありありと直感していた。

 詩織はやおらブラウスのボタンを外し始めた。
 ブラウスのボタンを手早く外してしまい、胸元をはだけて、授乳用ブラのパッドも外してしまう。
 ぴんと勃ったピンクの乳首があらわになった。
 詩織は、腕枕にしている自分の腕を絵美の後頭部に巻きつけるようにして、絵美の顔を胸元に引き寄せた。そうして、僅かに開いた唇に自分の乳首をふくませる。
 それまで、待ってよお姉ちゃんと繰り返していた絵美が急に静かになって、詩織の乳房にむしゃぶりついた。まるでお腹を空かせた乳飲み子のように乳房にむしゃぶりついて、ぴんと勃った乳首をむさぼる絵美。
「ごめんね、絵美ちゃん。本当におっぱいが出たらどれほど幸せだろうね。ママのおっぱいが出なくて本当にごめんね。でも、その代わり、いくらでも吸ってちょうだい。絵美ちゃんの気持ちが満腹になるまで、いつまでもずっと吸ってちょうだいね」
 詩織は、空いている方の手で絵美の髪をそっと撫でた。さらさらの髪が掌に心地よかった。
 詩織は何度も何度も絵美の髪を撫でつけ、そうして、絵美に乳首をふくませたまま眠りにおちた。




 先に目を覚ましたのは絵美だった。
 ぼんやりと目を開けた途端、目の前に詩織の乳房が見えて、慌てて瞼を両手でこすって意識を取り戻した。
 けれど、本当に驚いたのは、自分が詩織の乳首を咥えているのを知った時だった。(ひょっとしたら、まるで赤ちゃんみたいに、詩織の乳首を口にふくんだまま眠っていたのかしら。こんなこと詩織に知られたら何を言われるかわかんないよぉ)絵美はそっと詩織の乳首から唇を離して体を引き離そうとした。だけど、詩織の手が絵美の頭を抱えこんでいるせいで、体を引き離すどころか、乳首から唇を離すこともできない。
 思いあまった絵美は、詩織の肩のあたりを両手でぐいと押した。
 と、詩織の体がもぞもぞ動いて、ぱちっと瞼が開いた。
「あら、おっきしてたのね、絵美ちゃん。ママのおっぱい、おいしかった?」
 目を開けるなり、絵美の体を更にぎゅっと抱き寄せて詩織は言った。
「苦しいよぉ。やめて、離してよぉ」
 詩織の乳首を咥えたまま絵美は両手をばたばたさせた。
「絵美ちゃんはそれでいいの? 本当に離しちゃってもいいの?」
 念を押すような口調で詩織は絵美の耳元に囁きかけた。
 本当にいいの?
 本当に離しちゃっていいの?
 絵美ちゃんは本当にそれでいいの?
 詩織の声が絵美の頭の中でこだました。
 びくっと体を震わせて、絵美は詩織の乳房にむしゃぶりついた。
 本当は嫌だ。
 本当は離したくない。
 私は本当はそんなの嫌だ。
 詩織の声を追いかけて絵美の声もこだまする。
 夢に出てきた姉は、昔のままの姉だった。絵美だけの姉だった。そこへ、小さな女の子が現れた。姉とあの男の間に生まれた子供だった。途端に、姉は絵美の手を振り払い、小さな女の子を抱き上げた。絵美は女の子を憎んだ。憎んで憎んで憎んで、あんたなんか消えちゃえと叫んだ。すると、その子の姿が見えなくなった。どこへ行ったんだろうときょろきょろしているうちに、絵美は、自分が姉の手に抱きかかえられていることを知った。姉は、小さな子供を抱くように軽々と絵美を抱きかかえて胸元に引き寄せた。絵美の目の前に、姉の白い乳房が迫ってきた。たまらずに、姉の乳房にむしゃぶりつく絵美。
 そんな夢を見ていたと思ったら、目を覚ませば絵美は詩織の乳首を口にふくんでいた。
 反射的に乳首から唇を離そうとして、でも、詩織から本当にいいのと訊かれた途端、本当の気持ちに気がついた。
 絵美は、生まれたばかりの姪っ子を憎んでいるのではなかった。憎んでいるのではなく、妬んでいたのだ。優しい姉を独り占めにできる姪っ子に嫉妬していたのだ。姪っ子ではなく、絵美自身が姉に抱っこしてもらいたかったのだ。
 そうして、それがかなわないなら、姉の代わりに詩織に抱っこしてもらいたかったのだ。これまでずっと胸に抱えてきた妙な気持ちが何だったのか、ようやく絵美自身にもわかったような気がする。
「それでいいのよ。絵美ちゃんはママの赤ちゃんだもの。赤ちゃんはおっぱいが大好きだもの」
 絵美に乳首をふくませたまま、詩織はそっと絵美の頬にキスをした。
「お姉ちゃん――ママ。絵美の大好きなママ。もうどこにも行かないよね?」
 詩織の乳首を咥えているため少しくぐもっているが、心から甘えた声で絵美は言った。
「ママはどこへも行かないわよ。だから、絵美ちゃんも、もうどこにも行かないでね」
「うん、ママ」
「よかった。じゃ、おっぱいが終わったらおしっこしようね」
「お風呂場で?」
「ううん。お風呂場じゃなくて、おむつにするの。絵美ちゃんはこれからずっとおむつにおしっこするのよ。絵美ちゃんは赤ちゃんだもの。おむつを取り替えやすいようにロンパースを着ている赤ちゃんだもの」
 詩織の言葉に、絵美はこくんと頷いた。

 二人の様子を映し出すモニターを見ながら、真奈美は受話器を持ち上げてボタンを押した。電話の先はリップル。
 コール音が四回聞こえて相手が出た。
 詩織と絵美がこちらにいるのだから、リップルに残っているのは久美子しかいない。
「もしもし、私、佐倉です。――ええ、順調よ。今の様子だと、予想よりも短い時間で済みそう。――そう、だから、和田さんは新しい世界で存分に活躍してちょうだい。ええ、二人のことは私にまかせて。じゃ、本当に活躍を期待しています」
 手短に用件を済ませて真奈美は受話器を戻した。
 サクラが新しいブランドを立ち上げるのを知って詩織と絵美を使ってくれるよう話を持ちかけたのは久美子だった。実は、久美子には、大手のモデル事務所から移籍の話が来ていた。破格の好条件での、要するに引き抜きだった。久美子も同意したのだが、一つ心配の種があった。それは、詩織と絵美のことだった。久美子と違って、二人には滅多にモデルの依頼が来ない。このまま二人に着ぐるみショーの仕事ばかりさせて自分だけが大手の事務所に移るのは躊躇われた。そこで、プチ・プチフェアリーという新ブランドの話を聞きつけて、以前の仕事で顔見知りになった真奈美に頼み込んだというわけだ。真奈美にしても、先の仕事っぷりで全幅の信頼を置いている二人のことだから、渡りに船という感じで久美子の依頼を引き受けることにした。それも、期間を限らない専属モデルとしてサクラで預かってもいいよとさえ言って。
 こうして二人の思惑は一致した。
 そして、真奈美はたった今、詩織と絵美を正式に専属モデルとして預かることを久美子に告げたのだ。
 真奈美はもういちどモニターに目をやった。相変わらず仲睦まじい二人の様子が映し出されていた。
 新しいブランドの発表会を二週間後に控えたサクラの本社ビルは、どのフロアも活気とけたたましさに溢れていた。そんな中、詩織と絵美の部屋だけが、そんな喧騒とは無縁の、安らぎに満ちた唯一の場所だった。
 発表会は必ず成功するという確信を得て、真奈美はモニターのスイッチを切った。



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