偽りの幼稚園児





       プロローグ

「ね、葉月。あんた、夏休みの間どうするの?」
「え? どうするって言われても、……どうしようかな。家へ帰るのも面倒だし、大学の図書館にでも引き篭もってようかな。冷房は効いてるし、専門書も揃ってるし」
 賃貸マンションのお世辞にも広いとは言えないダイニングルーム。小ぶりのテーブルに向かい合って夕飯を食べながら問いかけたのが御崎皐月。
 それに対して微かに首をかしげてぽつりと応えたのは、皐月の弟で、この春に大学に入ったのをきっかけに親元を離れ、皐月のマンションに同居するようになった葉月だ。
「は〜あ、大学の図書館に引き篭もりねぇ。ま、あんたらしいっちゃらしいけど、もう少し行動的になれないものかしらね。実の姉としちゃ、あんたのそういうとこ、ちょっと苛々しながら見てるんだよ。そこんとこ、わかってる?」
 お茶碗を持った右手とお箸を持った左手を大げさに広げ、わざとらしく肩をすくめてみせて、皐月は溜息混じりの声で言った。
「言われなくても、そんなことわかってるよ。わかってるけど、でも……」
 口にしかけた味噌汁のお椀を持つ手を止めて、葉月は口ごもった。
「わかってるんだったら、アルバイトでもしてみたらどうなの? あんた、子供の頃から人見知りが激しいし、いっそコンビニのレジみたいな、他人とたくさん顔を会わせるような所でバイトでもして、その優柔不断な性格、どうにかした方がいいんじゃない? このままだとガールフレンドもできないままだよ? せっかく可愛い顔してるのに、勿体ないったらありゃしない」
 皐月は肩をすくめたまま葉月の顔をテーブル越しに正面から覗き込んだ。
「だって……」
「だってとか、でもとか、んとにはっきりしないんだから。いくら可愛い顔してても、男の子なんでしょ。もっとしゃんとしなさいよ」
 葉月の顔を正面に見据えて皐月は語気を強めた。
 けれど、微かに唇を尖らせて押し黙ってしまう葉月の様子に、やれやれといった様子で口調を和らげると
「ま、小さい時からの性格だし、急にはどうしようもないか。それに、だいいち――」
と言って、途中からは悪戯めいた口調になる。
「コンビニのバイトで夜勤シフトになってあんた一人で店番なんてことになったら危ないもんね。悪いヤツが入ってきたりしたら、弱っちいあんたが追っ払えるわけなんてないし、それよりなにより、下手したら、あんた自身の貞操の危機ってことにもなりかねないんだから」
 くすっと笑ってそう言った皐月に対して、けれど葉月は反論する様子もない。一言も抗弁しようとせず、拗ねたような顔をするばかりだ。
「うふふ、そうやってほっぺを膨らませちゃうようなところが可っ愛いんだよね、葉月は。実の姉弟じゃなきゃ放っとかないんだけどなぁ、私だったら。なのにまだガールフレンドの一人もできないなんて、あんたの性格のせいもあるけど、世の中の女の子、んとに見る目がないよね」
 皐月は五月に誕生日を迎えて、今は二六歳。一方の葉月は九月が誕生月だから、七月の今はまだ十八歳。年の差は八つなのだが、さっぱりした性格で面倒見のいい姉と優柔不断で人見知りの激しい弟という間柄は、実際以上に年齢の開きがあるような印象を昔から周囲に与えていた。
 それに加えて、葉月の容貌。皐月は「あんた自身の貞操の危機」と冗談めかして言ったけれど、実のところ、これはあながち冗談ではすまされない。高校に入る前に成長期が終わってしまったのか、大学生になるのに、身長は一メートル六十センチそこそこしかないし、殆ど筋肉の付いていない体は華奢で細っこい。痩せぎすのがりがりといった感じではないものの、いかにも全体に線が細いといった雰囲気だ。しかも丸っこい輪郭の童顔を肩に届くか届かないかといった長さの髪で包んでいるから、ぱっと見には、中学生の女の子だと紹介されてもまるで疑うことなく信じてしまいそうな容貌をしている。髪をなかなか切らないのは外へ出るのがあまり好きではなく理髪店へ行くのも億劫がる性格のせいなのだが、もって生まれた髪質の良さのためなのだろう、碌に手入れもしていないのにいつもさらさらだ。ただ、髪が目にかかるのが鬱陶しいからといって眉の上でばっさり自分の手で切っているのが唯一の手入れと言えば手入れなのだが、前髪を眉の上で無造作に切り揃えた髪型がおかっぱ風でもあり、ますます葉月の顔を少女めいて見せていた。そんな葉月が深夜のコンビニに一人でいたりすればどんな目に遭うか、半ば本気で心配したくもなる。事実、皐月のマンションに同居するようになってすぐに生活に必要な細々した物を買い揃えるため二人でショッピングモールへ出かけた時を含め、これまでに何度も高校生くらいの男の子から、年下の少女と思われてナンパされたことも一度や二度ではない。
 そんな葉月とは対照的に、一メートル七十センチを優に超える身長に加え、護身用にと小学校に入る前から習い始めた合気道でいつのまにか段位を取得して、高校生の時には県大会に出場するまでになり、見るからに凜とした雰囲気を漂わせる皐月。見た目や性格も含め、二人が親元にいる頃は、お互いに入れ替わっていればよかったのにねというご近所の(決して悪意があるわけではないものの、少しひやかすような)噂話が絶えなかったのも当然か。

 けれど、そんな弟を皐月が嫌っているわけでは決してない。どんなことにもはっきりしなくて引っ込み思案で皐月があれこれと世話を焼いてやらなければ何もできない葉月のことが可愛くていとおしくてたまらない。そんな心の内を表すかのようにもう一度くすっと笑って皐月は言った。
「ま、コンビニのバイトは無理として。でも、うちでちょっとしたバイトの口があるんだけど、どう、来てみない? 時給をはずんでくれるよう私からも園長先生に掛け合ってあげるからさ」
「え? それって、姉さんの職場でバイトしないかってこと? ……だけど、僕、資格なんか持ってないよ。それに、大学に入ってまだ半年も経ってないから専門課程の講義なんて一つも取ってないのに、そんなのでいいの?」
 皐月からの思いがけない申し出に、葉月は要領を得ない顔で訊き返した。
 皐月が勤めているのは、閑静な住宅街の一角を占める『ひばり幼稚園』という私立の幼稚園だ。
 葉月たち姉弟は、昔から教育に携わる人材を輩出してきた血統の家に生まれついている。姉弟の父親は地元の県立高校の校長だし、母親も小学校の教頭だ。祖父や祖母、更に遡って多くの先祖たちも多くが旧制高校や女学校で教鞭を執っている。そんな家系だから、二人とも自分も学校の先生になるんだろうなと幼い頃から漠然とながら思っていて、事実、皐月は大学の初等教育科を出て、実家から少し離れた町にある『ひばり幼稚園』に職を求めたのだった。そうして、勤め始めて丸三年が経った今年の四月には、咄嗟の決断が早くなにごとにも物怖じしない上に日頃からいかんなく発揮するリーダーシップをかわれ、何人かの先輩教諭を差し置いて主任教諭という地位に就いていた。
 そんなわけだから、葉月がこの春に入学したのが教育学部なのは言うまでもない。ただ、前述のように貧相な体格の持ち主だから、高校や中学の教諭になるのが無理なのは自分でも痛いほどわかっていた。今どきの発育のいい中学生や高校生を相手にして、華奢な体つきで優柔不断な性格の葉月が威厳をもって(例えそれが教員免許を取得するための教育実習だとしても)授業を進める姿など想像もつかない。かといって小学校の教員免許を取得しようとすると、これまたいろいろと面倒なことになる。単科授業だけを受け持てばいい高校や中学の教諭とは違い、小学校の教諭は全ての教科を教える必要があるため、最低限の楽器の演奏や水泳指導までこなさなければならないのだ。高校や中学の教員免許を取得するのとはまた別の意味で、こちらも葉月にはまるでそぐわない。ということで葉月が選んだのは、皐月と同じ初等教育の途だった。
 とはいえ、実際の教育現場に立てば、子供たちだけではなく、その保護者をも相手にせざるを得なくなる。けれど、小さな頃から人見知りが激しくて優柔不断な葉月だ。中学生を相手に授業を進める自信もないのに、あれこれと口やかましい保護者に対して自分の教育方針を貫く自信などある筈もない。幼い頃から漠然と思い抱いてきた教職への途と、それを阻む自分自身の不甲斐なさ。二つの思いに苛まれて葉月がようやく思いついたのが、教育に関連する場に身を置きつつも教職の現場には立たずにすむ方法――教育分野を専攻とする研究者になるという選択だった。そう、資格を取りながら大学を終え、そのまま大学院の教育学専攻課程に進むことを葉月は望んだのだった。

「うん、資格なんて要らないよ。ちょっとしたアシスタントみたいなもんで、難しく考えるような仕事じゃないから」
 戸惑い気味の葉月の問いかけに、皐月はすっと目を細めて応えた。
「そうなんだ。……じゃ、やってみようかな。いつも忙しい姉さんに食事の用意や洗濯をしてもらってばかりだし、そのお礼ってわけじゃないけど、姉さんのところでアシスタントが要るんだったら、それで、僕なんかでいいんだったら、やってみようかな」
 皐月の視線を正面から受け、ちょっとおどおどした様子で葉月が小さく頷いた。
 揃って教職に就いている両親はいつも忙しくて、家でゆっくり過ごす時間を持つのは難しかった。そのため、葉月は生まれてすぐの時から八つ年上の姉に面倒をみてもらって育ったようなものだ。長じても、決断力があってどんなこともさっさとこなす皐月の陰に隠れるようにして生きてきたと言っても過言ではない。そんな葉月にとって、皐月からの『提案』や『申し出』は殆ど『命令』や『指示』と同じ意味合いを持っている。葉月にとって、皐月の言葉に逆らってみせるなど、およそ想像の埒外にある行為なのだった。
 もっとも、葉月が皐月の申し出を受けてもいいかなと思ったのは、姉に気圧されて渋々といった理由のせいばかりではない。誰に対しても面倒見のいい皐月は、後輩といわず先輩といわず、同僚の教諭を自分のマンションに招いてささやかなホームパーティを開いては、あれこれと会話に興じつつ、誰を厭わず愚痴や悩みを聞いてやることが少なくなかった。
 それは葉月が同居するようになってからも変わらずで、そのため、ひばり幼稚園の先生たちと葉月とは、いつのまにか顔見知りの間柄になっていた。もちろん、互いのプライバシーに立ち入るといったことはないものの、その人がどういう名前で、幼稚園ではどんな立場にいて、どんな感じの人なのかといったことくらいはいつしか葉月も憶えてしまっていたのだ。そんなだから、見も知らずのまるで他人ばかりの初めての職場ではないという安心感も幾らかはある。そんな事情も、皐月の提案にのってもいいかなと葉月に思わせる要因だった。
「じゃ、決まりね。ただ、私の一存だけでってわけにはいかないから、最終決定は園長先生と会ってからってことにしましょう。面接は、幼稚園の夏休みが始まる七月二二日。それでいわね?」
 皐月は葉月に向かってわざとのように大きく頷き返して、きっぱり言った。
「うん、いいよ。その日なら、もう前期試験が終わってるし」
 葉月は、テーブルに置いたスマートフォンの画面をちらと見て応じた。



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