
【文子のメニュー】【たかしのホームページ】 (旧版のまま)
power-S |
師走で来春には高校生活に終わりをつげる頃、東大阪の従弟の紹介で主人との話がもちあがった。
私は菊子ちゃんと幼稚園教師をめざし保育大学へと心は決まっていたので断ったのですが母親もともに『一度会ってみたら?』とおおのり気。
だが高校時代に約束した菊子ちゃんとのことを、ないがしろにするわけにはいかない。
『文ちゃん 保育大学には一緒にいこうね!』
『うん でも私オルガン弾けないもん』
『大丈夫よ わたしが教えるから。オルガンなんかすぐ覚えるよ!約束よ!』
『うん』
私も行きたいのは100%なのですが学校が名古屋なので下宿しなければならない、昼間勤めての夜学教育とはいえ我が家の経済状態を考えると不安がまったく無くもなくそれを計算するのが恐かった。
でも行きたい気持は変わらなかったのです。
だけど結果は周囲に押し切られたかたちで年末29日に5泊の予定で大阪の叔母さん宅へ行くことに決まりました。
大阪へ着いた日に叔母さんちで彼は何回か来て顔みせはしているのですが、最初の印象はおとなしそうでちょっと神経質かな?と思いました。
彼が来ていても他の方たちとの会話がはずんでふたりの話題はあまり出ずその機会がないので二人きりになろうと彼が乗ってきたバイクで自宅へ行くことになりその後ろに乗りました。
約30分ほどで着きそこは文化住宅式の2階にひとり住まいしてるとのことでした。
彼は積極的に会話をすすめ。
『僕はいまは貯金もない。だがそれはこれからでも出来ることや。住むところも今建設中の市営団地に当たりそこで住むことになる。僕を信頼してついてきてほしい』
『はい』
なぜ?・・・何故私はそう返事したのか自分でもわかりません。ただ彼の熱意だけがそうさせたことでないことだけは事実です。
私は前記のとうり別に結婚を望んできたのでもありませんし、彼が(一目ぼれ)するほどの男振りでもなく(彼は私には前もって渡した水着の写真でそうだったそうですが・・)背は小さく(それは私も同じ)第一貯金がなく手さえも握ったこともなく初めての会話でOKするなんて?・・・。
とても考えられないことです。
仮に意思がそうであっても『すこし時間をください』とかいうのが一般的なのに・・・。
それには彼と結婚して仕事とかその他の経過で後々わかったことですが、彼には今の科学でも分析できない(相手をその気にさせる)なにかがあるようです。
彼はその時自分のなけなしの貯金をはたいて買った私の誕生石の指輪を用意していてくれました。
その頃の金額で5000円だったそうですがそれが何年経ってもその金額が変わらないのが悲しいです!。
でも毎日寝る前にそれを必ず眺めてはニコニコしている私ではありました。
はじめて逢って婚約してお互いが離れているためそれを結びつけるものは手紙なのでほとんど連日のように文通しあいました。
女心の知らない彼はちょっとすねた意味の文章を書くと心配して静岡まで飛んできたこともあります。
内容は彼の連日の熱烈な愛の手紙に私が『セルロイドにような愛は心配。海の水のように温まり難く覚め難い愛がほしい』と言う意味のことを書いただけなのですが・・・。
学校が卒業まじかとは云えまだ通学中なので結婚は秋頃にするのが私の希望でしたが、彼の市営住宅への
入居のこともあり急遽5月にすることになったのですが、彼の妹さん夫婦が新婚期間に住んでいたアパートを引き払い自宅(ローソク会社経営)へ帰るので越してこないかとの誘いがあり一時的に彼はそこへ転居したので、私はその場所を見るのを兼ねて2度目の大阪行きとなりました。
朝出て昼過ぎにそこへ着き彼が出迎えてくれソフアーへ座り語り合いました。
彼は私の左側に位置しその部屋は子持ちはお断りの新婚向きの6帖一間でした。
町の中にしてはしずかだな〜との印象があります。
彼が言いました。
『手相みたろか?』
『? えッ・・・栃尾さん手相を勉強したのですか? 』
『いッ いや・・・。でも手ぐらい触ってもええやろ?』
私は無言で了解しました。栃尾さんとは正月に来て帰るとき新大阪駅で別れの握手をしただけです。
そして私はいままでにも○原君に一度だけ手のこうに軽くキスされただけでそれ以外の男性経験がありません。
彼はやさしく指をさすってくれました。
そして各指や指のまたなど丹念に触られているうちに何となく気持ちが良くなり指にこんな感覚があるなんて!
生まれてはじめてしりました。
そしてそれからのことは雲の中の遊泳と云うか夢のなかの出来事みたいでした。私が言ったうわごと。また失神したことなど一切主人から聞いただけで全く記憶がありません。
まづ時間はなんと4時間もかかりそれも義兄が来たから中断されたこと。そうでなかったらあと数時間は続いていただろうとのこと。
私が『腕だけでそれ以上やったら結婚しないです。』と言ったこと。(姉婿より忠告はうけていた)
数分間ほど失神したこと。
何故このような経験が出来たのかとあとで主人が言うのには、
『お前がそれ以上やったら結婚しないと言うたことが原因や。俺はアホ正直やからそれを守った。乳房そして・・・と進まなかったからや。』
また男は出さない限りは勃起しとる。また条件的にも俺には他に彼女がいない、つまり経験不足、いうならば飢えとったのとお前が俺の好みやったしな・・・。』と言いそして、
『普通どうり進んどったらこうはいかんで・・まあ数少ない貴重な経験やな・・・。』
『俺の技巧など関係ない。ただ偶発的になったんやな。せやけど2度と同じ経験は味わわれないで・・・生まれてはじめての味やもんな。』
『アイスクリームでもはじめて食べた味は違うやろ?』など延々と語りました。
私もこの(4時間の経験)は一生に一度の最高の喜びだったとも言えます。
だって失神したのはそれ1回きりだもの・・・。この長い生涯で?・・・。
あとで叔母のうちへ帰り長男の嫁さんと風呂屋へいって下着を脱いだとき、なんとも云えない良い匂いがぷーんとし愛液のかおりだと直感した私は彼女にばれたかな?と恥ずかしさで真っ赤になりました。
後日も腕だけであれだけ感じたのだから、その先は・・・?。
いうまでもなく条件的に栃尾さんとの結婚による期待?が大きかったことはいなめません。
(なお4時間の経験はひろしの生涯と一部重複する点があります)
結婚もまじかに迫ったある日のこと私は何を思ったのかお母さんに『やっぱり結婚は止める』というと母は泣いてそれを諭した。
『なに言ってるの! お前も年なんだから(24歳)今から学校へ行ったら一生結婚できんくなるよ!女の一人者はろくな事ないと聞くよ! だから頼むから結婚して頂戴!』また。
『栃尾さんも同じ病気経験者だから、お前のことよくわかるだろうし、NHK集金員で信用もあるし!』
何故そのようなことを母に言ったのかと後で考えてみるとやはりまだわずかにでも残る幼稚園教師への未練をぷっつりと断ち切りたいために母を困らせた結果になったのだと思う。
『お母さん あの時はごめんなさい』いまは亡き母へ。
(菊子ちゃんもゴメンね。保育大学への約束を守れなくて…。)
新婚旅行は淡路島でした。昭和天皇が泊まられたのが誇りの古風なたたずまいの宿でした。
宿泊では楽しみの一つである夕飯ですが、何を食したのかは覚えていません。
淡路島では観光のメインである鳴門海峡の渦潮だけが記憶にあります。
旅はただ何となく楽しく、新婚旅行は、はっきりと責任のある思い、の旅浮いたこころはない。でも忘れられない旅なりです。
世にいう初夜は真実小説とかでロマンチックな雰囲気なものと思っていましたが、現実は厳しいものでした。
姉からは『決していいものではなく痛いものだから塗薬をもっていきなさいね。』との言葉だけは貰っていましたが・・・。
覚えているのは前技などほとんどなくいきなりの行為に鉄の棒で何してるの?ということ。
ヒックヒックと胸が呼吸が苦しかったこと。
お風呂にいったら血がしたたり落ちたこと。(後部が切れた)
あくる日から歩きにくかったこと。
いまの若い人たちはいろんな知識があって私のような体験は少なくなってきているでしょうが、
男性が知識をもつこと、あわてないあわてないと一休さんじゃないけれど、こう言う初夜は後々まで女性のショックは大きすぎると思いました。
後日に同じく新婚の友人がら手紙がきて新婚生活での悩みなど大阪へいって話したいむねの内容でしたが、私にはすぐピンときて女性なればこその苦悩がわかるようでした。
3LDKの市営住宅に1ヶ月後には入居できるとのことで、6帖一間のアパートに仮住まいしりんご箱をひっくり返して布を掛け食卓がわりのママゴトのような新婚のはじまりでした。
『料理は何ができるねん?出来るもの書いてみ。』と聞かれて書き出したところ7種類ぐらいあり<BR>
ちょうど順番にしたら週一やから、とりあえずそれでいきや。
といってもらってホッとしたのですが、当時はカレーひとつするのにも今のように出来合いのルーはなく缶入りの純カレー粉をメリケン粉などといためて作るので、たいへんでした。
主人が独身時代のメニユーにいくつかの料理ができたので、それを伝授?してくれたりで間にあいました。
でも当分のあいだは夜がこわく切れた傷が痛くて身体じゅうが宙に浮いてるような感覚というかつらいことでした。
でも、主人が満足してくれてる、ということだけが助かりました。
ある日私が台所で突然涙ぐんでるのをみて主人に叱られましたが、あれはなにが原因だったのかと聞かれても覚えていず、生真面目すぎる女はたぶん肉体的にショックが大きすぎたのだと今そのように思います。
主人言わく。
『そうやったのか?ぜんぜん気づかへんかったで・・・でも、あの時はいつも嬉しそうにニコニコしとったやないか?』
『それはお母さんから嫌な顔するんじゃないよ。ときかされてたもん』
『そうやな・・俺も女性のことぜんぜん知らんかったもんな・・。それと7つ年上の女性と1年半つきあったのが悪かったのかな? 何しろいきなりのぶっつけ本番の連続で彼女も何も教えてくれへんかったもんな。せやからそれが普通やと思てたもんな。』
『確かに恋愛期間の性交渉は必要やで。男も一生懸命に努力するやろうし・・・とくにA-Bに・・。』
昔は(男には7人の敵がいる)と云われあのときが最も無防備なので早くすませると聞いたことがありますが、いまは昔ではないですものね。
何れにしろ私は約3年ぐらいは女を意識しなかったです。
当時の瀬戸内晴美のミニ本で『ないよりはあるほうが良かった。』という文章があったが『お前もそのくちかな?』と主人によく言われました。
(私は読んでいませんが・・・)
アパート1間の、約1ヶ月の、生活の間に、いろんなことがありました。
新婚旅行からの帰宅。身体の傷にうろたえ、初めての料理にうろたえ・・・。
母が心配してか田舎へも帰らず東大阪の叔母宅で挨拶にくるものと待っていてくれたのに行かなかった為に『挨拶まわりはすぐにするものだよ』と叱られてしまいました。
当時は個人電話もなくすぐにツーカーで連絡しあえる時代ではなかったせいもあり、遅ればせながら主人の姉宅に早速挨拶にいった帰り、
交通事故にあってしまいました。
私は主人のスクーターでの2人乗りでしたがそのスクーターは少々ブレーキがあまく前方の横から飛び出したトラックにあれよあれよというまに激突し私は吹っ飛ばされて頭を打ってしまいました。
相手の運転手さんが『病院へ行きましょうか』と言ってくれたのですが、当時はこんなこと位で病院なんて・・と『大丈夫です』とそれっきり別れたのですが、その後発熱は続き後々まで打った頭がうずいて悩みの種となりました。
主人は単車でこけるのは馴れているせいか、また自称石頭でもあるせいか、私の頭打ちの認識が薄かったようです。
いまはヘルメット着用も義務づけられていますが、やはり頭を強打したときは病院で診てもらうべきだと真実にそう思います。
二つ目の災難は恥ずかしい話ですがてんぷらでボヤをおこしたことです。
叔母の子供が遊びにきたので、まちなかが全然わからない私と買物に付き合ってくれ夕食にてんぷらを揚げ出したとき義姉から管理人室に電話がかかりその子に『これみててね』と頼んで火も消さずに電話で話し込んでしまったのです。
その子が大声で『燃えてるよ!』と叫びましたが、『あら・・消しといて・・』と気楽な返事のわたし。
まさか天ぷらの油が燃えているという感覚がなく、ガスを消したらいいものと簡単に考えていました。
『消えないよ!』
『え?!!』
とあわてて部屋に戻るとフライパンから真っ黒な煙がもくもく出ています。
私はあわててフライパンごと窓の外へほうり出しました。外がドブでなんにもないこと知っていたからです。
部屋中がススだらけ、だけで済みましたが、こんなときは慌てないで空気を遮断すること。
フタなどをかぶせ、よくしぼったぬれタオルなどを用意してピタッと表面を覆うことだそうです。
主人は『失敗は仕方がないこと。以後気をつけることや。』とやさしく言ってくれました。
(後日主人自身もその経験をしており炎が天井にとどかんばかりに燃えていて理論的にはわかっていても何よりも時間が大切と彼は身近にあった洗濯物のやまを水にもぬらさずそのまま火をおおいかぶせると直ぐに鎮火したそうです。)
おかげで大量のシャツなど使えなくなったが保険金でカバーできました。
アパートの方は毎日ふたりでススだらけを拭く仕事が増えました。
わずかの間に交通事故、ボヤと前途多難の出発でした。
でも、新婚でまだ?!主人がやさしかったし、頑張ろう!がんばろう!と思いました。
だが、しぜんと涙ぐんで主人に叱られたのはこの頃です。
言葉では言いあらわせない心の動きと身体の変化、大昔から女はこんな生活をくりかえして、母となって成長していくんでしょうね。
現実は書いているように厳しいときもあったけれど、何しろ新婚だし彼が夢中で愛してくれていることが伝わってくるので、それだけで私も充分感じ本当に字のとうり夢中の毎日でした。
でも、女は弱しされど母は強し、を実感するそれからの暮らしでした。
六月のはじめ、市営の団地が完成し中ごろに引越ししました。
まだ国道25号線以外は舗装もされていなくてバスどうりも凹凸ありで引越しのトラックもついに団地の付近で立ち往生で大変なことでしたが、私たちはすでにわかっていたことなので、家具はほとんど用意しませんでした。
それでも主人の友達が5〜6人手伝いに来てくださって有難いことなのでしたが、品物の少なさに拍子向けの感じのようでした。、
仕事が一段落してから私のつたない料理でビールを飲み交わし友情の確認みたいな感じで楽しそうでした。
あとすぐに必要な家具類は店から直接配達してもらって、やっと新婚らしい家となりました。
鏡台には友人が編んでくださったレースが掛けられ母の『素顔はみせるものではないよ。必ず薄化粧でもしているように』
と言われ、いまに至るまで続けています。口紅、ほほ紅をうすくでもつけるだけで顔が明るくなると自ら実践しています。
それともうひとつ母から『あのときは嫌な顔をしてはいけないよ』
との忠告をまもり続けてもきました。
『俺は感心するのはあのことをお前は一度も拒んだことがないことや。』とほめられましたが、これも母の諭しが関連しての女の義務だと自覚していた為だとかんがえます。
はなしが横道にそれましたが・・・。
部屋は南向きで日当たりもよくとても気持ちのいい住居でした。私たちは一番上の4階で南側からは二上山が見え夏にはPLの花火もそこへ行かなくても一望でき、すぐ近くには大和川が流れ、大きな馬池。田んぼ。畑。と自然にもめぐまれて『私は田舎からきました』
と他のひとに話すたび可笑しかったものです。
何故なら、私の田舎のほうがもっと街らしかったからです。
でも蛙の合唱はうれしかった。(が、最近はすぐ側にある300坪ほどの地元の人の田んぼがもう米を作らず野菜だけになったので、その泣き声も聞けなくなりました。それと団地内に桜の並木があって夏には蝉の大合唱でしたが、うるさいと感じたことなかったですが、その木も育ちすぎたためと道路の補修で取りさられ残念です。)
その、蚊の大群にはホトホト困りました。ご飯をたべていても、ポロポロ落ちてくる位のひどさでした。
しかし網戸が入ってそれも解決、そこそこ落ち着いた頃には田舎のお友達が順番に新世帯をのぞきがてらと遊びで来坂し下手な料理も一生懸命作ってもてなしました。
八月に入ると身体に変調をきたし全身がだるくなって心配しました。
『仕事はさせない。料理は習いに行かせてやる』
と主人の結婚前の言葉は理想だけ…の話で二ヶ月もすると当時NHKの集金の仕事をしていた主人の手伝いに狩り出され、一日300軒をまわる仕事が始まりました。
私にとっては勿論はじめての外回りの仕事のうえに他家を一軒ずつ訪ねる、という大変な仕事です。
でも、すごく社会勉強になりました。このいろんな人に逢う仕事で『自分自身が成長したな』とつくづく思いました。
お客様のなかにはもう声だけで覚えてくださって、『こんにちは!』と言うだけで『ハーイ…』と扇風機をかかえて玄関まで出てくださり『暑いでしょう』とすぐかけて下さる人、冷たいお茶を出してくださる方、いろんな話をしょうと待ちかまえている人、隣の分までお金を預かってくださっている方、立て替えときましょ、と払ってくださる人。
また中には『隣?そんなこと知らん!自分で調べ!』とケンもホロロの人。
この地域は場所が悪いという主人のなげきがわかる一日程20〜30%の集金率でした。
でも一部ですが良いところは一日程で80%があがり大体はこれが普通らしいのですが、主人は『初めはよかったが年々悪い地域に落とされている、これは左遷や!今度も変えてくれんかったら辞める』
私も泣きたい位の時が多かったのですが、私なりにこの仕事は楽しかった。
おしゃべりに話がはずんで仕事がおくれまだ道が悪かった頃なので自転車でころんで小銭をまきちらし、真っ暗なので泣きたい思いで探し拾ったこと。
でも毎日があっというまに過ぎていきました。
八月にはもう生理が止まりそれでも休むことなく集金の仕事は続きました。
少しずつお腹もふくらんできましたが、私が独身だと間違われ見合いの話があったり、なかには『床の間に飾っておくからお嫁になってくれ』
と冗談にいわれたり、『え?!もうお腹が大きくなりつつの花嫁を?!』と大笑いしたこともあります。
つわりが始まった頃主人は気持ちが悪いでしょうに、あげた後の掃除とかもしてくれて順調にお腹も大きく
なり、母となる喜びが私をつつんでくれて何事にも張り切っていました。
でも、毎日の30分以上自転車に乗って集金先に行き、約200〜300軒まわる仕事は妊婦にとっては無理だったらしく一月の定期検診には医師から宣告されてしまいました。
『このままではもう早産しますよ、育ちませんよ、じっとしててください』
と帰宅した私の変化に主人はいち早く気づき 『どうした?』と聞いてくれました。
それからは陽あたりの良い部屋で大人しく買い物にだけ外に出る生活が三ヶ月続きました。
出産日がちかずき陣痛が5分おきになったら病院へ行くこと、といわれていたので朝から時計とにらめっこ。
主人に車に乗せてもらい病院へと急ぎました。
あんなに『あぶない あぶない』と驚かされていたのに、いざ陣痛となると『まだまだだから一旦家に戻りなさい、今度5分おきになっても、あわてずバスでゆっくり来なさい』
と医師に言われ帰宅しました。
ところが次の日に朝、また同じ常態となり、主人は仕事なので一人でバスに乗りガタガタ道を必死でお腹をかかえる感じで『途中で生まれてしまうのでは』
と心配しながら病院へ行ったのですが、何と生まれたのは明け方の二時過ぎでした。
はじめは『袋みたいのがでてきました』と看護婦さんに言うと『あっ ハイ』と返事をしてハサミとトレーを持ってきて袋をプチッと切って破水をさせたのです。
それからも何人もの妊婦さんが大声でわめき、さわぎ、次々と赤ちゃんを産んでは病室へ戻っていくのに、いつまでたっても私はそのまま五分おきにウナッたり力んだりしているだけで五時間も過ぎてしまい赤ちゃんは死んじまったのでは?と心配で心配でたまらなくなった頃
『エッまだいてたのか、えらい大人しい妊婦さんやな』と医師の声と『これはあかん注射しよう』
と陣痛促進剤をうたれお腹にまたがった看護婦さんがおなかをおしだすようにして、
『思いっきり、いきんで!… 止めて!と言ったらすぐ力を抜くのよ、切れてしまうからね!』
と下で受けてくださる看護婦さんと二人がかりの出産となりました。
私には赤ちゃんが痛い々と泣いているように聞こえました。
『五体満足の男の子ですよ』
と顔の近くで見せてくれました。本当に安心していっぺんに疲れがどっときました、でもまだそれから後産のためにお腹をもみしごき出されるという感じで、これも又えらいことでした。
それと下で受けてくれはった看護婦さんの爪で産道が切れて、しばらく痛みがつづきました。
何故2400gと未熟児の仲間になりそうなのに保育器に入らなかってもよかったかは、十月十日の産月までお腹にいられたからだそうです。
『隣のベットの赤ちゃんは8ヶ月で出産し、2380gで箱の中なのよ』と聞きなっとく。そのママは一人でお腹が痛い〃と半泣きの様子。
『二度目のお産は産むときは道が通っているので楽だし早いけれど、後の収縮がきつくてすごく痛いのよ』
と教えられました。
無事に2400gの小さいけれど保育器の必要もない元気な男の子に恵まれました。
私自身37kgのヤセの女でしたが産月には42kgになりお乳はシャワーのように噴出して赤ちゃんはムセてしまいいつも泣いておこりました。
でも、核家族の悲しさで当時は少しの間タオルをあててもむと飛びちらなく含みやすくなる、とか教えてくださる方もなく畳のへりから赤ちゃんの産着までみんなボロボロになり乳の力のすごさを実感しました。
また私の乳房もみごとに大きくなり通りすがりの人までびっくりして見るのがはっきりわかりわかりました。
生後三ヶ月でまた集金に出だしたのですが、タオルを2枚当てていても外までにじみ出しついには乳腺炎をおこして病院の世話になり、ほとんど人口乳にかわりました。
よく乳を離れるときの苦労する話を聞きますが、とうがらしをぬったりとか、本当でしょうか?。
でも、仕事のおかげで私は苦労なく乳離れは出来ました。