播州葡萄園について


 明治初期,政府が国策としてワインづくりを奨励したことはあまり知られていない。全国で官営の製鉄所や製糸所が建設されるよりも少し前には官営の葡萄園が開設され,あるいは民間でも大々的にワインづくりに参入する者が各地に現れているのである。これは言うまでもなく欧化政策と米不足の解消の一挙両得を狙ったものであった。また,ワインを輸出して外貨を稼ごうということまでも念頭に置いていた節もある。しかし,フィロキセラの害とワインの販売不振によってことごとく頓挫してしまった。その後日本のワイン産業は百年間に及ぶ暗黒時代を迎えることになるのである。
 さて,明治13年に開園した官営の播州葡萄園は僅か8年で民間に払い下げられ,その数年後には殆ど機能しなくなっている。そして永くその存在を忘れ去られていた。ところが,近年の農地基盤整備事業による土木工事の際に醸造場の遺構が発見され,さらに当時のワインが発掘されるに至って,一躍脚光を浴びるようになったのである。ここでは,稲美町制45周年記念事業として稲美町教育委員会が発行した「播州葡萄園百二十年」に記された播州葡萄園の姿を私の視点で検討してみたい。
 まず,葡萄園の土地が如何なるものであったかについて検討したい。現在の葡萄園跡地は一面水田地帯で,水田と溜め池の間に民家が点在しているようなところである。ワイン用のブドウは日本人の感覚からすると干ばつに近いような状態で良好に生育するものであるが,それがこのような「湿地帯」で育つとは考えにくい。ところが,現在の水利は淡後川山田川疏水事業によってもたらされたものであり,かつてこの地は綿花の栽培しか出来ないところであったのである。しばしば干ばつに襲われた痩せた土地,ブドウづくりにとっては理想的な土地である。現地の土壌について詳細に調査はしていないが,粘土質に砂礫が混じったような感じで,少なくとも関東ローム層よりは遥かにブドウに向いていると考えられる。そもそもこの地に葡萄園が開設されたのは,東京の三田育種場が葡萄栽培に不向きであり,温暖で土壌の適した土地を探した結果,この地に白羽の矢が立ったのである。
 では,このような土地にどのようなブドウがどのように植えられていたのか資料で調べてみよう。葡萄園の試験結果によると,「ボルドーノアール」,「ボルドーブラン」,「ブラッキジンフィンデル」の3種が優れているとされている。明治17年7月刊行の「舶来果樹要覧」(大日本農会三田育種場,有隣堂)によると,これらの品種は以下のように記述されている。播州葡萄園のブドウ樹は三田育種場から移植されたものであり,これら3種が適すと結論づけられたのはこの本が出版されて間もなくのことであるので,これらの記述が播州葡萄園で選抜されたブドウ品種3種とまったく同じものについての記述であることは間違いない。

第五号 ブラッキ,ジンフヰンデル(Black Zinfindel.)又単に「ジンフヰンデル」と称す
仏国産なり果穂大にして岐肩あり粒は中等にして円く深紫色にして微酸を帯び醸酒並に生食に宜し上品とす樹性強健にして至て豊産なり

第十三号 ボルダウ,ブラン(Bordeaux Blanc.)
仏国原産なり果穂中等にして短き岐肩をなし顆粒中等にして円し熟すれは白黄色に変す漿多くして味甘美なり夏月熟す生食並に醸酒に用ひて上品なり

第十四号 ボルダウ,ノアール(Bordeaux Noir.)
仏国原産なり果穂中等にして短き岐肩あり顆粒中等にして円し熟すれは深黒色にして薄粉を被むる肉柔かく味甘美なり夏月熟す生食並に醸酒に適す上品なり

 ブラッキ・ジンフィンデルが現在我々がジンファンデルと呼んでいるものであることは恐らく間違いない(この品種は最近イタリアのプリミティーヴォと同じであることが確かめられ,フランス原産であるらしいとされているそうであるが,明治初めの日本の書物に記録されていたことは驚きである)。ボルドーのブラン(白)とノアール(黒)は,これだけでは断言できない。夏月熟すとの記載や他の特徴から,セミヨンとメルローと考えることも出来るが,更に熟すのが早い筈のピノ・ノワールが秋月熟すと記載されていることなどを考えると断言できない。当地の気候を考えると,ソーヴィニョン・ブランとカベルネ・ソーヴィニョンであった可能性も否定できない。実際,地中海地方ではカベルネ・ソーヴィニョンは早熟な品種として扱われるのである。しかしながら、故麻井宇介氏はブドウの特徴の記述から、ソーヴィニョン・ブランとカベルネ・ソーヴィニョンではないと述べている。いずれにせよ、苗木を仕入れた先がフランスの東部の業者であり、ボルドー系の品種を細かく分けていなかったことは事実のようであり、これらのいずれの品種も適合する可能性は十分に考えられる。
 ところで,これらの品種は驚くべきことに,完全にフランス式の密植・垣根式で栽培されていたことが分かる。当時の記録をもとに計算してみよう。

項 目第1区第2区第3区
明治16年12月現在植栽反別57反7畝80反7畝46反9畝185反3畝
明治16年12月現在樹数(筆者推定)28,00037,00022,00087,000
植栽密度(本/ha)4,8534,5854,6914,695
明治17年果実収量730貫242貫33貫1,005貫
収量(ワイン換算,hl/ha)3.80.90.21.6

 ブドウの植栽密度は5,000本/haを想定して植えられたものであろう。これは2平米あたり1本の樹が植えられている計算になり,フランスの標準的なブドウ畑と同じである。収量は1桁以上少ないが,植栽されたばかりの試験園であるから当然である。明治17年には植栽数11万本以上になっており,数年後の報告では,15,000〜20,000貫の収穫が可能と予想されている。植栽面積を25haとすると,収量は18〜24hl/haとなり,現代のフランスの半分程度と計算される。何れにせよ,今日日本のワイン産地の多くで行われている,棚づくり,低植栽密度,高収量(フランスの2倍程度)とは程遠い,ワインづくりにとって理想的な栽培方法が取られていたことには,驚きを禁じ得ない。この葡萄園が時期尚早であったために完全に破壊され,溜池(葡萄園池)を造り灌漑することによって葡萄栽培に不向きな土地にされてしまったことは,日本のワインづくりの進歩を百年間停止させる結果になったのである。
 さて,播州葡萄園がもし今日まで存在していたら,我々はどのようなワインを飲めたのであろうか。葡萄園の回りには樽材用に楢の木まで植えられていた(余談であるが,オークが英文学者によって「樫」と誤訳されたのは後のことであろうか)。樽で熟成させたメルローまたはカベルネ・ソーヴィニョンの重厚な赤ワインがあるに違いない。そしてセミヨン、ソーヴィニョン・ブランの爽やかな辛口白ワインと,現代のボルドーの影響を受けた,樽醗酵の重厚なタイプのものも美味しそうである。この土地では恐らく貴腐ワインをつくることは考えられていなかったであろう。ジンファンデルはブラッシュにしていたであろうが,数年前の赤ワインブームで本格的な赤ワインもつくっているかも知れない。
 さて,葡萄園のある播州加古郡の近隣を見渡すと,少し足を伸ばせば牛肉の名産地だらけである。ステーキにメルロー、カベルネ,あるいはジンファンデルの赤。そして,瀬戸内海の海の幸。鯛にはセミヨン、ソーヴィニョン,穴子にはホワイト・ジンファンデルも良かろう。鱧は白が良かろうが,京都風の照焼なら赤でもいける。何れにせよ,今日我々が手にする神戸ワインや丹波ワインとは根本的に異なる,高品質で世界水準のワインがそこにあった筈である。



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