或る文学者への書簡
〜 ベートーヴェンの悲劇 〜



 これは、筆者が或る女流文学者に宛てた書簡の内容の一部である。


(近場へ旅行しようという話をしていて、彼女が「冬の旅」という表現を使った。「冬の旅」というと、つい Fremd bin ich eingezogen... と浮かんで来るというと、彼女は何のことか分からなかった。)

これはシューベルトの歌曲集「冬の旅」の第1曲冒頭の歌詞です。
「わたしはよそ者としてやって来て、よそ者として去って行く。」

この歌曲集、全体が一つのストーリーになっています。
恋に破れた若者が、雪の中を当てのない旅に出て、モノトーンの
世界をひたすら歩き続けるのですが、そこには恨み言も後悔も
何もないかのようです。約1時間、24曲の中には、淡々と歌う
有節歌曲もあれば、絶叫に近い歌もあります。しかし、各曲の
一番最後の音は、どれだけ絶叫していても最後に消え入るように
終わります。シューベルトがこの歌曲集を書き上げたとき、彼の
友人たちは、「菩提樹」は美しい曲だと言ったきり、絶句してしまったと
言われています。

シューベルトの失恋歌曲集としては、「美しき水車屋の娘」も
有名ですが、「冬の旅」とはレベルが違いすぎます。「水車屋」の
ストーリーは直接的、具体的ですが、「冬の旅」は非常に抽象的で
深い余韻を残しています。もしドイツ歌曲やドイツ文学にご興味が
なくても、文学者として活動される方には、これの訳詩をどこかで
入手されてご覧になることをお勧めしたいと思います。

と言っていたら、全曲翻訳してみたくなって来ました。
取り敢えず1曲だけ・・・と思ったのですが、一部分だけ読むと
却って全体の印象が掴めなくなるのでやめておきます。

クラシックの場合、往年の名演奏のCDが千円程度で売られている
ことがよくありますし、中に歌詞カードと対訳が付いているものが
多いので、1枚買われてみては如何でしょう?

家の中を探すとどこかに楽譜がある筈なので、ピアノを弾いて戴けば
歌います・・・と言いたいところですが、15年以上もまともに歌を
歌ってないので声が出ないと思います。


(シューベルトとかは聴かないという彼女の返事。)

行き詰ったとき、違う分野の文学に目を通してみると、何か
新しい展望が開けるかも・・・なんて、小説書きながら考えたり
しますが、あなたはどうですか?

「シューベルト → クラシック音楽 → めんどくさそう」と
考えるのではなく、「シューベルト → ドイツ歌曲 →
ドイツの失恋の詩にメロディーが付いているだけ」と考えると、
なかなか面白いネタ(?)が隠れているかも知れませんよ。

ドイツ文学って、ロシア文学ともちょっと違った、独特の
暗澹たる世界があって面白いですね。特に東のほう、
以前の東ドイツよりももっと東のほうを舞台にした19世紀
頃の小説など、他にはあり得ないような世界を創り上げて
いる気がします。

さて、冬の旅の楽譜ですが、一応見つかったので見ています。
フルサイズの楽譜はどこかの箱の中に入れたままですが、
ポケット版の楽譜が出てきました。しかし、この独特の世界、
幸せなことが一度もないままに若くして亡くなったシューベルト
ならではのものですね・・・。


(お坊ちゃま大学の独文科を出た鼻持ちならぬ男がいて、ドイツ歌曲は好きになれないという返事に対して。)

一世代前の”インテリ”の方は、ドイツ語が非常に高尚なもので、
それを自慢したがるという方が少なくないようで・・・。
文学も音楽も、ええかっこするためのもんやないのにねえ・・・。

ベートーベンが最高と思ってる人が多いけど、あれは努力して
立派になって、真面目な音楽を作ったから偉いと、戦前の日本人が
勝手に持ち上げただけで、努力する秀才のベートーベンは、
不真面目な天才のモーツアルトの足元にも及ばないのですけどね。


(子供の頃に読んだ伝記で、ベートーベンは耳が聴こえないのに頑張って作曲や指揮をしたので凄いと思ったという彼女に対して。)

それはそれで実に立派なのですが、その立派な努力を無理に
讃えようとして、他の音楽家を全て圧倒して、唯一無二の最高の
音楽であるように教えるのが日本の音楽教育。

しかし、実際には、ベートーベンが何年もかけて何回も書き直した
作品よりも、モーツアルトが思いつきで一晩で書いた作品のほうが
完成度が高く、聴いていて心地好いのです。しかし、それでは
教育上好ましくないので、モーツアルトは軽薄な音楽であるとし、
重厚なベートーベンこそが真の音楽であると無理矢理教え込んで
いるのでしょうね。


(二人の遣り取りは別の話題に移って行ったが。)

ベートーベンについてちょっと補足を。

ベートーベンの音楽を象徴するエピソードは、歌劇「フィデリオ」の
お話でしょう。ベートーベンは何度も何度もこの彼の唯一のオペラを
書き直しました。序曲なんか4つも書いていて、最後の作品を現在は
演奏することになっているのですが、前のほうが良かったといって、
演奏会で前のを演奏する指揮者までいたりして・・・。

ちなみに、モーツアルトはオペラの序曲を初日の前の晩に書くことに
していたそうです。さあ、明日が初日だ。そろそろ書かなきゃと、夕食の
ワインでいい気分になったところで一気に書く。それがあの名作、
「フィガロの結婚序曲」だったりするのですからかないません。

ところでこのフィデリオのストーリー、如何にも正義と道徳を説く、説教
じみたストーリーで、あまり面白くありません。劇としてのレベルが低い
ため、演奏会形式、つまり、オーケストラと合唱団と独唱者を舞台に
並べて、みんな直立不動で歌うほうがいいと言う人までいます。

ベートーベンがこれを発表した時、初日からずっと劇場に張り付いて
いたのですが、客の入りが芳しくありません。劇場支配人が、「やっぱ
モーツアルトのようにはいかんねえ。」とぼやくと、ベートーベンは、
「私はあんな不真面目なストーリーのオペラなんか作らないのだ!」と、
怒ってその日で上演を打ち切ってしまったそうです。

モーツアルトの「不真面目なストーリー」、ドタバタですが、とにかく
楽しいものです。オペラに限らず、音楽とは音を楽しむためのもの。
その楽しむという視点が不足していたことが、ベートーベンにとって
最大の悲劇だったのでしょうね。

破天荒な人生を送って35歳で死んだモーツアルトと、結婚もせず
お金を溜め込んで死んだベートーベン・・・。

でも、私は決してベートーベンが嫌いなのではなくて、好きな作品は
いっぱいありますよ。



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