ショパンのト短調ソナタ



 私はピアノが殆ど弾けないこともあって、ショパンはあまり聴かないほうである。それでも、ショパンで好きな曲は何かと訊かれると、ト短調のソナタだと答えることにしている。ショパンにト短調のピアノソナタなんかあったかって? 誰もピアノソナタだとは言っていない。チェロソナタト短調作品65のことである。
 このややマイナーな作品の成立事情などの詳細については、私は知らない。ただ、たまたまFMで放送されていたのを聴いて、すっかり気に入ってしまったのである。このソナタ、ロマン派風4楽章形式(勝手に名前を付けてるが)、つまり、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章である。
 この曲、実に素晴らしいのであるが、チェロソナタというのは演奏されにくい。楽譜を入手してピアノソナタに編曲を試みたが、極めて演奏が困難なものになってしまい、諦めた。いっそ、ピアノ協奏曲に編曲してみたいところであるが、時間が無いので試みていない。
 さて、私がFMで聴いてすっかり気に入ってしまった演奏は、あのデュプレ最後のスタジオ録音であった。天才美人チェリストの名を欲しいままにしたジャクリーヌ・デュプレは、難病に侵され、惜しまれつつも若くしてこの世を去ってしまった。そのデュプレが最愛の夫、ダニエル・バレンボイムとの最後の録音にこの曲を選んだのは偶然かも知れない。しかし、これが20世紀のチェロソナタの総決算、究極まで完成され、調和した演奏であると言っても反論する人はいまい。とても私の拙文では説明できない。聴いていただくしかあるまい。
 この演奏を最初に聴いたのは中学生の頃であっただろうか。大学生になって、ピアノの上手い女性に恋をした。その頃、自分がチェロを弾けないことを悔やみながら、彼女のことを思い浮かべつつ、よくこの演奏を聴いたものである。そして、ある日の夜、いつものようにこの演奏を聴いているときに電話が鳴った。彼女からであった。
 受話器を置いた私はステレオを止め、呆然としていた。その後何年かの間、この演奏を聴くことはなかったし、何十回も聴いた筈の曲のメロディーの一部さえ思い浮かべることが出来なくなってしまった。
 やがて再びこの演奏を聴くようになり、ほぼ全曲が頭に入ったころ、FMで不思議な音楽が流れて来た。よく聴いてみると、ショパンのチェロソナタト短調である。しかし、その演奏はチェロとピアノが調和とは程遠く、まるで激しく闘い合っているかのようであった。その鬼気迫る緊迫感は名演奏に違いない。しかし、デュプレ・バレンボイム夫妻の演奏と、およそ同じ曲であることが信じられないようなものであった。
 その演奏者は、ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチとマルタ・アルゲリッチであった。



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