インターネットによる伝統文化の復興例


 インターネットの普及により、失われようとしている文化が新しい展開を見せている例を見つけ、思わず私も参加してしまった。これは中将棋という古典将棋で、室町時代には広く普及していたが、江戸時代には衰退し始め、戦後は殆ど忘れられようとしていたものである。
 将棋を御存知ない方は少ないであろう。9×9の盤上で、双方20枚ずつの駒(8種類ある)を動かして戦うゲームである。私たちが現在指している将棋、いわゆる本将棋が成立したのは戦国時代末期頃で、江戸幕府の時代になって、完全に定着したと言われている。この将棋というのは双方が8種類20個のキャラクターを操って戦う、戦闘シミュレーションゲームと言うことが出来る。それならば、盤をもっと大きくして、色々なキャラクターを登場させ・・・ということを考えそうなものである。実際、中世には15×15の盤で、双方65枚ずつの駒(29種類・・・数え間違えてなければ=^^=;;)を使う、大将棋というものが指されていた。その駒の中には銅将、鉄将、石将まであるし、鳳凰、麒麟、獅子に、虎、狼、牛、猪、猫なども出て来るのである。
 更に大型の将棋も次々と開発され、ついには36×36の盤で、双方が400枚以上の駒(200種類以上ある)を使う大局将棋なるものまで作られた(呆)。この辺の経緯については、日本中将棋連盟のホームページのコラムに詳しく説明されている。
 しかし、あまりにも大型の将棋はルール(各駒の動かし方)を覚えるのが大変で、対局に時間が掛かることもあり、次第に廃れて行ったのである。そんな中で室町時代に広く指されていたのが、12×12の盤で双方が46枚の駒(21種類ある)を用いる中将棋である。ゲームとしてのバランスが良く、対局時間も囲碁より若干長い程度で済むため、大将棋よりも人気になったものと思われる。
 ところが、何れにせよこのような大型将棋は漢字が読めて暇のある人しか指すことが出来ない。結局江戸時代には中将棋のみが、上方で貴族や一部の上流階級の人々によって細々と受け継がれるだけになってしまい、武士や庶民階級には少将棋から派生した現在の将棋が普及して行ったのであった。
 中将棋は戦前までは関西のごく一部で指されていたが、競技人口は戦後数人にまで減ってしまい、一時期絶滅しそうになった。大山名人が中将棋を愛し、内輪ではよく指していたらしいが、一般に広く普及させる試みはなされなかったようである。大山名人の没後、いよいよ中将棋は忘れ去られる運命にあるかと思われたが、最近になって複数の愛好家団体が出来てきたのである。更には欧米でも愛好家団体が出来、それらの団体はいずれも主にインターネット上で活動しているのである。現在、この中将棋を指せる人は国内、ヨーロッパ、アメリカに各数十人ずつしかいないが、インターネットを利用した国際対局なども行われている。
 更には大将棋をネット上で対局する試みもなされており、平行して文献の研究なども進んで、一時期は詳細が分からなくなっていた大型将棋の内容がほぼ解明されつつある。このようにして、忘れ去られてしまうところであった日本の古い文化がインターネットのお蔭で蘇ったのであった。



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