譜めくりの話


 高校3年生のとき、ある朝非常に楽しい気分で目が覚めた。どうやら楽しい夢を見たらしい。寝惚け眼で着替えをしながら夢の内容を徐々に思い出し、青ざめた。その夢の場面は恐らく学校の文化祭らしいが、祭りの夜店のようなところも混じっていた。そして、私は2年生のある女の子と二人で、仲良く模擬店等を回っていたのであった。あるいは手を繋いでいたかも知れない。周りに知った人は見当たらず、完全に二人だけの世界であった。
 彼女は演奏会を間近に控えた女声合唱のピアノ伴奏者であり、私はその譜めくりをやっていた。その女の子は私のガールフレンドでも何でもなかった。彼女を女性として意識したことは一度もなかった。外見もそう悪くないし、性格もいい子だったのだが、とにかく興味を持っていなかったのである。では、どうしてその子と恋人のようにデートしている夢を見て、幸せな気分になったのであろうか?
 演奏者は指揮棒を注視する。そして指揮者に呼吸を合わせ演奏する。ところが、譜めくりはピアニスティン(敢えてドイツ語の女性形にしておく)に呼吸を合わせる。そして自分自身は音を出さず、演奏に一切関与しない。全ての動作はピアニスティンに完璧な演奏をさせるためにだけ行われる。そこでは自分自身の存在を否定し、ピアニスティンの中に埋没してしまうのである。これはまさに性愛の究極の状態と同じではないか。この状態を繰り返すうちに、私の深層心理の中で彼女が恋人のような存在になっていたのである。
 彼女の譜めくり役は間もなく終わり、彼女とはその後も何もなかった。しかし、それ以来彼女を少なからず意識してしまう自分がいた。
 後日、別の女の子の譜めくりをすることになった。私はピアニスティンにだけ呼吸を合わせることを恐れ、指揮者を見たり合唱団のほうを眺めたりしていた。すると、見事に譜めくりのタイミングがピアニスティンの演奏に合わないのである。それ以来、私は譜めくりをしていない。


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