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日本人と漢文


 物の怪の寄り合いで、外来語について話題になったことがある。近年カタカナの言葉が氾濫しすぎて日本語がおかしくなっているという主張には一理ある。カタカナならまだしも、アルファベットの略号をやたらと使うに至っては笑止千万で、化け猫用語集もこのような御時世を茶化すために存在しているのである。

 ところで、このような主張をした人がいる。

1.かつては外国語を日本語に訳したのに、現在ではカタカナのまま用いる風潮がある
 telephoneを電話と訳した我が国が、televisionが入って来た時には既にそれを自国語化し、定着させる力はなかった。お隣の中国は電視という解りやすい漢字を当てはめたのであるが。その後コンピュータもネットワークもそれぞれ中国では電脳、電網と上手く取り入れたのに、我が国は片仮名のままである。

2.原語と意味が違う語がある
 ホームページやソーラーシステムなど、単語としてそれ自体は和製英語じゃないんだけど、使い方が英語の意味と違っていて実質的に和製英語というのが一番困る。目の前の日本人が「ほおむぺえじ」と言った場合、それがホームページ(つまりWebSite)の意味か、Home Page(つまりトップメニュー)の意味かは前後関係から類推するしかない。

 さて、わが国の言葉はもともとは大和言葉だけで成り立っていたもので、もろこしとお付き合いをするようになってから、唐言葉が加わって、今のような形になったものである。
(↑この文、全部現代語のやまとことば =^^=;;)
 つまり、我々が今日使用している漢語は、元来中国からの外来語なのである。また、現在の日本で使用されている漢語の意味も、中国で用いられていた本来の意味からずれているものが少なからず存在する。
 そう考えると、カタカナ語を無理に和製漢語に置き換える必要もないような気もするのである。無理にやると、何検であったか、一般には全く通用しない無茶苦茶な日本語で書かせる試験のようになってしまうのではないだろうか。それにしても、システムを「系」、ネットワークを「網」と書かないと正解にならない試験を国がやっているというのは驚きであるが。
 ところで、最近は電脳という用語をサイト上で好んで用いる人がいるし、電視という言葉の意味を知る日本人も少なくない。今後中国が益々発展し、かつてのように東アジアに君臨するとまでは言わないまでも、少なからぬ影響力を発揮するようになれば、我々は再び中国語でつくられた単語を、現代のからことばとして受け入れる時代が来るのかも知れない。
 しかし、まさか「汽車」(自動車)や「手紙」(トイレットペーパー)の意味を、現代中国語に合わせることはないとは思うのであるが。(笑)

 こんなことを言っていたら、去年の大河ドラマ「北条時宗」で、蒙古皇帝フビライ・ハーンの寄越した国書が全部漢文で、それをまた北条実時がすらすらと読んでみせるシーンがあったが、当時の蒙古が漢文を使っていて、当時の日本にその漢文をすらすら読める日本人がいたというのも凄い設定だが、史実はどうなのかと訊かれた。史実はその通り、いや、このドラマは逆の意味でちょっとおかしいということになる。
 中世のヨーロッパで公式文書がすべてラテン語で書かれていたことは、ご存知の方も少なくあるまい。プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」で、ブオーゾに化けたスキッキが遺言を残す場面、スキッキ自身も冒頭の書き出しの後半をラテン語で述べ、

MESSER AMANTIO
Dunque incomincio:
In Dei nomini, anno D. N.J.C. ab eius salutifera incarnatione millesimo ducentesimo nonagesimo nono, die prima septembris, indictione undecima, ego notaro Amantio di Nicolao. civis Florentiae, per voluntatem Buosi Donati scribo hoc testamentum...

GIANNI
Annullans, revocans et irritans omne aliud testamentum!

その後もスキッキがイタリア語で述べたものを公証人がラテン語に訳して記録している。

GIANNI
Lascio la mula, quella che costa trecento fiorini, ch'e la migliore mula di Toscana... al mio devoto amico .. Gianni Schicchi.

TUTTI I PARENTI
Come?! Come!? Com'e?

MESSER AMANTIO
Mulam relinquit eius amico devoto Joanni Schicchi

 東アジアにおいても、漢語がまったく同じ役割を果たしていた。遣隋使のころから、あるいはそれ以前の邪馬台国のころから、中国への使節は漢語を話し、国書は漢語で書かれていた。それだけでなく、東アジア各国では、国内の公式な文書までも、漢語で記述していたのである。日本書紀が漢語で記されていることは皆さん御存知の通りである。
 紀貫之の土佐日記がセンセーショナルだったのは、大の男がやまとことばで文学作品を発表したからである(それでも表向きは女性が書いたことにしている)。古今集の仮名序を貫之が書いているが、古今集の正式な序文はあくまでも従兄弟の淑望が書いた真名序である。そもそも、和歌自体が軟派なもので、士大夫たる者、漢詩が作れなければ恥だったのである。
 この伝統は近代まで続いており、鎌倉時代にも勿論、日本であれ蒙古であれ、あるいは越南であれ、士大夫たる者、漢語が出来なければ、今日において教養人が英語の基本的な単語も知らないのと同じくらい恥ずかしいことだったのである。
 フビライは、捕らえた宋の高官を次々に登用して国を大きくして行ったが、実際フビライ自身が漢語に堪能で、むしろ譜代の高官にも漢語を使うように奨励していたと記憶している。北条実時は、そして北条時宗も、恐らく当時の漢語の会話は出来なかったであろうが、訓読ということで良ければ、漢文が読めない筈はないのである。したがって、わざわざ実時に読ませるまでもなく、時宗が読めば分かった筈である。
 夏目漱石が中学生の時、格調高い文語体で作文し、末尾に自作の漢文を添えて教師を感心させたとかいう話があったと思うが、当時としては決して珍しいことではなかった筈である。戦前までは、日本の教養人で漢文が出来ない人はあまりいなかったのではなかろうか?
 ちなみに、現代中国語で「我々」という意味である「我們」という言葉は、江戸時代には日本でも漢語として使われている。日本人は常に中国語を取り入れて来たのである。



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