携帯電話
            本多 忠親

          一
 「横浜駅までどうやって戻ろうか。」
 「やっぱり船で帰りたいな。」
 「9時前か。もう最終便が終わってるんじゃないか。」
 「なあんだ、つまんない。じゃあ、観覧車乗りましょうか。」
 「え、そんなことしてたら時間が無くなっちゃうよ。」
 「そうよね、私を抱いてから、奥さんのところへ帰らなければならないのよね・・・。」
 「そんなこと言うなよ。さあ、とにかく桜木町の方へ行こう。」
 二人は通りを歩き始めた。
 「あそこから上って動く歩道に乗ろうか。」
 「ううん、もうちょっと外を歩いていたい。」
 「じゃあ、下を歩こう。」
 「海風が気持ちいいわ。」
 「そうだね。今日は涼しいから気持ちがいい。」
 「うん。」
 「ねえ、今日の食事どうだった。」
 「素敵だったわ。でも、私の生まれた年のワインなんか頼んで大丈夫なの?」
 「君の誕生日のお祝いだし、生まれ年のワインなんてなかなかないから奮発してみたんだ。それにあれ、意外と安かったんだよ。でもソムリエさんが言ってたとおり、あの1972年物は美味しかったよね。」
 「うん、とっても美味しかった。あのレストランって、東京にある有名な店よね。」
 「そうだよ。でも、こっちで食べたほうが落ち着くし安上がりかもね。」
 「ほんと、みなとみらいのホテルのレストランって、穴場かもね。」
 その時、賢一の携帯電話が鳴った。発信者の表示を見て、賢一の表情が曇った。
 「はい。どうしたの。・・・まだこれから接待で遅くなるよ。・・・え、具子が熱を出した?・・・うんうん。・・・なるべく早く帰れるようにはするけど。・・・無理言うなよ、仕事なんだから。・・・うんうん。じゃあね。・・・うん。」
 賢一は申し訳なさそうな表情で佳寿美のほうを見た。佳寿美は目を逸らして沈んだ表情をしていたが、突然賢一の目を見詰め、にっこりして言った。
 「ねえ、手を繋いでもいいでしょ。」
 佳寿美は右手で賢一の左手を掴み、しっかりと握った。その時、賢一の薬指の指輪が佳寿美の中指に喰い込むように当たった。

          二
 「遅かったじゃない。もう花火、半分くらい終わってるのに。」
 「ごめんごめん、うまくはぐれたふりするのが難しくて。」
 「何も奥さんや子供と一緒に来なくても、夜接待か何か仕事があることにすれば良かったじゃない。」
 「そんなにしょっちゅう休みの日の夜に仕事があったら怪しまれるよ。」
 「知らない。」
 「そんなこと言わないで。君が一緒に花火見たいって言うから無理して来たんじゃないか。さあ、折角だから花火見よう。」
 「うん。」
 賢一の腕に浴衣姿の佳寿美がしがみついた。
 「おいおい、誰か近所の人にでも見られたら不味いよ。ちょっと離れよう。」
 「もう、知らない。」
 佳寿美は賢一に背を向け、俯いて涙ぐんだ。
 「ほら、また大きなのが上がったぞ。」
 「・・・。」
 「でも、こんなに花火上げたら、タマちゃんびっくりして逃げちゃうかも知れないね。」
 「タマちゃんよりも私のこと心配してよ。」
 「えっ、何だって。花火の音で聞こえなかった。」
 「もういい。」
 「そんなにすねるなよ。」
 「じゃあ、今夜抱いて。」
 「無茶言うなよ。すぐに帰らないと何て思われるか・・・。」
 「友達とばったり会って飲んで来たって言えばいいじゃない。」
 「そんなことしたら、来月の小遣い減らされちゃうよ。」
 「ほんと、尻に敷かれてるのね。」
 「はいはい、何とでも言って下さい。」
 「でも、今日は携帯鳴らないわね。奥さん持って来なかったのかな。」
 「いや、僕がわざと忘れて来た。」
 「嬉しい。」
 「でも、そろそろ帰らなきゃ。」
 「・・・。」
 「そんな顔するなよ・・・。ごめんね。」
 花火が終わって人気がなくなってからも、佳寿美は堤防沿いの道を独りぼんやりと歩いていた。ふと見ると、木の根元に蝉の死骸が落ちていた。
 「私も蝉に生まれれば良かった。世の中のことなんか何も考えないで、ただ一夏の恋に身を任せ、そして死んで行きたい・・・。」

          三
 「ねえ、うちのやつなんだけど・・・。」
 「え、奥さん? 奥さんがどうしたのよ?」
 「三人目が出来ちゃったらしいんだ。」
 「えっ・・・。なあんだ。急に奥さんの話なんかするから、別れてくれるって話かと思ったのに・・・。」
 「おいおい、家庭は壊さないって約束だろ。」
 「そうだけど・・・。でも、悔しい。」
 佳寿美はシーツで胸を隠し、賢一に背を向けた。
 「作るつもりはなかったんだけど・・・。」
 「奥さんとセックスなんかしないでよ。」
 「おい、無茶言うなよ。」
 「ねえ、私もあなたの子供が欲しい。」
 「だから無茶言うなって。」
 「認知なんかしてくれなくてもいい。あなたの子供が欲しいの。」
 「駄目だよ。それじゃあ、生まれてくる子供が可哀想じゃないか。」
 「じゃあ、私は可哀想じゃないの?」
 「困ったやつだな・・・。」
 「ねえ、もう一回抱いて。」
 「おいおい・・・。」
 佳寿美は賢一に唇を重ねた。ゆっくりと舌を絡ませたあと、佳寿美は賢一の胸に顔を埋め、頬擦りをした。佳寿美は徐々に下がって行き、賢一の臍を舐めてからペニスを捉えた。賢一が抗し切れずに奮い立つと、佳寿美は賢一に馬乗りになり、狂ったように腰を動かし始めた。
 「お願い、中に出して。」
 「駄目だってば。」
 賢一が佳寿美を跳ね除けた。
 「悔しい・・・。」
 そう言いながら、佳寿美が枕元のコンドームを取り、パッケージを開くと、賢一は安心して再び寝そべった。佳寿美はコンドームを口に咥え、賢一に覆い被さった。
 「え、口で付けてくれるんだ。」
 「はい、出来上がり。ねえ、お願い。あなた上になって。」

          四
 「あっ。」
 「どうしたの?」
 「破れてる・・・。」
 「え? 破れてるって?」
 「どうしよう。コンドームが破れて、中にこぼれちゃった。」
 「あら、ほんとだ。」
 「あ、これは・・・。」
 「何?」
 「君、わざと噛み切ったんじゃないか?」
 「知ぃらないっ。」
 「おい。」
 「うふふ。」
 「何だよ。」
 「焦ったでしょう。悔しいから、ちょっといじめちゃった。でもね、残念ながら今日は絶対に安全な日なの。」
 佳寿美のやや沈んだ表情に、賢一は少し安心した。
 「ねえ、さっきは我がまま言ってごめんね。こんな形だったけど、中に出してくれただけで、私、幸せよ。」
 賢一は苦笑するしかなかった。
 「さあ、そろそろ帰らないと不味いんじゃない。」
 「あれ、いつもは終電が危なくなっても帰らないでって困らせる癖に、今日はヤケにあっさりしてるね。」
 「今日はあなたの分身が私の中に残ってるから平気よ。」
 「おいおい、ほんとに妊娠したら大変だよ。」
 「大丈夫よ。それより、奥さんのほうが大変でしょ。早く帰ってあげなさいよ。」
 「何か気味が悪いくらいだな。」
 「さあ、シャワー浴びて来て。」
 「君も一緒にどうだい。」
 「私、このまま少し休みたいの。」
 賢一がシャワーを浴びに行くと、佳寿美はすぐに屑籠から一度目の情事のコンドームを取り出した。いつものように根元のほうで結んであったが、佳寿美はこれを鋏で切り、仰向けに寝ると、中身を一気に自分自身に注ぎ込んだ。

          五
 「もしもし。あなた、そろそろ来られる?」
 「ごめん。それが、今夜急に取引先と会食が入っちゃって、行けなくなったんだ。」
 「え、そんな・・・。酷い・・・。折角会社休んで、わざわざ秋田まで来たのに。」
 「ごめん。」
 「いいわ。ここで独りでゆっくり食事してから、そのままあなたの部屋へ行くわ。」
 「そりゃ不味いよ。取引先で予約してくれたホテルだし、レストランだって分からないように君の名前で予約しといたんだから。」
 「じゃあ、私のホテルへ来てよ。そんなに遠くないし、あのビル、1階は別の店が入ってて2階がフロントだけど、勝手に1階から上へ行けるのよ。」
 「うん、早く終わったら行くよ。」
 「そんなこと言わないで、遅くても一緒に泊まればいいじゃない。」
 「いや、早朝に仕事の連絡が入るかも知れないし。」
 「何のために携帯電話持ってるのよ。奥さんのためだけなの。」
 「だって、会社の人はホテルに電話してくることが多いんだから。」
 「とにかく、早く仕事終わらせてね。」
 「うん。」
 佳寿美はボーイに合図した。
 「ごめんなさい。連れが急に都合が悪くなって来られなくなったんです。」
 「そうですか。では、お食事はどうなさいますか。」
 「折角ですから、私一人でいただきます。」
 「かしこまりました。」
 「では、このコースでお願いします。」
 「メインのお肉の焼き加減は如何致しましょう。」
 「レアでお願いします。」
 「かしこまりました。お飲物は如何なさいますか。」
 「うーん、このヴォルネー・カイユレ美味しそうだけど、今日はあまり飲めないの。グラスワインの赤を一杯だけお願いします。」
 「かしこまりました。」
 食事が終わってエレベーターで降りる時、佳寿美はせめて賢一の部屋の前迄行って見たくなったが、部屋番号を聞いていないことに気付いた。佳寿美は仕方なく一階迄降り、まっすぐ自分のホテルへ帰って連絡を待つことにした。11時を過ぎて、やっと佳寿美の携帯電話が鳴った。
 「ごめん、明日朝からゴルフに付き合うことになっちゃって、今日はもう寝るよ。」
 「酷い・・・。」
 「ごめん。」

          六
 「夕べはごめんね。」
 「その代わり、今夜はたっぷりとサービスして貰うもんね。」
 「うん。今夜は誰にも邪魔されないから大丈夫だよ。はい、切符。」
 「あれ、新幹線には乗らないの?」
 「うん、新幹線だと次の駅まで乗って普通に乗り換えだけど、結局早く着かないんだ。新幹線出来てから、山形までの在来線がズタズタになっちゃって、特急もなくなったから、かえって不便になっちゃったよ。」
 「へえ、そうなんだ。ところで、これから行くところ、湯沢って言うから、最初は新潟県まで行くのかと思ったわ。」
 「あっちは越後湯沢。本当の湯沢はこっちさ。」
 最初は混んでいた電車も、秋田駅を出て30分もするとガラガラになっていた。湯沢駅までは1時間20分程の道程であった。
 「もう7時過ぎね。」
 「明日は昼前に山形へ着けばいいから、今夜はたっぷり時間があるぞ。」
 「嬉しい。」
 「でも、その前に一度家に電話しとくね。」
 「・・・。」
 湯沢駅前の商店街は既に人通りもまばらであった。賢一が携帯電話で家に電話をしている間に、二人はホテルの前に着いた。佳寿美の訴え掛けるような視線を受けながら妻と話していた賢一は、ようやく電話を終わらせた。
 「いらっしゃいませ。」
 「予約しておいた島ですが。」
 「ツインルームで2名様ですね。こちらにご記入下さい。・・・これはあちらのバーのほうのサービス券で、グラスワインかカクテルを1杯お飲みいただけますので、よろしかったらご利用下さい。」
 部屋に入ると、待ち切れなかったように佳寿美が賢一に抱き付き、唇を重ねた。
 「おいおい、まずは食事にしようよ。お腹減った。」
 「しょうがないわね。その代わり、後でたっぷりサービスして貰いますからね。」
 「はいはい。かしこまりました。」
 二人は部屋を出て1階のレストランへ向かった。

          七
 「へえ、こんな鄙びた町にこんな素敵なホテルがあって、本格的なフランス料理まで食べられるとは思わなかったわ。」
 「鄙びた町はないだろ。でも、水曜の夜なんて空いてるから、ほんと穴場だよね。」
 「ここはよく泊まるの?」
 「いや、一度移動の都合で泊まっただけだ。でも、このレストラン良さそうだから、今度君と来ようと考えてたんだ。」
 「ありがとう。」
 「ワインはこれ1本貰うとして、その前に何か飲むかい。」
 「今日はやめとくわ。」
 「あれ、何か後が怖いなあ。」
 佳寿美はいつも程にはワインを飲まなかった。
 「じゃあ、折角サービス券貰ったから、バーへ行ってみようか。」
 「私、今日はあまり飲みたくないの。」
 「え、珍しいな。これからそんなに激しく責めるつもりかい。」
 「うふふ。」
 しかし、佳寿美の目は笑っていなかった。
 二人は部屋へ戻り、激しく愛し合った。何度目かの交わりの後、賢一の腕の中で佳寿美が言った。
 「さあ、今夜はこれでもう勘弁してあげようかな。」
 「じゃあ、シャワー浴びて寝るか。」
 「ねえ、あなた。」
 「なんだい?」
 「私も出来ちゃったみたい。」
 「えっ?」
 「先月から来ないの。」
 「おい、一体どう言うことだ。ちゃんといつも避妊しているのに。」
 「あら、あなた8月に私の中に出してくれたじゃない。」
 「お前、やっぱりあの時・・・。」
 「あなたの分身が私のお腹にいるから、夕べも淋しくなかったの。」
 「頼む、お願いだからおろしてくれ。」
 「嫌よ。絶対産むわ。」
 「佳寿美。」
 「産むもん。」

          八
 「奥さん、痛みはないですか。」
 「はい、先生。今は大丈夫です。でも、時々お腹が痛かったり、吐き気がすることがありますけど、これってつわりですよね。」
 佳寿美は産婦人科医に奥さんと呼ばれるのが嬉しいような切ないような、複雑な心境であった。
 「先生、生まれるのはいつ頃になるんですか。」
 「奥さん、残念ですが、この赤ちゃんを産むのは無理です。」
 「え、一体どういうことですか。」
 「子宮外妊娠なのです。このまま胎児が成長すると、奥さんの体が危険になりますし、いずれ流産してしまうでしょう。」
 「え、そんな・・・。先生、何とかならないのですか。」
 「残念ながら、最新の医学でも不可能です。」
 「先生、そこを何とかしてください。」
 「お気の毒ですが。」
 「そんな。」
 「このままでは奥さんの体が危険になりますから、早目に人工中絶手術をしておく必要があります。」
 「えっ、嫌です。この子を殺すくらいなら、私も一緒に死にます。この子をおろすなんて絶対に嫌です。」
 「奥さん、よく考えてください。このままでは、あなたは一生子供の産めない体になってしまいますよ。この子は元々生まれてくることの出来ない運命なのだから、早く奥さんの体を元に戻して、次に元気な赤ちゃんを産んであげたほうが、この子も喜んでくれるんじゃないですか。」
 「・・・。」
 「来週手術しますから、それ迄にこの手術承諾書に記入して来て下さい。」
 「・・・。」
 佳寿美はアパートに戻ると何時間も泣き続けた。
 「駄目よ、こんな書類書けない。これは、私が私の赤ちゃんを殺してくれという書類なのよ。どうして私がそんなものを書けるのよ。酷い・・・。」

 結局、佳寿美は賢一に付き添われて、手術を受けることになった。

          九
 「メリークリスマス。」
 「メリークリスマス・・・の五日前。」
 「はははは。」
 「うふふ。」
 賢一に注がれたルームサービスのシャンパンを飲んで微笑みながらも、佳寿美が一瞬物悲しい表情をしたのを、賢一は見逃さなかった。
 「ごめんね、クリスマスイヴに二人でパーティー出来なくて。」
 「いいの。だって、小学生と幼稚園の子供がいるんじゃ、クリスマスイヴに家へ帰らない訳に行かないでしょ。」
 「うん・・・。ごめん。」
 「それよりも、私、嬉しいわ。」
 「え?」
 「奥さんに出張だと嘘付いて、わざわざ私と一緒に泊まってくれたんだもん。ありがとう。」
 「そう言ってくれると僕も嬉しいよ。ありがとう。」
 その夜の佳寿美は本当に幸せそうで、無邪気にはしゃいでいた。

 12月30日の朝、初詣の参拝客受け入れ準備に忙しく、訪れる人は少ない明治神宮に賢一と佳寿美の姿があった。参拝を終えた二人は買い物を済ませると、すっかり正月の飾り付けが出来上がった佳寿美の部屋へ向かった。
 「でも、こんなに暮も押し詰まってからゴルフだなんて言って、奥さんに怪しまれなかった?」
 「文句は言われたけど、仕事の付き合いでこれが御用納めだと言って無理矢理押し切って来た。その代わり、年が明けたら子供たちを東京ディズニーランドへ連れて行く約束させられちゃったよ。」
 「いつもごめんね。」
 「いや、僕のほうこそ申し訳ない。」
 「さあ、お雑煮も出来たわよ。」
 「豪勢なおせち料理だね。」
 「二人きりのお正月だから、奮発したの。」
 「ありがとう。」
 「じゃあ、ちょっと早いけど。」
 「うん。」
 「あけましておめでとう。」
 「あけましておめでとう。」

          十
 「あれ、この扉、どうやって開けるのかしら。」
 「ああ、これはこのボタンを押さないと開かないんだ。」
 「あ、ほんと。うわあ、寒い。確かに、これならドアを開けっ放しになんて出来ないわね。」
 「はい、降りたらこのボタンを押して閉める。」
 「なるほど。乗り降りする時だけ開けるのね。」
 「さあ、駅前がすぐに温泉だ。」
 「横手って、かまくらしか知らなかったけど、駅前が温泉街なのね。」
 「そうだよ。」
 「でも、出張で温泉ホテルなんか泊まって大丈夫なの?」
 「大丈夫さ。取引先の人によると、このホテルは秋田から山形への移動途中にみんなよく使うんだって。」
 「へえ、そうなんだ。でも、そんなホテル使って大丈夫なの?」
 「大丈夫さ。取引先には、ちょっと寄り道して友人の家に泊まるって言ってあるし、このホテルも君の名前で予約しといたから。」
 「じゃあ大丈夫ね。」
 「明日はかまくらを見に行く暇もないけど、今夜は温泉をゆっくりと楽しもう。」
 「うん。あ、凄い。側溝から湯気が上がってる。」
 二人の泊まるホテルは本当に駅から徒歩数分のところにあった。
 「予約しておいた田島です。」
 「はい、お二人様ご一泊ですね。お食事は7時にそちらでご用意致します。それから、これはお飲物のサービス券ですので、8時迄にあちらのラウンジでご利用下さい。ごゆっくりどうぞ。」
 「どうしよう。まずラウンジへ行く?」
 「とにかく部屋へ行って荷物置いて来ましょうよ。」
 二人は部屋へ向かった。
 「結構広いね。」
 「うわあ、なんか妖しい雰囲気。」
 入り口のところにはトイレと冷蔵庫があり、その奥の居間には床の間に行燈型のスタンドが燈っていた。そして、一番奥が寝室で、二組の布団がぴったりとくっ付けて並べてあり、スポットライトのような照明が布団を照らしていた。
 「なんか、和風のラブホテルみたいだな。」
 「今夜は覚悟しといてね。」
 「とにかく、ラウンジで一杯やってから食事にしよう。」

          十一
 「なんか、朝ご飯も完全に温泉旅館だったわね。」
 「うん。如何にもって感じだったね。」
 「あら、ここでセルフサービスでコーヒー飲めるんだ。」
 「まだ時間あるから、一杯飲んで行こう。」
 「夕べはちょっと飲み過ぎたかしら。」
 「久し振りに日本酒飲んだから効いたみたいだね。どれだけ責められるかって覚悟してたけど、あっさり開放してくれて眠っちゃったもんね。」
 「うふふ、ちょっと残念。でも、ああいう食事には、やっぱり日本酒よね。」
 「そうだよね。でも、何年か前だったら、きっとあれでも赤ワイン注文する人がいたんだろうね。」
 「なんか、不味そう。」
 「ははは。」
 朝食を終えた二人は部屋へ戻って、寄り添うように座った。
 「ねえ、山形のお仕事は何時から何時までなの。」
 「1時に営業所へ入って、5時には終わるよ。」
 「じゃあ、私はその間どこかその辺を観光してるわ。」
 「うん。そうするといい。」
 「山形までどれくらい掛かるの?」
 「2時間くらいかな。前に湯沢に泊まった時と同じで、途中から新幹線乗るけど、ありゃ殆ど各駅停車だ。」
 「でも、そのほうがあなたと一緒にいられる時間が長くなって嬉しい。」
 「その代わり、お昼は新庄駅で駅弁買って、新幹線で食べるんだよ。」
 「なんだか、そういうのって、かえって楽しみだわ。」
 「確かに旅行したって気分になるよね。」
 「うん。なんだかうきうきしてきたわ。」
 「さあ、そろそろ出掛ける準備をするかな。」
 二人はそれぞれ着替え始めた。ネクタイを締め終わった賢一に、佳寿美が後ろから上着を着せると、そのまま賢一の背中にもたれ掛かり、頬擦りした。
 「佳寿美、どうしたんだい?」
 「ううん、何でもないの。」
 賢一は鞄を持って出口へ向かった。
 「あなた、いってらっしゃい。」
 「え、これから一緒に山形へ行くんじゃないか。」
 「うふふ。一度これを言ってみたかっただけよ。」
 「ははは、変な奴だな。」

          十二
 「もしもし、田島さんですか。」
 「はい。」
 「あなたが佳寿美さんね。島彩子と申します。島賢一の家内でございます。」
 「え、奥さん・・・。あ、あのご主人様にはいつもお世話になっております。」
 「お世話になってるだなんて、ずけずけとよく言うわね。みんな知ってるのよ。」
 「えっ。」
 「とぼけないでよ。主人はいつも接待だとか出張だとか言って、あなたと寝てたこと全部わかってるのよ。」
 「・・・。」
 「ちょっとお話したいの。これから家に来て頂戴。」
 「お宅にですか。」
 「主人は今日は本当にゴルフに行ったし、上の子は塾で、下の子は実家に遊びに行ってます。来てくれるわね。場所は分かってるでしょ。すぐに来てよ。」
 「はい・・・。」
 遂に来るべき時が来たと観念した佳寿美は、島の家へ向かった。
 「ごめん下さい。」
 「お入りなさい。」
 「お邪魔します。」
 「まあ、お掛けなさい。」
 佳寿美が通されたダイニングキッチンのテーブルには、佳寿美が賢一と泊まった横手のホテルの領収書が置かれていた。
 「何か最近おかしいと思ってたのよ。出張が多いのは前からだけど、この不景気のさなか、夜の接待も増えたし、休日に出掛けることも多くなって。」
 「・・・。」
 「社宅の同僚の人にさりげなく訊いてみたの。そうしたら、どうも主人の言ってるほど出張や接待がないみたいで、探してみたらこれが出て来たから、ホテルに問い合わせてみたの。あなたの名前で予約しといて、主人にお金を払わせてるのね。」
 「それは賢一さんが本当に出張の時に一緒に行ったんです。」
 「まあ、図々しいわね。それに賢一さんだなんて気安く呼ばないでよ。一体主人のことどう思ってるのよ。」
 「愛してます。」
 「愛してるだなんて、そんなことよく言うわね。そんなことが許されると思ってるの?」
 「でも、本当に愛してるんです。」
 「よくもまあ、ぬけぬけと。とんでもない女ね。」

          十三
 「奥さん、そんなに酷いこと言わないで下さい。私、本当に賢一さんのことを愛してるんです。」
 「そんなことが通るとでも思ってるの。人の夫を誘惑して奪っておいて、ほんと、酷い女ね。」
 「何よ。あなた、たまたま私よりも先に賢一さんに出会うチャンスがあっただけじゃないの。私のほうがずっと賢一さんのことを愛してるのに。」
 「よくもまあ、そんなことを。この泥棒猫。」
 「泥棒猫ですって。何よ。賢一さんは私と結ばれる運命だったのに、あなたが先に私から賢一さんをさらって行ったんじゃないの。あなたこそ泥棒よ。」
 「ちょっと、あなた何すんのよ。」
 佳寿美は静かに立ち上がると、キッチンにあった出刃包丁を手に取り、刃を上に向けて持ち、ゆっくりと歩き始めた。
 「きゃあっ。何すんの。」
 佳寿美は逃げようとする彩子の後頭部を出刃包丁の背で殴った。悲鳴を上げ頭を抑えて振り向いた彩子の、かなり大きくなったお腹が佳寿美の視界に入った。
 「あなたばかりに賢一さんの子供を産ませてなるもんですか。」
 佳寿美は彩子の臍の下辺りを目掛けて出刃包丁を突き刺した。彩子が鈍い呻き声を上げながら崩れ落ちる時に、佳寿美は腹を一気に上へ切り裂いた。マタニティードレスが見る見る血に染まって行った。
 「私だって賢一さんの子供を身籠ったのよ。でも、私の赤ちゃんは、可哀想に、こんなに大きくなる前に死んで行ったのよ。」
 その時、部屋の隅の充電器の上で携帯電話が鳴り出した。携帯電話には真新しいミッキーマウスのストラップがぶら下がっていた。佳寿美は血まみれの出刃包丁をテーブルの上に置くと、携帯電話を手に取り、液晶の表示を見た。いつものように賢一が妻に掛けて来たのであった。
 「奥さん、ご主人から電話よ。」
 佳寿美は鳴り続ける携帯電話を持って、まだ微かに息のある彩子に近付いた。(完)




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