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軍事機密と技術者


 手許に、何故か1冊の古い本のコピーがある。すっかり忘れていたのであるが、家の中を片付けていたら段ボール箱の底から出てきた。大井上博著「魚雷」(山海堂出版部)という本である。小学校の同級生が持っていた本を、もう少し大きくなってからコピーして貰ったと記憶している。違法コピーには違いないが、既にコピーしてから20年以上経っているし、戦前の軍事関係の書物であるから、咎められることもあるまい。著作権法違反だから廃棄せよといわれれば、廃棄するまでである。別に必要ないし、もし必要になれば、数千円出せば古本屋かネットで実物を買うことも出来るようである。
 この本は昭和17年12月に初版が発行され、翌年2回増刷されている。大東亜戦争が激しくなって、最新兵器である魚雷の重要性が高まっていた中で、軍需産業に携わる技術者になろうとする者たちへの入門書として出版されたものであろう。しかし、意外なことには、ここに記されているのは主に第一次世界大戦当時のイギリスの魚雷技術である。第一次世界大戦以前に、日本に独自の魚雷技術などあろう筈がない。当時の同盟国であったイギリスから、かなりの技術情報が流入したことは想像に難くない。そして、その技術を元に、徐々に独自の改良を加えて新型の魚雷を開発し、実戦に用いていたのであろう。
 帝国海軍の兵器に関する話を読んだことのある人なら、日本が当時としては最先端の魚雷技術を持っていたことは御存知かもしれない。当時の魚雷というのは、コンプレッサーで充填した圧搾空気で燃料を燃やして航行する仕掛けであった。しかし、これでは燃焼後の排気に多量の窒素ガスが出るため、航跡が泡になって見えてしまう。敵艦はその航跡を見て針路を変え、被雷を避けることが出来たのである。ところが、日本海軍の魚雷は圧搾空気の代わりに酸素ボンベを積んでいた。すなわち、殆ど航跡の見えない魚雷が実用化されていたため、昼間でも敵艦に気付かれずに雷撃することができたのである。
 ところが、この本にはそのような技術は一切記述されていない。航跡の問題点とその解決方法として酸素の利用を含む5種類の技術の可能性は記載されているが、「何れも成功するに至つてゐない」と記されているのである。また、魚雷発射装置にも世界に類のない技術を持っていたのであるが、本文中では意図的に旧式の発射装置の記述に重点が置かれている。これらの最新技術に関する情報は、この本で基礎を学んだ者が、技術将校として配属されてから初めて知ることが許されたものなのであろう。
 しかし、この著者は正直な人のようである。最後の一文が印象的である。

 「秘密兵器は一戦争が終了すると秘密でなくなると謂はれてゐるが,我魚雷に対しても将来戦に備へて次ぎ次ぎと改良進歩が加へられ,飛躍的発達を遂げん事を切望する次第である。」

 この著者は、終戦の暁には日本が世界に誇る技術を改めて著書にしたかったに違いない。しかしながら、敗戦によって、戦後の日本でそのような書物の出版が許されることはなかったのである。



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