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言語の特性と思考様式


 こういうことを言う人がいる。「英語で話すとき、日本語を直訳しても英語にならない。それは日本語の特性としてきちんと意思表示をしないからで、まず日本語を論理的な日本語に変換してから英語にしなければならない。」
 確かに一理ある。コレポンの場合、曖昧な日本語を法律や契約のような日本語に変換し、そこから英語に訳すことは有効であろう。しかし、会話でこれをやると、非常にぎこちなくなってしまう、いや、そもそも会話として成り立たないに違いない。筆者自身、英語なりフランス語なりで会話しているときには、日本語の発想というものは一切頭の中に出て来ない。耳に入ってきた外国語をそのまま直感で理解し、同じ言語で思考してすぐに返さないと会話が成立しないのである。イタリア語やドイツ語など、あまり得意でない言葉で止む無く会話するときも、自分が言いたい内容を日本語ではなく、漠然とその内容を頭に思い浮かべ、そこからその言語で言葉を探しながら喋っているのである。

(そりゃそうだけど、・・・したほうがいいんじゃないの?)
  ↓ ↓ ↓
(それはおっしゃるとおりです。) I agree.
(しかし、) But,
(私は寧ろこうしたい) I would rather like to...

 なんて変換を頭の中でしながら英語で喋れる人がいるとしたら、頭のMPUがPentium5の30GHzくらいに違いない。(爆)

 さて、日本語と英語でどうしてこれほどに表現方法が違うのかということはこの際置いといて、このような特性がその国民の思考様式にまで影響を与えていることについて考えてみよう。
 英語に限らずヨーロッパ語の多くにおいては、結論が最初に来て、後から理由付けなり説明なりがなされる。日本語では、1センテンスの中でも、

  なんとかかんとかだから何某である。

 と、理由を先に述べて結論が後に来る。しかし、英語では、

  It is..... because.....

 と、結論の後に理由を述べることになる。これが1つのセンテンスに留まらず、長い文章の構成にも影響しているので、日本人は散々言い訳を述べた後で、こっそり結論を言う印象を持たれるのである。

  Because....., it is.....

 この形は、本来は結論は既に大体分かっていて、理由を特に強調したいときにしか用いるべきではないのであるが、日本人は日本語の発想から、これを多用する人が少なくないようである。

 もっとも、ドイツ語だと一番最後に大逆転があるので注意!

     Ich kenne die kleine und huepsche Japanische Studentin,
  die wir gestern abend vor der Kirche gesehen haben, und sein
  Freund, der mit ihr in die Kirche gegangen ist, nicht.

 このようなドイツ語の特性が、ハイネの詩集の最後のオチ(?)などに現れているのではないだろうか。

 話は戻って、結論が明快であるという特性はイエス・ノーの使い方にも現れている。先日もこういう場面に遭遇した。

 店員:Vous avez besoin d'un taxi?
 日本人:Non.
 店員:Ok. Vous n'en avez pas.
 日本人:Oui.
 店員:Vous voulez un taxi?
 日本人:Non.
 店員:Vous ne voulez pas.
 日本人:Oui.
 店員:Vous voulez???

 否定疑問に対して、「いや、必要だ」と答える場合がイエス、「仰るとおり必要ない」と答える場合がノーであることは、習っていても咄嗟に出て来ない日本人は少なくない。日本人がつい「ウイ」と言ってしまうのは、日本人がすぐ「イエス」というのと全く同じで、思わず笑ってしまった。すぐに説明に割り込んだのであるが。
 フランス語の場合、否定疑問を更に否定して肯定の答を返すときには、ouiではなく、siなのであるが(ドイツ語のdochと同じ)、アメリカ人がうっかりouiを使うらしく、このような現象が起こるのであった。

 しかし、日本人が思っているほど西洋人が竹を割ったようになっている訳ではない。何か質問されたときに、まず「そうですね・・・」と言ってしまうのは日本人の良くない癖だと言う人がいるが、西洋人でも一旦、 Okay. I see. D'accord. Bon. Bene. Gut.などの返事をしてから話が始まる人はいるものである。



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