オペラの言葉

 我々の世代以上で大学を卒業している者の多くはドイツ語を、人によってはフランス語等を学んでいる筈である。また、近年は美術、音楽、グルメ等の関係でイタリア語の学習者も増えているようである。しかし、現代のこれらの言葉を学んだからといって、オペラの歌詞が理解できるとは限らない。日本語に置き換えて考えてみたら分かるであろう。最近の若い人にとっては既に明治時代の文学作品が読み辛い。ましてや江戸時代後期の歌舞伎の台詞など分かりっこない。オペラの場合そこまでは違わないまでも、現代の言葉とかなり異なっているし、何よりも韻文で書かれている場合が多いので注意が必要である。
 ちなみに、もし逆にオペラの歌詞だけでこれらの言語を勉強すると、現地へ行ったら笑われることになる。イタリア人にScusate.と話しかけてAddio!と言って別れたら、「ごめんくだされ。」「さらばじゃ。」と言うのと同じであるし、ドイツで小さな男の子を見てうっかりKnabeと言ったら「童(わらべ)」と言っているようなものなのである。
 それはさておき、ここでは読者に各言語の中級程度の知識がある前提で、オペラの歌詞を理解する上で必要な知識を随時まとめて行くことにする。


二人称単数代名詞

 英語の本来の二人称単数はthou(thy, thee, thine)であり、これはドイツ語のduやラテン系各語のtuに相当する(これらは二次にわたる子音推移によって変化しただけで、本来は全て同じ語なのである)。ところが後に二人称複数の変化形のyouが二人称単数の代名詞として用いられるようになり、現在ではthouは祈り、擬古文、一部の方言などでしか用いられなくなってしまった。もしヘンデルか何かを歌っていてthouが出て来ても驚いてはいけない。このthouが主語となる場合、現在形では一般動詞の語尾に-stが付くし、be動詞やhave動詞も独自の変化をする。仮定法でも特殊な形が現れるが、そんな事はそこら辺の学校の英語の先生でも御存知あるまい。
 その他の言語の多くにおいては、本来の二人称単数が親称、新しい形(主に複数形や三人称から転用)が敬称として用いられる。例えばフランス語ではtuはごく親しい間柄で用い、それ以外の場合はvousを用いることはご承知の通りである。このvousは形は複数形と同じだが意味上は単数なので、形容詞や分詞が変化する時は単数形にしなければならない。スペイン語では敬称の意味合いが若干異なり、ustedは非親称とも言うべきニュアンスであるらしいが、ここでは触れないことにする。
 ドイツ語とイタリア語も本来はフランス語と同じであったようで、オペラの世界ではほぼ二人称複数形を敬称に用いると思えば良いのだが、現在話されている言葉では、いずれも二人称複数形を単数の敬称に用いることはなく、三人称から派生した別の形を用いるので話がややこしくなる。ドイツ語の場合、敬称は全て大書きするが、イタリア語のvoiは小文字で始める。また、オペラではLeiも小文字で始めることが少なくない。SieやLeiは比較的新しい時代のオペラに見られるものである。
 以上を一覧表にまとめてみよう。参考のために英語も加えておく。

言語親称敬称(二人称複数由来)敬称(三人称由来)
英語thou(現在は用いられない)you(現在は親称・敬称ともに用いる)なし
仏語tuvousなし
独語duIhr(オペラで通常用いられる)Sie(オペラでは特殊な場合のみ)
伊語tuvoi(オペラで通常用いられる)lei(比較的新しい時代のオペラ)

 古代の物語などでは、相手が王であっても親称を用いることがある。また、比較的新しい時代のイタリアオペラでは、最初はleiで、やや親しみを持つとvoi、更に親しくなるとtuと3段階になっていることがある。ラ・ボエームの第1幕後半が分かりやすい。最初はleiで、ロドルフォがミミの手を取ってvoiで話しかけてもミミは依然としてleiのまま、そしてロドルフォがtuになると、ミミもvoiになり、そしてクライマックスで一気にtuになるのである。


格変化・人称変化

1)ドイツ語の格変化
 冠詞や形容詞の格変化は基本的に現代と変わらない。みなさんがドイツ語を習い始めた時に覚えた通りである。しかし、名詞そのものも本来格変化をする。現在では2格で男性・中性名詞に-sが付くくらいであるが、韻文では3格で古い形が用いられることがある。語尾に現在では付けない-eや-nが付くのである。中性名詞の3格に-eが付くというのは大抵の本に載っている。しかし、-eで終わる女性名詞の3格に-nが付く場合があることは意外と知られていない。

2)イタリア語の動詞の人称変化
 一部の不規則動詞で今日とは異なる形が用いらることがある。例えばfareの直説法現在形一人称単数はfaccio、andareはvadoであるが、それぞれfo、voという形も用いられる。フランス語の活用形と対比してみると、これらが本来の形なのかも知れない。
 また、古い活用形が用いられたり、子音の省略がなされることがある。直説法半過去の1人称は今日では-voであるが、これは現在形に合わせて変化した俗語に由来するもので、本来は-vaであり、オペラではこの形が頻出する。また、3人称の-ireまたは-ere型の動詞の半過去形のvが落ちることがある。


時制

 現在では用いられなくなったイタリア語の遠過去形が多く用いられる。ドイツ語も今日のように現在完了形を用いずに過去形を用いることが多い。今日において過去形(遠過去形、単純過去形)と現在完了形(近過去形、複合過去形)のニュアンスの違いを最もはっきりと残している言語は英語かも知れない。ドイツ語、イタリア語においても、これら両者の違いは概ね英語の場合と同様に考えれば当たらずとも遠からずであり、オペラの歌詞を解釈する上で大きな問題は生じないであろう。但し、イタリア語の遠過去形が完了的なニュアンスを持っていることもあり、文脈で判断されることをお薦めする。フランス語の単純過去形は意外と使用例が少ないようである。


語彙

 挨拶の言葉や日常よく使う言葉で今日用いられないものが頻出する。また、日常よく使う言葉の形が現在とは異なっていることもある。以下、上述の人称変化も含め、思い付くままに随時追加して行くことにする。正直に言うと、古い形だと気付かずに読んでいたものも少なくない…。

1)イタリア語
 Addio さようなら(日常的に別れる時に使用する)
 bei = belli
 dêi = devi
 desio = desiderio
 fia = sarà
 fo = faccio
 giovine = giovane
 meco = con me
 men vo = me ne vado
 ove = dove
 poiché = perché
 teco = con te
 vegg'io = vado io
 vi = ci そこに(voiと混同しないこと)
 vo = vado
 vo' = voglio

2)ドイツ語(工事中)
 


音韻

1)押韻について
 イタリア語、フランス語の場合全て脚韻を踏む。ドイツ語の場合伝統的には頭韻を用いていたのであるが、近世以降の韻文では基本的に脚韻である。ヴァーグナーは自身の作品の台本を自分で書いておりドイツ文学の世界でも高く評価されているが、頭韻を踏んだ作品が見られる。
 漢詩では偶数行末で(七言の場合は先頭の行も)脚韻を踏むが、ヨーロッパ語の場合、規則的に複数の韻を用いることが多い。単純な例では、奇数行と偶数行でそれぞれ異なる韻を踏み、abab…の形になる場合が挙げられる。あるいはabbaとなったり、abbaccとなったり、行数との絡みで変化させることが出来るのである。また、1節ごとに換韻するのが普通である。

2)音節数とリズム
 ヨーロッパ語の韻文は漢詩に似たところがある。1行の文字数が決まっており、それは単に文字数の問題だけではなく、一定のリズムがある。漢詩の場合、2音+(2音+)3音が基本であり、1音=1字=1語である中国語の場合は2語、(2語、)3語でリズムが取れるのである。一方、ヨーロッパ語の場合は音節の強弱でリズムを形成する。
 1行の音節数が決まっている場合、各音節は強弱の繰返しであったり、強弱弱のリズムであったりする。ドイツ語とラテン系の言語ではアクセントの意味合いがかなり異なるが、いずれにせよアクセントに相当するものはあり、自ずと音節に強弱の区別が生ずるが、これを規則的に並べることによって韻文を韻文たらしめるのである。これは作曲家にとっても非常に有難いことに違いないし、有節歌曲(アリアでも数節に渡って同じメロディーが歌われることがある)の成立を容易ならしめているとも言えよう。強弱のリズムの場合、そのまま2拍子や4拍子に作曲できるし、強弱弱の場合、3拍子にもなるが、強音節を2拍分伸ばして4拍子にすることも出来るのである。
 イタリア語の場合、アクセントの位置によって音節数に変化が見られる場合がある。最後が強弱で終わるリズムの中に、後ろから3番目にアクセントのある語が入ると、後ろ2音節は1音節のように扱うため、最後に弱音節が1つ多くなるのである。これはラテン語のアクセントの規則を学ばれた方には容易に理解出来ることである。また、イタリア語のもう一つの特徴として、開音節の後に母音で始まる語が続くと、あたかも2重母音のように1音節として扱われるのである。この現象については何故か和歌のページの字余り論の4.に書いてあるのでご参照戴きたい。
 音節数を合わせるのに苦労することは、俳句、和歌、都々逸などを嗜まれる方ならご経験の通りで、工夫が必要になることも少なくない。ドイツ語やイタリア語では音節数を合わせるために母音を省略することも行われる。ドイツ語の場合語尾の弱母音eを省略し、子音が無声音になるのはよく見られることである。イタリア語でも同様のことが行われる。これはトロンカメントと呼ばれ、語尾のアクセントのない母音を省略するものである。よく、イタリア語は語尾が全て開音節だからドイツ語に比べて歌曲に向いていると言われるが、このトロンカメントによって、実際のオペラでは開音節がかなり少なくなっていることは、歌い手やリブレットをしっかり見ている人にとっては常識であろう。
 また、リズムを合わせるために倒置表現や省略表現を用いることも少なくない。このイタリア語の形容詞、活用形が間違っていると思ったら、主語に合わせた形で副詞として用いられていたりすることもあるのである。

3)フランス語の音韻
 フランス語の場合、色々と特殊な事情があるので、別に扱うことにする。オペラの歌詞は韻文であるから、リエゾン出来るところは全部するのは当然であるし、読んでも読まなくても良い語尾の子音も発音するなどのことは、演劇などに興味のある方は当然ご理解いただけると思う。
 さて、フランス語で一番問題になるのは、音節の概念である。現代の普通のフランス人が発音すると、「海 la mer」と「母 la mère」は全く同じ発音になる。しかし、韻文の世界ではこの2つは全く異なる発音になる。前者は「ラ・メー」の最後に軽く子音のrが付くだけであるが、後者は「ラ・メー・ル」とはっきり発音しなければならない。現代のフランス語では語尾の弱母音は発音されないが、正式な発音でははっきりと1音節として発音しなければならないのである。これはちょうど、「ございます」の「す」が関東では子音だけになってしまうが、本来の日本語である関西弁では明確に「す」と発音されるのに似ている。
 また、フランス語で語尾の子音を発音しない場合が多いのはご承知の通りである。そのことも合わせると、トロンカメントを多用するイタリア語よりもフランス語のほうが開音節が多いという逆転現象さえ起こりかねないのである。




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