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競馬のどうでもいい昔話


 何だか、物の怪を対象にしたHRAなる資格が出来るらしい(謎)。ここで、少し薀蓄を傾けておこう。
 しかし、馬主になんて、なるもんじゃないなぁ・・・。

昔の発売窓口
 昔は単勝と複勝しかなくて、馬番ごとに窓口が決まっていたものである。つまり、一番人気の窓口には長い列が出来、逆に穴馬の馬券は並ばなくても買えたのである。これは、戦前の払戻金に上限があって特払制度などもあった時代は別にして、戦後は中央競馬会の収入を増やす効果があったのである(嘘)。以下にその仕組みを解説しよう。(=^^=;;
 馬券の控除率は25%、つまり売上の75%が払戻金になると言われている。控除率25%は諸外国に比べて倍近いので怪しからんという人もいるが、宝くじの控除率よりはずっとましである(笑)。さて、この控除率25%というのは正確ではない。正確には第1控除率10%、第2控除率18%である。第1控除率10%とは、全売上の10%が自動的に国庫に入るということを意味している。第2控除率18%とは、外れ馬券の売上(10%は既に引いてある)から18%を競馬会の取り分にして、残りを当たり馬券に分配することを意味している。この計算によるトータルの控除率が、平均約25%ということなのである。
 さて、単勝支持率10%の馬が勝ったとしよう。売上が1億円とすると、その計算は以下のようになる。

  国庫納付金 10,000,000円
  競馬会収益 14,560,000円
  払戻金   75,440,000円

 実際には、払戻金は10円単位なので単勝750円、つまり払戻金が7500万円となり、控除率はちょうど25%となる。競馬会の利益は1500万である。
 では、単勝支持率50%の馬が勝ったらどうなるか。

  国庫納付金 10,000,000円
  競馬会収益  8,100,000円
  払戻金   81,900,000円

 実際には払戻金は単勝160円で8000万円、競馬会の利益は1000万である。もし単勝支持率90%なら利益ゼロ、90%を超えると赤字になる。つまり、大本命が勝つと、競馬会は儲からないのである。そこで、払戻金の高い三連勝や連単などを発売してきたのであるが、単勝くらいしかない時代には、窓口を混雑させることにより、本命の馬券を買わせないくらいしか対策がなかったのである。(嘘だよん!)

日本ダービーのゼッケン
 一般競走のゼッケンは白地に黒文字で数字が入っているが、重賞競走では紺地に黄色で数字が入っている。ご丁寧にその下に馬名が書いてあったりもする。これはかなり以前から行われていたことであるが、実はつい最近まで、東京優駿競走(通称日本ダービー)だけは、伝統的に白地に黒文字のゼッケンが使われていた。重賞で勝ち進んで来た錚々たるメンバーが、この白ゼッケンで勢揃いすると、ああ、今年も遂にダービーだと感慨を覚えたものである。
 ところが、最近ダービーも普通の重賞に成り下がってしまったのか、紺地に黄色のゼッケンを使っている。興醒めである。

本賞金計算方法の怪
 出走出来るレースを決める本賞金の計算は、ややこしいことになっている。重賞競走では1着または2着、その他のレースでは1着の本賞金のみを計算する、これは分かり易い。ところが、その賞金を合計するときに、400万円以下の賞金はそのまま、400万円以上800万円以下の賞金は400万円、800万円以上の賞金はその半額を加算することになっている。どうしてこういう計算になったのかについての詮索はこの際やめておいて、ここで不思議なことが一つあるのでお話したい。
 約20年前、未勝利あるいは未出走競走の1着本賞金は370万円、新馬競走の1着本賞金は420万円くらいであった。この時には、もし400万特別競走の登録馬が出走可能頭数を超えた場合、新馬勝ちが優先され、未勝利あるいは未出走勝ちの馬は抽選となったのである。翌年賞金が上がり、未勝利・未出走の1着本賞金は390万円となったが、同様に新馬勝ち馬とは差が付いていたのである。
 ところがその翌年、再び賞金が上がって、未勝利・未出走の1着本賞金が400万円を超えてしまった。私はこの時、てっきり従来のルールを見直して、500万円以下はそのまま、500〜1000万は500万・・・となるものだと思っていたのであるが、このルールは改正されなかった。つまり、新馬を圧勝した馬も未勝利でやっとこさ勝った馬も、同じ本賞金400万円で抽選となったのである。

勝ち得戦
 現在は、条件戦に出走する場合、その時点で賞金が規定額以下でなければならない。ところが、かつては条件が開催毎の登録であったため、面白いことが起こった。このルールでは、例えば本賞金400万円の馬が第1〜3週に400万円以下の通常競走に勝った場合、その開催中は翌週以降の400万円以下の特別競走に出走出来るというものであった。
 このルールが廃止されたのは、400万円のレースを連勝した馬がいきなり1300万円クラスに上がって身動きが取れなくなることを防ぐというよりも、このルール自体が理不尽なものと考えられたからであろうか。しかし、期末に400万の勝ち得戦に勝っても、クラス替えがあればすぐに800万に出られたし、更に1年経てば、400万に出られたのである(かつては、4歳400万、5歳800万、6歳以上1200万というようなクラス編成であった)。また、1300万に上がっても、頭数の少ない特別競走ばかり出走して、8着賞金(正確には出走奨励金、1着本賞金の6%)を狙うという方法もある。8頭以内のレースに出れば、出走するだけで確実に2ヶ月分の経費を稼げたのであるから。
 競馬はゲームである。ゲームである以上、こういう理不尽で、イレギュラーなルールが少しはあったほうが楽しいのであるが。

横浜競馬場と宮崎競馬場
 現在、JRAの年間競馬開催数は、概ね東京・中山・京都・阪神が各5開催、中京・福島・新潟・小倉が各3開催、札幌・函館が各2開催の、合計36開催である。改修工事の都合などで開催数が変化するが、全体の36という数字は変わらないはずである。この数字の根拠を御存知の方はもう少ないかもしれない。
 1991年に改正されるまで、競馬法では中央競馬会の競馬場は上記10場の他に横浜競馬場、宮崎競馬場の合計12場あることになっていて、各場年間3開催ずつが認められていた。しかし、近年横浜競馬場と宮崎競馬場では実際には競馬が開催されておらず、その分を他場に振り替えて開催していたのである。
 ちなみに、根岸の横浜競馬場跡地の一部にはJRAの博物館などが設けられているし、根岸ステークスにその名前を残している。一方、宮崎競馬場は今日でもJRAの宮崎育成牧場として、デビュー前の競走馬の調教に使用されている。

昔の出馬表(尻敷き)
 かなり以前から、競馬のプログラムはカラーの表紙で1レースずつ1ページにまとめられた出馬表が冊子になったものが配られている。しかし、昔は1枚の細長い紙に全レースの出馬表が、裏面には前日のレース結果が印刷されていた。この出馬表、2つくらいに折って場内の階段状になった部分に敷き、座るのに便利だったため、尻敷きと呼ばれていたことを知る人は既に少ないかもしれない。ところが20年くらい前に、まず場内の出馬表だけ綺麗な冊子になってしまって、座るときに困るようになったのであった。

場外発売
 場内馬券は発走直前まで発売されるが、場外は5分前の締め切りになって久しい。しかし、実は20年くらい前まで場外馬券の発売締め切りは発走の30分前だったのである。したがって、馬券を買ってほっと一息つくと、その前に買った馬券のレースの実況中継が流れるのである。そのころには勿論テレビモニターなどない。場内のアナウンスと同じものがスピーカーから流れてくるのを、競馬新聞を持ったおっさんたちがじっと聴き入るのであった。
 このころは、まだマークシートではなく、窓口のおばさんに、「3−5:200円、3−8:300円」と言って買う方式であった。ところが、このころ後楽園場外に自動販売機があったことを知る人も少ないであろう。これは連勝の特券(昔の1000円券)専用で、1から8までのボタンが2列並んでいて、千円入れてボタンを2つ押せば券が印刷されて出てくる方式であった。この券は磁気にはなっておらず、専用の窓口で払い戻してもらったものである。30年も前は全部この馬券であり、馬券の種類はこの特券と200円券しかなかった。今日のように100円単位で自由に馬券が買えるようになったのは、オンライン発券機が導入されてからのことである。
 ところで、このころ中山開催のときに限って、実に快適に場外馬券を楽しむ方法があった。それは東京競馬場へ行くことである。爆発的な競馬ブームになる前は、確か11時ごろからしか開かなかったが、それでもかなりのレースが楽しめるし、何よりもゆったりしていて座るところもたくさんあり(2階来賓席まで開放されていた)、テレビモニターも放映されていたのである。オッズは勿論パドックの巨大電光掲示板で一目瞭然である。記憶が定かでないが、確か締切時間も場外発売所より遅かった気がする。オーロラビジョン(ターフビジョンという愛称はかなり後から付けられたものである)が完成した後はスタンドに座って観戦することも出来たし、運がよければ東京開催に備えて入厩している馬がダートコースで調教する姿が見られることさえあった。昼頃になると、スタンド2階の端に係員がコピーした紙を一束置いて行き、人が集まってくる。ここでだけ、後半レースの前売りオッズ速報が無料で配られていたことを知る人は、当時でも限られていたようである。この速報はすべて手書きであった。

札幌芝と小倉ダート
 かつて札幌競馬場には芝コースがなかった。かつては札幌記念も札幌三歳ステークスもみな、ダートで行われていたのである。これは、札幌は日本の野芝が生育出来る北限を超えているため、芝コースを造ることが出来なかったためである。しかし、低温でも生育する洋芝の導入によって、芝コースが完成したのである。
 以前は芝コースは冬になると枯れ芝になり、コースの保守が難しいことからダートのレースが多く組まれていたが、東京競馬場などに洋芝が導入され、かなり事情が変わっているようである。
 一方、小倉競馬場にはかつてダートコースがなかった。小倉の開催は夏季に限られ、芝の発育が旺盛なため、年間3開催なら全レース芝でも大丈夫だったのである。しかし、番組編成を変更した結果、冬季にも小倉開催が行われるようになり、内側の調教用ダートコースを改修して、現在のダートコースが設けられたのである。

 ところで、古い話ばかりであるが、(=^^=)は最近競馬に行ってるのかって?
 そういえば、7年くらい前にJRAのパリ事務所の招待で、ロンシャン競馬場へ行ったことがあったっけ。
 えっ? 日本の競馬場はどうかって?
 確か昭和の終わりごろに行ったような気がする・・・。(=^^=;;



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