永い夜。






脱衣所に先生の気配が無くなるのを確認すると、私はノロノロと浴槽からあがった。
ただでさえのぼせそうだったのに、先生があんな事をするから…余計に思考がボーっとする。体もヘンに重い。
先程の先生との口付けを思い出すと…扇風機の前に立っても火照りが抜けない。
浴衣を着てお風呂場から出ると、通路の窓を開け涼みながらミネラルウォーターを飲む先生が椅子に座っていた。
「あ…待っていて下さったんですか…ごめんなさい」
私の為に買っておいてくれたらしいミネラルウォーターを差し出すと、先生は優しく微笑んで立ち上がった。
「少し散歩でもどうかね」


旅館の庭は、情緒のある竹林になっていた。竹独特の匂いと、そのしなりが現実を忘れさせてくれる。
…忘れたい、何もかも…今は先生の事しか考えたくない。
お風呂場での事を思い出すと、先生の顔をまともに見れない。意識しすぎなのかも知れないけど…だってしょうがないじゃない。
そんな私に比べ、隣で静かに歩く先生の横顔は穏やかで、意識しすぎる自分が恥ずかしくなってしまった。
時々先生の浴衣が私の手に触れる度に、更に激しく胸が高鳴る。先生と手をつなぎたいと思うけど、でもできなくて…やっと先生の浴衣の袖をつまむのが精一杯だった。
「ん?」
どうした?と問い掛けられて、慌てて手を離す。
「ごっ、ごめんなさい」
真っ赤になって謝ると、先生は声に出して笑った。
「アキラも小さい時、こうやって私の袖を掴んでいたよ。あの子が小さい時、私の手を恐がっていたみたいでね、手をつなぐのも恐かったみたいだった」
「怖い?」
「碁を打つこの手が、沢山の対局相手をうならせたからね、私とは違う存在をこの手に感じていたのかもしれない」
「先生のお子さんらしい感性」
先日雑誌で見た、アキラ君の端整な顔を思い出す。そして連鎖反応のように奥様の事も思い出してしまった。
「…奥様とはこの旅館には?」
無意識のうちに寂しそうな表情になってしまったらしい。先生は困った顔をして、私の手を取ってくれた。
アキラ君を恐がらせた手…。そして私の手を取って下さる手。
もっと私の沢山の部分に触れて欲しいと思い、同時にそんな浅ましい事は考えてはいけないと、その思いを打ち消した。

「妻とは…来た事は無いよ」
先生の言葉に我に返った。まだフワフワとのぼせた感じが抜け切れない。
「こんな言い方は妻に申し訳ないが、昔の女との思い出の場所だったからね…意識的に連れてこないでいたんだよ」
「……先生って結構怖い」
私の言葉の意味が解らないようで、先生は不思議そうに私の顔を見た。
「だってそんな言い方したら、私が調子に乗りますよ?」
奥様も連れていらっしゃらない程先生にとって大切な場所なのに…なのに、こんな私を大きなリスクまで負って連れて来て下さるなんて…。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、更に先生は言葉を続けた。
「いいんだよ。調子に乗って。君は私の中で特別なんだから」
「だっ、だから、そう言う事をさらっと言わないで下さい!」
計算の無い直球の台詞。だから余計にたちが悪い。ドキドキしすぎる。
先生の言葉が嬉しくて、でも奥様にちょっと申し訳なくて…でもやっぱりにやけちゃう位嬉しくて…気持ちが一杯になって泣きそうになってしまった。

君の瞳は、いつもキラキラと美しい。あの沢山の星よりも…」
ほら、と先生が指差した夜空を見ようと、顔を上げた瞬間に視界がフッとさえぎられた。
「…んっ」
予期せぬ口付けにめまいさえ覚える。つないだ手はそのままに、空いている方の手で私の頬を優しく包んでくれた。握られていただけの手もいつしかお互いの指を絡ませ、それだけでも体の芯が熱くなる。
これ以上熱くなってしまったらおかしくなりそうだったので、慌てて私から唇を離して話題を変えた。
「その…わたしとそっくりな女性は今、何をしているんですか?」
「幸せな結婚をしたと聞いたよ。勿論棋士なんかとではなくてね」
そう言うと、今度は額に唇を寄せた。くすぐったくて、気持ちの良いキス…。


暫く手をつないで散策した後、私は大浴場も見てみたいのでもう一度ほかの湯に入ってから部屋に戻ると告げ、先生は先に部屋に戻る事になった。



大浴場から出ると、丁度女将とすれ違った。素敵な旅館ですね、と話し掛けると、女将も柔らかく礼を返した。そしてこんな事を言ったのだ。
「私はまだ女将にはなっていない頃でしたが、先生が女の子と泊まりにいらっしゃた時のことは覚えておりますよ。随分前でわたくしもうろ覚えですが…なかなかに似ていらっしゃいますね。あの子が生まれ変わったのかと一瞬ドキリとしました」
生まれ変わった…?
女将の言い回しに胸にチクリとトゲが刺さる…まさか…。
私が訝しげな表情を隠す余裕も無いのをおかしく思ったのだろう、女将の表情が明らかに変わった。
「…先生から聞いていらっしゃらない?」
「…いいえ、何も…幸せな結婚をしたと、それだけ…」
「あ…あぁそうでした、確かご結婚…」
絶対におかしい、何か隠してる。言いよどむ女将に詰め寄った。

「……亡くなった?」
「はい…しかもまだ若いうちに。先生もその事はご存知のはずです」
女将はそう告げると、ばつが悪そうに立ち去った。女将の後姿を暫く呆然と見送った後、重い足取りで部屋に戻った。





* * * * * * * * * * * * * * *

私、何が言いたいんだろう…。
せっかく旅行に来たのに、何も無いんじゃ…つまらないですよねぇ。
…なのでまだ続きます。
普通女将がプライベートをここまで話さないだろうと思うのですが…。
ごめんなさいっ(>_<)

030728




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