夢など、めったに見ない。
見たとしても、それは大抵、
思い出したくもないムルの研究所で暮らしていた頃の事ばかり。
だから夢を見ていると実感したとき、
またその夢かと思っていたら、どうも勝手が違うようだった。

夢迷い人の鏡




ほの暗い、青灰色の空間。
歩くたびにパシャパシャと深めの水たまりを連想する音を立て、確かに水の感触もする。
しかし、靴も服のすそも、濡れた布の不快感を帯びることはなかった。
夢だからかと、薄緑の長い髪を束ねた青年――アーリンはさして気にも留めない。
ただ前を見据えていた視線を少しだけ横に動かすと、まるで万華鏡のように煌く灰色のグラデーションが目に入る。
アーリンが歩くたびに立てる水音以外、音が一切存在しない淡い光の世界。
そうやってどのくらい歩いていただろうか。
すると目の前に、周りの空間よりも際立って明るい色をまとった女性が立っていた。
目深にかぶさった薄紫のベールのすそから、やや赤みを帯びた栗色の髪がのぞいている。
どこかで、いや身近にいる女性を思い起こさせるその姿。
しかしそれが誰なのか、どうしてもアーリンは思い出すことが出来なかった。
ただ、知っている。それだけだ。具体的に誰なのか、それが思い出せない。
「いらっしゃい、あなたも夢迷い(むまよい)人?」
ベールで顔を隠したローブ姿の女性は、やはり身近にいる女性を思い起こさせるものだった。
だが、声を聞いてもまだ名前と顔は出てこなかったし、
その語り口はその女性よりはるかに落ち着いたもののように思われたが。
「夢迷い人?」
「心に深い傷や迷いを持ち、そればかりが夢に現れる人が来る場所よ。
私はここ……嘆きの万華鏡の番人。
私の姿も声も、見る人、聞く人によってまったく違うものになるけれど。」
つまり、決まった姿を持たないということだろうか。よく分からなかったが、アーリンはそう理解した。
「……そうか。では、親しい者の姿をとるのか?」
「そうね。あなたに最も近い人の姿を取っているはずよ。
友情……愛情……親近感、そのほかの色々な要素から見て、ね。」
そういうものなのかと、アーリンは単純に納得した。
身近にいる女性の姿に見えるのは、たぶん自分でも知らないうちに彼女を身近に思っていたということなのだろう。
仲間はいまだに誰も知らないが、アーリンとその女性は同種族だ。
性格は大分かけ離れているが、親近感くらいわいても不思議ではない。
「なるほど。それで、ここはいったい……?」
「嘆きの万華鏡は、嘆きを抱いて死んでいった魂が造った、生者と死者の悲しい夢やつらい夢が集まる場所。
そして、ごくまれに……あなたのように、悪夢に囚われている人が迷い込むの。
眠りに落ち……夢を見る時に、たまたまここに迷い込んだ者。それが夢迷い人よ。」
「そうか。俺は、夢……いや、過去に囚われているということだな。」
夢迷い人とはよく言ったものだなと、自嘲気味にアーリンは嗤う。
番人はそれを見ても、大して何も感じないようであったが。
「夢は、未来・過去・現在の3つすべての鏡。
私にはあなたの見る夢の姿が分かる。あなたの夢を形容するなら……そう、海底ね。」
「海底?」
そう。と、番人はつぶやいた。ベールからわずかに覗く桜色の唇が、かすかに動く。
「あなたの夢は、深く暗い海の底。
そこにはどんな光も届かない。周りには誰も見えない。たった一人でもがくだけ。
出口の見えない……深い、深い青い空間。
そこから出るための手段を、あなたはまだ知らない。
もしくは、つかめていない。……そんなところでしょうね。」
内心どきりとさせられるような、すべてを見透かす視線がベール越しに投げかけられる。
彼女の言葉はあてずっぽうで無責任な予想ではなく、
アーリン自身にも見えない夢の姿を読み取った上での言葉だった。
抽象的ではあるが、アーリンは馬鹿ではないのでその真意をすぐに理解する。
「さすが番人、といったところだな。」
「あら、ありがとう。」
くすっと、彼女が口元に軽く指を当てて笑った。その時、アーリンはふと疑問を覚える。
「ところで、ここから出ることは出来るのか?」
「ええ、もちろん。あなたは私の元までたどり着いた。
それでもう、あなたはここから出られたのも同然よ。私に願いを託せばいいわ。」
その時、彼女がかぶっているベールを脱いだ。思ったとおりの顔が、そこに現れる。
しかしその顔に浮かぶ表情は、同じ顔の女性よりもはるかに大人びていた。
聖女のような、賢者のような微笑は、全てを悟っているかのようだ。
「さぁ、夢迷い人。あなたはどうしたいの?
ここは私の支配する世界。あなたが望むなら、それが夢の中だけのことである限り、何でもかなえて見せるわ。」
「俺は……。」
そこまで言いかけて、アーリンは言葉に詰まる。
どうしたいといわれても、急には思いつかないものだ。
ほんのわずかな時間、空白が出来た。
そして、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「……夢を見たい。」
「夢?」
今ここに居ること自体が夢だろうと馬鹿にするわけでもなく、
番人は穏やかな笑みを崩さずに聞き返す。
「一度でいい。普通の人間が見る、夢らしい夢を見てみたい。
もう……今までの夢には飽きたからな。
たった一度でいいから、安らぎや希望を与えてくれる夢を見たいんだ。」
それこそ意味の分からない夢でもいい。
ただ、あのおぞましい日々を繰り返す事以外の、ごく普通の夢の姿を目にしたい。アーリンが望むのは、それだけだった。
どうせ、先は短いのだ。ならば、命が尽きる前に見ておきたい。
「あら、控えめな人なのね。
もちろん……お安い御用よ。」
番人はふわりと宙に浮き、ためらい一つなくアーリンの体に腕を回し、彼の額にそっと口付ける。
まるで、まじないのように。
「ささやかな幸せにさえ手が届かない、幸薄き汝のために我が力を。」
耳元でささやかれる、若く澄んだ声。その声は、なぜかひどく心地がいい。
全てをゆだねられるような、そんな響きを伴っている。
誰かの声を、これほど心地いいと感じたのは初めてかもしれない。

「夢鏡よ。我が意のままに、夢迷い人に安らぎをもたらせ。」

番人に抱かれたアーリンの体が、淡い光を帯びる。
ほとんど色のない世界に、すっと一本亀裂が入った。
亀裂はパックリと裂け、いつの間にか番人の腕がアーリンから離れて、彼はそのまま亀裂の中に入り込む。
しかし、彼は不思議と戸惑いを感じなかった。
「行きなさい、夢迷い人。つかの間の安らぎの元へ。」
「……ああ。」
ありがとうと続けようとした瞬間、急激に視界が真っ白に染まる。
その後はもう、夢の中にいるという意識は消し飛んでいた。



どこからか、自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
深い眠りは徐々に浅くなり、急激に覚醒へと導かれる。
「―……ン――・・リン―――。」
「ん……?何だ、朝か。」
うっすらと目を開けると、突き刺さるようにまぶしい朝日の光が飛び込んできた。
それについで、覗き込むクレインとリイタの姿が目に入る。
「朝かって……アーリン、もう朝ごはんできてるぞ。」
「そうだよ。でも、寝坊するなんて珍しいじゃない。」
何か悪いものでも食べたの?などと聞いてきそうな顔で、リイタに聞かれた。
ベッドから起き上がったアーリンは、同じ顔でもやはり番人とは別人だなと寝起きの頭で考える。
「……珍しく、熟睡したからな。」
「まぁ、あんたはいつもあんまり寝てないし……。
たまには寝坊してもいいけどさ。」
でも、一度声をかけたら起きろよ。と、クレインは続けた。
「ねぇ、なんか夢でも見た?」
「……ああ。」
お前のドッペルゲンガーのような姿をした番人が出る夢を。
と、本人にはもちろん他の仲間に言うつもりはない。それは、彼だけの秘密だ。
「別に、なんてことはない普通の夢だ。」
「何だよそれ……。」
「何それー……。」
何を期待していたのか、拍子抜けして呆れるクレインとリイタを見て、ついおかしくて笑みがこぼれる。
とはいっても、よく見なければ気がつかないくらいの変化だったが。
「それより、食事の支度が済んだから呼びに来たんじゃなかったのか?」
「あ、そうだった!」
気がつくと、台所からデルサスが痺れを切らして怒鳴る声が聞こえていた。
平凡で穏やかな時間。
それこそがかけがえのないものだと、アーリンは知っている。
そしてそれは、彼にとってつかの間の夢のように短いということも。


―END―  ―戻る―

夢ネタ。ありがちですけどね。
リイタそっくりの姿で出てきた嘆きの万華鏡の番人ですが、
文中にあるとおり、別に好きな人だからといって出てくるかというとそういうものでもありません。
根底にアーリイもしくはアーリン→リイタがあるかないかは、
皆さんのご想像にお任せします。
書こうと思った時はダークシリアスにするはずだったのに、
気がつくとただの謎系になっているという罠。