紅い焔



その日は、やや風が強い朝だった。
小鳥達は朝が来た喜びを歌い、動物も魔物も忙しく朝食の確保に駆け回る。
ここはキアタル公国。ダムシアンの南、竜の半島にある出来て間もない小国。
その中で一番広大な、とはいっても世界規模で見れば小さな森。
けれど、国で一番豊かな大切な森だ。
ここは、世界でほとんどその存在を知られていない種族・モーグリの生息地でもある。
世界に数箇所しかない場所の一つだ。
「かーちゃん!」
母に飛びつく小さな仔・グリモーも、貴重なモーグリの一匹。
もうすぐ1歳(人間観算で推定4〜5歳)になる。
「丁度よかった。さ、皆でご飯にしましょ。」
やさしく笑って、母は木の葉の皿に乗せた森の幸を切り株に乗せた。
それから少し遅れて、水が入った桶を抱えた父がやってくる。
「ごめん、ちょっとこぼしちゃったよ。」
いつもより少し少なめの水。
自らの失敗に、父は照れたように頭をかいている。
その様子を見て、くすくすと母が笑った。
「このぐらい平気平気。さ、早く食べましょ。」
楽しい食事の時間。どこの巣でも、皆楽しそうに食事を取っている。
木々の隙間から遠くを見ると、鹿の親子が草を食んでいた。
平和な、朝の一時。だが、それは長く続かなかった。


草が刈られた草原と森の境。そこを、不審な男達が歩いていた。
「おい、どの辺につけるよ?他の連中はもうつけちまったかもしれないぜ。」
無骨な鎧に身を包んだ二人の男が、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。
「どっか、火がつきやすそうな辺りはっと……。あ、あの辺でいいんじゃないのか?」
丁度良さそうな太さの枝が、たくさん落ちている。
二人は早速それをかき集め、がまの穂の火口に、持っていた火打石で火をつけた。
火が大きくなるのを待ち、それを紙に移して更に大きくしたところで、枯葉に落とす。
小さな火は、やがてどんどん勢いを増していく。
二人が枯葉や枝を継ぎ足すたびに、それを喰らって成長し続けるのだ。
どれくらい経っただろうか。火はすでに、人の背丈を越えるほど成長していた。
二人の男の姿はすでに無い。森の動物達が知らぬ場所で、火は不気味な静けさを伴って燃え盛っている。


焦げ臭い匂いが漂ってきた。四方八方から、その異臭は漂ってくる。
入り口付近にいた動物達は不穏な気配に敏感に反応し、さっさと森から出て行った。
だが、中の方の動物達はまだ気がついていないようだ。
やがてその臭いは、モーグリたちが住む森の最奧にも届いた。
「おい、なんか変な臭いしないか?」
ある一匹が、唐突にそんな事を言い出した。
「え?」
グリモーの父や母、他の仲間は皆目を丸くした。
「ん〜……?」
「なんだなんだ?」
そう言われてみると、辺りから焦げ臭い臭いが漂っていることが分かった。
モーグリ族は鼻が大きいが、特別に感覚が鋭いわけではない。
だが、嫌な気配がすると思った時にはもう遅かった。
「か、火事だーー!!」
何かを感じ取った一匹のモーグリがひときわ大きな木の上にたち、
近くまで迫った炎の群れを見つけた。
慌てた他の大人達も木の上に上る。
獰猛に燃え盛った火炎は海の如く、四方八方を埋め尽くしていた。
それは一向に衰える気配は無く、むしろ益々その勢いを増していく。
自然に起きる火事には幾度か会ったモーグリ達だが、こんな事は初めてだ。
今までなかった、最大規模の火災といっても過言ではない。
「は、早く逃げないと!!」
若いモーグリのメスが、動揺しきった声で叫んだ。
他の者達も皆、恐怖に顔を引きつらせ、逃げ道が無いかと必死にあちこち見回す。
「無駄じゃよ……。」
そこに、年老いた一匹のモーグリが現れた。
『長老!!』
一斉に皆が振り返った。
年のため、ゆっくりと歩みを進める長老。
「お前達も見たじゃろう……もはや、周り中を火で取り囲まれておる。
鳥達ならともかく……わしらの翼では無理じゃ。」
モーグリの羽は小さいため、長時間の飛行にはまるで適していない。
飛び続けても、10m前後がいいところである。
これでは、到底脱出することは出来ないであろう。
「け、けど長老!まだ逃げられないって決まったわけじゃありません!
皆で今すぐ逃げれば助かるかも……。」
長老は、わずかに目を伏せた。
「とーちゃん、かーちゃん。オレたち、どうなっちゃうの……?」
グリモーの問いに、父も母も答えない。
ただ、不安そうに長老を見守っているだけだ。
やがて、長老が再び口を開く。
「わかった……。皆、わしを置いて逃げてくれ。」
その言葉に、全員がどよめき始めた。
この中の誰より頼りになる、皆が尊敬する長老がここに残ることが信じられなかった。
「ちょ、ちょぉろぉはどうするの??」
舌っ足らずのひときわ幼いモーグリが、心配そうに長老を見ている。
だが、長老は何処か悲しげな笑みを浮かべただけだ。
「長老、何を言ってるんだ!」
長老のそばにいた者が、怒ったように言った。
だが、その顔はみな泣き出しそうだ。
「一緒に行きましょ!!まだ、間に合うから……!」
必死の形相で、手を差し伸べるものもいた。
だが、その手を長老は取らない。
「皆……生き延びておくれ。」
やがて、火炎がモーグリたちの周囲を取り囲んだ。
燃え盛った火の一部が弧を描き、長老の姿を視界から消し去った。
「長老ーーー!!」
大勢のモーグリたちの叫びは、火炎に呑まれ、長老には届かなかった。


ともかく逃げようということになり、3つのグループに分かれて脱出を試みることにした。
グリモーも、父や母に手を引かれ逃げ出すこととなった。
「さあグリモー、皆から離れないようにね。」
緊張でピンと張り詰めた、厳しい母の声。
グリモーは、こくりとうなずいた。
周り中を取り囲む炎への恐怖は当然あるが、それをぐっと押さえ込む。
「落ちてくる枝に気をつけろ!!」
焼かれて炭となった枝が、炎に包まれたまま落ちてきている。
これに当たれば、ひとたまりも無い。
木が倒れてくることもある。地面も草が燃えているため、熱い。
上に、下にと細心の注意を払い、進んでいく。
「オレたち、助かるよね?」
不安げに父に問う。
「そうだ。さ、喋ってる場合じゃな――」
父が言いかけたとき、前方でドォンと大きな音がした。
何事かと反射的にそちらを見ると、木が倒れて仲間が数匹押しつぶされてしまっていた。
かなり太い木で、とても取り除けそうに無い。
木の下敷きとなった仲間が、重みと暑さでうめいている。
打ち所が悪かったのだろう。中には、ぴくりともしない者もいた。
「パパーー!!」
大木を必死に叩いているのは、グリモーの知り合いの女の子だ。
どうやら、父親が下敷きになってしまったらしい。
「モ……モー、ミュ……。早く……逃げて……」
息苦しくとも、仔を気遣う。
「パパ!!あたし、そんなのやだ!パパといるぅ!!」
泣きじゃくって顔をくしゃくしゃにしながら、ひたすら叫ぶ。
だが、親子の周りの炎は無情に燃え盛るばかり。
「うわ!火が……!!」
意思を持った魔物のように、火の一部がモーグリたちに降りかかる。
それによって、今度は父親にすがり付いていたモーミュが火に包まれてしまった。
「きゃあ!!熱いよぉ、助けてェェェ!!!助けてェ!!!」
『モーミュ!!』
もがき苦しむ彼女を助けようと、火を振り払うように周りのものが手を振り回す。
だが、もはや手遅れだった。瞬く間に炭と化し、地面に倒れこむ。
「あ……。」
グリモーが、うめきのような声にならない声を漏らす。
周りの大人達は、声すら出せなかった。
がくがくとひざが震える。立つ力すら奪われかねない恐怖。
初めて目の当たりにした、恐るべき炎の真の力。
無力なモーグリなど、とても太刀打ちできるものではない。
その事実に、気丈でないものはへたへたと座り込んでしまった。
幼い子供を瞬く間にただの炭の塊へ変えた、紅蓮の火炎。
それでも飽き足らないと示すかのように、
木の下敷きになったものをも包み込んでしまった。
行く手を塞ぐかのように、炎の壁が形成される。
これで、前方の逃げ道は立たれた。
「皆!右だ!!」
いち早く冷静を取り戻した者が、
仲間をまだ火の回り方が遅い方へ導く。
降りかかる火の粉を振り払い、大人は子供をかばいながら走る。
だが、また容赦の無い炎が襲ってきた。
『うわ……!!!』
風が急に強くなったために、炎が煽られてしまったのだ。
火の回りが、急速に速くなっていく。
慌てて走るが、行く手は皆炎の海。
周りは暑く、地面も凄まじい熱を帯びている。足の裏の毛は擦り切れ、皮膚には血が滲む。
走って走って逃げていくうちに、仲間は次々倒れていった。

やがて、最後に残ったのは、グリモーただ一人だけになった。
父も母もグリモーをかばい、焼け死んでいった。
火に侵食される、純白の毛皮。輝きを失う頭の黄色い玉。
燃え尽きて、地に崩れ落ちる骸(むくろ)。
目の前で死に行く肉親の死は、十二分にグリモーの心をえぐり、傷つけた。
だが、涙で視界がにじんでも、足の裏の毛が擦り切れても彼は決して立ち止まらない。
“せめてお前だけは・・生きて”
両親が、最後の力を振り絞って笑いかけて言った言葉。
その言葉だけを残して、逝ってしまった。
しかし、それだけが今のグリモーの支えだった。
今ここで死んではいけない。本能か、決意かも分からない。
だが、炎への恐怖心は増すばかりだ。
半ば狂乱状態になりながら、それでもグリモーはただ駆けて行く。
紅い壁の間を縫って、ようやく火のない外が見えかけたその時。
「わぁあ!!」
上から落ちてきた硬い木の枝が、グリモーの右頬に当たった。
どこから落ちてきたかは分からないが、結構深い傷になってしまっている。
血が、ぽたぽたと流れた。痛みで歯を食いしばり、じっとこらえる。
ここで叫んでしまったら、天敵に見つかるかもしれない。
そして目線を外に向けると、そこには信じられないものがあった。

笑っている。何人もの男達が、笑っている。
死んでいった森の生き物全てを嘲笑うかのように、
森を焼く炎の、いや悪魔の化身のように。
グリモーの目は、唖然とも驚愕とも取れる目でそこに釘付けになった。
目が、そらせない。心臓の音がいやにうるさかった。
「ま、これだけ燃やせば公爵様も満足だろう。」
離れたところから、男達は森を見ていた。
「そりゃあな。これ以上、燃えるところもないって。
いや〜しかしさぁ……流石にすごい迫力だぜ、コリャ。」
まるで、芝居か何かでも見るかのような目つきと声音。
どう考えても、恐ろしい森林火災を見る目つきではない。
「さ、お役目も終ったしそろそろ帰ろうぜ。
俺たちの役目は、森に火をつけることだったんだ。」
軽い調子の会話の中に、グリモーは息が止まるような言葉を聞いた。
    今、彼らは何と言ったのだ。
「これ以上の長居は無用。帰るぞ。」
そういって笑いながら、兵士風の身なりをした男達は去っていく。
もはや、グリモーは瞬きさえも出なかった。
炎が怖いなどということは、何処かへ飛んでいってしまった。
そして、代わりにじわじわと湧き上がってくる感情。
「―――さねぇ……!!」
固く前足を握りこむ。涙が頬を流れる。
だがその顔は、激しい憎しみで染まっていた。
幼い仔には似つかわしくない、強い負の感情に支配された顔だ。
あの男達に、父は、母は、仲間は、友人は――殺された。
森にこの獰猛な火を放ち、この森の全てを焼くように仕向けた人間共。
この火事の真実を知った今、彼らを許せるはずも無かった。
「……っゆるさねぇぇぇぇーーーー!!!!!」
グリモーの慟哭が、炎の海を越え、高く遠く響いた。
炎に対する恐怖心をも凌駕する、人間全てへの憎しみを乗せて。

紅い紅い炎が燃える
全てを呑み込み焼き尽くす
木々を焼いて
命を消して

それでもまだ足りぬように
全てを緋と橙に染める

獰猛な獣よりなお猛々しく
自らが消えるそのときまで
あらゆる物を犠牲にして
ただ無情に燃え続ける

紅い紅い火が燃える
紅蓮の舞をいつまでも踊っている


―また、あの夢を見た。
周りに、あの火は無い。あるのは、狭い洞穴の壁だけだ。
仲間の元から離れたグリモーは、全てを失った日の夢を見ていた。
払拭できないほどの炎への恐怖と、憎しみを人間達に植え付けられた日の夢。
「ちくしょう……。」
右頬の傷跡に触る。あの時の傷は消えることなく、残っていた。
幾度も幾度も、眠るたびにあの日は時折甦る。
人間への激しい憎しみは、今も衰えない。
夢が彼の元を訪れるたび、逆に日増しに強くなる。
そして、その激しい憎しみと深い悲しみは、グリモーの心さえも歪めていた。
人間をいつか全て滅ぼすこと。それが今の彼の望みだった。
―その望みを、叶えてやろうか?
脳裏に、突然声が響いた。
「だ、だれだよ?!」
はっとして宙を見る。だが、寝ていた洞穴の天井があるだけだ。
―名は明かせない。だが、お前の望みを叶えてやろう。
何故だかその言葉に、底知れぬ恐怖を感じた。
だが、それでも気丈に宙を睨み付ける。
「てめえ・・一体何者だ?!」
噛み付くような勢いで言い放つと、場の空気が不吉にざわめいた。
ぞくりと、背筋に寒気が走る。
―お前に力を授ける。憎しみを抱く者たちを、滅する力を……。
その声を聞いた途端、急に目の前の光景が遠くなっていく。
耳を塞ごうとした手が、むなしく宙を掻く。

意識が闇に落ちる瞬間、グリモーは赤いものを見た。
炎よりもなお紅い、鮮やかで不吉な紅。

何処かで、炎が燃えている。
それはあの日の炎よりも強く激しい炎だった。

紅い紅い火が燃える



―END―  ―戻る―

このサイトでは珍しい(?)一話読みきりです。テーマは「炎」。
今回は、影が薄い未来のかけら(略)のメインキャラ・グリモーの過去を書きました。
はっきり言って、年の割りに過去が暗い+重いですね。どこかで燃える炎とは……まあ、想像がつくかと。
(6/4・加筆修正)