月下星群 
〜孤高の昴・異聞

  天上の海・掌中の星 夢魔



 
 今は夜なのか、それとも昼間なのか。空はいやに暗くて、なのに周囲の情景にはくどいくらいピントがしっかり合っている。鮮やかなデジタル画面のようにくっきりと。


   ――― ………。


 気がつけば、青々とした森の中にいた。針葉樹だろうか、尖らせた鉛筆を思わせる木々がたくさん植わっているその上になお高く、石作りの塔の屋根が突き出しているのが見える。外国の絵本なんかに出て来そうな、白っぽい石積みの塔だ。チェスのお城の駒にも似てるかな。どこか寒々しい晴れ渡った空の下、ぽつんと1つだけ。その塔は立っている。塔の胴のところどころには、明かり取りだか風取りだか、レンガ一個ずつくらいの小さい小さい穴の窓が空いているらしいが、それ以外には何にも…窓もテラスみたいなバルコニーもない。頂上の部分にだけ、腰高窓みたいのが1つ見えて。灯台か何かかな? でも、森の中なのに? そう思っていたら、

   ――― ………っ!?

 髪を舞い上げ、頬を叩いて、痛いほどの強い風がざっと吹いて来て。思わずの事、腕で顔や目を庇ったら、辺りの様子がいきなり変わった。戸外にいた解放感が途切れて、辺りの空気は停滞を帯びる。顔を上げると、そこはどこかの部屋の中だ。天井の高い洋間で、家具も全て洋風。床には擦り切れたラグが敷いてあり、ベッドと小さめのタンス、古ぼけたテーブルに腰掛けたら脚が折れそうな椅子。それらは皆、色褪せて埃まみれで、20畳くらいの部屋の中に雑然とおかれてある。殺風景な部屋。だけど、それ以外にも何か変だと思った。見慣れた"部屋"の雰囲気と何かが決定的に違う。何だろうと考えあぐねて、傍らの窓に目が行って、あっと思った。青い空しか見えない腰高窓。傍らによると、眼下に広がる緑の樹海。何か訝
おかしいと感じたその原因。この部屋には角がない。円形の部屋。そう、ここはさっき見上げてた塔の頂上の部屋。

   ――― 角がないだけじゃあない。

 もう一つの不審にも、すぐに気がついた。この部屋にはドアがない。自分は此処へ、どうやって入ったのだろうか。それとも入れられたのか? どっちにしてもどうやって? それより何より"出られないのか?"と思うと、何か急に落ち着けなくなった。こんなトコ、嫌いだ。こんなトコに居たくない。ねぇ、どこ行ったの? ずっと傍に居てやるって言ったじゃん。

   ――― ………。

 墨に染まった綿みたいな真っ黒な雲がいつの間にかいっぱい敷き詰められていた空や、きれいな緑な筈なのに、どこか余所余所しいばかりで棘々しい森を窓から見回していると、梢の隙間に何かが動いた。金色に光った何か。僅かに覗いた地上に誰かが居た。

   ――― ………あ。

 慌てて窓ガラスを見回した。開けようと思ったから。でも、これって枠ごと嵌まってて開かない。嵌めごろしになってるんだ。何でこんなに…こんな高いトコなのにこんなにも厳重なんだろ。忌ま忌ましくなって、それでも何とか声を張り上げた。

   ――― 俺、此処に居るよっ!

 冷たいガラスを何度も何度も拳で叩く。あんなに遠くじゃ聞こえないかもしれないけれど。ねえ、俺、此処だよって、何度も何度も大声で叫んだ。そしたら、

   ――― ………っ。

 凄い凄い。ちゃんと聞こえたんだ。だってこっち向いたもん。そいで、ふわって空へと舞い上がって来てくれた。翼もないのにこんな高いところまで飛べるんだぜ、ゾロって。

   「お前、そんなトコで何してんだ。」

 窓のすぐそば、空中で真っ直ぐに立って、ゾロはそんな惚けたことを訊く。いつもの黒っぽいシャツとズボン。さっき光って見えたのは、左の耳に下がった三連の棒ピアスだ。周りの、どこか威嚇的な緑とは種類の違う、見慣れた…温かい緑の髪をした精霊。俺なんかよりずっと大人で、凄っごく背が高くて、手も肩も胸板も背中も大きくて。凛と引き締まった、鋭角的?っていうのかな、ちょっと恐持てのする顔立ちなんだけど、今みたいなちょっと困ってる真顔なんかは、とってもきれいでカッコいい。…そうなんだ。ゾロ、窓越しに俺を見て、何だか困ってる。

   「どうやって、いや、何でそんなところに…。」

 俺にだって判らないやい。此処から出してよぅと、ゾロとの間に仕切りみたいにある窓をどんどんって叩くと、

   「判った、待ってな。」

 ゾロは右手を、自分の頭の少し上にまで振り上げて、そこに何かを呼び出した。大きな手の中から"パァッ"って眩しい光がほとばしって、その光があっと言う間に一振りの刀になる。あ、それ、見たことある。時々…ゾロが"邪妖"っていう悪いのを退治してる時に目が覚めることがあるんだけど、そん時に持ってる日本刀だ。全部が現れたその刀を、一旦、腰の左側に収めると、チャキッて音をさせて鞘から引き抜く。あ、そっか。その刀で窓を壊すんだ。そうと判って、だったら窓から離れとこうって思ったその時だった。

   ――― ………っ!

 カカ…ッて音がしたかと思ったほどの物凄い光が、窓全部、ううん、窓枠からも溢れるくらいに外の全部を真っ白に照らした。垂れ込めてた真っ黒な雲は雷雲だったのか。ゾロの姿も一瞬、光に飲まれて見えなくなったほどだ。雷だとしたら、嵐か何かが来るのかな。こんなトコ、早く出たい。ゾロと一緒に家に帰るんだ。そう思ってじっと見つめてると、ゾロも"うん"って頷いてくれた。そいで、手に持ってた刀をぴたって、正眼っていうのかな、真正面に切っ先が来るようにって構えたその途端…。


   ――― ………っっ!!


 ………俺、息が止まった。心臓も止まったかもしれない。だって、だって、ゾロが…ゾロが………っっ!











            ◇


   「………いやあぁぁあああっっっっ!!!」


 不意に悲鳴が上がったのと、蒼銀に濡れた白刃が慚
ざんっとばかり、すばしっこくて手古摺った、小さな邪妖の逃げ場をやっと封じて仕留めたのとがほぼ同時。
「…チッ。」
 刀を振るった逞しい男の背後、白い指を胸の前に組み合わせて何やら印を結んでいた別の青年が、その青い双眸を見開くと忌ま忌ましげな舌打ちをする。
「なんて往生際が悪い奴だ。欠片が散った。」
 言ったが途端、ぶんっと片方の腕を頭上へ振り上げて、

  《天の黎明、地の静謐。暗渠の鉄槌、炎群
ほむらの紋章。
   今 此処に、我の唱えし"封の咒"を、浄化の刃に変えたまえっ!》

 一気にまくし立てたそのままに、振り上げた腕を降ろすとそこには銀の刃が目映い、小ぶりの洋剣が現れた。
「これは俺にしか扱えない。ここいらを完全浄化する。お前は…。」
 皆まで聞かずともという勢い、相棒に短く頷首して見せながら、緑髪の精霊は自分の刀を鞘へと収めつつ、悲鳴を上げた少年の傍らへと急いだ。
「いやっ! いやだ…っ。ゾロっっ! ぞろぉっっ!」
 跳ね起きたそのまま、両手で頭を抱え、髪を掻き毟らんばかりになって叫び立てている。どう見ても半狂乱といった体であり、
「ルフィっ!」
 ベッドの上、膝で地団駄を踏むように、じたばたと暴れる体をまずは掴まえ、長い腕で上体を抱きすくめた。片腕で余るほどに小さな体だ。それが…今にも殺されそうな、そんな窮地から逃れたいかのような勢いで暴れ続けて、
「いやっ! 離せ…っ! ぞろっっ!」
 金切り声を上げ続け、自分を押さえ込んでいるのが誰なのかも判っていない様子。
「ルフィっ、しっかりしろっ!」
「いやあぁぁっっ!」
 両手で自分の耳を押さえ、きつく眸を瞑って。何も聞きたくはないと、何も見たくはないと、あらゆるものを拒絶している。ただひたすらに名を呼ぶ、その人をこそ求めて。
「ゾロっ! ぞろっっ!!」
「ルフィっ、俺だ。判らんのか、ルフィっ!」
 全身で暴れて暴れて、名を呼ぶその人にまで拳を上げる始末。こんなくらいの非力な殴打、痛くも痒くもない破邪殿ではあるが、そんなにまで我を忘れている少年だというのがひりひりと胸に痛い。怖くて辛くて助けを呼んでいる彼なのだろうに、こんな間近にいるにも関わらず、彼を静められない、こんなほどもの恐慌から救い上げてやれない。
「ルフィっ!」
 その両腕で力いっぱい、まるで封じ込めるように抱きすくめてやると、
「………っ! い、やぁ…っ。」
 気持ちの混乱からようやっと、現実の、肌身に接した状態・情況というものへと、頭の方が覚醒したらしい。何かに力づくで押さえ込まれているのに気がついて、
「………あ、ゾロ。…ゾロ?」
 混乱の残る、どこか戸惑ったような声で訊くものだから、
「ああ、俺だよ。やっと眸ぇ覚ましやがったな。」
 溜息混じりにそんな言いようをする。そこへと、
「こらこら、そんな言い方はないだろうが。」
 明かりを灯してはいないが、漆黒の闇とまではいかない、町中の一般家庭の子供部屋の一角。玻璃のような淡い光をちかちかと辺りに滲ませている、銀細工もきららかな細身の短剣を片手に掲げて、ベッドの方へと近づいて来たもう一人。男の言いようへと苦笑混じりな声をかけてから、
「やっと正気に戻ったな。」
 少年へとやわらかく笑って見せた長身痩躯の美丈夫が、
「ちょっと我慢しな。」
 その短剣を、破邪殿の腕の中にちんまりと収まっている少年の頭上へかざした。すると、剣が一瞬"ぽうっ"と点滅し、坊やの掻き乱された髪の間から…何かが浮かび上がって来て、そのまま刃の中へと吸い込まれる。
「これで浄化は終了。」
 にんまり笑った、こちらは聖封精霊さん。少年をあやすのは相方に任せ、その間に室内をぐるりと清めていたらしく。その撓やかな指先でくるりと回すと、銀色の短剣は蕩けるように宙へと掻き消えてしまう。
「…今の…なに?」
 まだ、興奮覚めやらぬというところだろうか。少しばかり声が震えているし、引きつけるような呼吸が何とも痛々しい。いつの間にやら泣いてまでいたのだろう、涙の跡が赤く滲んだ目許。それを…いかにも不器用そうな武骨な指が何度も何度も擦ってやっている。こらこら、もっとそっと扱えよと、言ってやりたかったがその前に。
「ごめんな。俺たち、人の夢にちょっかいを出す"夢魔"ってのを退治してたんだ。」
「"夢魔"?」
「ああ。そんな悪い奴ばっかでもない、悪戯程度しかしないのの方が断然多いんだが、今回のはちょっと性分
たちが悪くてな。邪妖に成り下がってて、人に怖い夢や悲しい夢を見せては苦しめて、負の生気を集めてたんだ。」
 くすんとお鼻を鳴らしつつ、真っ赤になった頬を間近の頼もしい胸板にほてんとくっつけて、
「負の生気…って?」
 坊やが訊き返す。判らなくって当然な単語。平穏に暮らしていれば、まずは接する機会なぞ訪れはしない種の言葉だ。だが、この少年には"知る権利"がある。こんな想いを、こんな辛い目を見せないと誓った彼らなのに…今回ばかりは失態を示してしまったのだからして。
「物事には"正と負"っていう二つの面とか性質がある。"明と暗"だったり"善と悪"だったりするって言った方が分かりやすいかな?」
「………あ。」
 伸びやかな甘い癖のある、くっきりした声。そうだった。この人たちは…この精霊たちは、人に害を及ぼす悪霊みたいなのを退治してるんだった。そう思い出して、
「じゃあ、今のは…。」
 夢魔そのものを見たルフィではなかろう。それを踏まえて、
「ああ。坊主が見てた夢。跳ね起きるほど怖かったその夢はな、そいつの欠片が飛び込んだから見ちゃった代物だ。」
 サンジが済まなさそうな顔になる。顎先まで伸ばした金の前髪に片側を隠した、それでも十分端正なお顔。それを憂いに沈ませて、細い指のきれいな手が、ルフィの髪をやさしく撫でた。
「防御は俺の担当だ。防ぎ切れなかったのは俺が悪い。ごめんな。」
 背中を、肩を、さっきからずっと撫でてくれてるゾロの大きな手とは感触の違うやさしい手。行儀がよくて洗練された、少ぅし冷たい指先が、くすぐるように頬や顎の先を撫でてくれる。
「何にも意味のない、わざと怖がらせようって構えられた夢だ。だから気にしなくていいんだよ? 現実には どっこも繋がっちゃあいない、意地悪なデタラメだ。…俺の言ってること、判るよな?」
 夢は予知だの潜在意識の現れだのという俗説が多々あるが、近年の科学的な分析によれば、単なる記憶の断片の寄せ集めに過ぎないと解明されつつある。寝ている間、人の頭の中では記憶の整理がなされていて、その格納時に放たれるランダムな電気信号を、浅い眠りになりかかっている時にたまたま"意識"が拾ってしまう。人間は自分を納得させるために、物事に筋道や筋書きをつけたがる性質があるため、ちらっとよぎった事象に対して、何かしらの物語を構築してしまったり、関連のある別の記憶をわざわざ掘り起こしたりするのだそうで、それが所謂"夢"なのだそうな。まま、それはともかく。言葉を交わすことで意識がはっきりして来て、そのせいで"夢"はずんずんと遠くなってはいたのだが、
「…うん。」
 頷いたルフィの反応が鈍
トロいのが、二人の精霊さんたちにはちょいと引っ掛かった。
「なあ、ルフィ。どんな夢だったんだ?」
 ベッドの端に乗り上げるように腰掛けて、腕の中へと囲い込むように抱いていた坊やを、そのまま脚の上へ半ば引っ張り上げまでして、緑髪の破邪精霊が訊いてくる。相変わらずに大雑把なゾロであり、あまりに直接的で乱暴な聞きようへサンジがちらっと眉を寄せたが、
「…うっと。」
 ルフィが語り始めたので已なく口を噤んだ。腫れ物に触れるような接し方も、場合によっては却って相手を傷つける場合があるのだし、彼らには彼らなりの、思いやりのレベルなどがあるのやもしれない。
「あんな? どこかの塔の上に、俺、閉じ込められちゃってたんだ。」
 ルフィは訥々と語り始める。周囲の情景が妙にリアルだったのも、サンジの説明してくれた"夢魔"っていう邪妖のせいだったのだなと、今になって納得がいった。
「森の中の高い高い塔でさ。そいで、ゾロが見つけてくれて、高いとこまで飛んで来てくれて。出してやるからって刀を構えたんだけどさ…。」
 不意に口を噤んだのはその先が重苦しい記憶だったからか。だが、そんな風に察してやりかかった間合いへ切り込むように、さっと顔を上げたルフィであり、
「あんな? 空いっぱいの真っ黒な雲の上からサ、大きい鉤爪が降って来て。ゾロの体よりでっかい爪だったんだ。それにいきなり叩かれて…ゾロがどうかして。そこで目が覚めたんだ。」
 どうなったのか、実は見てはいない。一瞬、と呼べるほどもなかったほどの素早い刹那。目の前の空に浮いていた見慣れた頼もしい体躯が、突然現れた漆黒の疾風に、あっと思う間もなく攫われて消えた。幻みたいに一瞬だけ見えた鋭い鉤爪は、怪獣の手にくっついてそうなほど、それはそれは大きくて。あんなのに叩かれたらどうなるか…そう思ったら居ても立ってもいられなくなり、悲鳴を上げて跳ね起きていたルフィだったのだ。
「………。」
 淡々と語ってはくれたが、小さな肩が少しばかり震えている。あれほど取り乱したのだ。ただの夢で。物事の道理も分からないまま、昼間得た情報があまりに多すぎた反動で夜泣きをする、幼い幼い赤ん坊でもないのに。これを持ち出すとゾロが苦々しい顔をするかもしれないが、この家にたった独りでお留守番をしていた頃には、もっとずっと怖いものに接してもいた彼なのに。それよりずっと怖い想いをしたのだと、その震えは如実に表してはいないだろうか。
「…なあ、ルフィ。」
 薄闇の中、仄かに白く浮かんでいる端正なお顔がやさしく囁きかけて来た。
「ぐう、作ってみな。」
「?」
 言いながら、自分のきれいな手をギュッと拳に握ったサンジだったので、ジャンケンの"ぐう"だとルフィにも判った。言われるままに小さな手を握り締めると、
「それでゾロを叩いてみ?」
「え?」
「いいから。叩くんだ。」
「…うん。」
 お膝に抱っこしてくれている破邪の精霊。ちょろっと顔を見上げると、ゾロはにやっと笑って見せる。二人のやり取りがちゃんと聞こえている筈で、それでも笑ったということは"ど〜んと来なさい"という余裕だろう。それでも、ちょっとは遠慮して、
「えいっ。」
 ぽふっと胸板を叩くと、
「もっと思いっきりだ。」
 サンジが小さく笑ってそんな風に煽った。
「えいっ!」
 今度はもっと振り上げた手で"ぽかっ"と叩いたが、それでもゾロには何の打撃にもなっていないらしくて、
「何だなんだ、お前、柔道部の代表選手だって言ってなかったか? そんなもんで選手になれるのか? 大したガッコじゃねぇんだな。」
「う〜〜〜っ。」
 まくし立てられてムッとして、両手の拳で黒づくめのシャツの胸元を目がけ、ばふばふと叩いてみたが、やっぱり何ともないらしく。ゾロは楽しげにくつくつと笑っているばかりだ。
「どうだね。全然平気な顔してんだろうが。」
「…うん。」
 ちょっと口惜しくて"むうっ"と膨れたルフィだったが、
「こんくらい強い奴だ。何が襲い掛かってきたって、大丈夫だ。な?」
 サンジが続けたフレーズには、あっとお口を真ん丸に開けてから、
「うんっ!」
 嬉しそうに頷いた坊やであったから………う〜ん。そ、そんな簡単に納得出来るもんなんだろうか。
"まだ半分くらい頭が寝てるだろからな。"
 でもでも…そんなもんなの? そこまで子供なの?この坊っちゃん。
う〜ん
「さて。報告があるから、俺は先に行くわな。」
 そんな風に言って、ふわっと、先に姿を消した相棒の、言わずもがなな気配りへ、ゾロはついつい…口の端を小さく持ち上げて苦笑する。
"…判ってるっての。"
 気を利かせて二人きりにしてくれたというよりも、とっとと坊やを寝かしつけろとの示唆だ。このまま興奮状態が続くと、体のみならず頭の隅々までもがしっかり覚醒してしまい、眸が冴えて眠るタイミングを逃してしまうだろう。そうなると、もっと深刻にあれこれと考え始めてしまうやも。
「ほら、まだ夜中なんだ。も一回寝な。」
 自分に凭れさせていた少年をそっと抱え直すと、魘
うなされて跳ね起きた時に蹴り飛ばされた毛布と掛け布団の下、小さな体を軽々とすべり込まさせて。手慣れた動作で易々と、元通りに広げ直された布団の中へ横たえてやる。………と、
「ぞろ。」
 坊やが小さな声をかけて来た。体を離すとたちまち、相手の顔が薄闇に没してしまう。精霊さんはともかく、ルフィはそんなに夜目が利く身ではないので、
「どした?」
 返って来たのは低められた優しい声だが。シルエットになってしまったゾロが、どんな顔をしているのかがよくは判らない。それがちょっぴり切なくて、
「あのな? …ゾロ、俺の傍に居んの、神様とかに睨まれてないか?」
「? 誰にも何にも言われてねぇよ。」
 神様とかいう存在に使われてる身じゃあなし、上司にあたる天使長からも、当初の…例の取引条件(『破邪翠眼』おまけ)以外、特に何やかやとは言われていない。
「ホントに?」
「ああ。」
 指にからむとくすぐったい、柔らかな猫っ毛をもしゃもしゃと撫でてやりながら、応じてやったが、
「でもさ…。」
 まだ何か気になるらしいルフィであるらしく、煮え切らないのをとろとろ眠いからだろなと察して、
「もう忘れな。俺はそんなに頼りになんねぇか?」
 ついつい、きつい言いようになって。その途端に、
「うっと…。」
 口ごもった気配がしたものだから、
"おっと…しまった。"
 こっちも口ごもりかけてしまう辺り………おいおい、しっかりせんかい。
(笑)
「だから、だ。」
 実を言えば、こういう風に言葉であやすのは大の苦手だ。これまでずっとずぼらをして来た。誤解されても構うもんかいと、開き直っての"言葉足らず"は十八番で。愛しくてならないこの少年へさえも、説明がうざったいからと何も言わないままに鼻先で立ち去って、その結果としてひどく落ち込ませた前科がある身。だが、そうそういつもいつも、この手で逃げていてはいけないと最近やっと悟ったばかり。自分が誤解されるだけじゃあない、そっぽを向かれたと彼を傷つけることになるのだぞと、こういう機微によく通じている相棒から叱られた。好きだと告白したのなら尚のこと、勝手な言い草で振り回し、揚げ句に不安にさせるなど下の下だと、言いたい放題をされている今日この頃で、
「だから…。」
 がりがりと、短い髪の乗っかった頭を掻いて見せ、
「どっしり構えてなってこった。何にも心配は要らねぇからさ。」
 とりあえず、と、無難なところを言ったものの、
「う…ん。」
 毛布の端っこを小さな手で握ったまま、坊やはどこか曖昧な声で小さく唸るばかり。真っ直ぐこちらを見上げてくるのは、一点の曇りもない宝珠のような、極上の潤みを帯びた漆黒の眸。決して…ゾロを頼りにならないと、そう思っている彼でないのがひしひしと判る。彼が不安に感じている事はただ一つ。夢の中で起こったような、そんな痛みがそんな窮地がゾロに掴み掛かったらどうしようと。大好きな人が危険な目に遭ったらと、ただただそれだけを案じている。この人世界には長いこと通じて来た身だ。大切な人、愛する人を案じる眼差しには覚えがあったが、それを我が身に向けられたのは…もしかしなくとも初めてな経験なものだから、
「…ちっとショックだよな。」
 枕元に顔を寄せるよに屈み込み、破邪の精霊は…やわらかく低めた声でそんな風に囁いた。
「俺がどんだけ強いか、お前、知らねぇんだもんな。」
「…えと。」
 吐息の温みが頬や額に触れそうなほど、間近になった相手の気配に意識を奪われる。長い腕が伸びて来て、布団の襟元、ふわりとやわらかに掛かるよに、ぱふぱふと直してくれながら、
「ま、そういう危ない目には、これからもずっと、直接遭わせることもねぇだろからな。ずっとずっと知らないまんまってことになりそうだがな。」
 その口許にはきっと、自信満々という笑みが浮かんでいるんだろうなと、声の調子で判ったルフィは、
「………。」
 ちっとばかし黙っていたものの、
「? どした?」
 そのまま寝ようという沈黙でなく、何か言いたげなそれだとありありと判る気配が放たれている。さしもの破邪様もそうまで鈍い訳ではなくて。そんな気配を拾い上げ、ついつい"言ってみな"とばかりに訊いてみた。すると、

   「…それって、俺んこと好きだから、だよね?」

 おおう。大胆な一言が飛び出したぞ、と。
「………う"。」
 それこそ大人げなくも、口ごもってしまった精霊さんへ、
「俺、色んなこと我慢出来るけど、ゾロが怪我したり辛かったりしたら、きっと我慢出来ないと思う。」
 坊やはそうと告げてから、
「だから。俺を大事に思ってくれるんなら、そう簡単に身を投げ出したりしないで。ゾロが苦戦なんかする筈ないじゃんかって、俺が笑って言えるようでいて。」
 そんな風に言い出すものだから。
"こいつめ…。"
 もうもうただ不安に怯えてなんかいない。信じているから信じさせてと、強かなお言葉を下さる辺り。これも"これまで"からの蓄積ならば、彼も彼なりに戦っているのだろうと頼もしく思えた。怖い夢に悲鳴を上げたくせに、あんなに取り乱したくせに、自分がそんな小細工に惑わされぬようでいてと、一歩先のことを言う。
「判った。」
「約束する?」
「ああ、約束する。」
 丸ぁるいおでこにかかっていた前髪を、ごそっと掻き上げ…そこへ小さくキスを一つ。途端に肩をすくめて"くふふvv"と笑い、坊やは毛布を掴んでいた手を伸ばして来た。
「んん?」
 そのまま腕を首回りへと絡みつけてくる幼い所作に、されるままになっていると、
「…あのね、そこだけじゃ嫌だ。」
 小さなお声がぽつりと一言。おやおや、言うようになったことvv ここから先はプライベートだから、さあ皆さんも外へ出た出たvv











            



 そんなこんなで、すっかりご機嫌も収まって。やっと寝ついたようだなと、その寝息や沈みゆく意識の感触で確かめて、
「………っ。」
 部屋の壁をスルリと抜けると、庭の片隅、今はすっかり葉の落ちた桜の枝に腰掛けた人影に気がつく。
「寝たのか?」
「ああ。」
 夜陰に満ちた月光を降りまくは、淡い生成りの冬の月。人どころか仔犬が登っても折れそうなほど、まだまだ幼い木だというのに、その高みの梢に危なげなく腰掛けているのは…随分と前に立ち去った筈の聖封精霊殿である。
「何してんだ、お前。」
「おやおや、ご挨拶だねぇ。今回のお仕事ではチョンボをやらかしたんだ。ナミさんへの申告へ、一緒についてってやろうって思って待ってたってのにさ。」
「…あれはお前のチョンボだろうが。」
 自分で"俺のミスだ"とさっき言ってなかったか? 眉間にしわを寄せ、眸をきつく眇めて。そう言いたげな顔をする破邪殿へ、
「さっきはな。坊やの手前、お前の株を下げちゃあ気の毒だと思ったからだよ。」
 いけしゃあしゃあとそんなことを言うサンジだったが、
「はっ。大方、ナミに"失点"を数えられたくないから、俺のミスだってすげ替えたくなったんだろ?」
 ゾロからすっぱり言い切られ、さすがにカチンと来たらしく。くゆらせていた煙草を唇の端にピンと立て、
「…んだと、こら。」
 こちらもそのアイスブルーの眸を眇めて、少々凄みかかったサンジは、だが、
「ま、そういうことにしといてやるさ。」
 いやにあっさり矛先を引っ込めて、口許から煙草を離すと中空へピッと弾き飛ばした。お行儀が悪く見えるかもしれないが、この人界より上位次界の住人である彼らだ。ちゃんとどこぞの灰皿へ、火の気も消えた上で飛び込んでいるからご心配なく。…いや、それは今回は置いといて。
「かわいいねぇ、相変わらず。」
 いやいや感じ入りましたと、御馳走様でしたとでも言いたげに、にまにま笑っている聖封様であり、
「何がだよ。」
「あの坊やだよ。」
 照れて誤魔化すなってと、にっかり笑って、
「お前だって知ってるだろうが。あんな小さい夢魔には、特定の夢を仕立てて見せるまでの能力はないんだぜ?」
「…まあな。」
 手短な言い方で彼が言わんとしていること。既
とうに察しはついていて、ゾロはふいっとそっぽを向いた。彼らが少々手を焼いた、今夜の標的の"夢魔"という邪妖には、キャリアや個々によって差はあるものの、さほど大きな妖力はない。彼らがやらかす"夢"への悪戯は、何かしら織り上げたものを無理から見せるのではなくて、その人その人が持つ記憶や心配事などのストックの中からランダムに、狙いをつけた種の夢として引っ張り出すというもの。今夜の夢魔の場合は"悪夢"を見させようという働きかけをしただけだ。そんな妖力の欠片が飛び込んだ先、ルフィの想いが形作った"悪夢"は、彼自身が襲われたり痛かったりするものではなく、ゾロが目の前で窮地に落ちるという代物だった。
「そうまで慕われちゃあ、鼻の下も伸びるよなぁ。」
 ふふんと笑ってからかうように言うものだから、
「………っ。」
 ぷちっと切れて怒り出すかと思いきや、
「羨ましいってんなら、ナミに同じことを言わせてみなよ。」
「………う。」
 こちらの方こそ鼻高々に"ふふん"と笑って、そのまま地を蹴り、月光のスポットライトへ向かって軽々とその身を躍らせるゾロであり、
「あ、こらっ!」
 こういうネタでこの彼から、虚を突かれたのはお初の失点。チッと舌打ちをすると、背後の文化住宅に向かって右手でぶんぶんと宙を切り裂くように何がしかの封印をかけてから、サンジも慌てて後を追う。誰にも見とがめられはしなかったが、どこかで犬がけたたましく鳴き出して。その声に追われるかのように二人の姿が月光の中へと溶け入った。冷たく冴えた夜陰の中に、今は何の気配もなくて。どこか遠くで誰かが蹴った、空き缶の転がる音だけが、虚ろに響いただけだった。




   〜Fine〜  02.11.23.〜11.26.


   *精霊さんたちのお話は、怖い思いが付きものなので、
    これで結構、気を遣います。
    だって筆者もオカルトは苦手だし…。
    どんなにタフネスでも、魔力で切り裂かれたならと、
    そういうこともルフィ坊やは心配してるんですけどね。
    破邪様はあくまでも強気でございます。


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