月夜見
   Night-owl 〜Moonlight scenery
 


  雨の少ない砂の大陸は、大気中に含まれる水分の少なさから、陽のある昼と陽のない夜とでは寒暖の差がすこぶる大きい。昼間の陽盛りは傘ひとつ差しかけるだけで随分しのげるし、逆に夜は夏場であっても薄着では風邪を引くほど。乾いた夜気は玻璃
はりのようにツンと冴え、月や星々がその煌めきを燦然と主張する。これが砂漠の只中ならば、砂嵐の来襲でもない限りは耳鳴りがしそうなほどの無音ばかりが満ちた、素っ気ない静寂の世界が広がるのだが、地下水脈に恵まれた王宮の"翡翠の宮"には緑が豊かで。南欧以外の木々まで揃えた庭のそこここ、陸から海へと吹きわたる風に擽られての、梢のざわめく音が静かに届く。

   ――― ………。

 時折吹き寄せる涼やかな風に、金の髪なぶらせて。階上のバルコニー、デッキチェアに腰を落ち着けている人影がある。ただじっと夜空を眺めているだけの彼であり、ひょいと視野に収まっただけなら気がつかないで行きすぎそうなほどに、気配のない佇まいでいたのだが、
「………?」
 きちんと閉められていなかったガラス扉の向こうから、ほんのかすかに匂った香に気がついて、
「…あれ?」
 甲のところが微弱な明かりにもきらきら光って見えるのは、ビーズ細工がほどこされているから。そんなさりげない部分が贅沢な、厚絹張りの室内ばきに収められた小さな足が、お廊下の途中でひたりと止まった。その輪郭をくっきりと見極められるほど、夜空に鮮やかに浮き出した月の出ている随分と夜更け。宮の中、こんな場所にいても不審ではない人物ながら、こんな遅い時間帯に何をしているんだろうかと、そう思ったらもう、体の方が動いていた。
「………? ルフィ?」
 キィと、扉の立てた微かな軋みに、向こうが先に気がついて。石積みのテラス、間近までパタパタと寄って来た王子様へ、肩越しに振り返った隋臣長は、それこそ怪訝そうに小首を傾げて見せた。
「どうしたよ、こんな遅くに。」
「サンジこそ何やってんだ?」
 訊き返しながら…無地のパジャマの裾を、時折そよぐ風にはためかせている姿がちょいと心許なくて。少々自堕落にもずり落ちそうな座り方をしていた姿勢を起こすと、サンジは少しばかり両腕を左右に開いて、自分のお膝を空けて見せる。すると、
「♪」
 そこは慣れたもの。それが"おいで"とか"此処へどうぞ"という意味の仕草だと分かっているから。ルフィは遠慮なく乗り上がり、傍らの肘掛けから取り上げたジャケットを肩に掛けられて、ご満悦なお顔になった。此処は少し寒いからという、自然な配慮。そんな対応をごくごく当たり前に、酸素呼吸のように自然なものとしてこなせる青年であり、そんな彼であることを、こちらも頭から信じていて疑わない、無邪気な王子様。
「ナミさんには内緒な。」
 テーブルに置かれたトレイには、お酒のボトルとミネラルウォーターの入ったピッチャーにグラス。それと、アーモンドやトリュフチョコを並べた銀の皿。そこからチョコを摘まんで、ルフィのお口に運んでくれる。こんな時間に甘いもの、内緒で食べることで共犯者になったような気がして、
「くふふvv」
 いけないことをしてるのに、何故だかちょっぴり嬉しくなって。チョコの形に頬を膨らませたまま、いい匂いがする懐ろにぽそんと潜り込んで。見上げるは色白な横顔。
"………ふや。"
 端正な顔立ちだ。すっきりとした細面
ほそおもてで、だが、月光に照らし出された顔容かんばせにたたえられている静謐さは、決して病的な妖麗さではなく、あくまでも健やかな華麗さを芯にしたそれだ。長身痩躯の撓やかな肢体に備わった、それはそれはエレガントな身ごなし。希代の役者にもこうまで麗しい青年はいまいと謳われるほど、印象的で優しい面差しの中、殊に水色の瞳は"まるで宝石みたいだ"と王子が褒めたことで誰もがまず注視し、成程とその冴えた深色に唸ってしまう。その涼やかな眼差しはというと、日頃は…貴籍の方々にお仕えする者の控えめな気配を帯びているものの、いざ王子に何かしら必要とされるなら、周囲を油断なく見透かす力は銀の剣の如く冴え、シャープな印象を彼に齎もたらした。されど、男臭さの薄い繊細な容貌は、年齢を重ねるほどに、本人の意思とは関係なく…鋭利な威容よりも端麗さを増してゆく。隋臣という立場に身をおいているせいだから、自分よりも優先する御方があっての彼だからか。………それとも。

  "難しいことはよく分からないけどさ。"

 ルフィに対しては、屈託がなくて遠慮もなくて。世間が言うほど楚々としている彼でもなくて。でもね、何でだろう。何か一言、もう一言を言わないでいるような、そんな時がたまにある。口は達者で、容赦もなくて。叱ったり揚げ足を取ったり、王子様を相手に言いたい放題するよになって、もうどのくらいになるだろか。甘やかすばかりでは偏った人間になってしまうからと、辛辣な物言いを敢えてするようになって。だのに。………いや、だから、気がついた。自分のこと、自分の感情、あんまり表に出さない彼だということ。笑ったり怒ったりしない訳ではない。でもね、お仕事が増えていつもいつも傍にいてくれなくなったせいかな。何を思うサンジなのか、昔ほどすぐには判らない時がたまにある。
「…どうした?」
 いつもの彼なら、あすこの星は何座だろうとか、月が欠けてるのはどーだとか、何かしら煩
うるさいくらい話しかけてくるのに。ずっと黙っているルフィを不審に思ったらしく、こっちを覗き込んで来たサンジへ、
「うん…。」
 丁度今、その瞳の奥にあるのだろう彼の感情を思っていたそのタイミングに、間近から本人にひょいっと見つめられたせいで。ちょいと視線を揺らめかせてから、ルフィは…ぽそりと応じた。

  「俺さ、サンジがどっか向いてる横顔とかあんまり見たことないからさ。」

 その場しのぎの言い逃れなんかじゃない。これだって最近気づいたこと。いつもいつもこっちを向いててくれたサンジだったから。こっちが彼の方を向くと必ず視線が合ったほど、いつもいつもこっちを見ていた、ルフィばかりを視野の真ん中に置いていた彼だったから。
『どうしました?』
 必ずそんな顔をして、視線や手を差し伸べてくれた彼だったから。そんな頃は横顔とかあんまり見たことがなかったのに。どっか他所を向いてるお顔、この頃よく見るよなって思った。
「…そうだったか?」
 サンジ本人は気づいてなかったのかな。
「そうだっ。」
 意固地
ムキになって語調を強めると、
「………。」
 ほら。何も言わないんだ。そんなことないとか、ごめんごめんとか、どっちか言ってくれたって良いのにさ。その代わりに小さく苦笑って何にも言わない。でもって、お顔の上に乗っかった優しい気配は、からかって揚げ足取る時の何倍もにもなる。何も言わないサンジなのに、何だか何だか切なくなったりして。形の無いものへむずむずしてしまう。判んなきゃいけないものな気がして、だのに判んないから"むきぃーっ!"てなっちゃう。
"煙草もそうだよな。"
 大人になって吸うようになった煙草。それをどうこう言いたいのではなく、伏し目がちになって唇に咥えた紙巻きへと火を点ける時など、物想う憂いをそこに感じてしまう。何も言わない。あからさまに感情をさらさない。
"そういうのが"大人"なんかな。"
 いい匂いのする大好きな懐ろ。久し振りにもぐり込んだからだろうか、昔よりもっと頼もしく感じて。でもね、こんなに間近になっても、見えないとこ、判らないとこ、やっぱりそのままだった。それを遠くなったと思ってしまって、何だかちょっと寂しくなった。


      ――― あのな、サンジ。

          んん?

      ――― どっこも行くなよ?

          ………あ?

      ――― 良いから。どっこも行くな。

         …ああ。

      ――― ホントにホントだぞ?

          はいはい。













   aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif

 何でだか急に駄々を捏ね始めたそれから、しばらくすると小さな懐ろ猫はくうくうと寝息を立て始めた。柔らかな頬に猫っ毛がかかるのを退けてやっていると、

   「…こんなトコにいたか。」

 あんまり戻って来ないものだから、さすがに心配してだろう。護衛のお兄さんがテラスへと現れた。それは気持ち良さげに眠る坊やの寝顔へ、声なきままに互いに苦笑し、サンジは目配せで相手を招いて、伏せてあった新しいショットグラスを引っ繰り返すと、琥珀色のモルトをそそいで手渡した。
「…お。」
 ストレートであおるにはちょこっと強めの酒であったのに、そこは慣れたもの。クッと一気に飲み干し、嬉しそうに残り香を堪能して見せ、
「いい酒だな。」
 小声でのいいお返事。金髪の隋臣長はくつくつと笑い、
「当たり前だ。ウチの実家のカーヴから持ち込んだ逸品だからな。」
 風流に月見酒なぞ、味わっていたところへ乱入してくれた小さな王子様。

   『どっこも行くなよ?』

 どこか むずがりたそうなお顔になって、急にそんなことを言い出したルフィ。勝手に離れるなとか、そういうことを言いたかった彼なのだろうか。確かに甘えただが、甘える相手には不自由してなかろうに。そうと思ってちらりと見やった、緑髪の護衛官殿は、自分で勝手にグラスを満たしていて、
「おいおい。それって結構キツい酒なんだぞ?」
 明日に響いたらどうするんだと嗜めたが、屈強なSP殿はけろりとしたもの。
「このくらい上品で躾の行き届いた酒なら悪酔いはしない。」
 もっと得体の知れないアルコールでさんざん鍛えられてるからなと、それってどういう意味なんだと問いただしたくなるような…それこそ得体の知れない言いようをし、さっきの3倍はあろうストレートをぐいっと飲み干して満足そうな吐息をついた。そういえば、この男、この王宮に招かれるまでは傭兵部隊にいたという。各国の戦地を点々としていたのだろうから、郷に入っては郷にしたがえで、得体の知れないものにも当たり前に接して来た彼でもあろう。
"そうなんだよな。"
 彼は決して都会のスナイパーではない。シーナイフ1本でヒグマ並みの兵士と戦うこともあれば、突入の合図があるまで泥水を啜りながら何日も待機することだってある、修羅場の戦闘員だった男だ。至便な都会におけるスタイリッシュなスマートさで鎧った男ではなく、実戦で身につけた叩き上げの合理主義によって、こうまで強かに体も精神も絞られた、言わば"野生の狼"だ。
「じゃあ、こいつは引き取るわ。」
「あ、ああ。」
 愛する王子様が彼に惹かれたのは単純な物珍しさからでは無さそうだったが、それでも…この鮮烈なまでの力強さ、こののほほんとした王国や王宮では、まずは巡り会う筈のない代物だろう。ひょいっと抱き上げたその拍子、
「…っ。」
 頼もしい腕の外にこぼれかかってた首が…がくんと一瞬大きく揺れたほど。ややもすると乱暴に抱え上げても、目を覚まさないルフィなのは、それだけの信頼だとか親しみだとか、何もかもを彼にすっかり委ね切っているからだろうか。
「じゃあな。」
「ああ、おやすみ。」
 軽い会釈を交わし合って、大きな背中を見送った。あんなに間近にいても、もう随分と遠くなったのかも知れない坊やとの距離。それが寂しいと彼の側からも思われていることが、ほろ苦くも嬉しかった気持ちの揺れに気がついて、

  "まだまだだよな、うん。"

 こんなことくらいで。ほんのひとそよぎの微風であっさり動く心の、なんと呆気なくも頼りないことかと。苦笑しもってグラスを捧げ、月に向かって乾杯の会釈。まだまだお若い随臣長殿。老成するにはまだ早いと、天穹に浮かんだ物言わぬ月も苦笑しているようだった。



  〜Fine〜  03.7.10.〜7.12.


  *タイトルの"night-owl"というのは、宵っ張りという意味だそうです。
   本誌にてサンジさんが半年ぶりに復活なされたとのことで、
   ついつい書いてしまいましたvv
   ああでも、この種の男前は、なかなか描写が難しいです。


back.gif