月夜見
 puppy's tail 〜その15
 

  陽なたぼっこ



 雨の日はあんまり好きじゃない。湿気で毛並みが重くなるし、表に行けないし憂鬱だし。父ちゃんが大怪我をした日とか、思い出したくないことは何でだか雨の日のことばっかだし。あ、でも。ゾロと初めて×××したのも雨の日だったかな?//////// でもでも、あの時はサ。直前まで ちょこっと辛かったの、ホントはネ。だからやっぱり、こんな日は"ふしゅん"ってなっちゃう。リビングのふかふかソファーの上に載っかったまま、小さくうずくまって、伸ばした前足に顎をてれんと載せて。大きな窓いっぱいに広がってる風景を…萌え始めたばかりで まだちょこっとくすんでる木々や下生えの緑が、こぬか雨にしっとりと濡れてるのを、何ということもなく上目遣いでぼんやりと眺めやる。そんなところへ、
「ルフィ坊っちゃま?」
 お昼寝の時間だからって、海
カイくんをお隣りのもう少し暖かいお部屋のベビーベッドに寝かしつけてから戻って来たツタさんが、きゅうんと力なくしょげている こちらに気づいて声を掛けて来た。
「どうなさいました? あ、お散歩に出られるおつもりでしたね?」
 はい そうですと、相変わらずにお顔は伏せがちにしたまま、黒々と潤んだ眸だけをキョロと動かしてのお返事。そう、今はシェルティの"るう"の姿をしている奥方であり、いかにも…家人に愛情を降りそそがれて目一杯可愛がられてますという待遇を偲ばせる、手入れのいい ふさふさの柔らかで長い毛並みも愛らしく、ちょこっと拗ねておりますというポーズを見せている。すねすね・ふてふてという態度だのに、まだまだ仔犬という年の頃なのが、その姿を視野に入れただけな人の気持ちまでもを和ませて。
「今日は一日降るみたいですよ。」
 働き惜しみをしない人、パタパタとスリッパを鳴らしてすぐ傍らまで来てくれたツタさんだったので。とほほんと落としてた頭を上げて見せると、優しいお手々で毛並みを梳くみたいにして撫でてくれるの。ツタさんのお手々って不思議なんだよ? お母さんの温度っていうのかな、ほわほわって暖かくって、元気出してって言ってるみたいに力強くもあって。しゅんとしてたのが少しだけ薄まって、でもネ。もっともっとって せがみたくなって、こっちからもお手々に"すりすり"ってしたくなっちゃって。なんか いつもより甘えたさんになっちゃうの。少し長いお鼻をふにふにって押し当ててたら、
「そうですね。この雨が上がったら暖かくなるそうですから、そうしたら春も一段と近くなりますよ?」
 わしわしって毛並みを撫でてくれつつ、優しいお言葉を下さったので。きゅ〜んんという鼻声を立てながら、小さなシェルティくん、大好きな"お母さん"に甘えたおしたのであった。






            ◇



 都心からちょいと離れた郊外の、緑豊かな別荘地。近間に温泉もある由緒正しき歴史を背負った旧保養地なせいか、都会からの観光客も滅多なことでは入り込むことがなく。社会の表舞台という一線から引退なさって、あくせくすることも緊張することもなく心穏やかに過ごしたいという年代の住民が多いせいだろうか、それはそれは静かで和やかな土地であり。そんな町には珍しいほど、幼いまでの年若い住人たちが唯一住まわっているのが、一番の奥向きに建つ洋式山荘風の瀟洒なお屋敷だ。主人はロロノア=ゾロという、まだ二十代そこそこだろう若者で。作家だった父の遺産としてこの屋敷を受け継いだという話だが、そんなお父様にはあまり似てない雄々しい青年で。てきぱきと体の動く、実は元・剣道の全日本チャンピオンだったという武道家さんであり。屈強精悍な体つきの頼もしさ、年齢に似合わない静謐さと落ち着き、そして…その存在感の厚みといった要素の数々は得も言われないほどのレベルで物凄く。空き別荘を狙って町に入り込んだ泥棒を、気合いの籠もった一喝だけでビビらせて素っ転ばしたという武勇伝の実証つきにて、ご町内の皆様にもその名が知れ渡っているのだとか。そんな彼と一緒に住まわっているのが、父上が生前に養子として引き取ったルフィという義理の弟。屈託のない笑顔も目映い、十代半ばくらいの元気溌剌少年であり。柔らかな髪に大きな瞳、ふかふかの頬をした小柄な坊やは、ご近所でもアイドル扱いされている可愛らしい子。そして…ここからがご町内の皆様には秘密の大事なお話。実はこのルフィくん。見かけ通りのごくごく普通の坊やではなく、生身の体を持っているのに"精霊の末裔"という不思議な存在なのだという。自分の意志でその姿を変化
へんげさせることが出来、もう一つのお顔が…冒頭にて雨催いのお外を憂鬱そうに眺めていたシェルティくん。ふかふかの絹糸や真綿みたいな毛並みをした、愛らしいシェットランド・シープドッグの仔犬へとメタモルフォーゼ出来るというから驚きで。人の眸を避けて永らえて来た不思議な種族の末裔である彼は、その愛らしくも健気なところからゾロさんの心を鷲掴みにしてしまい、何と二人の愛の結晶である坊やまで授かったというから…これ以上の詳細は、前作までをお読み下さいませという、ずぼらをごめんあそばせですが。おいおい 色々と困難も多かろう筈が、ツタさんやゾロのお友達のナミさん、サンジさんという頼もしい理解者にも恵まれ、何よりもお互いへの惜しみない愛情と慈愛が尽きないことに支えられて。時々は甘えや我儘なんかも飛び出しつつも、それはそれは幸せに暮らしている、一風変わった…されど幸せ一杯のお若い家族なのである。






            ◇



 静かな静かな朝の訪れが優しい刺激を伝えて来てか、ふにふにとシーツへ頬を擦りつけながらも薄目を開ける。まだまだ朝晩は冷え込むからと、窓に降りているのは冬用のカーテンなのだが、それでも随分と夜明けが早くなったお外の明るさは分厚いカーテンをも透かしており、
"ふにゃ…?"
 真四角な窓の明るみを、とろんと開いた琥珀色の瞳でぼ〜〜〜っと眺めていたものが、
「………あ。」
 その明るさが何を示すものなのか。ようやっと気がついた小さな奥方。ふかふかの毛布から もぞもぞと身を乗り出し、
「あっ。」
 目測を誤ってベッドの縁から滑り落ちかけて、あやや…とシーツにしがみつく。
"うう、セーフ。"
 あとちょこっとで、この恰好でいる時はそんなに高くないお鼻の先が絨毯を敷いた床へごっつんこするところだったのを何とか免れて。
"お鼻が低いは余計だよ〜だ。"
 かわいい"あっかんべ"を筆者に向けつつ、大きめのパジャマ姿にて ぱたとたと四ツ這いで駆け寄った窓の傍ら。朝の空気のまだひんやりと感じる温度にそのお鼻の先をくすぐられつつも、小さな手の先でカーテンの裾を掻き分ければ。不意に拓
ひらけた光を受けて手の甲がじんわりと温まる。

  「晴れたっ!」

 這った姿勢のまま、まるで舞台の緞帳の裾から客席を覗いていたみたいな恰好だったのが、小さなお尻をとんと床に落として座り込み、腕を頭上へ目一杯に伸ばして大きなカーテンを左右に切り開く。途端に室内へとなだれ込むのは、目映いばかりの朝の光。その冴えがいかにも清
さやかに透き通っていて、そのくせたっぷりと生気や躍動を孕んだ、ワクワクするよな朝一番の光を浴びて、小柄な坊やが"うひょ〜〜〜いvv"とはしゃぎ始める。まとまりの悪い、けれどさらさらとした艶のいい黒い髪を光らせて、さっきまでいたベッドへと肩越しに振り向くと、
「ゾロ、起きなよっ! 晴れたぞ、出掛けるぞっ!」
 それはお元気な声を上げながら"うんせ"と立ち上がり、ふかふかなベッドと、まだそこに寝ていた旦那様の懐ろへのダイビングを敢行したのであった。

  「どあっ! こらっ、ルフィ〜〜〜っ!」
  「起きて起きて、早く起きてvv


  ――― よい子は絶対に真似しちゃダメだよ?
おいおい






 さすがに"お母さん"になったという自覚が出てなのか、それとも寒い朝はついつい遅くに起き出す"お寝坊さん"になっていたからか。このところは やらなくなっていたこのダイビング。小さなシェルティの時ならいざ知らず、小柄だとはいえ一応は中学生くらいの体格をしている肢体が"ど〜ん"と予測もない身へ飛び込んでくるのは、かっちり鍛えてあってもびっくりすること。お陰様で一気に目が覚めたご亭主は、
『一体どういう騒ぎなのかな?』
 ちょっとそこへお座りなさいという口調にて…とっくに腕の中へと抱きすくめて逃がさない状態にしている奥方の稚
いとけないお顔を懐ろに見下ろして訊いたところが。
『だってさ、晴れたらお花見って約束してたじゃんか。』
『…はい?』
 こちらを見上げることで前髪が左右へとすべってしまい、丸ぁるいおでこが全開になると、普段からも十分に幼い童顔がますます愛らしくなる。琥珀色の潤みをたたえた大きな眸に、悪戯な光をワクワクと弾けさせている小さな少年。ふかふかと柔らかそうな頬に小鼻に、ぷっくりとした肉付きがやはり柔らかそうな唇と。大きめのパジャマに小さな顎まで埋まりそうになっている、何とも愛らしいお顔へ ついのこととて見とれてしまったご亭主の胸板を"ん〜ん〜"と揺さぶって、
『昨夜、雨が続いててヤダなって言ったらサ、じゃあ雨が上がったら皆で出掛けようかって。もう桜だって咲いてるかもしれないから、お花見と行こうじゃないかって。』
 ゾロが言ってたんだぞと、そんな風に言い立てる奥方であり、
『あ、そだ。ツタさんにお弁当作ってもらわなきゃ。カイだってきっと喜ぶよvv
 言ってる自分が一番嬉しそうにはしゃいで、ベッドからぴょいと飛び降りると寝室から飛び出して行った奥方で。そんなお元気な後ろ姿を、
『…あ、と。』
 どこか呆然としたままに見送った、いかにも反応の遅いご亭主だということは。さ・て・は、
"しまったなぁ。"
 やっぱり。忘れてたんですね?
"結構 息の長そうな雨脚だったから、今週いっぱいは降るかもなと思ってたんだが。"
 これは計算外だったなと、カーテンを開いた大窓から差し込んで来ていた久々の明るい陽射しへ苦笑したゾロである。そんな彼らの可愛らしい"約束"をちゃんと聞いていたお母さんのツタさんは、おむすびやのり巻きにふかふかの玉子焼き、鷄の空揚げにポークジンジャー、蒸しエビにロースハムのピカタに スパサラダなどなどがいっぱい詰まった、美味しいお弁当をしっかり作ってくれており、一緒に出掛けるカイくんの、離乳食やミルクは勿論のこと、おむつやタオルに、湯冷まし用のポットや小さめのブランケットといったグッズを詰めた"お出掛けバッグ"の準備も万端。早く行こう、すぐにも出ようとせがむ奥方だったものの、それでもね。雨が上がったばかりのお外はひんやりしているからと、ツタさんが宥めてお昼直前まで待ってから、
『よ〜し、それじゃあ出発だっ。』
 一応の防寒対策、ふかふかの毛布を敷いたカートに暖かなお洋服を着せた坊やを乗っけて、それを押す先頭はルフィ。後に続く旦那様にはお弁当や水筒、レジャーシートなどを詰めた大きなドラムバッグをかついでもらい、カイくん用のセットを半分ほど、カートに乗せ切れなかった分をキルティングもかわいいカバンに提げてツタさんが続いて。ロロノアさんチのご一行は、一足早いお花見にという"お出掛け"に出発したのである。
「気持ちいいねぇ、カイくんvv
 まだ少し厚手のフリースのジャケットにワークパンツという恰好のルフィがはしゃぐように話しかけると、
「あーう、まんま、るうvv
 何がどう通じ合っているのやら、カイくんが御機嫌そうなお声を返す。9カ月目に突入し、もう首も腰も据わって久しいカイくんなので、カートも"ネンネVer."から"お座りVer."へと移行していて。赤ちゃん用のマント風フードつきコートを着た小さな坊やが、やっぱり小さな腕やお手々を動かす様子がすぐの間近に見えるルフィママ。
"ううう、なんてかーいんだろうvv"
 やっぱ俺とゾロの子だもん、可愛くない訳がないじゃんかと。もうもう、ウチのカイってばアイドル並み? なんて、親ばかなことを思っては目許を緩ませている模様。鼻歌混じりに歩き続ける奥方を、こちらもすぐ後方から見やっていたご亭主だったが、
"………。"
 こちらさんは…ちょいとばかり様子が違っていて、

  "ホントに大丈夫なのかねぇ。"

 危ぶむような胸中になっていらっさる。日頃から奥方の持ち出す我儘を結構何でも聞いてやるゾロが、今日に限って諦め悪く渋っていたのは、出掛けるのが鬱陶しいからでもダイビングをかまされたことを恨んででもなくて。
(笑) これほどまでテンションを上げてはしゃいでいるのに…もしも咲いてる桜が見つからなかったら、ルフィがどれほどがっかりするだろうかと思ってのこと。彼の鼻が利くのはよくよく知っているけれど、ここいらは少しばかり標高があるため、都心よりも季節が遅い。それに、昨日までの冷たい雨といい、せっかく少しだけほころびていた蕾さえ縮こまるほどだと天気予報でも言っていたほどに、関東地方は強烈な寒の戻りに襲われてもいて、いくら今日は晴れたと言っても、じゃあお待たせとばかり、いきなり咲き乱れるものではなかろうに。そういう、理屈というのか順番というのか、あまり後先考えないのもルフィのらしさではあるのだが、こんなにも喜んでいるものが…期待外れから挫かれて一気にしょげてしまうのは、見ているこちらまでが辛くなること。

  "まあ…ダメだったらダメで、頑張って慰めてやるけどな。"

 あ、ゾロさんたら悲観的。ハーフコートに包まれた大きな肩から提げていた、ルフィとカイくんが丸ごと入っても大丈夫そうなドラムバッグをひょいと揺すり上げ、先程よりかはしゃんとした大きな背中へ、
"お優しいことvv"
 一体何をどう思い直した彼なのかをしっかと読んだらしき殿
しんがりのツタさんが、声を出さないように"くすす"と微笑ったのはここだけの秘密である。

  「♪♪♪」

 別荘地のメインストリートを真っ直ぐ進みながら、道に沿う両側の家々の庭先に放されてたお友達のワンコたちとも軽快にご挨拶を交わしていたルフィは、まだほのかにつるんと冷たさの残る風を嗅ぐように、お鼻を上げて"くん…"として見せ、
「こっちだよ。」
 カートの方向をひょいっと変えると、少しばかり荒れた未舗装の小道へと入って行く。古いものながらもアスファルトが敷いてあったメインストリートと違い、カートへの衝撃も結構あろうにとゾロが危ぶんだが、そこはさすがにお母さんで、
「さ、カイ。ママが抱っこするからねvv
 座席へ回って腕の中へと軽々と抱えてしまい、一方の手でカートを押して運ぼうとするものだから。
「ルフィ。」
 バーを後ろから横取りしたお父さんが、任せなさいと手短に意思表示。伊達に力持ちさんではないゾロで、座席部分にツタさんが提げていらしたバッグまで引き取り、そんなに乱暴に路面を引き摺ることもなく、楽々と進ませるからおサスガである。じゃあお願いねと会釈して、
「ほら、カイ。パパってば凄いねぇ。」
 お尻のところを肘で曲げた前腕へと乗っけた、所謂"子供抱き"にしたカイくんに、頑張るパパさんを褒めながら見てもらう。
「ぱーぱ。つごい、んね。」
 半分くらいは口まねだろうが、それでもね。愛らしいお声で褒められては…ついついお顔も緩みかかるお若いパパさんで。いかにも"ルフィのミニチュア"然とした小さな坊やに まじっと見つめられ、これくらい軽い軽いと笑い返した。………愛想を振り撒くゾロさんという珍しいものが見られるのも、このシリーズくらいのもんである。
こらこら




 さて。そんなご一行がとことこと進んだのは、満ちなき道を数百メートル。ぽかりと開けた小さめの原っぱだ。どこかの誰かさんの私有地という場所ではないらしかったが、冬枯れの雑木林の成れの果てという感じの物寂しい空間であり。お花見にと運んだ場所には到底思えず、ああこれはやはり…とゾロが内心で覚悟を決めた。去年にでもこの場所からどこかの桜が見えて、それを覚えていたルフィだったのだろうけれど。さすがにまだその桜は咲いてはいなかったということか。見回すと南側の一角にだけ木々がなくて視界が開けており、そこから土手か斜面へと切り立ってでもいるのだろう。その向こうには、少し離れたゆるやかな丘陵が見渡せる。何かしらの木立も見えるからあれが桜なのかなと、納得しかかったゾロだったのだが、

  「…ルフィ?」

 カイくんを抱っこしたままに、ルフィはその南の方へと歩みを進める。枯れ葉が多少降り積もった足元は、このところ雨続きだった割には…天井が広く開いてるせいでか乾いており、簡単に滑って危ないという恐れも無さそうだったが、両手が塞がっている彼だからと気を遣い、カートから手を離してその後を追う。
「どうした?」
「うん。こっちなの。」
 声をかけられても振り向かないまま、てことこという歩みを進めるルフィであり、縁まであと数歩もないぞというギリギリのところまで進んで…。

  「ほら。」

 小さな顎をしゃくるようにして示した先。ちょうど彼の足元から真下へ下る急な斜面の真ん中に。

  「………あ。」

 思わぬところに思わぬものを見たら。人は、それが何であれ、まずは視線を奪われる。雨が染みて黒っぽくなった土ばかりな筈の、無愛想な土手の下方から。淡く緋色を滲ませた、たわわに茂った白い花々が うんと沢山、こちらを一斉に見上げていて。花の密度も大したもので、重なり合う梢たちの奥行きの深さは、うっかり気を抜くと吸い込まれそうになるほど、圧巻で見事な咲き誇りよう。誰の目にも留まらぬようにとこっそり咲いて自慢げだったのが"あらあら見つかっちゃったか"と照れて頬を染めているようだ。
「結構大きな樹でしょう?」
 思いがけないところに咲いていた桜へと、それは分かりやすくも驚いているゾロに。ルフィはクスクス笑って見せて、
「実は、サカキが教えてくれたんだ。」
 ここいらの野良犬たちのリーダー格にして、ルフィとも気さくに話し相手になってくれてる、白い毛並みの紀州犬。ちょこっとややこしい場所なんだけど、だからこそ誰も知らないかもしれない桜がある。南向きの斜面に植わってる山桜で、ただでさえ咲くのが早い品種でしかも場所も陽当たりがいいものだから、所謂"シーズン"にはとっくに散って緑の葉っぱが揃ってるほどなんだけれど。桜なんだからやっぱりな、花を愛でてもほしかろうによって言ってたの。
「確かに眺めるのにはちょこっと向いてない樹だけどね。サカキからお話を聞いた時にね、綺麗に咲いてるって事、ちゃんと気づいたよって言って上げたいなって思ったの。」
 落っことさないようにと気をつけながら、カイくんにも"ほ〜ら、綺麗だねぇ"と見事なお花を見せてやる小さな奥方のそんな言いようへ、

  "…ルフィ。"

 別なことをその胸中に思い出していた旦那様。ルフィもまた、あまりその素性を広く知られてはいけない身の上だ。他の誰でもない"自分"が此処に居るということを、主張し叫ぶことが出来ない身の、何と切ないことだろうか。こんなにも小さな幼い身でありながら、ルフィはそんな自分だということを、だが日頃は欠片ほども匂わせずにいる。まだ子供だからではなくて、もう既に"耐えるしかない"ことだと知っているからだ。諦めて投げたのではなく、大切な人を大切にしたいから。大事な人やそんな人たちと過ごす幸せの方を大切にしたいから。分別つけた諦めじゃなくて、もっと大事なことを沢山掴みたいからと、他へ懸命になっているルフィなのであり、そんな彼を大事にしたいなら…ともに過ごす日々をよくよく味わい、彼がそうしている以上に大切にしなくてはいけない。

  「…ゾロ?」

 不意に黙り込み、真摯な面差しになって自分を見やるゾロに気づいて。ひょこりと小首を傾げた愛らしい奥方。そんな呼びかけに、弾かれたように我に返って、
「さあて、じゃあ此処で一足早い"花見"と行こうか。」
 シートを敷かなきゃなと、荷物を残したカートのところまですたすたと戻って行く広い背中。ホントは結構 我が強い彼なのだろうに、どんな我儘や無茶だって、頑張って…我慢もして、ちゃんと聞いてくれる、叶えてくれる優しい人。ルフィだって実を言えば、まだ桜には時期は早いって事くらい知っていた。ここいらでもやっと梅や沈丁花が咲き始めたばっかだのにね。ホントにもう咲いているのかっていう自信がなかったものだから、特別な桜があるなんて説明もなしにいたのに、不平もこぼさぬまま付いて来てくれた人。

  「ホント、やさしいパパだよねぇvv

 こんなにも幸せでいいのかななんて、日頃は随分と甘えたな彼がそんな殊勝なことを感じてしまうほど。桜の美しさってのは、人の心を片っ端から素直にしちゃう、不思議で素敵な魔法の力も持ってるみたいだねと。小さな坊やに囁きかけつつ、パパが広いシート相手に悪戦苦闘している傍らまで、とことこ戻った奥方だった。そんな小さな背中へさわさわと、鈴なりの桜たちが風に揺れながら微妙笑いかけていた、春先の昼下がりでございます。




   〜Fine〜  04.3.25.〜3.28.


   *カウンター128,000hit リクエスト
      ひゃっくり様『みんなでお出掛けvv


   *冒頭の雨のシーンを書きながら、
    どこぞのシェルティくんは雨が好きだったななんて、
    脇道に逸れたことを考えてしまいました。
こらこら
    夏からこっち、なんか変なままの秋や冬が続いた余波でしょうか。
    春もなかなかに曲者
くせものみたいですが、
    いくら何でもそろそろ暖かくなってほしいもんです。


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