月夜見

     桜花爛漫

          〜蒼夏の螺旋・幕間


   『花天月地』
     頭上には桜が咲き乱れ、
     地は月光があますところなく照らしている、
     美しい春の宵の様子のこと。



 うっかり買い忘れていたものがあって、近所の雑貨屋まで出掛けた。にぎやかな都心や繁華街なら、まだまだ街路が人で埋まっているような時間だが、少しばかり郊外の住宅地では、人通りもほとんどない春の早い宵。この時間帯はアルバイトの途切れる頃合いなのか、顔なじみの店主夫人が自らレジに立っていて、他愛のない話をした後"これはオマケだよ"と試供品だろう"のど飴"を幾つもくれた。
"………。"
 人気のない街頭へ戻ると、不意に辺りの静けさが際立って。どこやらの窓からかすかに聞こえていた流行
はやりの歌が、だが、すぐに途切れた。年頃の娘か息子か、親からうるさいぞと叱られたか、それとも春寒の夜気に負けて、開けていた窓を閉めてしまったか。


   さわ……………。


 風が渡って梢がそよぎ、つい小さな咳をする。石畳の上を、仄かに埃を撒き上げて吹きすぎた風は、だが、冬の間の刺すようだった代物に比べれば格段にやさしい。どこかに咲いている花の香りを乗せた夜風は、夜陰の中に甘く華やかなアクセントをつけて、いずこかへと立ち去った。見通しのいい広々とした街路沿いに続くのは、それぞれに個性豊かな家々とその前庭。きれいに手入れをされている芝生が広々と敷かれた家があるかと思えば、いやに茂らせた生け垣で取り囲まれていて、家がまるきり見えない不精な家もある。子供なら登って遊べそうなほど、結構育った樹木を街路寄りに植えている家も珍しくはなく、夏場は木陰が格好の休憩所になっている。毎日のように散歩や買い物にと通っている道筋なので、今更いちいち鑑賞するでもなく。先程の少しばかり強かった風に軽く掻き乱された前髪を指先で梳き上げて、のんびりとした歩調で帰路についていた彼は、ふと、
"………?"
 何かしら、気配を感じたような気がして顔を上げて、


   ……………。


 息を呑んで立ち止まる。それもまた個人が植えたものだろう、数本だけが連なる木々で。特にライトアップなどがなされていた訳でもないのに、しんとした月夜の中、あでやかなまでに浮かんで見えて。全ての枝の隅々にまで、たわわに隙なくまといつけた薄緋色の花の群れがあまりにも美しかった。その数の多さのせいだろうか、花々の練絹のような濃密な白が、幾重にも幾重にも重なって途轍もない奥行きが生じ、視線がぐいぐいと吸い寄せられて眸が離せない。月光に映えて照り輝く、緋色がかった白の花闇は、正に圧巻としか言いようがない。
「………。」
 今宵いきなり咲いていた筈はない。だのに、どうして今の今まで気がつかないでいたのだろうか。そんなことを自問自答したくなるほどのインパクトがあった、それは見事な桜たち。
"咲き揃ったばかりってとこかな。"
 先程の風といい、ここ数日結構強い春の風が吹いているのに、梢にはまるきり隙間が見えないし、辺りに花びらがさほど落ちてはいない。何日かはしっかと咲いていて、だが、時期が過ぎれば、ほんのそよぎにも はらはらとほろほろとこぼれ落ち、風が吹こうものならば、それは凄艶なまでに吹雪くように舞い散る、どこか潔い、思いきりのいい花。それがこの桜だ。


  『こんなもんじゃないさ。』


 ふと。脳裏に声がした。


  『見渡す限り、辺り一面が桜ばかり。そりゃあ凄い眺めなんだぜ?』


 伸びやかでボーイソプラノの名残りも濃い、あの懐かしい少年の声だ。そりゃまた凄いな、日本では桜は畑で栽培してるのかと、知っていながら揶揄
からかえば、違うってばと"ぷうっ"とむくれて見せた黒髪の少年。今はもう傍にはいない、それはそれは愛惜しかった、無邪気な少年。
"………。"
 7年間というのは、自分の"これまで"の中ではそれほど長い時間ではない。時間の流れが特に速かった訳ではなくて、1日は同じ1日、1年は同じ1年。だが、まるでエンドレスのBGMを繰り返し聞くように、四季の流れは何度も何度も元へと戻って。数えるのを既
とうにやめたほどの長い長い歳月の中、それはもう色々なことがあった筈なのに、生命を脅かされたほどの、尋常ではないあれやこれやも沢山あった筈なのに。その大半は記憶の底に埋没して追うことも出来ない。だというのに。あの少年と一緒に過ごしたたったの7年間だけは、いつまでもいつまでも温かでやさしい思い出として色褪せることなく。何かの拍子に鮮やかに蘇っては、どこか切ないため息を誘ってやまないのだ。
"我ながら女々しいかな。"
 今は遠い彼の故国の空の下、幸せ一杯に毎日を過ごしている筈だ。大好きな従兄弟殿の手元で、座敷犬のように可愛がられている彼だと、重々判っているのだが。何故に自分ではダメなのだろうかと、いまだに性懲りもなく考え込んでしまうこともある。あれほど懐いてくれていたのに。対峙の場にあっては、あの青年よりも自分の側に立っていて、必死に庇おうと立ち塞がってくれもしたのに。
"まあ、あれはそういう状況だったから…。"
 そうと判っていても甘い苦笑が浮かんでしまう。屈託のない笑顔と伸びやかな声。元気で活発な行動と、愛らしい寝顔。溌剌としたところばかりを見せていた、無邪気な彼だったが、
"………。"
 時々、胸に溜めていたものを吐き出すように、こっそり泣いていたことを実は知っている。溺れた時の夢を見て魘
うなされて、もう帰れない身の切なさに息を詰め、自分の目が届かないところで、こっそりと泣いていた少年。あれはどこの街だったか、川沿いに植えられた桜の並木が見事な満開を迎えていて、それを見て一瞬、呼吸が出来なくなったかのような苦しげな顔をしたものの、
『日本の桜はこんなもんじゃないさ。そこいらの空中の上から下まで埋めちゃうほど、見渡す限り、辺り一面が桜ばかり。そりゃあ凄い眺めなんだぜ?』
 明るくそんなことを言って、嬉しそうに花の下を駆け出した彼だった。


  「………っ!」


 またぞろ、一際強い風が吹きすぎて、青年の金の髪をザッと撥ね上げ、桜の梢をざわざわと揺らした。今のはさすがに強い風だったからか、風が収まった後の夜陰の中、夜目にも白い花弁が幾つか、はらりはらりと歩道の上へ舞い落ちて。


  『咲いてるところも凄い綺麗だけどさ、散る時の方が凄いんだぜ?』


 花吹雪っていうのは桜のためにある言葉だって思えちゃうくらい、もうもう大吹雪。風がなくたってはらはらと、風があれば前が見えないくらい止めどなく散って降って、そりゃあ凄いんだからな…と、両手を広げての身振り手振りで説明してくれた彼だった。
"………。"
 いつもどこかお道化
どけるように明るく振る舞っていたのは、今にして思えばサンジを徒に心配させないためだったのかも。甘えたり膨れたり、それは屈託なく振る舞いながら、そのくせ涙だけは…頑として我慢してか、滅多に見せなかった少年。自分の前でだけは泣こうとしなかった彼だったのは、ただでさえ何かしら負い目を感じているようだったサンジに、心配させたくはなかった…これ以上の負担を負わせたくなかったからだろう。健気で一途で、さりげなくやさしい子。拙いどころか見事なほど徹底させた思いやりのある、よく出来た子だった。
"ルフィ…。"
 先日、新しい写真をメールで送ってくれたばかりだ。幸せそうな笑顔だった。特別な専用回線を使えば、モニター画面のすぐ向こうにいるかのような、クリアでなめらかなリアルタイムの動画映像だって交わせる。何かしらの禁忌があるわけでなし、会おうと思えば…飛行機でひとっ飛びすればその日の内にも会えるご時勢。そんな時代だと一番に理解していればこその業種に従事しているサンジだというのに、やはり…今の今、この傍らにはいないのだという距離感が、何とも切なくやるせない。
"………。"
 この感情は、親代わりの身だったから感じる"やるせなさ"なのだろうか。だとするならば、
"娘が生まれたらコトだな、こりゃ。"
 苦笑しかかって、その顔が"おや"と前方への何かへ注意を留めるような表情を浮かべた。それから…ゆるやかにほどけて、

「すみません。待ちくたびれましたか?」

 ゆっくりと歩み出す彼よりも先に、向こうから樹下へと辿り着いたのは、サンジの最愛の妻である、マダム=ナミだ。
「ううん。そういうんじゃないの。私も春の夜を堪能したかっただけよ。」
 ふふっと柔らかく微笑い、ナミは先程まで夫がそうしていたように、傍らの桜の梢を見上げた。頭上の白い花たちに負けないほど真白な横顔が、夜陰の中に凛と浮かび上がって何とも言えず美しい。そんな彼女に見とれていると、
「ルフィくんのこと、思い出してたんでしょ?」
 不意にそんな鋭いことを訊く彼女である。サンジはすかさず"にっこり"と笑って、
「吹雪の中で初めて出会ったナミさんのことを思い出してたんですよ。」
 すらすらと応じて見せたが、白々しいことを、と、夫人は仄かに苦笑する。まだ時期が早くてさほど散ってもいない桜から、すぐさま"吹雪"を連想する人は少なかろう。
"…まったく。"
 この通りに入ってすぐ、彼がこの見事な花を見上げているのが視野に入った。ひょろりとした長身痩躯。夜陰に冴え冴えと映える白い顔と蜜をくぐったような金の髪。見間違える筈のない、うら若くて優しい自慢の夫の姿。日頃、片時も傍らから離れずにいてくれる彼が、お使いに出たまま、なかなか戻らないのはあまりに不自然で。何だか心配になって出て来てみれば、さして距離も残さないほどの近場で突っ立っている彼が見つかった。何をぼんやりとこんな夜中の街路で立ち尽くしているのかが、最初は解
せなくて。それでも…少しずつ近づくにつれ、その顔に、ああまただと気がついた。不老不死の存在としての最後の7年を共に過ごした、あの少年のことを考えている彼だなと。
"………。"
 こちらは途方もない歳月を彼だけ追って過ごした身だ。どんなに誤魔化したってすぐに判る。急に手ごわくなり、だが、屈託のない笑顔の増えた、生き返ったような顔になったサンジ。その傍らにいた幼い笑顔に、ナミは感謝し、時に…嫉妬もしたのをやはり思い出す。長い長い"鬼ごっこ"に大きな転機を与えてくれた少年。そんな彼を思い出す時、サンジの前にはナミでさえ存在しなくなることもあるほど。
"…もう。"
 あの顔をしている彼だなと判って、それが何だかひどくいじらしいなと思った。とてもやさしい彼だから、何よりも一番にあの子の幸せを考えてしまう。大好きな子だったからこそ、その彼が一番好きだと言っていた、あのたいそう無骨そうだった青年との幸せを優先してやらねばと構えてしまう。自分の宝物として手元に置いて愛でようとは…一度も思ったことがなかった訳でもないらしいが、それでは彼が寂しかろう。彼が寂しい想いをするのなら、自分にとってもそれは"幸せ"ではないから。寂しいという部分は自分が引き受ければいいのだと、彼にはほこほこと温かい幸せを満喫してもらわねばと、あの少年に関してはそういう考え方をする彼だと判ってもう随分になる。
"でも、あんまり思い詰めると、掻っ攫いにでも行きかねないわね。"
 それもまた…あり得ないとは言い切れず、
"そんなことにでもなったら………面白いかも。"
 おいおい。まったくもって困った奥方である。
「? どうしました?」
「ん〜ん、何でもないわ。それより。一体何を買いに行ったの?」
「あ、えっとですね。」
 さりげなく肩を抱き、少しでも温かいようにと身を寄せあって、二人で築いた温かな我が家へと向かう二人だ。頭上には柔らかな月。だがもう二人には視野にさえ入らない存在。静かな静かな春の宵が立ち込めて、誰もいない静寂の中、街路は再び…どこか人待ち顔な、誰かに誰にでも懐かしい佇まいをこっそりとさらすのであった。



   さて、ここで問題です。
   今回のこのお話。
   これまでの"番外編"ではなく"幕間"であるのは
   今後の何を意味しているのでしょうか?
こらこら



  〜Fine〜  02.3.25.


  *何となくブームの"蒼夏の螺旋"のサンジさんのお話です。
   ウチは一応"ゾロル&オールキャラ"サイトですから、
   時にはこういうお話も飛び出したりします♪
   しかし…このシリーズのサンジさん、
   お子が生まれても尚、ルフィのこと未練に思うんだろうかしらね。
   それとこれとは別物なのかしら?

  *それはさておき。
   このお話は、いつもお世話になっております、ちかさんへ。
   二日がかりで、メルまで送って、
   無理矢理リクをねだって申し訳ありませんでした。
   これこそ究極の"襲い受け"…ってちょっと違うぞ。(全然違うぞ/笑)
   また何か理由をつけてねだるやも知れません。
   皆さんもご用心のほどを。(変なサイトだ/笑)


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