2
小さな中庭は錦木のやわらかそうな葉もなかなかしっとりとした趣きで、今は寒椿の茂みにもつややかな幼い葉が出かかっているというところか。丁度、道場の方からやって来た小さな陰が走り込んで来て、だが、縁側に腰掛けていた来客に気づくとその足がピタッと止まる。
「どうした? 坊主。」
眸を細めた屈託のないにっこり笑顔は、言われてみればどこかしら…大好きな母にも雰囲気だけは似てはいるような。(そーかな? おいおい)母の兄だと判りはしたが、初対面の相手とあって…最初に睨んでしまった気恥ずかしさも出るのか、面と向かうとまだ少々戸惑いが消えない長男坊らしい。一丁前に…先程対面した父御とお揃いの道着姿だったことへ、
「剣の練習か? 偉いな。」
そうと言われて、
「…うっと。」
何か答えなきゃと思ったか、やっと反応らしき声が出た。
「あの、さ。おじちゃん、ここに…あのコ、いなかった?」
「あのコ?」
小首を傾げてから、ああ…と、彼の小さな妹のことだと察しがいった。照れが出てか、日頃呼んでる"何とかちゃん"とは言えなかったのだろう。
「いや? ずっとお兄さん一人だが?」
応じると、えっ?と口を開けてから、キョロキョロと見回して、そのままパタパタと元来た方へ駆けて戻ってゆく。
「???」
どういう反応なのかが判らなくてキョトンとしていた伯父上の耳に次に届いたのが、
「あ、師範っっ!」
「私たちもお探ししますからっ!」
道場の方がいきなりざわざわと沸いたらしい人声で、次には…そちらから物凄い勢いで"だだだっ"と目の前を駆けて行った人影が。
"…今のは婿殿だったような。"
しかも、自慢の動態視力で捉えた表情が妙に強ばっていたような。一体どういう一大事が出来しゅったいしたのだろうかと、ややもすると傍観者モードで構えていると、
「エースっ!」
背後の、家の中からの声が直接浴びせられたから、もしも彼の背条にタテガミがあったれば一気に総毛立ったろうところ。
「どした、ルフィ…。」
「あの娘こ、此処にいなかったって?」
皆まで言わせず、襟首掴みかねない勢いで詰め寄られて、
「あ、ああ。俺はずっと此処に居たが、随分前にツタさんとかいうお手伝いさんが通った以外は誰も見てないぞ?」
詳細を説明すると、途端にぱたっと縁側の板張りへ手をついて、力なく這いつくばる弟だ。
「此処に居るとばかり思ってたのに…。家ん中のどこにも居ないなんて。」
「…なんだ? 迷子か?」
声もなくこくりと頷く。そういう家系なんですかね。こらこら 何たって両親共だから、子供には二乗で引き継がれてたりして。おいおい
「いつもなら此処でお兄ちゃんの練習が終わるのを待ってるんだ。今日もそうなんだろって思い込んでて。だのに…此処に居ないとなると何処にも居ないんだよ。」
素早く家中、敷地内中を探して回った彼なのだろう。随分おとなしい子だが、隠れんぼじゃあるまいに、疚しいことでもない限りは大好きな母の呼ぶ声に答えない理由も必要もない筈で。そして、
「あ…。」
それを聞いてエースが思わず立ち上がる。
「俺が居たから…かもな。」
「え?」
「まだ慣れてないお兄さんが居たんで此処へ近寄れなくて、別な場所で遊んでるのかも知れん。だったら俺にも責任はある。」
見上げたのはそろそろ日暮れが近い空。しかも、どこかから薄っすらとした雲が集まりかけてもいた。
「"お母さん"はここで待ってろ。温ったかい御飯の支度でも…手伝いながらな。」
そうですな。彼が走り回ったら二次遭難は間違いないですからね。あ…そういや、しゃにむに駆けてった父上の方の"方向音痴"はもう治ったんだろうか………。
3
陽が沈むのがいつもより早いなと気がついた。竹の葉がざわざわと騒ぐたび、怖くて怖くて父や母や兄を呼んだが、もう涙も涸れて声も出ない。兄の剣術のお稽古が済むまで、いつもなら中庭でマリをついたり、今なら縁側の踏み石のすぐ足元に咲いている水仙の花を眺めたりして過ごすのだが、今日はお客様がそこで寛いでいて。母の兄上だと判りはしたが、一人で話しかけるのは何だか恥ずかしかったので、裏庭に回ってそこでマリをついていた。小石に当たって手から逸れたマリは、竹林を囲む矢来垣の破れから中へと飛び込んでしまい、さんざん迷ったが"行方を見失っては…"という想いが先に立って、そのまま自分ももぐり込んで、マリを追ってしまった彼女だった。父が少し遠い大町からお土産にと買って来てくれた、大事な大事な手鞠だったから。
"お父さん…、お母さん…。"
どれも同じに見える背の高い竹。やっと掴まえたマリを手にくるりと振り返ると…くぐった垣根はどこにも見えない。急に怖くなって駆け出した途端、足元にうずたかく積もっていた葉にすべり、膝を擦りむいて、冷たい泥に服や手も汚れて。何より…誰も傍に居ないのが心細くなった。暖かい声や頼もしい手がいつだってすぐさま構ってくれた。大人がいない時でも、自分にはとっても優しいお兄ちゃんがいつも傍に居てくれたのに…。
"……………。"
それでも頑張って我慢したのだ。膝は痛かったけれど、お気に入りのヒマワリのスカートは泥んこになったけれど、涙はこぼさず、ちゃんと一人で立ち上がって。それから…彼女は思い出した。
『迷子になったらそこから動いちゃいけないよ? 父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも、ツタさんや皆もちゃんと探すからな? だから行き違いになんないように、その場でじっとしてなきゃいけないよ?』
いつか、母がそんな風に言ってたことを。もしかして今の自分は"迷子"なのかも知れない。だったら…?
"……………。"
傍の少し太い竹に凭れてじっと待った。頑張って頑張って我慢したが、それでも数時間もの孤独は子供には長すぎる。それでとうとう少しずつしくしくと泣き始めてしまい、今、ぽつんと頬に当たった何かに気づいて顔を上げた彼女は、
「………?」
竹の葉の擦れる音が変わったことにも気がついた。いつの間にか辺りは薄暗くなっていて、生暖かい空気の中に、つんとする墨のような匂いが立ち込めてもいる。
「…あめ?」
夕暮れから振り出した雨は後を引く。通り雨であることは稀だ。竹林の中にいたことが少しは助けにもなったが、それでも濡れないとはいかず、
「…どうしよう。」
またぞろ胸が潰れそうな想いが込み上げて来た。涸れた筈の涙があふれて来そうになったその時だ。
「あ、居た居た。」
不意な声がして、ばさぁっと頭から何かがかぶさって来たから、
「…きゃっ!」
急なことで飛び上がりそうなほど驚いたが、
「ああ、ごめん。ビックリさせたか。」
ひょ〜いっと抱えられた腕の中から見上げると、見覚えのある顔が眩しいくらい明るく笑っていた。
「…おじちゃんっ!」
「出来れば"お兄ちゃん"て呼んでくんないかな。」
おいおい、そんな場合かい。
◇
「…あ。」
いつの間にか雨も上がった。矢来垣のすぐ傍で、ロープの端を持って待っていた。ホントなら自分が行きたかったが、二重そーなんとかいうのになったら困ると言われて、
『このロープの端っこを持っててくれないか? 俺も此処は初めてだから、迷子になんないようにな。』
これで、二人掛かりで探すことになるんだからと言われて、じっとじっと待っていたら、しばらくして"くんっ"と引っ張られる手ごたえがあった。そして、竹林の中にぽうっと灯された小さな炎が見えた。声も聞こえて来て、
「…ほぉら、あれは誰かな?」
頭からジャケットをかぶせてやって、軽々と子供抱きにした少女をあやしながら出て来た人影。
「あ、お兄ちゃんだっ。」
涙と泥とで顔が少し汚れていたが、宝物の手鞠を抱えて元気そうに笑っている妹の姿に、やっとホッと出来た小さな兄である。言いつけを守ってちゃんと待っていた"協力者"へ、見つけて来た"宝物"を見せるように屈んでやるエースへ、
「おじちゃん、火の小人さん、また出して?」
その"宝物"本人がリクエスト。
「んん? あれか? よしよし。」
にっかと笑った気さくな伯父は、少女を腕から降ろすと、屈んだ姿勢のまんまで二人の前に人差し指を立てて見せる。何もない宙空を指差すようにしていたその指先に、
「………あっ!」
不意に、小さなコインほどの炎が直に灯ったから、兄は驚き、妹はくすくすと笑った。何の仕掛けもなく、伯父の指先から直接浮かんだ小さな炎。それがふわりと宙に舞い上がって、瞬きのようにちらちらと点滅しながらくるくる回ったり、指の動きに合わせてぴょんぴょんと撥ねたりするのが、成程、妹が言った"小人さん"のようにも見える。ついさっきまであれほど心配で胸が詰まっていたのが、今は嘘のように晴れていて、小さな妹と一緒にきゃっきゃと笑ってしまったお兄ちゃんであり、そんな二人をこちらも楽しそうに見やっていたテンガロンハットの伯父上が、
「面白いだろう。…あれ?」
言葉の途中で何かに気づいて顔を上げた。それに釣られて自分たちの背後を振り向いた子らは、
「………あ。」
どこまで行って来たのやら、今は家の方へと向かって、彼方から猛然と駆けて来たのは彼らの父御である。向こうでも矢来垣の中に立つ彼らに気づいたらしく、竹製の垣根前に立ち止まったと思うや否や、
「………っ!」
しっかりと腰に携えていたんですよ、の、自慢の名刀三本を一気に振るった。太刀筋を見ていた長男坊の説明から、それがあの伝説の大技"鬼斬り"だったらしいと判明したのは後日の話だが。そうまでして彼が叩き切ったのは、愛しい子らとの間に立ちはだかっていた垣根だ。まるで、よく切れるカミソリで一気に刳くり貫かれた薄紙のように、撓やかで丈夫な筈な竹の柵はあっさりと大穴を穿たれてしまい、そこから踏み込んで来た年若い父に、
「お父さんっ!」
幼い娘は駆け出すと飛びつくようにして抱き着いた。好きが嵩こうじて含羞はにかみがついつい先に立つような、こちらから手を伸ばさねば甘えかかっても来られないくらい、日頃は大層大人しい子がそんなにするほどとは、いかに怖い思いをしたのかが偲ばれて、
「………。」
無事に帰って来た小さな体の温みに感極まってか言葉が出ない父は、だが、娘のやわらかい頬に残る涙の跡に気づくと…指の腹で拭ってやる。
「あ…と、うん。ちょっと泣いちゃったの。」
無言の仕草からでも、何を問いかけている父なのかが判るのだろう。
「でも、もう平気なの。」
ニコッと笑う娘の健気な様子に、額と額をコツンとくっつける。
「無事で良かった。」
…これですもん。そりゃあ、そう簡単には嫁には出さんぞ、この親父。(あはは)
「さてさて。それじゃあ、戻りますか。」
こちらは、こんな寂しい場所でじっと待ってた"敢闘賞"のお兄ちゃんをひょいっと抱っこしたエースが、父上の肩をぽんぽんと叩いて促して見せる。
「お母さんが首を長くして待ってるだろからな。お腹も空いたろ?」
「うんっ!」
訊かれた途端に…腕白そうな兄より先に、お元気そうなお返事をした妹であり、残りの面々は呆気に取られつつも、すぐさまくすくすと笑い出したのであった。
◇
陽気で愉快な伯父上様は、翌朝にはもう出発するからと玄関に立った。
「え?」
そのせっかちな運びには、弟であるルフィが驚いたのみならず、
「やだやだっ!」
「もっと遊んでたいっ!」
やっと懐いたばかりな小さな甥と姪も、懸命に愚図って引き留めようとするほどで。だが、
「お前に辿り着くってだけのことに結構かかってしまったからな。船団にも早く戻らないと、そうそういつまでも席を空けといてもらえるほど、ウチも甘くはないんでね。」
どこか"水物"な海賊稼業。何につけそうそう待ったをかける訳には行かないことくらい、こちらの若夫婦も、経験上から充分承知してもいる。命を懸けた夢や野望、それから…有無をも言わせず襲い掛かってくる"死"。それらに常に肌越しなくらいの感覚で隣り合っている、それはそれはスリリングな海の世界。一度魅せられたら、そう簡単には抜け出せない、離れられない。生きていることをこれ以上はない形で実感出来る、得も言われぬ魅惑の世界だと重々判っている。
「気をつけてな。」
「ああ。お前も、婿殿やチビさんたちも、元気でな。」
ピッと伸ばした人差し指と中指を、どこか敬礼っぽく額にかざして、はいちゃと軽く会釈する。彼が"海の男"でいる限り、恐らくはもう逢えないかもしれないというのに、何ともお軽い挨拶で。大股にざくざくと歩み去る背中は、きっぱりしたままずんずんと遠くなり、
「相変わらずな人だよな。」
珍しくも…どこか寂しげな様子で兄を見送る妻の肩を抱いてやりつつ、夫君はそうと囁いた。
「うん。でも、オレ、兄ちゃんのことやっぱり大好きだな。」
あまり一緒に居られなかったが、それでも…気さくで温かくて彼なりにやさしい、そんな兄を、こちらからもずっとずっと忘れたことはなかったルフィだ。門口まで追って、そこで手を振っている二人の子ら。この子たちがそれぞれに大きくなった頃に、どちらかと再会する兄であろうとは………今の彼らには知る由もなかったことである。
〜Fine〜 01.12.24.〜12.27.
*なかなか面白そうなポートガス=D=エースさん。
(アニメ版での脚本を頭から信じてはいけないのかも知れませんが…。)
アラバスタからの仲間ってのがこの人でなければ…と準備したお話です。
こんなお話でデビューさせるMorlin.も相当なものだが…。
*何だか思わせ振りな締め方ですが、
実際に何がどうなるのかは全然考えておりません。
彼が将来の長男坊にとって、
母にとってのシャンクスのような人になるかどうか。
いえ、全く考えてませんってば♪

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