月夜見 銀の雪 金の雨


 甲板に出て来た途端、笛の音にも似た風の音が耳元を駆け抜けて、思わず首をすくめてしまう。風に持ってかれないようにと咄嗟に煙草のフィルターを噛み締めたその途端、背中や胸が少しばかり軋んで、息が詰まるような気がしたが、
"昨日の今日なんだから、まあ仕方がないか。"
 自分たちの辿った長い一日を思い出し、顔へとかぶさる長い金の前髪の陰で、仄かに苦笑したコック氏である。

 よんどころのない事情から立ち寄った極寒のドラム島。そこで繰り広げられていた国を挙げての騒動に、巻き込まれたやら飛び込んだやら。どうしても医者が必要だったため、豪雪の中を掻き分けて進軍し、凶暴な雪獣の大群と対決し、彼らが引き起こした大雪崩に飲み込まれ、5000メートルもあった垂直の断崖絶壁をよじ登った。そんな大冒険の果てに、この国唯一の医者の元に辿り着けたものの、これがまた奇天烈な女医で。しかも前国王とやらまで襲い掛かってきて…と、まあまあ目まぐるしいくらいに山ほどの"あれやこれや"があった一日。(そう、あれって全部一日の出来事だったんですよね。だってそうでなけりゃあ、某剣豪殿は一晩中あの格好で雪の中を徘徊していたことになる。
どひゃあ。
 彼らの大暴れで全てに決着がつき、そこで出会った不思議なトナカイが仲間に加わり、今はどんどん冬島海域から離れている船で。見上げた上空、雲の厚さや空の色も少しは和らいだような気がする。そんな空を目がけるように、
「ルフィ〜っ、どこ行った〜っ!」
 あちこち探して最後にやって来たのがこの甲板。いくら和らいだと言ってもまだまだ身を切るような寒さには違いなく、用もないのに好き好んでこんな場所に出ている奴…かも知れないと、念のために足を運んだサンジだったのだが、
「うお〜い、此処だ、此処だ。」
 間延びした声が上から降って来たから、
「…やっぱりな。」
 つい呟いたシェフ殿の口許が苦笑にほころぶ。見上げたメインマスト頂上の見張り台には、背の高い剣豪殿が立っていて。目を凝らして良く良く見れば…その彼が立つ手前の縁からひょっこりと幼い顔が覗いている。察するに、見張りに立ちつつ寒さしのぎに何枚か重ねてゾロがかぶっていた毛布の中に、一緒にもぐり込んでいた彼であるらしく、
「こら、ルフィ〜っ。お前、薬を飲んでねぇだろが〜っ。チョッパーが探しとったぞ〜っ。」
 声を張ってそうと告げると、
「…う。」
 たちまち毛布の中へ後ずさりしかかるもののだから、
「こらこら、逃げるなっ!」
 ついつい声が大きくもなる。新しい仲間であるトナカイ、トニートニー=チョッパーは、悪魔の実"ヒトヒトの実"を食べた能力者で、しかも優秀な医者でもあったらしい。これが後から判った男性陣にはナミがひとしきり呆れていたが、あのドタバタの最中だったのだから仕方がなかろう。それでなくとも他人の話を聞かない人たちだし。
こらこら 病を負っていたナミは勿論のこと、昨日のすったもんだでそれぞれに負傷したサンジとルフィもまた、しばらくは彼の世話にならねばならない筈が、苦い薬を飲むのが嫌だと逃げ回っている船長殿なのである。
"…ったく、ガキが。"
 やっと見つけた…とはいえ、こんなところに居た彼なのは、よくよく考えてみれば、逃げ回っていた彼だからというよりも、あの剣豪と一緒に居たかったルフィだったから…という思いの末の、それは判りやすい行動なのではなかろうか。そのためならばこの寒さも関係がないらしいところもまた子供っぽくて、丁度、学校に行くための早起きは出来なくても遊びに行くための早起きは平気だという理屈と同じ。
「ほら、朝飲む分だと。ちゃんと全部飲めよ?」
 手のひらに収まる小さなビンを、軽く前方へ放ってからぽ〜んっと蹴り上げると、引っ込んだままなルフィに代わって、リーチの長い剣豪がはっしと受け止める。聞こえてない振りで顔を出さないつもりなルフィであるらしく、そんな子供じみた態度にくすくすと笑いつつ、
「お前が責任持って飲ませろよっ!」
 身代わりのようにゾロへと向けてびしっと指を差す。他のことでなら、何をどう持って行こうと突っ掛かり合いの喧嘩に発展しかねない二人なのだが、船長に対する気遣いというジャンルだけは次元が違うらしい。片手を上げて"判ったよ"と言いたげな会釈を見せたゾロであった。



 寒い寒いという仕草のまま、サンジは肩を縮めてキャビンへ引っ込んだ。それを見やってから、
「ほら、ルフィ。薬だ。飲めよ。」
 自分用には1、2枚で充分だったが、一緒に登ると言って聞かなかった船長殿のために4、5枚は持って来ていた毛布の中、もこもことうごめく小さな山を上からとんとんと突々くと、
「苦いからヤダっ。」
 くぐもったような声が返ってくる。
「飲まねぇと早く治んないぞ?」
「良いっ。ゆっくりでも。」
 どう聞いても子供の駄々以外の何物でもなくて。ゾロとしては…サンジにああと言われたからではなく、純粋に義務感を覚えてだろう。毛布の中に逞しい腕を突っ込むと、しばらくもそもそと掻き分け手繰って、
「おっし、捕まえたぞ。」
「にゃ〜っっ!」
 大きな手で襟首を掴んで引っ張り出す。中で脱げたか、麦ワラ帽子のない顔は、鳴き真似して見せた猫というよりは仔犬の無邪気なあどけなさに満ちていて。これが…一国の国民全てを敵に回していた専横絶対権力者を、それはあっさりと…雪空の遠くへ文字通り"吹っ飛ばした"男だとは到底思えないから、同じ海賊団の仲間でありながらも苦笑が絶えないゾロである。それはそれとして、
「こんなちょっとだ。一瞬我慢すりゃあ済むだろが。」
 さっき投げ渡された小さなビンを顔の前へと差し出すと、
「いやだっ。」
 歯を食いしばるようにしたまま、ぶんぶんと首を横に振る彼だったが、
「とっとと飲まねぇと、こっから叩き出すぞ?」
「うう…。」
 今日のところはゾロの勝ち。見晴らし台の丸い床に向かい合うように座り込み、
「…んく。」
 呼吸を整え、目を瞑り、一気にあおって…こくこくと3口かそこら。ほんのそれだけの量でありながらも口の端を引きつらせる彼であり、空になったビンを放り出すと、
「まじぃ〜。」
 こちらの頼もしい胸板にしがみついて来ながら、何とも言えない顔をする。それでなくとも、彼の"お願い、助けて"という顔には弱い剣豪だ。
「…どら。」
 小さな顎を摘まんで差し上げたゾロであり、
「え…?」

  …………………………。

 あ、しまった。これって『蜜月まで何マイル?』ベースかも?
おいおい
「ん…ふ。」
 唇が重なっていた間に、腕の中に手際良く掻い込まれてもいて。その上から毛布にくるまれて、充分に温かいそんな中でとろんとした顔で解放されたものだから、
「…まだ苦いか?」
 大好きな響きの良い声が間近からしたのへ、夢見心地のまま、ほんの数刻ほど返事が遅れてしまったルフィである。
「どうした?」
「ふにゃ…。」
 こんな開けた場所での不意打ちだったせいで、何が何だかとぼんやりしていたものの、
「んと…。」
 顔をのぞき込まれて、キョロキョロと忙
せわしくあちこち視線を泳がせてから、
「…まだ苦い。」
 おおお、大胆なお言葉を。ダメ?と訊く上目使いがまた愛らしくて、
「そっか。」
 よ〜し覚悟しなという顔のまま、今度は深く深く、口の中を全て浚うようなキスになるから、
「んん…。」
 寒いと大胆になるものなのね、恋人たちって。


 形ばかりの囲いに風の直撃こそ遮られているが、それでもまだまだ寒さは本格的で。淡いグレーと暗藍色の広がる寒々しい風景の中、時折弱い口笛のような風の音が遥か彼方からやって来ては、耳元近くを擦り抜けて通り過ぎてゆく。
「ほら、もう降りてろ。寒いだろうが。」
 ゾロが此処に居るのは当番だからで、ナミやサンジと同じく、怪我人たるルフィには本来免除されていること。昨日と違って一応はちゃんとしたコートを着てもいる彼らだが、それでも…意味なく寒いところに居ることはなかろうと、剣豪としては温かいキャビンにいち早くこの大切な彼を送り返したいのだろう。何しろ、彼が大変な目に遭ったのは、くどいようだがほんの昨日の話なのだ。あちこちの怪我もまだ生々しいままに癒えてはおらず、体力的にもかなり疲れてもいるだろう。かわいい恋人のことなだけに尚のこと心配で、何なら抱えてでも連れ降ろすぞと思わんでない彼だったが、
「やだ。」
 何故だか譲らないルフィであり、相変わらずに妙なところで頑固というか意地っ張りというか。
「何でだ?」
 そんなに"見張り"が好きな彼でもあるまい。お気に入りの羊頭に上れないから、せめて此処からの見晴らしで我慢したいとでもいうのだろうか。それにしては…さっきからあまり外は見ておらず、寒さに真っ赤になった頬を剣豪殿の胸板にくっつけているばかり。理由がまるで判らず、あっさり訊いたゾロへ、
「昨日の分を取り返すんだ。」
「はあ?」
「一緒に居られなかったろ?」
 ルフィはにんまり笑って見せる。
「一緒に居ないと見逃すかもしれないからな。」
「何を。」
「ゾロのかっこいいところ。」
 臆面もなく言い切るルフィに、
「…お前な。」
 こちらは…珍しくも言葉を無くして言い淀む。どうでも良い相手からは何を言われても屁でもない代わり、想う人からだと何を言われても胸に響いてときめくから不思議。
「ホントだぞ? 昨日だって凄っごい活躍したんだろ? 見たかったなぁ。」
 胸元から"にこぉっ"と満面の笑みでもってそんな風に言われて、
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。」
 どこか動揺し、最初のやり取りを…こんな寒いところからとっとと降りろと言ってたことまでもを、すっかり忘れてしまったゾロである様子。嘘は難しいから苦手なルフィで、でもだけど、今の一言はちょこっとだけ"言い訳"だったりもする。だって、理由なんてホントはないんだもの。ただ傍に居たいだけ。温ったかくて良い匂いがして、大好きな声で囁いてくれて。頼もしい腕でぎゅうって抱いてくれる、一番好きなゾロの傍に居たいだけだ。
"どうしてゾロの身体と俺の身体ってバラバラの別々なんだろ。"
 …はい?
"そんなだから、いつもいつも一緒に居られねぇんだもんな。"
 もしもし? 自分の発想にか、それとも照れたように向こうを向いたゾロの横顔にか"うくく♪"と嬉しそうに微笑っているルフィだが、いざ何か起こったなら、真っ先に飛び出す人が何を言うやら。
「あ、雨降って来たぞ。」
 慌ててマストの天辺へ笠代わりの幌を広げるゾロで、
「雪じゃないのか?」
「ああ。もうそろそろ雪は降らなくなる。ビビが言ってたろ? アラバスタは暑い国だから、これからはどんどん暖かくなるって。」
「ふ〜ん。」
 それほど強い雨ではなく、前方へ向けて少しばかりの隙間を残して幌で覆われた見張り台には、少しも吹き込んでは来ない程度の代物。少しすると、
「あれ? 陽が射して来たぞ。」
 遠く近く、雲間の切れ目からスポットライトを思わせる光が降り下りている。こういう陽射しは"天使のハシゴ"と呼ぶそうで、ぽつぽつと落ちる雨粒が照らし出されて、金色の針のよう。空と海だけで遮るものの何もない、360度で展開されるこの絶景と、そして、すぐ傍でそれを一緒に堪能している大好きな人と。
「…綺麗だな。」
「ああ。」
 昨夜の"桜"もそうだった。一緒に見ることが出来たから、こんなに綺麗に見えるんだと思った。きっとそうだ。
「…うん。だから、一緒にいなきゃダメなんだ。」
「何がだ。」
 心の中での途中経過をすっ飛ばすのはO型の悪い癖。(いや、ルフィがそうだと聞いたことはありませんが。)二つの握り拳を胸の前にくっつけて妙に感に堪えないという顔になっているルフィへ、剣豪はキョトンとするばかり。


  ―――こんなことを言ってたくせに、
     相変わらずに無茶ばっかりしでかして、
     揚げ句にはたった一人で窮地に居残りやがって。
     全く心配かけやがってよ…と、
     またまた甘いお説教をされるのは、随分と後日の話となる。



    〜Fine〜  01.12.13.


  *ひよこ様へ。
   『いつもゾロにくっついていたがるルフィ』というリクでしたが、
   こんなものでいかがでしょうか?
   ひよこ様が可愛らしい甘いお話で発揮なさってらっしゃる、
   それはそれはフレッシュな(死語?)感性を見習いたいです。
   どうかお持ち下さいますように。


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