月夜見 puppy's tail 〜その8
 

  “あお〜〜〜ん!”


 夏も深まるとテレビのニュースショーのトップなどでも"まずは…"と帰省の話題が取り上げられるようになり、日本中がお盆休みに向かって一斉に同じ行動を取る。工場の製造ラインも止まり、新幹線の乗車率が軒並み100%以上になっただの、海外脱出を図る人たちで国際空港が混み合っていますだの。帰郷する人、バカンスに出る人、連れ立っていちどきに都会から離れてゆくその勢いは、一年の区切りである"年の暮れ"にも負けないノリであり、ある意味ではこれも一種の"民族大移動"なのかもしれない。
「凄いよなぁ。日本中が休みか。」
「いやまあ、業種によっては休めない人もいるんだろうけどな。」
 不思議とカレンダーの上でも"祭日"扱いにされてはいないのだしと、ゾロが説明を付け足した、此処、広々としたリビングに据えられているのは、欧州仕様の大きめのソファーセット。だというのに、
「"お盆"って"しゅーきょー"の行事なんだろ? 日本人って信心深いんだな。」
 三人掛けのソファーの真ん中にゆったりと腰掛けて、大きく新聞を広げていたゾロのその懐ろ深く。わざわざそんな間近い…窮屈そうな場所へ、ごそもそといつの間にか潜り込んでいた、Tシャツに短パンという相変わらずの軽装が似合う小さな奥方、妙に感慨深げな声でそんなことを言い出して。そんな話題を持ち出す辺り、帰省ラッシュの話題をトップに掲げた新聞に関心があるのかと思いきや。大きな琥珀色の瞳はずっとずっと、大好きな旦那様のお顔にばかり向いており、
「♪♪♪」
 新聞て面白い? でも、俺の方も見ててよね…なんて言いたげな。小さな肩、ちょこっと聳
そびやかせて、活字刷った紙なんかに負けないもんという自己主張がたっぷり乗っかったお顔をして見せるところなぞ、いっそ分かりやすすぎて………。
"いやホント、凄っごく可愛いんだよな〜vv"
 おいおい、旦那、旦那。
(苦笑) 今、一斉にPCの前で皆さんが手のひらをあおって"おいおい"って突っ込んだと思うぞ。お約束の脱線はともかくも、
「宗教って言ってもなぁ。今時は"夏休み"って解釈の方が強いけどな。」
「そんでも名前は"お盆の休み"なんだろ?」
 外国だと"ばけーしょん"だぞ、ただのお休みなだけで、そんな建前の名前なんてついてないぞ、と。幼いお顔に似合わない言いようを並べて、
「ゾロも会社に勤めてた頃は、お盆休みがあったんだろ?」
 それはストレートに訊いてくる。
「まあな。」
 何だか遠い昔の話だなと、旦那様はくつくつ笑って。ツタさんにもお休みを取ってもらわないとな、町の方からお子さんやらお孫さんやら、遊びに来るんじゃあないんですか? なんて。それで誤魔化したつもりか、かなりの力技で話題を変えて見せたりする不器用さんなところも相変わらず。察するに、その当時はあんまり楽しくはなかった"盆休み"を過ごしたゾロだったのだろう。そうと推察しながらも、気づかぬ振りで通すところが大人のツタさんは、
「海
カイちゃんの離乳が始まるまでは、居させて下さいませな。」
 心配で家に戻っても落ち着けませんと仰有るし、
「そだぞ。ツタさんが居ないと俺だって落ち着けないもん。」
「おいおい。」
 お前の側からの"落ち着けない"ってのは意味合いが違うだろうがと。そんな風に和やかに話が弾んでいた、とある夕刻のこと。
「あ、ヒグラシだ。」
 ここいらは標高が高いせいか、秋の気配が訪れるのも早いらしい。蝉たちの合唱にもはやばやと、かなかなかな…というどこか物悲しいヒグラシの声がお目見えしており、この声を聞くと、どんなに蒸し暑い日中だった日でも"ああもうすぐ秋なんだな"と、妙に感じ入るのが…季節感とか余情に敏感な、感性豊かな日本人。そろそろ夕ごはんの仕上げに入りますねと、会釈をしてからキッチンへ立っていったツタさんと入れ違いに、
「秋になったらすごい綺麗な夕焼けになるんだよな。」
 フローリングの床をとたとたと鳴らして、リビングルームの壁一面を占めるほど広い大窓にわざわざ張りつきに行き。秋になれば、葉の落ちた木々の枝々がそれはくっきり浮かび上がる木立ちや何や。まだ今は、単に明るさが引くだけで茜の赤みもまだ差さない、夏の夕方の空を眺めやっていたルフィだったのだが、

  「………っ。」

 不意に、はっと顔を上げ、何かしらの気配だか匂いだか、目には見えないものを探るようにしてキョロキョロと周囲を見回し始めた。それまでののんびりした空気とは明らかに異なる"緊張感"をその身に張った彼であり、
「? どうした?」
 日頃はわざと感度を落としているのらしいが、意識してそのゲインを上げれば…それこそ人間となんて比較にならない感度を誇る、犬と同格の聴覚や嗅覚をしているルフィである。何か気になる音だか匂いだかがしたのかと、気遣うような声をかけたゾロだったが、
「えっと、うっと…。」
 本人にもよく判っていない何かに足元から急かされているかのような、そわそわと落ち着かない様子を見せるばかりで、何とも要領を得ないまま。それでも何とか気を取り直したか、やはり不意に"パタパタっ"とゾロの傍らまで戻ってくると、先程のように懐ろへともぐり込む。何かに怯えてという雰囲気ではなく、あくまでも何かに焦っている彼であり、

   ――― きゅう〜ん

 そのメタモルフォーゼは絶対に彼の前でと決めているのか、軽く眸を伏せた小さな奥方は、そのまま…小さなシェットランドシープドッグの姿へと変身を遂げた。何がどうしたと告げないままという性急な変身は滅多にないことなだけに、これは相当な一大事なのかしらんと、ここに来て少々心配になって来たゾロでもあって。
「ルフィ?」
 この姿になってから訊いても答えようがないのだと、それを思い出して、うむむと自分の間の抜けたところへ眉を寄せる。その一方で、
《 ………っ。》
 ふりふりと身を揺さぶり、毛並みを膨らませがてらに身につけていた衣服をふるい落とすと、仔犬の"るう"になったルフィは、サッシの前に駆け戻って。だが、前足で しきりと"かしかし…"とサッシを擦
こするルフィであるのを見やって、ゾロは…ついついぷふっと吹き出しそうになった。焦る余りにか、開けておいてから変化へんげするという段取りさえ考えなかった彼だったらしく、
「開けるのか?」
 その傍らまで立って行くと、たんたんとその場にて撥ねるようにしてまで"早く早くっ"と急かす素振りをしきりと見せる。そんな様子がまた、あんまり可愛らしかったものだから、何となく…緊迫感以上に微笑ましさを感じてしまい、
「ああ、判ってるって。」
 それでも急いで明けてやると。勢いよく庭先へと走り出た小さな奥方、空を見上げ、小さく何度か唸ってから、

   ――― あおーーーー―っ

 天高く。伸び伸びとした幼い声をさらに伸びやかに引いて、結構立派な遠吠えを始めたではないか。喉奥から真っ直ぐに放たれている、朗々たる…ボーイソプラノ。黄昏時のしんみりとした空気の中に、切なげな響きは吸い込まれるかのように伸びて。小さな体をぴんと姿勢よく伸ばして、あうあう、おおうー、あおうーーーっと、天空に届けとばかり、何度か長々と鳴いて鳴いて、

  《 ………。》

 自分の遠吠えの余韻を聞き届けているかのように、しばしその場に立ち尽くして…幾刻か。
「……っ。」
 まるで魔法が解けたかのように、ふにゃりと全身から力を抜いて、ゆっくりと振り返り。それから…打って変わって元気になって、こちらへ"たかたかっ"と軽快な足取りにて戻って来る るうちゃんだったりする。開け放ってあった窓へと向かって速足で駆けて来て、
《 あうんっ!》
 最後の一歩をバネを利かせた飛び込みで一気に詰めて、ゾロの頼もしい胸板へタックルっ!と来たから、

  「お前ね…。」

 あれほど…パニック状態かと心配するほど、そわそわ・じたじたと焦って見せておいて、今度は"はうはうvv"とご機嫌満開。戻って来るのを中腰になって待っていた旦那様、普段ならこんなことくらいで"ぶつかり負け"たりなんかしないのだが、その急変ぶりについてゆけず、ここまでお元気に加速をつけて帰って来るとは思わなかったこともあり、お見事にフローリングの上へ押し倒されてしまっている。そんな彼の分厚い胸板の上へ乗り上がり、お鼻の尖った愛らしい真ん丸なお顔、首条やおとがいなどへふんふんと擦りつけては冷たいお鼻をくっつけたり。棒のピアスが下がった耳朶を舐めたりしつつ、
《 ねえねえ、どうしたの? 新しい遊び?》
 そんなお顔になってる仔犬くんへ、このヤロがと少々目許を眇める、大人げない旦那様だったりもするのである。





            ◇



 とりあえず、元のルフィに戻って、お洋服もちゃんと着て。
「一体何だったんだ?」
 ああまで切なげに騒いだ揚げ句に、心地よさげに遠吠えしてすっきりとは。何だか…例えが悪いかもしれないが、急にもよおした"おトイレ行きたいっ"という騒ぎだったみたいで。その直前までお膝に乗っかり、新聞なんかよりも自分を見てと甘えまくっていたくせしてと。この、小さくて愛しい奥方に一方的に振り回されてばかりいるのへ、時々無駄な抵抗をする旦那様、はっきり説明しておくれよと詰め寄れば、
「んとね、どっかから誰かの遠吠えが聞こえて来たの。」
 そんな旦那様の胸元にふかふかの頬を寄せ、奥方は屈託なく応じてくれた。
「遠吠え?」
「うんvv
 犬族の遠吠えは、伝言だったりリーダーによる挨拶だったり。犬の祖先の狼が群れをなして行動する種であったことから来る名残りの行動であり、耳にするとついつい応じたくなる波長の声だから、遠い遠い声にもついつい反応してしまう。衝動的にやりたくなる…のだそうで。…ちなみに、電柱を見ると足を上げたくなるという例の本能は、ルフィにはありません。
(笑)
「大事な伝言だったら、途切れさせる訳には行かないじゃないか。」
「まあ、そうかもな。」
 彼の言いように、ゾロがふと思い出したのが、SFものの、特に宇宙空間が舞台の話に付き物な"宇宙船乗りの鉄則"の話。SOS信号を傍受したなら、必ず応じて救助に行くか、それが出来ない場合は救助機関などへ直通で伝えるように手を尽くす。宇宙空間という未知の世界で事故や事件に遭遇した見ず知らずの同胞へ、見殺しにはしないぞという姿勢でいること。
"これこそ究極の、情けは人のためならず、だよな。"
 問題なのは、これぞ船乗りの心意気ぞとわざわざ後進へ伝えにゃならないところ。当たり前のこととして本能が体を衝き動かす るうたちよりも、人間は相当に質が落ちるらしいと、それを思うとちょいと情けないよなと、胸中にてこそりと苦笑い。
「で?」
「んん?」
 鼻先に甘やかに香り、つややかでふかふかな黒髪を、指先にからめるようにして梳いてやりながら、
「どういう伝言だったんだ?」
 内容を聞いたりするのは野暮なルール違反なのかな? 小首を傾げて問う旦那様へ、


   「さあ。」

   「…さあ?」


 それはそれは あっけらかんと。そんなことどうでも良いじゃないと、やわらかなお顔を大好きな胸元へとグリグリ擦りつけるルフィだが、
「さあ…って、あんだけ大騒ぎしといてそれはなかろうよ。」
 最後には床に突き飛ばされましたしね、旦那様。
(笑) それは良いとしたっても、本能が黙っておれないというほどの代物なのに内容は"さあ"ってのは、やっぱりどうも納得がいかない。それとも、もしかして。人間だけが…あらゆることへきちんきちんと、意味を持たせ過ぎるのかな? 公式や定理を見つけずには居られない。自然世界の有り様にさえ、黄金率だの法則だのと雛型を当てはめて、果てはデジタル化して永久とか絶対とか不変とか。至って"不自然"なものに変換してまで、無理から"未来あした"へ連れてゆこうとする。…なんか話が大きく逸れてますね。愛すべきご夫婦のいらっしゃる居間に戻りましょうか。

  「だってさ。ホントに"意味"なんてなかったんだもん。」
  「はあ?」

「そういう時も結構あるんだって。何てのかな…えと、うん。意味が分かんない外国の言葉での伝言とかだったりするんだよね。」
「外国の?」
 動物の鳴き声の表記や表現が国によって違うというのはよくある話だが。あと、人からの命令言語が国によって違うのだから、もしかしたら…日本語は分からないとかいう犬というのもいるのかもしれないが。
「うん。だから、何言ってるんだか分からない遠吠えも、あるにはあるの。でもサ、逼迫したトーンで鳴かれると、伝えるだけは伝えてやらなきゃって思っちゃうんだよね。」
 うんうんと、鹿爪らしき顔になって頷いて見せてから、
「それで、こんなもんかなっていう"物まね"遠吠えをしてあげるの。」
「…ふ〜ん。」
 それってもしかして、例えば………。

  "消防車のサイレンとかだったりするんだろうな。"

 でしょうねぇ。
(笑) 済んだことなんだから もう良いじゃんと、ご満悦な様子で…凭れ甲斐のある旦那様の胸板へと頬を埋めている可愛い奥方でもあって。
"まあな。本能でやっちまうことへ"説明してみな"なんて、訊く方がおかしいのかもしれないよな。"
 分析のしようがないではないことなのかも知れないけれど、そんな風な"行動学"を、例えば人間だっていちいち意識しちゃあいない筈。他愛ない、何の気なしの動作や行動が、実は学問上では分析が為されていることだと…全く知らない人だって多い筈。日常生活にそんな野暮なものを持ち込む愚はないかと、詮索するのは辞めにしたゾロである。そんな一方で、
「???」
 不意に黙ってしまったことへ、だが、怪訝そうに顔を上げると、大きな手で優しく髪や背中を撫でてくれるゾロ。大好きだよと、愛しい人への温かい匂いをくれる、こっちからだって大好きな旦那様vv
"時々ね、物凄くお尻尾を振りたくなるけど、それは我慢してるんだよvv"
 大人になるための内緒の我慢。だって、人と人同士で居る方が、一杯いっぱいお話し出来るし。体が大きくなる分、お胸やお腹、沢山くっつけるしvv 無邪気だけれどそれだけじゃあない。幼い奥方もまた、二人の…もとえ、カイくんも加わった、ツタさんもいる皆の幸せのためになら、何だって頑張れるんだからと、その小さな胸中にてこっそりと思う頑張り屋さんなのである。


  「旦那様、坊っちゃま、ご飯ですよ。」

  「は〜〜〜いvv ゾロ、行くよ。」
  「はいはい。」
  「"はい"は一回で良いの。」
  「はい。」
  「よぉしvv


   ……… 今更、特に頑張る必要はないと思った人、手を挙げて。
(笑)




  〜Fine〜  03.8.7.〜8.9.


  *犬族の"本能"編を少々。
   無駄吠えとか飛びつき癖とか、所謂"悪い癖"。
   どうやって治すかって話ばっか聞きますけれど、
   あれって、人が甘やかしたり躾を間違えて、
   それで身につけちゃった代物でもあるんですよね。
   最初が肝心、気をつけなきゃです。


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