月夜見 puppy's tail 〜その7
 

  “だって、何だかサ”


 さすがは緑の多い土地で、盛夏に入っても戸外の体感気温は格段に低く、朝早くや陽が落ちてからの涼しさは言うまでもなく。フィトンチッドをたっぷり含んだ空気が、それは瑞々しく爽やかでたいそう過ごしやすく、都心と遥かに異なる環境がこれほどありがたいと思うことはない。肌に感じる涼しさだけでなく、舗道を煌々と照らし出す店々の蛍光灯の照明や、その軒や路上にやたらと多い看板照明、きらびやかなネオンサインに誇張されたライトアップなどなどという、人為的で押しつけがましい明かりがまるきり見当たらないのも、いっそすっきりと心地いい。
"これを物寂しいとか人恋しいと思わないのも、ある意味、贅沢なことなんだろうな。"
 自分でハンドルを握っている時は、それこそ運転に集中しているから気がつかなかったが。まだずんと早い宵であるにも関わらず、すっかりと夜の顔に着替えを終えた別荘地の街路は、まるで質の良いベルベットのような、しっとりした夜陰の帳
とばりが、辺りに優しく立ち込めているばかりで、何とも穏やかにやさしいばかり。物音ひとつしないのではなかろうかと思えるほどに濃い闇の中。されどその先に、自分を待つ人がいるのだと思うと、単なる帰途の傍らに沿う風景。この中に迷うことはないと、余裕で向かい合うことが出来るというもの。
"ちょっと遅くなったかな。"
 車窓を時折なめらかに流れゆく街灯がなめた腕時計の文字盤は、そろそろ9時になろうかという時間帯を示している。午前か夕方前という早い時間を担当させてもらっているゾロであり、こんなに遅い帰宅となったのはもしかすると初めてかも。
"前以て言ってはあってもな…。"
 それでもやはり、心配は心配だ。今のところはツタさんに泊まってもらっているので、まだまだ幼いルフィと赤ちゃんの海
カイの二人だけという状況ではないものの、朝方、出掛ける寸前まで"平気だもん"と余裕のお顔でいた奥方だったけれども。
『お酒飲むのでしょ? ゾロが事故って怪我するのヤダもん。』
 だから、ゆっくり酔いを覚まして帰って来てよと、そんな言い方をしていたルフィだったのは、実の父が交通事故に巻き込まれて大怪我を負ったという、哀しい記憶があるからだろう。ゾロとても、以前から飲酒運転だけは言語道断な所業だと思っていた。酩酊状態でハンドルを握るだなんて以
っての外だし、それ以前に自分を見失うほど酔ってどうすると思ったものだ。他人のことはさておいて、学生時代なんぞに道場の先輩の猛者たちと夜明かしで呑んだりもしたせいでか、酒には強く。その場で沈没しただの、記憶が吹っ飛んだだのという覚えは今のところ一度たりとも経験したことがない。とは言っても、これまで大丈夫だったのだから今度も大丈夫…という言い方ほど無責任な話はなくて。そんなせいで、こちらに来てからも…歓・送迎会などの呑み会があった晩は、たとえ酔っていなくたって車には乗らず、とはいえ、毎日出勤する身ではないので車を置いて帰ると不便だし。仕方がないからジムに了解を得て、トレーニングルームのベンチで寝たりもしたものだ。最近では…ここいらが都心からの日帰りレジャー客を目当てに拓ひらけたせいもあってか、運転代行サービスを呼べるようにもなり。今夜は夏休みコースの加入者たちの歓迎会があったため、やはり"酔って"なぞいないにも関わらず、念のため、初めて他人にハンドルを任せて帰途に着くことにした旦那様である。
「もっと奥ですね。」
「ええ、突き当たりです。」
 携帯電話で呼んだ"代行さん"は自分よりも少しだけ若い青年で、伝えた住所をハンディタイプのカー・ナビで呼び出し、目的地までのコースを割り出すと、それはなめらかな安全運転で家までの道を辿ってくれた。こちらは"客"なのだから何もへりくだる必要はないのだが、家まで運転してもらって送ってもらっているのだという立場のせいか何となく落ち着けず、言葉遣いまでつい丁寧になる。まだそれほど遅い時間帯ではなく、それでも…昼間であっても人通りは少ない、閑静な住宅地。ヘッドライトに照らし出される街路は静まり返り、
『この辺は静かでいいですね。でも、車がないと不便でしょうね。』
 当たり障りのない話を振ってくる青年に、こちらも穏便な答えを返していたのだが、
「………あれ?」
 そろそろ目的地だという事でスピードを落としていた車が、するすると静かに止まったのだが、自宅前まではもう十数メートルはある。そのままポーチまで入れてもらえるものと思っていたので、
「? どうしましたか?」
 身を委ねていた後部シートから身を起こし、代行さんの肩口から前方を見やると、
「………あ。」
 ヘッドライトの光芒の中、路上にすっくと立った一頭の…仔犬がいる。ちょこんとした小さな足に、白が基調のふわふわの長い毛並みを目映く光らせた小型の犬で、パッと見はコリーによく似ているが、お顔はもっと丸っこく、お鼻も短い、シェットランドシープドッグという犬種。気性も人懐っこくて、しかもこの容姿。何とも愛らしい子であるはずが…小さくて柔らかそうなお耳をピンと立てて前に向け、ふさふさのお尻尾も戦
いくさの旗よろしく真っ直ぐ立てられたままというから、何となく凛々しい立ち姿であり、
「あれって、もしかして。」
「ああ、うん。ウチのです。」
 ちょいと曖昧な言い方をして、ポーチに入れて下さいと言い置きながら、ゾロは先に外へと降り立った。ドアを閉めてから路上にて向かい会うと、たてがみみたいな長い毛並みに覆われた頭を"うう?"と傾げて見せ、それでも…動き始めた車の進行からは身を避けて。駐車スペースであるポーチに滑り込む車を見送り、再びこっちを見やって、やはり…ううう?と首を傾げる小さなシェルティくんであり。どうやら、ゾロが降り立っても動く車を不審に思った彼なのだろう。そんな彼らの間に流れる奇妙な空気に…当然のことながら気づく事もない、代行会社の青年から、
「ここでよろしいですか?」
 確認の声を掛けられて。
「はい。どうもすみません。」
 エンジンを止めて車から降り立った青年がキーを返してくれたのを受け取り、利用者用の書類への確認のサインをして料金を払って。それではご利用ありがとうございましたと、礼儀正しくお辞儀をして、来た道を軽快な足取りで戻って行くのを見送った。少し戻ればバス停がある大きめの通りに出る。恐らくは、携帯で一番至近にいる仲間の車を呼んで拾ってもらうのだろう。……………で。
「るう、何でこんなとこに出て来てるんだ。」
 門扉代わりの柱や柵の代わりの茂みのあちこちに、フットライトタイプの庭灯を幾つか配してあって、玄関までの少し曲がりくねったアプローチ、赤銅色のテラコッタ・レンガをほのかに照らしている。その進行方向に先に入った小さなシェルティくんは、だが、こっちの声が聞こえていように、ふいっと身を躱すと先に玄関へと駆けてゆく。

  "???"

 いつもよりかは遅くなると、出掛けに言って置いた筈なのに。それへと、もう子供じゃないんだもんねと、平気だもんねと笑ってたくせに。
「るう…ルフィ?」
 こんなにも遅いのだから、誰が聞いているでもなかろうと、愛犬へではない呼びかけをしても、小さな後ろ姿は振り向きもせぬまま。たかたかと先を急いで、玄関ドアの脇に設けられた彼専用の小さな戸口から家の中へと飛び込んでしまった。
「? ルフィ坊っちゃま?」
 扉の向こうからはツタさんの声。やはり…様子が訝
おかしいという声音であり、
「お帰りなさいませ。」
 続いて開いたドアから入って来たゾロへと声をかけつつも、怪訝そうな表情はそのままだ。
「ルフィ、どうかしたんですか?」
 こちらも外で妙な素振りの彼を見たばかり。それでと訊くと、
「さあ、私にも何が何やら。」
 ツタさんは"覚えがありません"とかぶりを振って見せ、
「何も聞こえなかったうちから、旦那様の車の気配がするからって…るうちゃんになって外へと出てらしたんですけれど。」
 それまでの一日中、ずっとご機嫌でいらしたのに。夕方になってカイくんが少し愚図ったのへも、今日はお父さん、帰りがちょっと遅いんだよって、穏やかに話しかけてあやしてらしたのにと。まるきり"不審"はなかったと話してくれて。
「…そう、ですか。」
 判りましたと。何やら納得したらしき旦那様は、遅くまで済みません、もう休んで下さいとツタさんをねぎらってから、自分たちの寝室がある二階へと上がってゆく。
「ルフィ〜?」
 どこへ行ったんだろうかと声を掛けつつ、幅のあるシックなカーペット敷きの階段をゆっくりと昇ってゆくと、

   ――― あうんっ

 あと数段というところで、ふかふかの毛玉が懐ろ目がけて飛びついて来たから、
「こ、こら。ルフィ。」
 危ないことをする坊やであることよ。あ、今は"るうちゃん"なのか。(だから?)いくら小さい仔犬だといっても、一歳児サイズには育っているのだから結構大きい。いくら成人男性であっても、不意を突かれたなら十分突き飛ばされているところ。とはいえ、こちらも足腰の安定感には自信のある旦那様。物騒にも突き落とすのが目的の頭突きを敢行して来た訳でなし、前脚を胸板へ延べるようにして"抱きついて来た"のだというのは判っていたので、がっちりと掴まえるように掬い上げ、きゅんきゅんとお鼻を鳴らして胸板にお顔を擦りつけてくる腕白さんに…とりあえずはお説教。
「危ないだろうが。このまま転げ落ちてたらどうすんだ。」
 さして怒鳴るでない穏やかな語調のままに。響きのいいお声で諭すように言い聞かせるから………余裕だねぇ。こら、聞いているのか?と、片腕で抱えたまんまで、顎の下、手を差し入れてお顔を上向かせると、
《 ーーー。 》
 やはり くうくんとお鼻を鳴らしつつ、くりくりとした黒みの強い瞳をどこか申し訳なさそうに揺らめかせ、どこか何だか落ち着かない様子。このままでは要領を得ないと、そのまま階段を上り切り、廊下の突き当たりの寝室、柔らかなスタンドライトだけを灯して。スーツ姿のままで、カバーの掛かったベッドの上へぼそんと腰を下ろすゾロだ。
「ほら。ルフィに戻って理由
わけを話しな。」
 ツタさんにまで心配かけてんだぞと、言い終わらぬうち。小さなシェルティはお顔をゾロの肩口へと載せて来て、

  ――― きゅう〜ん

 直に触れていた胸元には少々擽ったかったつややかな毛並みが、淡く光ってすうっと消え失せ、小さな体が健やかに伸びてゆく。上背のあるゾロの、通勤着のスーツの懐ろから肩口へと、撓やかな腕がするりと伸びて来てまとわりつき。お膝には…これもやはり瑞々しい肌に包まれたすんなりとした脚が、剥き出しのままにするすると、まるで蔓草のような撓やかさで伸びて来て。

  「………ルフィ。」

 シェルティの姿の時の毛並みを膨らませる動作のように、ふりふりと揺すられる真っ黒な髪がやわらかく弾み、黒みが滲み出して来そうなほど大きな琥珀の瞳の下、するんとふかふかの頬や小鼻も愛らしい、愛しい坊やのお顔がすぐ眼下に現れる。シェルティの姿からの変化(へんげ)の後なので、当然のことながら、一糸まとわぬ なめらかなお肌のみという素裸の彼であり、
"…う〜んと。/////"
 きゅうっと抱きつかれているので、実際に見えるのは小さな肩やお顔のすぐ下の鎖骨辺りと、腿から下の脚全部…というところだが。ふかふかの髪に鼻先を埋めれば、そこから望める剥き出しの背中の、幼いながらも撓やかなラインと、真白き肌のその輪郭をぼんやりと辺りの暗がりへと滲ませる案配の、何となまめかしいことかと、少々ドキリと心音が跳ね上がるわ。ココナツのようなキャラメルのような、甘い香りが匂い立ち、容赦なく鼻孔を擽るわ。
"いかん、いかん。"
 スーツ越しとはいえ、密着している柔らかな肢体もまた、何とも言えない魅惑の温もり。何といっても愛しくて大切な存在には違いないのだからと、ついついグラグラしてしまう旦那様だが、何とか…ぎりぎりで踏みとどまって"ん、んんっ"と咳払い。
「なあ、どうしたよ。」
 そんなにも遅かったか?と、ひょいっと軽く揺すぶるようにして、横手からお顔を覗き込めば。

  「………あの人、誰?」

 こちらの胸板と坊やのお顔と、ほとんどくっつけたその狭間から、こそりと聞こえた小さな一言。
「あの人?」
 こっちを向かない坊やの髪を見下ろしながら、んん?と小首を傾げた旦那様だったが、
「ああ、あれは代行さんだ。」
 見覚えのない青年。ゾロの車を運転して、一緒に帰って来た他所の人。車の音にワクワクってして、ちょっとでも早くお顔が見たいからって外に出たルフィのお鼻に届いたその人の匂いが、何だかちょっと…いやいや"とっても"。気になってしようがなかった。
「だいこーさん?」
「うん。車をな、代わりに運転してくれるっていうお仕事の人だよ。」
 判らないことを幼い声で訊き返してくる、いかにも子供子供した語調に何となく肩から力が抜けて。ルフィを抱えた腕を片腕ずつ交替させながら、スーツの上着から腕を引き抜くとそれを坊やの肩に掛けてやる。麻地の薄い生地だし、冒頭に触れたがここいらの宵は結構冷える。毛皮のなくなった小さな肩や背中が寒そうに見えてのことだったのだが、
「ふみ…。」
 大好きな匂いのするジャケットに包まれたことで、少しは気持ちが落ち着いたか、襟元へ頬をすりすりと擦りつけて見せ、
「どうして? ゾロ、お怪我とか したの?」
 まるで自分の手足みたいに、それは軽々といつも運転している彼なのに。きゅう〜んと見上げた、今はやさしいお顔。でもね、車のハンドルを握ってる時は、それはそれは きりりと冴えていて。切れ長の眸やかっちりとした口許が男臭く映えてカッコよくって。大きな手で軽快にハンドルを捌いては、あっと言う間に隣り町のショッピングモールとかツタさんのお家とかに着いちゃうのに。ルフィが走ってくのなんかちっとも追いつけないだろうスピードで、座ったまんまで着いちゃう不思議。………いや、そうじゃなくって。
「お酒で酔ってたんなら、冷ましてから帰って来てって言ったじゃん。」
「だから…。」
 さっきの人は、そういう事情で運転しない方が良い時に、代理で運転してくれるっていうお仕事の人なんだと。どの辺が酔っているのやら、はっきりくっきりした口調で説明したゾロであり。

  「じゃあさ、じゃあ。
   送ってくれてありがとうって言って、
   ちょっと上がってってお茶でもいかがですかなんて言って、
   そいで、なんか見つめ合っちゃって…
   その後、急に仲良くなっちゃうよな人じゃないの?」

  ――― おいおい、坊っちゃん。
(笑)

  「………。」

 成程、そういう誤解から何だか様子が訝
おかしかったのかと。納得がいったその途端、さすがのゾロもこれには呆れて、
「今時のどんなドラマに出て来たんだ、そんな奴。」
 あやや、見透かされちゃったと、再び首を縮めて…すぐお向かいの頼もしい胸板へ、やわらかい頬をくっつけ直す小さな奥方だ。
「なぁ〜んだ。違ったのか。」
 深々と安堵の溜息をつき、良かった良かった、うんうんと。自分の早とちりに後足で砂を掛け、どうやらそのまま"なかったこと"にする模様。
"…こいつはよぉ。"
 焼き餅なんかやいてみたのは、いつまでも"子供"じゃないからこそのこと。とはいえ、その浅慮のほどは…やはり子供の思考の圏内という代物であり、複雑なんだか単純なんだか、思春期過渡期の子供の何ともややこしいことよ。
"でもまあ…。"
 独占欲とは一味違う"嫉妬"という感情を抱いたというのは、間違いなく彼が大人になりつつある証しかも。
「んん?」
 何にも言わないこちらを見上げて来た無邪気なお顔の、何とも愛らしき大切な人。文字通りの"天然自然児"だけれど、ただただ無邪気なだけではなくて。ホントは傷つきやすい寂しがり屋なくせに、お日様みたいに屈託なく振る舞っては人の心を温かくする、やさしい精霊の末裔。小さな肢体を腕の中、ふわりと抱きすくめ、
「誤解は解けたんだな?」
 あらためて訊くと、ちょこっとばかり…照れているのかモジモジとゴソゴソと頬でこっちのシャツ越しに擦りついて来たものの、
「…うん。もう誤解してない。」
 こういうこと、曖昧にはしないゾロだとちゃんと判っているルフィだから。きちんと答えて、顔も上げて、
「ごめんなさい。」
 きっちりと謝って、けじめは守った。そしたら、ほら。柔らかい明かりの中、精悍なお顔がにこりと笑ってくれて、
「よっし、判った。」
 いい子だと頭を撫でてくれて、
「腹、減ってないか?」
 酒宴では簡単なつまみしか出なかったから、ラーメンでも作って食べようか? さっきまでのお説教はどこへやら、悪戯を持ちかけるみたいなお顔になるゾロだったりする。うんうん、でもツタさんには見つからないようにね。言って下されば作りますって、お仕事増やしちゃうからね。おでことおでこをくっつけ合って、くふふって笑って、さて。ルフィはパジャマに着替えて、ゾロもスゥエットの上下に着替えて。二人の悪戯っ子たちがこそりとキッチンまで降りてゆく。ほのかに草の香りをはらんだ、冴え冴えと澄んだ高原の夜気の中。天穹にぽっかり浮かんだ三日月が、苦笑混じりに…大きな悪戯坊主と小さなやんちゃ小僧を見下ろしていたそうな。




   〜Fine〜  03.7.23.


  *こっそりお夜食大作戦は、夜の部は成功したものの、
   お丼を洗い忘れるという"詰め"を怠ったため、
   きっちりツタさんにばれたそうですので、念のため。
(笑)


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