秋の こもごも
 

 “物想う秋に…… 



成程、人ならぬ身の成した奇跡の集約と、説かれずとも理解が及ぶ、
それは神聖にして荘厳な、奥深さと壮大さと、
それと同居する得も言われぬ巧緻で美しい在りようとを
泰然と呈しているのが天聖界で。
冒しがたい澄み渡った空気や 清涼な光をたたえた空の色が何とも清かで、
心傷ついて憔悴しきった人には思わずの涙を誘うよな
それはそれは繊細精緻な空間もあれば。
地上の縮尺感覚でいると、どこまで近づいても辿り着けないのが不思議でならない、
そのくらいに桁外れに巨きな樹だとか、
柔らかな色合いの花々が地平の彼方まで埋め尽くしているような、
強張り竦んだ心持ちを緩やかに開放してしまう、
それはそれは暖かで伸びやかな癒しの苑も存在し。
利他的で心優しく、ただただ正直者であっただけ、
なのにそのせいで様々に苦しみ、
辛かった生涯を送った人の和子らを
暖かく迎え入れるところがキリスト教の天乃国ならば。
輪廻転生を経てのこと、
長きにわたる苦衷という修養を巡ったその末に、
解脱を得んとする衆生らがまずはと至るのが仏界の浄土で。
“浄土”の概念的な意味合いは“清浄で清涼な世界”のことであり、
例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、
いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで衆生に向けて説法しておいで。
そこへと至った人々は、そのまま成仏できるのではなく、
それぞれに界を築いた如来の説法を聞いて菩薩行を積み、
その末に仏になることができるのだそうな。
例えば、極楽浄土というのは厳密には阿弥陀仏が築いた浄土で、
(釈迦牟尼様が教えを説いているのは “無勝荘厳国”)
極楽往生というのは、極楽浄土へ行けるということだが、
そこでさらに修行をしてから、ようやく成仏できるのである。
それは清かな地にて、向上心あふるる衆生らが菩薩として学ぶのと相対し、
豊かな教えを説く如来様たちの中でも、
殊に勤勉で真面目な慈愛の如来として知られる 我らが釈迦牟尼様は。
生前も“解脱”の境地に至るためにはどうすればいいものかと、
バラモンの僧に混じって、若しくは孤高のままに それは様々な苦行をなさり。
ありとあらゆる苦衷を試されたその末、
菩提樹の木の根方にて心静かに瞑想なさって 悟りを開かれたのであり。
苦行をすれば辿り着けるという境地ではないということ、
六年もかかってしかも我が身で体得されたわけなれど
…それはそれとして。
体や心をきゅうきゅうと苛めばいいというものではないのは承知だが、
広い広い世の中には、本当に様々な立場や境遇にあった人がいる。
王子として生まれ育った自分には 想像さえ及ばぬような、
辛くて辛くて人を信じることさえ出来ないような生き様を経た衆生も少なくはなく。
そのような存在には、なかなか言葉も通じないもの、
どうすれば悟りを開いて心穏やかな解脱に至れるものか、
渇望するも 道理への理解がどうにも吸収できない相手に
果たしてどう諭せば通じるのだろうかと。
相手の心情を知るために必要だからという意味合いからの
苦しい修業を更に積むこともいとわない尊であり。
周囲をお護りし、説法のお助けをつかさどる頼もしい弟子たちも、
時に無茶をなさらぬでもないほど勤勉すぎる師範様には、
お慕いする尊師の身を案じ、ただただハラハラすることも少なくはなかったとか。


 利他的な心根ゆえにとはいえ、堅物なところがいつまでも抜けず、
 そうまでも、説法への研究勉学、
 はたまた厳しい修養にばかりかまけておいでだった釈迦牟尼様だが

 ご本人にも不意打ちな出会いを機に

 比べるまでもないとしたそれらと並べて
 なのに ああどうしようかと優先順位を悩むよな、
 彼にとってはやや不慣れな動揺を招くよな、
 心惹かれる、気になってしようのない存在が現れて…。



      ◇◇◇


まだまだ体を動かせばじんわりと汗ばむし、
陽盛りの下におれば、熱中症の用心がいるほどではあるが。
それでも真夏の酷暑に比べれば段違い、
木陰におれば半袖だとうすら寒くなる間合いも出てきたほどに、
加速をつけてという勢い、日に日に秋がその訪れを感じさせる毎日で。

 「…あ、」

とはいえ、陽盛りに立ちん坊では日射病になりかねぬと、
そろそろ色づく準備中かと思わせる佇まい、
秋の陽の感傷に染まりつつあるポプラの木陰で
少々所在なさげな風で立っていたとある男性。
日本人ではないのだろうなと、一目で悟らせるような、
目鼻立ちのくっきりした彫の深い風貌は、だが、
どこか富貴な匂いのする端正さで整っており。
それでいて折り目正しい人性を思わせる、
誠実廉直さを滲ませてもいて頼もしく。
どうかすると融通の利かなさそうな気真面目さを匂わせつつも、
視野の中に見つけた何かへ ぱあと微笑んだお顔は、
屈託がないまでに まろやかで柔らか。

 「ごめんごめん、待った?ブッダ。」

そんな彼の待つところへと、彼にとっての全速力なのだろう、
必死の加速でたかだか駆けて来たのが、
茨の冠を額周りという頭へ巡らせ、
それで押さえられた濃色の髪を長々と背中まで下ろした、
こちらも目鼻立ちの冴えた風貌、異邦人の男性と来て。

 「あら。」
 「ブッダさんとイエスさんだ。」

此処、立川のハッスル商店街近辺では、
もはや知らぬ人はないほどにこそりと有名人。
人のいい、憎めない外人さんとして、
小学生から女子高生、奥様層やお年寄りにまで
周知の幅を広げつつある二人組であり。
最聖人であることまではさすがに知られちゃいないが、
包み隠しているのだかどうだかも時に怪しいほど
穢れない、若しくは教義をなぞる頓珍漢な言動が飛び出しもするの、
面白いお人だねぇと受け止められているのは
果たして……そこも人柄というものであるのだろうか。(う〜ん)
それはともかく。
ここ数日ほどは雑貨屋さんの店頭での販売員という
秋の頭の恒例アルバイトをこなしていたお二人。
夕方前に上がりとなる 短時間の店番もどきではあるが、
まだ短縮授業らしい近辺の女子高生らが
昼食やら部活の買い出しやらでやって来るのへの十分な客寄せになってもいて、
周辺のお店の方々からもありがたがられておいでであり。
それが終われば、スーパーや商店街にて夕飯に要りそうな買い物をし、
二人並んでアパートまで帰るのが常となっている…のだが。

 『あ、今日って○○の一番くじが始まる日じゃない。』

相変わらずのサブカルおたく。
ブッダには耳慣れない何かしらの 売り出しの日(?)であるの、
唐突に思い出したイエスだったようで。

 『なに? コンビニ行くの?』
 『うん・あ〜っと、ブッダはお買い物に行っててよ。』

何を買うのか知られるのが、子供っぽいなと思われそうで恥ずかしいのか、
ちょっぴり焦ったようにそうと勧めるヨシュア様だったものだから、

 『判ったよ。じゃあ、出口の先の広場のところで。』

商店街から住宅街の方へと向かう側、
形ばかりの駐輪場とポプラの木陰でちょっと一休みができる空間がある。
そこでの待ち合わせをしようと手短に言ったブッダの方が
買い物の選定や何やを思えば遅れる側だろうはずが、
待たせては悪いなぁと急いだ彼が着いた木陰には誰の姿もなくて。
あれまあと苦笑をし、
ややあってヨーグルトがぬるくならないかなぁと
案じ始めた辺りでやっとこイエスが駆けて来た次第。
余程に慌てて駆けて来たものか、
それほど遠かったはずはないというに、
お膝に手を置いてのゼイゼイと息を切らせ気味という態であり、

 「ご、ごめんね。つい話し込んじゃってて。」

問いかける前からポロリとそんな云いよう うっかり漏らしてしまい、
ブッダの口許へ再びのあれまあな苦笑を引っ張り出した、
相変わらずに馬鹿正直なメシア様。
こちらの虫の居所によっちゃあ、
何だよそれとあらぬ悋気を起させたやも知れぬというに、と。
他でもないブッダ本人に思わせておれば世話はなく。

 「それほど待ったわけじゃあないよ。」

気にしないでとけろんと笑って、
じゃあ帰ろうかと松田ハイツまでの道を歩み出すブッダだったのへ。
わあ、あのあの、わたし荷物持つからと、
罪滅ぼしのつもりか、
ほんのちょっぴりの買い物が入ったビニールの手提げ袋を貸して貸してとねだるので。
じゃあお願いしよっかなと、はいと笑顔つきで差し出して。
早すぎ 前倒しの秋に追い立てられつつあるらしい蝉が
どこか遠くでか細く鳴いているのを聞きつつの帰途につく。

 “そういえば…。”

天上にいたころも、
たまに日時を切っての待ち合わせをしたら、いつも必ずイエスの方が遅刻していた。
お互いそれぞれの界にては主幹格、よって忙しい身の二人でもあって、
それでも顔が見たい、声が聞きたいからと、
浄土と天乃国の接する辺りの森にあった、
どちらの領でもない“端境の庭”へとようよう運んだ彼らであり。
必ず逢えるという保証はないし、実際、逢うことが叶わぬ日もあったしで、
約束はしない逢瀬の切なさ甘酸っぱさを、
その胸のうちへ抱いて帰ったものだったれど。

 『今回のはキミから言い出した待ち合わせでしょう。』
 『ご、ごめんね。』

彼もまた何かしら神通力のようなものが使えように、
自前の足で急いできましたという証、
やはりぜいぜいと肩で息をして謝り倒してくれたっけ、と
懐かしい一コマを思い出し、
そのまま、ああでも…と、
釈迦牟尼様の端麗な眉がそっとひそめられたのは、

 “でも、その遅刻は 結局私のためというものが多かったかな。”

せっかく咲いてるところを摘んでしまうのは可哀想だからと、
その姿をだけ刻み込むよに記憶した、瑞々しい天乃国の花々を、
ぽぽぽんっと奇跡の力で宙から取り出し、
どうぞと渡してくれたこともあったし、
今日だけはいいお天気であってほしいのと駄々をこね、
数日ほど前倒しで自身の光の力を降りそそぎ、
天界の風渡し、穏やかであれとの修正を施したらしい日もあったりという、
後から何とはなく背景が分かったケースも結構あって。
バレてしまっては何にもならない、
そんなような、洗練とは程遠い野暮ったさが、
だがだが、天真爛漫な彼らしい優しさだなぁなんて
感じ入ったところまでもを思い出してしまったブッダ様だったりし。

 “今回もそうだとは思わないけれど。”

ちらりと見やれば、何か訊きたそうなこちらだと気がついたか、
んん?と小首を傾げる子犬のような無邪気さと、
だがだが、それを滲ませたお顔の、冴えた精悍な造作の男ぶりと。
ブッダにすれば後輩にあたり、
無邪気で可愛らしい弟分だという思い込みがあんまり過ぎたがため。
実はその身の内にて、
他でもないブッダへの、明かしてはならない恋心を抱え、
悟られないようにと息を詰めつつも、
出来うる限りの気遣いや優しい慈しみ、
懸命に降りそそいでくれていた彼だったのに。
そんな懐ろの深さにまでは、
こちらでの二人暮らしの中、
自分の内なる恋心に目覚めるまで 全くもって気づくことはなかったわけで。

 “それを不甲斐ないなぁと思うのは、
  それこそ思い上がり、傲慢な心持ちなのかなぁ…。”

イエスはいつも、
あくまでも自分が甘えたいからだと照れたように笑って、
“ねぇ、いぃい?”とお伺いを立ててのそれから
ぎゅうと抱きしめてくれたり、やさしく甘いキスをしてくれる。
ああでも、それだって本当はどちらが甘え甘やかされているものか。
例えば、さあどうぞと双腕を開いて待ち構えられても素直になれぬ、
自分からは甘えかかれぬ 初心なブッダなのを思いやり、
そちらから幼子がするように甘えかかってくれているのかもしれず。

 「ぶっだ?」

言葉少なになり何かしら考え込んでるみたい?と、
こちらの様子へ気づき始めたイエスなの、さすがにブッダにも伝わってきて。

 “じゃあじゃあ、あのね?//////////”

アパートに戻ったそのまんま、
イエスのことをぎゅうと抱きすくめたら、彼は一体どんな顔をするのだろうか。
不意打ちには弱くって多少なりとも驚く彼へ、
果たして自分はすんなりと、
甘えたくなっただけと…噛まずに口にできるのだろうか。

 “…よっし。”

こらこら、そこで握りこぶしを作るから、
ぎくしゃくしてしまうんじゃないですかと、
涼しい風の中、ゆずの鉢植えに遊ぶアゲハが
ふわふわ踊りつつも見てござった 初秋の宵間近…。






    〜Fine〜  15.09.12.

*背景にお借りしました 『SODA DROP』様


 *そういえば拍手お礼も長らく差し替えていませんでしたね。
  (それを言ったら、
   他のお部屋なんてもっとすごいことになっているのですが。)
  秋めく雰囲気に ついついよしなしことを思うブッダ様なぞ一席。

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