「父の娘」たち

森茉莉(1903-1987)と幸田文(1904-1990)

last updated:2001/10/17




しょっぱなから言い切ってしまえば、私は幸田文よりも森茉莉の方がずっとずっと好きだ。森茉莉については、高校時代からの愛読書で、数年前に全集が刊行されたときは一巻ずつ出るたびに買って揃えたほどだけど、正直な話、幸田文は最近になって必要に迫られるまでまったく読んだことがなかった。だけど、たしかセンター試験を受験したときに国語の問題で「おとうと」の一節が取り上げられていたのを覚えているから、名前ぐらいはその頃から一応知ってはいたのだろう。

さらに告白してしまえば、彼女たちの偉大なる父親、明治の「文豪」である森鴎外と幸田露伴の作品も数えるほどしか読んだことがない。でも、彼らが娘たちにどのように接し、娘たちをどのように育てようとしたかについては、それぞれの娘たちの回想を通して、やたらと詳しくなってしまった。いっしょに文芸時評をしたこともある鴎外と露伴だけれど、父親としての教育方針はまるで違っていたようだ。観潮楼の鴎外は長女の茉莉をひたすら溺愛し、決して叱らず、家事なんかちっともやらせなかった、だから茉莉は何もできず何も知らずに成長した(ただし学校の成績はよかった、と茉莉本人は主張している)。茉莉は結婚直前の自分を回想して「真っ白な卵」と形容する(「記憶の絵」)。一方、蝸牛庵の露伴は次女(長女は夭折)の文を、徹底して厳しく躾けた。彼女の生母である最初の妻を亡くし、その後迎えた二番目の妻と不仲だったこともあり、娘に一家の主婦としての役割を期待して自ら家事全般を仕込んだのである。家事だけでなく、畑仕事もやらせたし、知識としての性教育までも彼は娘に施した(「こんなこと」)。

どちらにせよ彼らは偉大すぎる父親たちだったのであり、その後の娘たちの人生に大きな影響を及ぼした。森茉莉も幸田文も、一度は結婚して父親の手元を離れていったのだが、ふたりとも結局離婚して実家に帰って来てしまう。そうして、父の死後、周囲から求められて父にまつわる回想を書いて発表し、作家としてのキャリアを中年になってからスタートさせることになった。彼女たちの父親がいかに偉大だったと言っても、まさか娘たちが自分と同じ作家として生計を立てるようになるとは想像もしてなかったことだろう。さらに、彼らの教育の違いがそのまま彼女たちの個性の違いとなり、その個性によって彼女たちがまったく違ったタイプの作品を産出し、それぞれに読者を獲得して、長命をまっとうしたその死後には全集まで出版される、という事態は、まったく予想外の展開だったに違いない。

おそらく、森茉莉と幸田文の共通点は、彼女たちが「父の娘」として書き始めた、というその一点にひたすら尽きるのかもしれない。ふたりを並べて見てみよう、と思いついてはみたけれど、そうしたスタンスで書かれた文章は、室生犀星と、森田誠吾『明治人ものがたり』(岩波新書)の中の「マリとあや」という評伝ぐらいしか見つからなかった。森茉莉は幸田文に一度だけ会ったときの印象を短いエッセイにしてるんだけれども、幸田文の方が書いているのは、茉莉の妹の杏奴(彼女も鴎外の思い出を発表している)についてで、茉莉について書かれたものはないらしい。彼女たちはそれぞれ同じように父の名に娘として飽きれるほど結びつけられてきたし、同じ時代、同じ東京に同じ作家として生きていたのに、なぜ出会わなかったのだろうか。どうしてふたりを結びつけようとする人は少ないのか。ちょっと読み比べてみれば、その答えはすぐに頭に浮かんでくる。そう、「父の娘」として書き始めた同世代の女性作家である、というその点を除いては、ふたりがあまりにも異質だったからだろう。

露伴の教育の成果として、文はしっかりとした大人の女性になった。とにかく家事能力、生活能力が身に付いている。嫁ぎ先の酒屋の経営が傾いたときは自らも率先し働いたし、戦時中も病床の露伴の舌を満足させるために病身をおして食材を仕入れてきたと言う(青木玉『小石川の家』)。露伴の死後は商売がしたかったらしいし、作家になってしまった後に一度断筆宣言をしたときは、本気で女中奉公に出た。その就職が結局は破綻したために生み出されたのが『流れる』という小説である。『流れる』は戦後の時勢の変化とともに衰退していく芸者屋の明暗を、クレイバーな女中の視点から描いた作品で、高い評価を受けた。一方、茉莉はおばあさんになっても少女のままだった、鴎外の教育の結果として。とにかく無能、ものを書く以外ではとても生きてはいけなかったのである。「私に常識はあるのか?」とわざわざ書いたエッセイがあるくらい、自覚はしているもののどうしようもなく常識外れだった。戦時中は疎開先で厄介者扱いだったらしいし、食べ物を自分で手に入れられずに胡瓜の皮を人から貰って食べていた。戦後に小説を書くようになっても、取材なんかできやしない。そこで、映画俳優女優の写真からイマジネーションを紡ぎ出すことになる。そうして書かれたのが『恋人たちの森』だった。美青年・ギドウと美少年・パウロの激しく美しい恋愛は、発表直後に三島由紀夫に激賞され、今でも「少年愛小説の元祖」として支持されている。そうして小説を執筆するために整えられた自分ひとりの部屋に森茉莉は執着していた。それが「贅沢貧乏」をはじめとする数々のエッセイに描かれた部屋である。自身の趣味によって厳選された完璧な色彩と小道具によって彩られた夢の部屋として描き出されるその部屋は、実際は取り壊し寸前のボロアパートの一室だった。そこに足を踏み入れることを許された親しい人々が描写するその部屋の様子は、あまりにも凄まじい。どう見てもゴミとしか思えない物体が累々と積みあがっていたとか、ベッドの下にはキノコが生えていたとか、床にも天井にも穴が開いていたとか。そこは一部ではひそかに「東京の秘境」と呼ばれていたという。

ここ1カ月くらいまとめて読んだ幸田文の文章は、どれもこれも端然と、きちんと、すっきりとしている。幸田文というひとはとにかく「背骨」である。幸田文と言えば、四季折々に合わせて選ばれた着物のすらりとした立ち姿であり、背中に物差しを突っ込まれて伸ばしたという姿勢の正しさであり、まっすぐな折り目切れ目である。それに対し、森茉莉は自ら書いているように、「ぼんやりさん」であり、「ぐんにゃり」である。「背骨」なんかない。ただひたすらだらだらしているのである。「マリアの気紛れ書き」はあちらこちらに脱線しながらどこまでも連なっていく。幸田文についての回想が彼女の和服の凛とした佇まいとさっぱりした語り口について伝えるのに対し、森茉莉についての回想は彼女の異様な姿と奇妙な言動について語られている。幸田文は露伴の要求に応えるべく鍛え上げた料理の腕を持っていたが、森茉莉は「貧乏サヴァラン」たる自分の美食を貫くべく不思議な食事を作っていた。幸田文が、箒で掃き清められた畳の上に、眠るときにだけ着物を手直しした美しい布団(青木玉『幸田文の箪笥の引き出し』に写真がある)を敷いてその上にまっすぐにその身を横たえていたのに対し、森茉莉は紙屑だらけのベッドに四六時中まるまっていた(生前の森茉莉を自室でインタビューしたときも彼女はベッドに寝ころんだままだった、と中野翠が書いている)。

要するに、一言で言えば、幸田文は真人間だけれど、森茉莉は変人以外の何者でもないのである。森茉莉を好んで読む読者にとっては、幸田文はマトモすぎて物足りないし、幸田文を好んで読む読者にとっては、森茉莉はヤバすぎて受けつけないはずだ。冒頭に書いたように、私自身は前者である。幸田文の生活者としての強度より、森茉莉の想像力の強度に魅かれてしまうのだった。そんな肩入れを別にすれば、彼女たちの書いたものはどちらも非常におもしろいし、それぞれに読む楽しみが、ある。




→文庫で読み比べる森茉莉と幸田文

keywords森茉莉幸田文comments
父もの『父の帽子』講談社文芸文庫『父・こんなこと』新潮文庫「父の娘」たちのデビュー単行本、彼女たちの原点。「おまりは上等」の優しいパッパ・鴎外、「あとみよそわか」の厳しい父・露伴。
少女時代『記憶の絵』ちくま文庫『みそっかす』岩波文庫
『草の花』講談社文芸文庫
明治生まれの大正期の少女としての「父の娘」たち。最初の記憶から離婚までを近況を交えながら書き綴った『記憶の絵』、出生から小学校卒業までを回想した『みそっかす』と女学校時代を書こうとした「草の花」。
出世作『恋人たちの森』新潮文庫『流れる』新潮文庫作家としての代表作。芸者屋の女中志願実体験に取材した『流れる』と妄想全開ホモセクシャルなロマネスク『恋人たちの森』。あまりにも対照的!
自伝的長編『甘い蜜の部屋』ちくま文庫『きもの』新潮文庫虚構化された少女時代、これもまたみごとに対照的。父に溺愛されながら成長する朦朧美少女・モイラのコケットリーを描いた『甘い蜜の部屋』、祖母に鍛え上げられて成長する真面目しっかり少女・るつ子の着物との関わりを描く『きもの』(未完)。
晩年『ベスト・オブ・
ドッキリチャンネル』
ちくま文庫
『木』新潮文庫
『崩れ』講談社文庫
「父の娘」たちの老後の仕事。インドア/アウトドア。密室から言いたい放題毒舌テレビ評「ドッキリ・チャンネル」、現地まで足を運んで日本の木々・山々を見つめる『木』『崩れ』。


※森茉莉・幸田文ともに上記した以外にも文庫本・単行本多数。
※全集:『森茉莉全集』全8巻(筑摩書房)、『幸田文全集』全23巻(岩波書店)。



→森茉莉・幸田文リンク

┼ 森茉莉
<<< 黒猫ジュリエットへの手紙/さおにゃんさん
<<< La Mia Libreria/黒茶ねずみさん
<<< ル・ペニュワール/早川暢子さん
<<< 森茉莉ドット文学館/白川宗道さん
<<< 森茉莉浪漫館/姫崎せりかさん


>>back