『足利氏・佐野氏と小野寺氏における一考察』 |
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1.【はじめに】 |
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2.【義寛の出自を探る】 |
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【藤姓足利氏・佐野氏系図】(史料1) |
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『鎌倉の豪族T』所収「藤姓足利一族系図」 『佐野市史』資料編1原始・古代・中世所収「校註佐野氏系図」 をもとに著者作成。 |
【住林寺本尊胎内銘(1183年)】(史料2) |
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3.【義寛の諱の謎を解く】 |
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【法龍山本源寺什宝日目上人日道上人御系】(史料3) |
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4.【藤姓足利氏と小野寺氏】 |
保元元年(1156年)に小野寺義寛は小野寺郷に館を建てた。これが小野寺氏の始まりという。 |
【足利・小山武士団の分布図(「鎌倉の豪族」1より)】(史料4) 赤字=足利勢力 青字=小山勢力 |
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5.【足利一門としての小野寺氏】 |
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6.【足利氏の落日と小野寺氏】 |
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7.【足利氏の滅亡と小野寺氏】 |
寿永二年(1183年)二月、常陸国で志太義広(源頼朝の叔父)が鎌倉方(源頼朝)に反旗を翻した際、足利俊綱はこれに呼応しようとした。当時、関東では武家の棟梁として、源氏の嫡流である頼朝が着実に武士の心を掴みはじめ、多くの武家が集まりはじめていた。この風潮の中、敢えて足利俊綱・忠綱親子が反鎌倉側に加勢しようとした背景には、足利嫡家がかねてから平家と密接な主従関係にあったこと、また下野国の雄、小山氏が源頼朝(鎌倉方)に加勢したため、これを機に小山勢を排除し下野国内における覇権争いを優位に進ようという野望があったためと思われる。 |
【遠江権守書状(1338年)】(史料5) |
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8.【佐野氏と惣領小野寺氏】 |
@小野寺道親は建武年間記(1334年) に関東廟番に任命された事が見任でき、同時に「遠江権守」の受領名であったことも確認できる。小曽戸文書はその四年後であること、またその後の文書にも道親と比定できる人物が「小野寺遠江入道」と称していること。以上のことより、この文書の差出人は小野寺氏の惣領であった道親と判断したい。 |
9.【佐野氏と下野小野寺氏】 |
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【参考文献一覧】 | ||||||||||||||
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