足利・佐野氏と小野寺氏







『足利氏・佐野氏と小野寺氏における一考察』

【目次】

1.【はじめに】
2.【義寛の出自を探る】
3.【義寛の諱の謎を解く】
4.【藤姓足利氏と小野寺氏】
5.【足利一門としての小野寺氏】
6.【足利氏の落日と小野寺氏】
7.【足利氏の滅亡と小野寺氏】
8.【佐野氏と惣領小野寺氏】
9.【佐野氏と下野小野寺氏】(未稿)
  【参考文献一覧】






1.【はじめに】


 建仁三年(1203年)四月八日、小野寺氏初代の義寛は八十年の人生を終えた。今から遡ることちょうど800年前のことである。現在、義寛の存在を示す史料は、「小野寺系図」と、「住林寺本尊胎内銘」の僅か二点であり、その生涯のすべてを語り尽くすのはとても困難である。しかも近年「住林寺本尊胎内銘」が発見されるまでは、「義寛」は架空の人物ではないかという推測がなされおり、とても謎が多い人物でもある。ここでは、義寛入寂800年を祈念し、始祖義寛・二代目道綱の時代を中心に「小野寺氏の出自」及び「藤姓足利氏と、佐野氏、小野寺氏」を地縁的、血縁的関係を基に論じてみたい。時には矛盾だらけの根拠もない「論理の飛躍」と嘲笑われるかもしれないが、何卒ご容赦願いたい。

                             平成十五年六月
                               小野寺 維道



2.【義寛の出自を探る】


 広く小野寺氏は、首藤氏族もしくは藤原秀郷流の血を汲むと考えられている。事実義寛の妻は藤姓足利氏(下 史料1参照)であり、その子である道綱以降はこの血が組み込まれ、秀郷の子孫という事は明確である。多くの歴史書で小野寺氏を秀郷流と呼ぶのは足利氏との血縁関係に影響されているものと考えられる。それでは、道綱の父、義寛は果たして藤原氏の出であったのだろうか。このことが小野寺氏を語る上で疑問として残るのである。
 小野寺系図は数本にわたり多種多様ではあるが、下野小野寺系図は義寛を首藤通義(義通)の子としている。また義寛の経歴は、京都で滝口の武士をしていたが源為義に従い度々勲功があり、「義」の一字と小野寺郷を賜うと系図に記されている。
 まずは義寛が首藤氏の出自であるかどうかを検証したい。
下野小野寺系図で義寛は山内首藤通義(義通)の子で、なおかつ俊通の弟としているが、室町初期の諸家の集大成である「尊卑分脈」の山内首藤系図には「山内首藤義通−俊通」とだけ書かれており、義寛もしくはそれに相当すべき人の名が記されていない。ただ単に記載を漏らしてしまっただけであろうか。
 つづいて小野寺氏関連史料にも首藤氏と関連する記載が見られる。「小野寺連通譲状(1404年)」に「小野寺守藤瀧口重代相伝名字之地」とあり「守藤」=「首藤」を意味し、義寛が首藤氏の出自であることを言わんとしている。しかし、この史料は義寛の没後200年以上経過しており、またこれ以前にも同様の譲状2点が存在するが、それには小野寺が首藤氏かどうかは全く触れられていない。
上記2点から、小野寺義寛=首藤氏というのは、後からつけられたという感が否めない。
 さらに、小野寺氏最古の史料とされる「住林寺本尊胎内銘(1183年)」にも義寛の出自を窺わせる記事がある。
 文中(史料2参照)に仏像製作の経緯について「芳縁藤原氏同心合力結構也願以此功徳過去二親藤原氏過去二親」とある。ここで注目したいのは「過去二親」という文字である。最初に出てくる「過去二親」は義寛の両親を意味しているという(「中世の小野寺氏」)。また、そのあとに出てくる「藤原氏過去二親」は義寛の妻、つまり乙姫の両親を表しているという(「同書」)。ともすれば、「藤原氏過去二親」は足利俊綱とその妻の事と考えられる。この二つを比較すれば判るのだが、足利氏の部分には「藤原氏」が明記されているのに対し、義寛の両親の部分には「藤原氏」の文字が明示されてされていない。義寛も藤原氏の出身であれば小野寺側にも「藤原氏過去二親」と記載するのが自然ではないか。
 また文末に義寛の子、道綱に至っては「藤原道綱」と明確に記されているのに対して義寛は「大法師義寛」と記してある。「大法師藤原義寛」とでも記されていれば出自は明確であるが、入道名に俗姓は記さないのが倣いとも充分考えられるが、藤原氏であればこちらも出自を示すのが自然ではなかろうか。藤原道綱は前述のように母方、足利氏の血脈を物語っているのであろう。
 以上「尊卑分脈」、「小野寺譲状」と「住林寺本尊胎内銘」を論拠として、義寛は藤原氏の出自でなかったと考えるのである。
 それでは義寛はどのような出自であったのだろうか。
推測するに小野寺の地を古来から支配した小豪族、もしくは寺院勢力の支配者階級ではなかったのであろうか。円仁の建立した大慈寺を支配下に入れ、権力を得て肥大化、僧兵や地域を支配する至り小野寺の地主となった一族ではないのか。小野寺の地も、恩賞により賜ったのではなく、元々の所有地で、鎌倉期に至って数々の武功により本領安堵を受けたのではと考えるのが自然であろうか。のちの子孫が数多く僧籍に身を置いたのも単なる偶然ではないように思えるのである。




【藤姓足利氏・佐野氏系図】(史料1)
藤姓足利氏・佐野氏系図
『鎌倉の豪族T』所収「藤姓足利一族系図」
『佐野市史』資料編1原始・古代・中世所収「校註佐野氏系図」
をもとに著者作成。



【住林寺本尊胎内銘(1183年)】(史料2)
住林寺本尊胎内銘(1183年)




3.【義寛の諱の謎を解く】


 多くの書物で小野寺義寛を「おのでら・よしひろ」とふりがなを振るものがほとんどであるが、「住林寺本尊胎内銘(1183年)」には「僧義寛」「大法師義寛」とあり、正しくは「義寛」が入道名で「ぎかん」と読ませることが判る。
 では俗名は何であったかが気にかかるところである。
小野寺氏は代々「道」を通字にしているので、義寛も「道」の一字を用いていたことは容易に想像がつく。その謎を解くヒントは『佐野市史』資料編1原始・古代・中世所収「校註佐野氏系図」(以下、「佐野氏系図」と記す)と「法龍山本源寺什宝日目上人日道上人御系」(以下、「新田氏系図」と記す)に隠されている。
 それでは個別に触れていきたい。まず「佐野氏系図」(上 史料1参照)であるが系図中に「道綱」の名が明記され、信憑性は高いようである。
ここで注目したいのは「道成」である。この人物こそが「義寛」であったのではないかと考える。義寛の妻は足利家綱の孫「乙姫」とされ、系図上もそれに相当すること。また道成と道綱を比較しても、足利氏・佐野氏との婚姻相手の世代をみれば充分に親子関係が生じる年代である。「道成」が「義寛」を表していることは間違いない。
 つづいて「新田氏系図」(下 史料3参照)である。道房の脇書きには「下野国小野寺十郎道房」と書かれている。「道房」の祖は藤原道長となっており、多少理解に苦しむ点もある。また、重房の父が「道房」であるという確固たる史料は存在しないが、「十郎」はしばしば嫡男(太郎と同じ意)を表現するときに用いられることから、この系図の「道房」は下野小野寺惣領を表しているのであろう。ともすれば道房は小野寺初代を意味し義寛のことを指しているのではないだろうか。また、「成」と「房」は字体が似ているので、書写時の記憶違いによる誤記とも充分考えられるが「新明解漢和辞典」(三省堂)の人名漢字読み方一覧表によると、どちらも共に「ふさ」と読める。つまり「義寛」の俗名は「道成」若しくは「道房」で読みは「みちふさ」が正しいと考える。




【法龍山本源寺什宝日目上人日道上人御系】(史料3)
法龍山本源寺什宝日目上人日道上人御系




4.【藤姓足利氏と小野寺氏】


 保元元年(1156年)に小野寺義寛は小野寺郷に館を建てた。これが小野寺氏の始まりという。
 通説に拠れば、義寛は1124年、首藤道義の次男として生まれた。京において滝口武士を勤めた後、源為義に仕え、坂東を転戦。その勲功により、下野国都賀郡小野寺郷を賜わり土着したという。
 土地としての小野寺は、山に囲まれた狭隘の地ではあるが、領内には円仁建立の大慈寺、東山道が通り、東北への玄関口として、軍事的また宗教的にも重要な位置を占めた。
 足利氏と小野寺氏の関係はお互いの利害関係より発生したものと考えられる。小野寺側からすれば、東に小山氏、西に足利氏の二大勢力が包囲し、時ありしも源平武家政権過渡期の不安定な中で、同族も周囲にいない小野寺氏単族では、生き残っていくのが難しいと考えたのであろう。また足利側にとっても小山氏との対抗心から、小野寺を味方に付けることは、小野寺家の軍事力を得ることのみならず、東山道を手中にすることとなる。また、小野寺領が小山領との緩衝地としての役割を果たすことからも、小野寺との同盟は足利氏にも大きな利益をもたらす状況であった。これは足利家綱の孫、乙姫が義寛に嫁ぐという形で実現する。これにより、小野寺氏は地縁的かつ、血縁的にも足利一門衆として迎え入れらた。義寛の足利氏に対する忠誠は、その子道綱にも足利氏の通字である「綱」の一字を付けたことから窺える。また、二代道綱の妻も同族佐野氏より迎え入れ、藤姓足利氏との関係をさらに強固なものとした。




【足利・小山武士団の分布図(「鎌倉の豪族」1より)】(史料4)       赤字=足利勢力  青字=小山勢力
足利・小山武士団の分布図



5.【足利一門としての小野寺氏】


 『源平盛衰記』に源頼政追討の官軍(1180年)宇治川の合戦に足利忠綱一門として、「小野寺禅師太郎(道綱)、戸矢古七郎太郎、太郎、佐貫四郎大夫広綱、大胡、大室、深栖、山上、那波太郎。郎等には金子丹次郎、大岡安五郎、利根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八、桐生六郎、産小野二郎を始めとして三百騎を伴いける。」(一部氏名作者訂正)とあり、小野寺は足利一門として平家側に加勢していたことが窺える。中でも、一門筆頭にその名が書かれていることから、足利家中でも、その地位は高く、強靱な兵力を保持していたものと推測される。この戦いで、足利家一門は宇治川の合戦において先陣をきって源頼政の軍勢に攻め入り、果敢に戦い第一の手柄をあげた。




6.【足利氏の落日と小野寺氏】


 宇治川合戦の恩賞について平清盛から問われた足利忠綱は、上野国大介職と新田庄を望んだという。清盛もこれを了承し、一度下賜されたが、思わぬところから横槍が入った。足利嫡家のみに恩賞が与えられることを、快く思わなかった足利一門衆十六人が清盛に異議を唱える連判状を送ったのである。十六人の名は窺い知ることができないが、おそらく連判には小野寺氏も名を連ねていたのであろう。この結果忠綱は恩賞を返納せざるを得ない状況に追い込まれた。この後、足利嫡家にも一門にも平家より恩賞が与えられた形跡はなく、この一連の騒動により足利嫡家と一門衆の間に大きな軋轢が生じたのである。




7.【足利氏の滅亡と小野寺氏】


 寿永二年(1183年)二月、常陸国で志太義広(源頼朝の叔父)が鎌倉方(源頼朝)に反旗を翻した際、足利俊綱はこれに呼応しようとした。当時、関東では武家の棟梁として、源氏の嫡流である頼朝が着実に武士の心を掴みはじめ、多くの武家が集まりはじめていた。この風潮の中、敢えて足利俊綱・忠綱親子が反鎌倉側に加勢しようとした背景には、足利嫡家がかねてから平家と密接な主従関係にあったこと、また下野国の雄、小山氏が源頼朝(鎌倉方)に加勢したため、これを機に小山勢を排除し下野国内における覇権争いを優位に進ようという野望があったためと思われる。
 しかし、足利嫡家にとって大きな誤算が生じる。今まで共に戦ってきた、足利一門衆である小野寺道綱、戸矢古有綱、佐野基綱、阿曽沼広綱、木村信綱が新体制を目指す頼朝に同調、鎌倉方に加勢し、小山朝政の下に馳せ参じた。下野国の支配権を掌握しようとする目論見は見事に自らの足元から崩れたのである。ここに足利嫡家の一門支配は終焉を迎える。
野木宮合戦で志太軍が敗れた後、足利忠綱は鎌倉方の追っ手を逃れて上野国山上郷龍奥に潜伏していたが郎党の桐生六郎の勧めで山陰道を経て平家一門の拠る九州へ逃走したという。忠綱の父、俊綱はその後も足利庄に留まっていたが、桐生六郎に裏切られ殺害された。ここに足利嫡家は事実上滅亡した。寿永三年(1184年)の「住林寺本尊胎内銘」には義寛、道綱、足利家綱の名があり、阿弥陀如来三尊像の建造の背景には、足利嫡家の供養も兼ねていたとも考えられる。



【遠江権守書状(1338年)】(史料5)
遠江権守書状(1338年)



8.【佐野氏と惣領小野寺氏】


 足利嫡家が滅んだ後、小野寺氏は佐野氏を中心とした体制に加わった。しかし、ここには足利氏と同様に佐野氏と小野寺氏の間に緩やかな主従関係が存在したと考えられる。
「六条八幡宮造営注文(1275年)」の「下野国」には「佐野太郎(佐野基綱)跡」「阿曽沼民部丞(阿曽沼広綱)跡」「薗田淡路入道(薗田俊基)跡」「木村五郎(木村信綱)跡」と旧足利一門衆の名が見えるのに対し「鎌倉中」に「小野寺左衛門入道(小野寺秀道)跡 同中務丞跡」とある。小野寺氏は御家人として鎌倉常駐であったことがわかる。これを見ると一見、小野寺氏は佐野氏から独立したかのように思えるが、実は佐野家の名代として鎌倉に常駐し幕府に仕えていたのではないか。惣領不在の本領「小野寺七郷」は秀道の八男であった八郎系に委任統治させていたのであろう。
 また、「佐野市史」所収の小曽戸文書には両者の微妙な関係を窺わせる記述がある。「一九 遠江権守書下状(1338年)」である(史料5参照)。「佐野市史」の解説では「遠江権守(実名未詳、或は小野寺道親か)が、佐野安房左近将監(実名未詳、或は、安房守資綱か)の出家隠退を許可したもの。しかし両者の関係は未詳である。」としている。「遠江権守」の名が見えないのが残念ではあるが、次の二点の論拠からも「佐野市史」の比定はほぼ間違いないと思われる。
@小野寺道親は建武年間記(1334年) に関東廟番に任命された事が見任でき、同時に「遠江権守」の受領名であったことも確認できる。小曽戸文書はその四年後であること、またその後の文書にも道親と比定できる人物が「小野寺遠江入道」と称していること。

A文書に「遠江権守」だけ書かれ、名前を記されていない点に注目すれば、名前を記さなくても受領官名だけで容易に判明できる佐野氏に近い人物と想像できる。
以上のことより、この文書の差出人は小野寺氏の惣領であった道親と判断したい。
 つづいて文書の内容に触れたい。「佐野市史」の解説には「小野寺氏が佐野氏の出家隠退を許可したもの。しかし両者の関係は未詳である。」としているが、従前の関係から小野寺氏が佐野氏に対して許可を与えたというのは考えにくい。文中の「所被免許也」の「被」の字が第三者の存在を物語っているのではないか。これに従えば下野国内に居た佐野氏が鎌倉常駐の小野寺氏を介して室町幕府の出張所である鎌倉府に出家隠退を願いを出たと理解するのが最も自然な形であると考える。つまりここでも引き続き佐野氏、小野寺氏の被官関係を窺うことが出来るのである。
 しかし、この鎌倉幕府の崩壊から室町新体制に移行する前後、小野寺惣領家は下野国から道綱の賜った出羽国雄勝郡に本領地を移して、佐野氏の支配から離れた。のちの出羽小野寺氏である。一説に一族内で家督争いが存在したとの説(遠藤巌氏)もあるが、ここでは小野寺惣領家が佐野氏からの独立、またより多くの家臣を養うための広大な土地を求めて移住し、それに伴い下野小野寺七郷の支配権をかねてからの城代であった八郎系に譲渡したと考えたい。


9.【佐野氏と下野小野寺氏】


未稿につきしばらくお待ち下さい。




【参考文献一覧】
『中世の小野寺氏』    小野寺 彦次郎編著 
小野寺 宏補訂
『鎌倉の豪族T』 野口 実
『佐野市史』資料編1原始・古代・中世 佐野市
『MUSEUM 第349号』
「寿永三年在銘の阿弥陀如来坐像及び
    その随待像について」
北口 英雄
『国立歴史民俗博物館研究報告第45集』
「田中穣氏旧蔵典籍古文書 
    六条八幡宮造営注文について」
海老名 尚
福田 豊彦
『日本歴史』 四八五
「京都御扶持衆小野寺氏」
遠藤 巌