新・小野寺盛衰記

出羽小野寺氏






出羽小野寺氏家紋
家紋六葉木瓜
六葉木瓜



お断り

このページの系譜は一部「仙北小野寺氏」と重複します。
「仙北小野寺正系図」を重視したものと、遠藤巌先生の論文による、史料によって組み立てられた系図の二種類が存在するためです。
現在詳細は調査中ですのでご了承下さい。





【出羽小野寺氏概説】

小野寺氏の本流。本領を下野小野寺としていたが、御家人として鎌倉に常駐していたため、小野寺の地は、下野八郎流に任せた
(註1)。鎌倉幕府が崩壊に向かう中、仙北経道が支配していた、出羽国に移住。南北朝の争乱では、足利氏に与し多くの勲功をたてて、本領安堵と丹後国倉橋郷を賜り、京都御扶持衆(註2)となる。雄勝・平鹿・山本の仙北三郡を支配し戦国大名として、その栄華を築いた。

 (註1) 出羽流から下野流への小野寺郷譲渡は争いのによる説も存在する。
(註2)親幕府的国人層、奥羽は守護大名府設置だったため、
    京都御扶持衆がほぼそれと同等の扱いをうける。






【出羽小野寺氏系図】
出羽小野寺氏系図






人 物 列     伝
行道
( ? 〜1300)
泰道とも。道業の子。小次郎・新左衛門尉と称す。鎌倉幕府御家人。4代目惣領。『吾妻鏡』(1248〜1260)にその名が見える。正安二年十月十五日死去。法性院殿実阿円真大居士。
道義
( ? )
行道の子。中務丞。彦次郎入道道享と称す。鎌倉御家人。嘉暦二年(1327)平泉関山中尊寺の衆徒が陸奥国衙並びに鎌倉奉行所に上りて、諸堂朽壊の状を訴え、修造の資金を賜わんことを懇請する。このことが小野寺道義と奥州沼倉村(現栗駒町)の豪族、沼倉隆経に命ぜられ、両人は協力して検見を成し遂げた。また、安房国鋸山羅漢寺の洪鐘名に「下野州佐野庄堀米郷瑞龍山天応禅寺住持沙門大朴淳大檀那中務丞藤原通義(1321)」と記されている。
道有 ( ? 〜1299)
行道の子。二郎左衛門尉と称す。正安元年七月八日父に先立って死去する。
慧星院殿光阿道照大居士。
道景 ( ? )
行道の子。母は三善氏。足利川崎と号し、三郎・筑前守と称す。
建治三年(1277)四月二十三日家督相続。
道顕 ( ? )
道景の子。三郎左衛門尉と称す。足利田島五郎入道の養子となる。妻は波多野時光の娘。
幸徳丸 ( ? )
道景の子。元応二年(1320)七月六日家督相続。早世という。
道親
( ? )
道景の子。一説に周道。三郎兵衛尉・入道道呼・遠江権守と称す。
正慶元年(1332)十二月二十二日家督相続。
足利扶持衆。「建武記」に室町幕府廂番としてその名が見える。建武五年(1338)父の遺命に従い、足利軍に属し、京都攻めの洞が峯の戦いに於いて、一族を派遣、足利軍を勝利に導く。この戦いの恩賞として、遠江権守に任命、かつ、丹後国倉橋郷地頭職を与えられ、京都に屋敷を構える。また、同年『遠江権守下状』があり、道親が佐野安房守左近将監(安房守資綱か)に出家隠居を許可している。これは幕府との連絡役を兼ねていたものと考えられる
尾張守
( ? )
道親の子。尾張守・沙彌日高・摩尼珠丸と称す。父道親の命により、小野寺道広(系図上不明)・矢野円道を従え、京都洞ヶ峯の合戦において足利軍に加勢、大功をたてる。それにより丹後国倉橋郷を賜う。『小野寺遠江入道道呼子息摩尼珠丸代官兄弟軍忠』(1339)にみえる。
重道
( ? )
尾張守某の子。遠江守・入道栄秀と称す。京都御扶持衆となる。父祖が賜った所領、丹後国倉橋郷の不輸・不入について幕府とのやりとりが『久我家文書』に多数見受けられる。また、足利義政に馬五頭を献上し鎧を賜る。
家道
( ? )
重道の子。隠岐守・前隠岐守と称す。京都御扶持衆。家道は豊田出雲守(幕府の要人か)より赤宇曽(秋田県由利郡岩城町)の領主小介川氏に真言宗醍醐寺派三宝院に対し、年貢を納付を説得するよう依頼されている。父重道同様、知行地丹後国倉橋郷を安堵され、不輸・不入の権を了承され、寛正五年(1464)足利義政に奥州産の名馬を三匹を献上するなど将軍家との関係を緊密に保った。出羽系の全盛期を築く。。
孫四郎
( ? )
家道の子、実名不詳。孫四郎と称す。『後鑑』寛正六年(1465)八月二十四日条に南部家が将軍に馬を献上しようとするが、小野寺方の弓矢により通路がふさがれ上洛できないとの記述があり、仙北地方に侵入していた南部氏と国境付近で小競り合いが続いたようである。
稙道
( ? 〜1546)
孫四郎の子。左衛門佐・中宮亮と称す。『伊勢加賀守貞満筆記』(1533)に「小野寺左衛門佐」と見える。また将軍偏諱により「義稙」の「稙」の一字を賜り「稙道」と名乗った。
天文十五年(1546)五月二十七日に自害。「横手薩摩守、逆心により自害」とある。法名は東山道護。稙道の死の背景には、家督の座をめぐる家中騒動があったようである。
晴道 ( ? )
善次郎・中務大輔・上野守と称す。初名道俊。兄稙道が自害したのち領主として一時期領地を支配する。この際将軍義晴から偏諱を受け、「晴道」と改名。輝道に家督を譲った後は仙北系始祖の地、稲庭城にはいり、稲庭系の祖となる。代々小野寺氏は熊野信仰が厚かったが、熊野早玉神社の『平家奉加帳』には「百文 小野寺上野守道俊。二百文小野寺甲斐守道成」とある。大永五年(1525)皆瀬川をはさんだ稲庭小沢・鍛冶屋敷(雄勝郡稲川町)および皆瀬白沢(雄勝郡皆瀬村)に熊野社を建立。弥陀・薬師・千手観音を浮き彫りにした懸仏を祀り、熊野の本宮・新宮・那智を模した。
秀道 ( ? )
稙道の長子。織部正と称す。母が正室でなかったため、家督を継げず、沼館城に入り、沼館氏を称した。のちに姓を大築地に改めた。
輝道 ( ? 〜1598)
稙道の子。遠江守・孫四郎と称す。父稙道が討死した際は、出羽庄内の大宝寺家を頼る。のち大宝寺の支援により領地を回復。天文二十三年(1554)ころ横手朝倉山に横手城を築き、将軍義輝から「輝」の一字を賜わる。輝道はこの城を拠点に仙北三郡を掌握する。織田信長と睦を深め、知恵に優れ、武芸にも達し、雄平二郡の人々に信頼されていた。義道に家督を譲った後は、五男陳道を連れ、吉田城に隠居。法名天仙宗真。妻は佐々木貞綱の娘。
昭道 ( ? )
輝道の長男。孫四郎と称す。一説に光道・景道(あきみち)。母は大宝寺氏の娘。妻は六郷氏。早世という。
義道 (1566〜1645)
孫十郎・遠江守と称す。輝道の次男。母は真室川城主佐々木貞綱の妹。兄昭道の早世により、家督を継ぐ、太閤検地に反対する増田・山田一揆の際に義道は京都にいたため改易を免れた。しかしながら、検地で全領地上浦三郡のうち三分の二を安堵され、残りは蔵入地とされた。そののち、稲庭・川連・三梨など小野寺一族の所領が最上義光の代官支配の蔵入地となり、蔵入地回収を名目に侵入してきた最上勢と激しく対立、この時期と関ヶ原の合戦が重複したことと、対立する周囲の大名の讒言により、西軍加担と見なされ、慶長六年改易。弟康道と共に津和野へ配流。坂崎出羽守に預けられる。
茂道 ( ? )
輝道の三男。孫三郎と称す。西馬音内の地を与えられ、西馬音内氏を称す。兄義道に次ぐ軍勢を保持し、多くの合戦に参戦した。義道改易の際には、自城を焼き払い、庄内地方へ逃走した。こののちの茂道の行方はしれないが、この子孫はのちに久保田藩佐竹氏に仕えた。
康道 ( ? 〜1641)
輝道の四男。孫五郎・五郎。大森の地を与えられ、大森氏を称す。慶長六年(1601)小野寺氏改易により兄義道と共に石見国津和野に配流。寛永十八年(1641)六月十二日同地で没する。
陳道 ( ? )
輝道の五男。秀道・孫市と称す。父輝道隠居の際、共に吉田城へはいり、吉田氏を称す。小野寺氏改易後は小野寺金兵衛と改名。山を越え南部利直に仕える。『古史略』に仙北浪人 小野寺六郎右衛門 三百石とある。