「保呂羽山波宇志別神社をゆく」


保呂羽山波宇志別神社
秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1−1

住所をクリックすると地図がでます。



【保呂羽山波宇志別神社仁王門】
(横手市指定文化財)

元和五年(1619)保呂羽山波宇志別神社の守護の神門として建立。左右二体の仁王像の大彫刻が安置されている。現在の建物は、宝永三年(1790)に建て替えたものである。
『案内板より』
保呂羽山山頂を望む。
標高438メートル。
【境塚】

保呂羽山付近は江戸時代、久保田藩(佐竹氏)と亀田藩(岩城氏)の境であったが、境界線が曖昧であったため、農民の間の争いが絶えなかった。文化十年(1813)両農民立会のもと、ここを境塚と確認した。
『案内板より』
【下居堂】

かつて保呂羽山は女人禁制であったため、女性の方はここで参拝を済ませていました。
現在は禁解になったので山頂の波宇志別神社本殿にも参拝できます。
【鎖場】

急な岩場を登るのに、鎖が打ってあります。
百年以上前のことで、寄付したお金で取り付けられ、材料の鉄は、中国から取り寄せたものだとか。
【保呂羽山波宇志別神社本殿】
延喜式式内神社。天平宝字元年(757)の創建。縁起は神仏習合形式で伝えられ、神官の大友吉親が、大和金峯山より蔵王権現を勧請しました。修験道の仏教面から見れば「保呂羽山天国寺」と称しました。元来の祭神は天日鷲命。


【修復の記録】
佐竹氏以来の神社の修復が書かれています。
小野寺主水の名前が。
こちらは久保田藩小野寺氏。

出羽国内の諸豪族たちは自領内、他領内関係なく、波宇志別神社を信仰の対象とし厚く崇敬しました。戦国期の小野寺氏や最上氏、秋田氏などが挙げられます。

特に中世の領主小野寺氏は波宇志別神社を厚遇し、社領500石を与えました。小野寺氏が改易になると、常陸国から佐竹氏が入国。佐竹氏は常陸時代に「保呂輪神社」を崇敬していたことから、出羽保呂羽山波宇志別神社の存在を知り、厚く崇敬したものと考えられます。社領は280石。
詳しくは「保呂輪神社」を参照。

周囲の昼川山には白山神社、勝軍山、鉢位山、溝壑山などにもかつて寺社が存在し、周囲と一体化し修験道の聖地として繁栄していたようです。

上杉家臣色部長真は秀吉の奥州仕置き後の仙北一揆の際、大森城在番となり滞在。保呂羽山信仰に傾倒し、地元越後に保呂羽堂を創建しました。のちに上杉氏の転封により米沢の千眼寺に遷されました。

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