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夜明け前、保呂羽山付近iに到着。
山林に迷い込んでしまいました。
倒木のため、これ以上進めず。
小雨が見舞います。
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まだ迷ってます。
保呂羽神社は見つからず。
引き返します。
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やっと見つかりました。
保呂羽神社の入り口。
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砂利道を進みます。
右側が山頂方面。
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鮮やかな朱色の
鳥居が現れます。
両部鳥居(権現鳥居)
「保呂羽山」の文字が刻まれています。
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「保呂羽山大権現別当羽黒派多宝院」が
かつての正式名称で修験道の羽黒派で
あったことがわかる。中央に釈迦文仏、
左右は、文殊、普賢を拝している。
祭神は、大名持命、少彦名命、日本武命。
創建は元慶六年(882)
紀伊国金峯山に蔵王権現が現れ、
当地へ飛来してきたと伝わる。
こののち永治(1141)の初め羽州仙北
へ飛行したというが、年代があわない。
お互いに意識していたことは、想像できる。
文明二年(1470)葛西家家臣の
藤沢城主岩淵近江守が中興した。
寛文二年(1662)火災により焼失。
寛文五年(1665)保呂羽山中の
杉松を使い社殿を再興した。
万治三年(1660)熊本の大名、
細川越中守が使者を遣わし、
越中守自筆の心経一巻、金襴の
御戸帳など献納を受ける。
(一説に越中守は保呂羽の霊夢を
見たという。)
その後、毎年正月江戸へ登り
越中守の屋敷へ参りご祈祷をする
例となった。
貞享元年(1684)より、細川越中守、
金三〇両、御袋様より金二〇両
毎年献納するようになった。
明治に入り、神仏分離令により
保呂羽山大権現を保呂羽神社に
改称した。
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鐘があります。神仏習合を
象徴しているようです。
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権現鳥居の左奥に鳥居がありました。
この奥から登ってくるのが
正規のルートのようです。
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【保呂羽山中腹の板碑群】
保呂羽山には小野寺姓が多いようです。
上野平の要害館には、葛西家臣
小野寺主計頭が居たと伝わります。
保呂羽山はかつて金が採れたといわ
れています。事実、金越沢ダムや黄金山
など金に関する地名が多いです。
延慶三年(1310)、北面の武士が
金堀奉行を命ぜられ、当地に赴いたと
言います。五人は千葉文吾、熊谷丹後、
小野寺伊賀、佐藤岩見、山口土佐で、
小野寺は両替所役所方を勤めたという。
【保呂羽山を下る。】
【麓より保呂羽山を望む。】
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