【概説】

鎌倉初期に小野寺経道が最初に根を下ろした稲庭に居を構えた一族。
孫四郎の次男晴道を祖とする。
出羽本家が沼館城、横手城と本拠地を移すなか、稲庭に居住し最上氏の押さえとして重要な役割を果たした。




稲庭城御影

小野寺時代、二の丸に使用されていた地に、
江戸時代様式の城が復元された。
本丸はさらに上の高台(標高約300メートル)に建っていたという。登山道は険しく、
まさに自然の地の利を生かした難攻不落の城であった。






【稲庭小野寺氏系図】






人  物 列     伝
晴道
( ? 〜1550)
孫四郎の子。善次郎・弥二郎・中務大輔・上野守と称す。初名道俊。兄稙道が自害したのち領主として一時期領地を支配する。この際将軍義晴から偏諱を受け、「晴道」と改名。甥輝道に家督を譲った後は仙北系始祖の地、稲庭城にはいり、稲庭系の祖となる。代々小野寺氏は熊野信仰が厚かったが、熊野早玉神社の『平家奉加帳』には「百文 小野寺上野守道俊。二百文小野寺甲斐守道成」とある。大永五年(1525)皆瀬川をはさんだ稲庭小沢・鍛冶屋敷(雄勝郡稲川町)および皆瀬白沢(雄勝郡皆瀬村)に熊野社を建立。弥陀・薬師・千手観音を浮き彫りにした懸仏を祀り、熊野の本宮・新宮・那智を模した。天文十九年三月十五日死去。法名梅岩高公大禅定門。
道綱
(1522〜1569)
治太夫と称す。永禄十二年八月二十九日死去。享年四十八歳。法名快翁活公大禅定門。妻は沼館(大築地)秀道の娘。
道長
(1542〜1592)
弥三郎と称す。文禄元年四月一日死去。年五十一歳。法名清空天心大禅定門。妻は川連蔵人綱道の娘。
道勝
(1566〜 ? )
道長の子。上野介と称す。稲庭城主。天正十八年(1590)太閤検地後の年貢納入遅延の申状に道勝の名が見える。
慶長五年(1600)清水大蔵大輔・鮭延典膳ら最上軍三千の軍勢に城を囲まれ、落城、山道をつたい落ち延びる。時に三十五歳。妻は三梨(小笠原)太郎左衛門光冬の娘。
弥太郎
(1590〜 ? )
道勝の子。稲庭城落城の時、11歳。
弥二郎
(1596〜 ? )
道勝の子。稲庭城落城の時、5歳。
弥三郎
(1599〜 ? )
道勝の子。稲庭城落城の時、2歳。
女子
(1600〜1671)
道勝の子。操。稲庭城落城の時、1歳。三梨与治右衛門の妻となる。寛文十一年八月十三日死去。享年七十一。法名月松妙操禅定尼