鎌倉小野寺氏家紋 |
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六葉木瓜 |
【鎌倉小野寺氏概説】 |
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【小野寺城跡の石碑】 |
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【鎌倉小野寺氏系図】(系図1) |
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人 物 | 列 伝 |
義寛 | (1124〜1203) 小野寺氏の始祖。一般に広く「義寛」と伝わっているが、『住林寺本尊胎内銘』には、「大法師義寛」とあり、入道名と思われる。諱は道成、若しくは道房。読みはいづれも「みちふさ」。通説では首藤道義の次男といわれる。禅師瀧口入道と称し、京都で瀧口の武士を務めとしていたが、六条判官源為義に従軍し、坂東の地を転戦。その功績により、為義公の「義」の一字と、下野国下都賀郡小野寺郷(栃木県下都賀郡岩舟町)を賜り、小野寺氏を苗字とする。保元元年、義寛三十三歳の時、当地に小野寺城を築き、建仁三年四月八日死去。享年八十才。法名 夜叉院七宝義寛大居士。住林寺にある五重塔墓碑が義寛のものと伝わる。妻は藤姓足利家綱の孫乙姫。参考文書『住林寺本尊胎内銘』 |
道綱 | (1154〜1221) 小野寺氏二代目。義寛(道成)の嫡男。母は足利氏。中務大夫・禅師太郎と称す。治承四年(1180)高倉院以仁王謀反の際には、平家に属し、縁戚の足利忠綱と共に京都宇治川の合戦に出陣。同年十二月、里見義成と共に関東へ下向。源頼朝の挙兵を聞くと、これに帰属し、同五年、小山朝政、志田義広を攻め落とした。頼朝が鎌倉幕府を創設した後は、御家人として活躍。天暦元年、頼朝の舎弟、範頼に従う。承久の乱では、老体に鞭を打ち、一族郎党を率いて北條泰時に従軍。承久元年六月十四日、宇治川の合戦において討死。享年六十八才。討ち取られた首は、猶子秀道と道業が郷里小野寺まで、塩漬けにし持ち帰ったと伝わる。法名 住林寺殿弘国通綱大居士。住林寺にその墓石がある。 |
秀道 | ( ? ) 義寛の次男。左衛門尉と称す。鎌倉幕府御家人。兄道綱に男子がいなかったため、猶子となり、三代目惣領となる。三代将軍源実朝暗殺の際、参列していた秀道はこの世の無常を感じ、貞応年間、実朝の霊供養のため徳応寺を建立する。この寺は後に貞瀧坊となり、子孫が代々住職となった。 徳応寺殿秀道法印。 |
重房 | ( ? 〜1263) 秀道の嫡子。祖父道綱が賜った陸奥国登米郡新田郷を拝領し、新田太郎と称す。新田小野寺氏の始祖。弘長三年(1263)死去。妻は尾張某の娘。剃髪して妙法尼御前と称す。義兄は尾張次郎兵衛。 |
道業 | ( ? 〜1281) 小次郎・左衛門尉と称す。秀道の次男。鎌倉幕府御家人。嘉禎四年(1238)正月「四の馬」を弟道時と共に引く。同年同月二十八日、将軍藤原頼経が鎌倉から上洛の際、第十一番目に道時と入京する。また、宝治合戦後の三浦一族残党追捕を命じられ、上総へ出兵。妻は藤姓足利忠綱の娘と云われる。道業は三浦氏の残党狩りに出兵している。弘安四年(1281)三月十八日死去。法名 吉祥院殿覚阿道本大居士。 |
時道 | ( ? ) 秀道の三男。三郎左衛門尉と称す。鎌倉御家人。建長二年八月十八日、鎌倉由比ヶ浜の犬追物を見物に行く行列の中に弟道時と共にその名が見える。こののちの家系は知れず。 |
道時 | ( ? ) 秀道の四男。四郎左衛門尉と称す。鎌倉御家人。『吾妻鏡』(1235〜1263)道時の名が見える。 |
経道 | (1212〜1273) 仙北小野寺氏初代。大泉六郎と称す。一説に出羽守三浦泰村の二男。三浦(沼田)景泰。出羽国大泉庄(山形県鶴岡市)に移住。そののち、出羽国雄勝郡稲庭(秋田県雄勝郡稲川町)に移住し、文永十年(1273)閏八月十四日に没。享年六十二歳。法号 寂然。 |
八郎 | ( ? ) 本名不明、秀道の八男。八郎左衛門尉と称す。鎌倉御家人。『吾妻鏡』に建長六年(1254)六月十六日、兄四郎道時と共に着到状を提出したと見える。こののち、鎌倉常駐の兄道業より、小野寺郷の支配を委託されたものと推測する。 |
行道 | ( ? 〜1300) 泰道とも。道業の子。小次郎・新左衛門尉と称す。鎌倉幕府御家人。4代目惣領。『吾妻鏡』(1248〜1260)にその名が見える。正安二年十月十五日死去。法性院殿実阿円真大居士。 |
道秀 | ( ? ) 道業の子。五郎左衛門尉と称す。 |
道平 | ( ? ) 道業の子。七郎と称す。 |
道継 | ( ? ) 道時の子。左衛門尉と称す。『吾妻鏡』(1261〜1263)に見える。弘長三年正月年始の儀に父道時と共に参列している。また弘長三年(1263)八月八日条に「遠江国(静岡県)にありと称し、留守より御教書を返上す。」とある。小野寺氏は遠江国鎌田郷(静岡県磐田市)・駿河国鞠子郷(静岡県静岡市丸子)を賜ったと西馬音内小野寺系図にあることから、道継は鎌田郷に在住していたのか。このれよりさきの子孫は知れず。 |
道義 | ( ? ) 行道の子。中務丞。彦次郎入道道享と称す。鎌倉御家人。嘉暦二年(1327)平泉関山中尊寺の衆徒が陸奥国衙並びに鎌倉奉行所に上りて、諸堂朽壊の状を訴え、修造の資金を賜わんことを懇請する。このことが小野寺道義と奥州沼倉村(現栗駒町)の豪族、沼倉隆経に命ぜられ、両人は協力して検見を成し遂げた。また、安房国鋸山羅漢寺の洪鐘名に「下野州佐野庄堀米郷瑞龍山天応禅寺住持沙門大朴淳大檀那中務丞藤原通義(1321)」と記されている。 |
道有 | ( ? 〜1299) 行道の子。二郎左衛門尉と称す。正安元年七月八日父に先立って死去する。 慧星院殿光阿道照大居士。 |
道景 | ( ? ) 行道の子。母は三善氏。足利川崎と号し、三郎・筑前守と称す。 建治三年(1277)四月二十三日家督相続。 |
頼道 | ( ? ) 道秀の子。孫太郎と称す。 |
道景 | ( ? ) 道秀の子。小二郎と称す。 |
重道 | ( ? ) 道秀の子。十郎と称す。 |
道重 | ( ? ) 道重の子。 |
道時 | ( ? ) 道平の子。孫二郎と称す。 |
道資 | ( ? ) 道有の子。遠江守と称す。 |
道顕 | ( ? ) 道景の子。三郎左衛門尉と称す。足利田島五郎入道の養子となる。妻は波多野時光の娘。 |
幸徳丸 | ( ? ) 道景の子。元応二年(1320)七月六日家督相続。早世という。 |
道親 | ( ? ) 道景の子。一説に周道。三郎兵衛尉・入道道呼・遠江権守と称す。 正慶元年(1332)十二月二十二日家督相続。京都御扶持衆となる。「建武記」に室町幕府廂番としてその名が見える。建武五年(1338)、足利軍に属し、京都攻めの洞が峯の戦いに於いて、一族を派遣、足利軍を勝利に導く。この戦いの恩賞として、かつ、丹後国倉橋郷地頭職を与えられる。また、同年『遠江権守下状』があり、道親が佐野安房守左近将監(安房守資綱か)に出家隠居を許可している。これは幕府との連絡役を兼ねていたものと考えられる。 |
道長 | ( ? ) 頼道の子。又五郎と称す。 |
重道 | ( ? ) 道資の猶子、下野流顕道の子という。 |
重道 | ( ? ) 道長の子。 |