この文書は世に有名な「桜田門外の変」が起こった安政七年(万延元年)三月三日から僅か八日後に記録された文書である。幕府の要人が桜田門警備番所の便所を借用するのにも報告を上げるなど、当時江戸城全体が厳戒態勢にあったことが窺える。
この変において、時の大老井伊直弼が水戸を中心とし薩摩を加えた十八名の浪士により暗殺された。事件の背景には、直弼が勅許を待たずに日米通商修好条約に調印したことや、将軍継嗣問題などで尊王攘夷派・幕政改革派を弾圧し、安政の大獄を起こしたことなどと言われている。特に水戸藩主徳川斉昭はこれら幕府の姿勢を批判したために幕府から蟄居を命ぜられ、水戸藩士の直弼に対する怒りは頂点に達した。
この文書で注目すべきは三春藩秋田家の小野寺舎人が桜田門の警備を任されていたことである。小野寺舎人(詳しくは「近世の小野寺氏」中「三春藩小野寺氏」「舎人」項参照)は三春藩小野寺氏の嫡流で一時「秋田姓」名乗りを許された名家であった。秋田家文書には「桜田門勤務心得」や「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)の文書があり、同藩は定期的に桜田門の警備を担当していたようである。
一方、この「桜田門外の変」にいおて、陰の参謀とされている人物がいる。それが小野寺慵斎(ようさい)である。彼がこの変においてどのような役割を担ったかは、史料論文、小説にもその姿を見つけることは出来ず、今のところ不明である。ただ彼が郷里に送った書状に、この事件に関連し自刃する旨の書状が送られたという。
慵斎は三春藩士を勤めたあと、江戸に出て品川東海寺で兵学を教授。この間、長州藩の小国剛蔵に兵要録を教授。また、薩摩藩家老鎌田出雲(正純)などが訪問するなど、兵学のみならず思想においても革新的で一歩進んだものを持っていたと思われる。安政七年(1860)三月三日。桜田門外の決起の日には熱病にかかり、参加できなかったと伝えられる。事件直後の同年四月、土浦藩士若林監之助の推薦により同藩に招かれ兵学の教授となった。
決起に加わった多くの水戸藩士が捕らえられる中、文久元年四月十二日土浦の藩邸で自刃。享年七〇。若き日には舎人のように三春藩士として、桜田門の警備に当たっていたのであろうか。最後に仕えた土浦藩主土屋寅直は父彦直が水戸藩六代徳川治保の子であったことからこの事態を考慮し、慵斎の亡骸を土浦神竜寺に手厚く葬った。墓石には「慵齋野處士之墓」とのみ記され、「小野寺」の姓は確認できない。
歴史上ほとんど知られていないが、このとき桜田門の内と外に、三春藩士でかつ縁戚であった2人の小野寺氏がいたのである。
幕閣井伊直弼の死は、あまりに衝撃的であったため幕府意向により、しばらく伏せられていたが、三月末日、大老を免じられ、その死が明らかにされた。直弼の亡骸は東京世田谷の豪徳寺に葬られた。また井伊彦根藩三十五万石の領地のうち、飛び地として一万七千石余が現在の佐野地方にあったことから、天応寺(栃木県佐野市)にも墓石が存在する。奇しくもこの寺は、室町初期に下野小野寺(藤原)通義が鐘を寄贈した寺でもあり、両家の因縁を感じざるおう得ない。
小野寺慵斎の行動に関しては、未だ謎めいた部分が多いが、今後の研究の成果を待ちたい。
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