第2回

南朝と小野寺氏


 北畠顕家袖判陸奥国宣(1336年)中目家文書





 
 この文書は南朝の北畠顕家が鎮守軍監有実を通じて出羽に領地を持つ小野寺肥後守と平賀四郎左衛門尉に宛てた文書である。これは小野寺氏にとっても数少ない南朝方に与したことを示すとても貴重な文書であるとともに謎をも残した文書でもある。内容は陸奥国中尊寺が秋田に所有する領地や寺の支配権の回復と年貢上納を催促すよう両者に命じたものである。顕家は中尊寺領の回復を図り、東北地方最大の寺社勢力を南朝方に組み入れることで、南朝勢力の拡大と支配体制の確立を目指したのであろう。

 まず平賀氏に就いて述べれば、本姓藤原氏。尾張国松葉庄を領有し松葉氏を称した。のちに平家追討の功により、出羽国平鹿郡、安芸国高屋保、上総国桜尾郷、越中国油田条も領有した。松葉氏がいつごろ出羽平鹿郡内に入植したかは不明であるが、三代目惟泰のときに平賀氏を称している。また平鹿郡内にも多くの一族を輩出したようで、八柏(大雄村)、横手、吉田(平鹿町)鞍曽郷(仙南村鞍掛山付近か)にも一族繁栄の痕跡を窺うことが出来る。

次に文書に書かれている地名を推測すると
「秋田郡君野村」は由利郡岩城町君ヶ野と仙北郡協和町君ヶ野の二カ所が考えられる。「破岩上下村」は地名に見あたらないが平鹿郡十文字町羽場では無かろうか。現在上羽場・下羽場という地名が残されている。「雄友村」は大曲市内小友。「白山村」は仙北郡六郷町六郷白山ではないか。また「白山村」を秋田市上新城、もしくは平鹿郡大森町上溝に比定するものもある。「女法寺」は地名ではなく寺の名前と思われる。「女」は「妙」をあらわし「みょうほうじ」と読ませるのであろうか。妙法という地名は川辺郡雄和町妙法がある。但し同名の寺は存在しないようである。周辺の地域に目を移すと、仙北郡中仙町上鶯野に「妙法寺」が存在する。また別の郷土誌には、平鹿郡雄物川町大沢の「上妙寺」と比定するものもある。「千女寺」これも寺名であるが読みは「せんみょう」であろう。「千妙寺」は見あたらず、音から拾えば湯沢市内町に「善明寺」がある。 「成福寺」も存在せず音から拾うと仙北郡西仙北町寺村に「正福寺」がある。あくまで推論で場所の確実な特定には至っていないが、平賀氏と小野寺氏の領地関係を考慮すれば自ずとその範囲は限られてくると思われる。ただ文書中の地名の一部は、小野寺氏、平賀氏の領地外の地域もあるようだが、これらは小中豪族が治める地域で顕家の力が直接及ばないために、在地の豪族と地縁血縁的な関係または主従関係があった両者に命ぜられたものでろう。
 また、平賀氏と小野寺氏を比較すれば、官途名の関係か小野寺肥後守が先に書かれていることから、ここでは小野寺氏が上に見られているようである。

 さて、小野寺肥後守はどのような人物であった考察したい。一般的に出羽小野寺の当主で考えるのが自然であろう。しかし当時の出羽小野寺は「建武年間記(1334年)」に見える小野寺道親、「足利尊氏御内書(1352年)」の小野寺尾張守など「肥後守」の名が見あたらない。さらにこれらの文書では出羽小野寺氏が当初より一貫して北朝足利氏に与していたことを証明している。果たして肥後守は出羽小野寺氏であったのであろうか。謎を解くヒントは「南朝」と「中尊寺」にありそうである。
 「中尊寺」と小野寺氏の関係について触れれば「陸奥国平泉関山中尊寺衆徒等謹みて言上す(1327年)」の記録の中に小野寺彦次郎入道道亨が登場する。鎌倉幕府の命により陸奥国三迫の御家人沼倉少輔三次隆経と共に疲弊、老朽化した中尊寺の検見を成し遂げた人物である。「顕家国宣」はこの9年後に出されている。「南朝」との関係について述べれば当初は出羽よりも陸奥のほうが勢力が強かったようである。この時期北畠顕家が多賀城に入り意気盛んになっていた。石巻の葛西氏が南朝方に与したようにこの地域は南朝色が強い地域であった。またこの文書が陸奥国の中目家に存在していたこと、建武元年(1334年)に小野寺庶族で陸奥国新田の地頭、新田孫五郎道章に南朝方の国宣状が下っていることをも考慮すれば、この小野寺肥後守は出羽でなく陸奥の小野寺氏と考えられる。肥後守は道亨の子であろうか。登米郡にあって中尊寺に関してはある程度の理解を示し、父から子へ引き継がれたのであろう。肥後守はおそらく登米の寺池城に居を構えていたのであろう(登米小野寺氏)。
 それでは、なぜ陸奥国登米にいる肥後守に、この出羽領に関する国宣が下ったのであろうか。それは肥後守が小野寺家の惣領であったためではないだろうか。出羽領には分家が入植したものの依然として惣領である肥後守が陸奥国登米に居ながらも出羽領の支配権を有していたと考察する。おそらく出羽中尊寺領の検見は肥後守が赴くことなく、在地の出羽小野寺氏に引き継がれたものと考えられる。しかし先述の通り出羽小野寺氏は北朝足利氏に与していたために、この国宣状が実行されたかどうかは定かではない。

 室町時代初期の小野寺家惣領は出羽国でなく陸奥国で入道道亨(道義)−肥後守というラインで継がれていったのではないだろうか。また陸奥系が南朝、出羽系が北朝に加勢することにより、小野寺の名跡を保とうとしたのかもしれない。この南北朝の争乱を経る中で、出羽小野寺領の実質的な支配権は徐々に惣領登米小野寺氏の手中を離れ、在地の出羽小野寺氏へと移っていった。その後の両者の関係はどうであったのか気に掛かるところである。「神尾町遺事廿七箇条」には出羽家と下野から下向した本家による家督争いが記されており、文中の人名や時代背景に錯誤も見られるようであるが、これはもしかすると出羽系と陸奥惣領家の家督争いを物語っているのかもしれない。



【小野寺惣領系図】(『雄勝郡地頭小野寺氏』遠藤巌を参考に作者作成)


【参考文献】


『大雄村史』 大雄村史編纂委員会
『雄勝郡地頭小野寺氏』 出羽路 九二 遠藤 巌
『戦国大名葛西氏家臣団事典』 宝文堂 紫桃 正隆
『中世の小野寺氏』
−その伝承と歴史−
小野寺 彦次郎編著
小野寺 宏補訂

『中世小野寺氏の史的実相』 大坂 吉邦
『雄物川と羽州街道』 吉川弘文館 國安 寛