三春藩秋田家中 小野寺氏家紋 |
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花菱 |
【概説】 |
先祖は二階堂行賢。のちに蔵田を称し、 関ヶ原の戦いでは伊勢国安濃津城に籠もり、 高名をあげたという。 重忠の代に及び、わけあって母の姓であった小野寺に改め 三春藩加藤氏に仕えた。加藤氏改易ののちは、浪人し 仙北小野寺と戦国期に出羽国で争った秋田家へ仕官。 本国は伊勢国という。 |
人物 | 列伝 |
行賢 | ( ? ) 弾正兵衛尉。蔵田四郎。足利義晴・義輝に仕えていたが、三好義継・松永久秀らの謀反によって、永禄八年(1565)五月義輝が殺害された時に伊勢国に逃れて国司北畠氏に仕えた。これに及び蔵田四郎と改名した。 |
行俊 | ( ? 〜1605) 父と同道し、大河内城の北畠具教に仕えたが、織田信長が北畠氏を滅ぼしたのち浪人となった。天正二年(1574)斉藤内蔵助の聟となり、斉藤右衛門作と号し、豊臣秀吉の配下となったが、同年十月明智光秀や、斉藤内蔵助が信長を殺したので、名を蔵田喜右衛門と改め、引き続き秀吉の下で真野豊後守預かりとなり慶長十年(1605)に死去。 |
賢秀 | ( ? ) 蔵田弥左衛門尉。伊勢国安濃津城主富田信濃守信高の家人となる。慶長五年(1600)八月津城合戦の時、たびたび功名あり。 |
行充 | ( ? 〜1616) 蔵田喜左衛門。関ヶ原の戦いに於いて、東軍の安濃津城主富田信高、上野城主分部光信、松坂城主古田重勝らが安濃津城に籠城したが、これらのなかで行充は城門を守った。元和二年十一月二十五日死去。高山道引居士。 |
【小野寺重忠流舎人系概説】 |
重忠を祖とする。もとは、三春藩加藤氏の執事を勤めたが、 主家が改易となり、浪人ののち宍戸藩秋田家へ仕官した。 家中で異例の出世を遂げ、秋田家が三春藩に転封に成ったのちも、 代々秋田家の重席を勤めた。 秋田氏は以前より、三春への転封を希望していた事情があり、 三春の事情に精通した小野寺氏を藩主が望んで登用したとの見方もある。 幕末には、三春藩の無血開城に尽力し、 犠牲を最小限にくい止めた小野寺舎人を輩出した。 通字は「忠」。 |
人物 | 列伝 |
重忠 | ( ? 〜1662) 本姓蔵田半平。通り名を太左衛門、時に多左衛門とも記した。母が小野寺氏であったため、名を蔵田から小野寺に改める。伊勢国を本国とし、三春城主加藤民部大輔明利に仕え、原茂左衛門、津田理右衛門と並んで執事の重職にあった。城主加藤明利が、寛永十八(1641)年三月二十五日に死去し、翌々二十年五月二日に、城地を収公されたため、重忠は牢人の身となった。その後、常陸国宍戸城主秋田河内守俊季に仕官した。仕官の経緯は明らかではないが、宍戸城主秋田氏の転封のうわさが早くからあったらしいこと、三春転封を工作していたことが、若狭小浜の羽賀寺住職来雄にあてた秋田実季の書状によって確かめられるので、秋田氏の三春転封の動きのなかで、三春城主、二本松城主を歴任した加藤氏の重臣であった重忠は、三春地方の事情に明るい郷村方の実力を請われて、仕官したものとみてよい。正保二年(1645)八月八日の藩主秋田俊季の三春入部の時は、騎馬で随行し、八月十五日には、太刀折紙を捧げて御所替御祝儀の礼を取り、五番目に記録されている。重忠は後年の郡代に相当する地位にあって、秋田四郎兵衛次行と連署で、竹木伐採の禁、漆・桐の伐採の禁、領外移住の禁、駒売買の禁など在郷に対する禁令五か条を即日発令し、八月十二日には、高掛金と綿役銀の賦課、免相(税率) の報告、キリシタンの禁、殺生の禁、音者の禁、夫伝馬の私的徴用の禁など七か条を発令し、藩政をスタートさせた。以来、俊季、盛季の二代に仕え、御年寄、郡代、大郡代として郷村支配の重職にあること寛文年間に汲んだ。万治二年(1659)五百石。浪人、中石見の女を妻とし、三男三女をもうけた。墓地は三春紫雲寺。寛文二年(1662)七月二日死去。法性院殿然誉宗廓居士。 |
女 | ( ? ) 重忠の子。サン、ヨシ。松平肥後守家中南摩弥三衛門に嫁ぐ。 |
公忠 | ( ? ) 重忠の子。市太夫。妻は秋田忠行女シチ。寛文頃(元年=1661)年寄。貞享元年五月五日(1684)、年寄大郡代五百石。 |
忠興 | ( ? ) 重忠の子。蔵田十郎衛門。彦右衛門。藩主俊季公の小姓となり、盛季公まで勤める。万治二年(1659)百石。 |
女 | ( ? ) 重忠の子。フリ。阿部豊後守家中発知孫兵衛に嫁ぐ。 |
忠勝 | ( ? ) 重忠の子。池村半右衛門。盛季公の小姓を勤めのち御膳番にうつる。 |
女 | ( ? ) 重忠の子。シヲ。石嶋勘左衛門貞次に嫁ぐ。 |
治忠 | ( ? ) 公忠の子。馬之助。甚蔵。半治。妻は大関信濃守家中奥野権右衛門女サン。貞享元年(1684)五月五日、五人扶持。宝永二年(1705)御番頭。 |
正勝 | ( ? ) 公忠の子。幼名、五之助、今之助、兵助。浅井新右衛門為政養子。貞享元年(1684)五月五日、中小姓。 |
泰忠 | (1694〜 ? ) 治忠の子。秋田市太夫。幼名を午之助、通称を舎人、のちに市太夫といい、楽山と号した。母は黒羽藩士奥野権右衛門の女サンであった。頼季が家督を継いだ翌享保元年(1716)十二月十六日に、泰忠は御用人となった。頼季襲封の前後からくすぷっていた内紛は、前藩主輝季が享保五年(1720)に没すると一層激しくなった。享保十二年(1727)の春、専権を振るう頼季の実父荒木高村に対し、隠退を勧める動きがあった。享保十三年(1728)六月、頼季が帰城すると騒動は頂点に達した。高村との応酬は、御用人であった泰忠を含めた反荒木派重臣たちとの間で行われた。泰忠は享保十四年(1729)五月、老中安藤対馬守重行邸に召喚された荒木高村を御年寄秋田治兵衛とともに引き連れて出府し、高村の蟄居の申し渡しを受けた。また、その六月には、頼季の子民部(のちの延季)を伴って出府。安藤重行の指示により、民部を三春の荒木邸から江戸の藩邸に移すという大役であった。高村蟄居後の断罪が峠を越した九月、泰忠は御年寄に任じられた。翌十五年(1730)三月、頼季は一連の事件の責任を問われて、閉門を申し渡された。七月、閉門が解かれると、荒木高村の帰国が許され、泰忠から申し渡された。二十年に及ぶ藩の内紛は、必然的に領内支配、財政運営を疎略にした。また、幕府の米価調整策にもかかわらず、米価は安定しなかった。それに加えて、元文元年(1736)には文字金が発行された。三春藩では、半石半永の永納分を、品位の高い古金で納めさせようとした。そのため領内の農民は、元文元年十一月に城下に群集し、泰忠の屋敷に強訴した。当時大郡代は細川縫殿助であったが、病気のため引き籠もっていた。泰忠は、勝手方支配の御年寄荒木外記と協議の上、農民の要求を容れて、すべて文字金で納入させることにした しかし、品位の低い文字金での収納は、藩財政上不利であるから、その後、藩庁内での論争をひきおこした。泰忠の農民寄りの措置は批判を浴びて、元文四年(1739)十一月、年寄の座を追われた。寛延二年(1749)、現在の福島県に相当する地域ほぼ全域にわたって一揆が発生した。いわゆる寛延の一揆である。三春藩領でも、寛延二年十二月に農民が城下へ群集した。困窮没落した農民の上げ田地へ上総国から農民を移住させ、鍬下三か年の免税を行った、いわゆる入百姓仕法への不満などを背景とし、不作による年貢の半減を要求してきた。要求項目の中には、泰忠の年寄復帰があげられていた。しかし、これは年貢半減の達成の中で、立ち消えとなってしまった。復帰は実現しなかったが、泰忠の譜代の農民を擁護する姿勢は、藩初以来代々郷村方の重役であった小野寺家の伝統のようなものであった。泰忠は、頼季の信任をえて、百石の加増があって、家禄六百石とし、秋田姓を許されたほどであったが、知行、秋田姓の一切を取り上げられ、家督を嫡子弁五郎景忠に譲らされた。晩年、泰忠は楽山と号し、平沢村の別邸円光庵に身を潜め、庄屋甚左衛門の扶助を受けた。妻に本多中務大輔忠良(三河刈屋、下総古河) の家臣河向蔵人の女ソノを迎えて、三男一女をもうけた。墓地は三春紫雲寺。 |
為忠 | ( ? ) 治忠の子。三之助、軍治と称す。小野寺成栄の養子となる。 享保十五年(1730)十月二十五日留守居。 |
忠文 | ( ? ) 治忠の子。六之助、文三郎、蓮芳軒と称す。出奔。福島風呂屋敷伊蔵 |
男 | ( ? ) 治忠の子。七之助、早世 |
男 | ( ? ) 治忠の子。八之助、早世 |
忠郷 | ( ? ) 治忠の六男。仁助、栄、岐門、十良衛門と称す。始め孫春のち典膳。妻は福島家中大門久左衛門の娘。杉山当太について関口流槍術を極め、扶持十五人を給わった。 |
女 | ( ? ) 治忠の子。テツ。早世。 |
女 | ( ? ) 泰忠の子。シチ。浅井新右衛門政陳。 |
景忠 | ( ? ) 泰忠の子。弁五郎、挙直、舎人と称す。妻は秋田半太夫実邦の娘。宝暦十年(1760)一月十八日持筒二十人。、明和元年(1764)一月十六日弓組二十五人。二百五十石を給わる。明和五年(1768)十月二十日籏組十五人。安永四年(1775)二月二十五日年寄。同年六月二十六日大郡代。天明七年(1787)十月二日年寄末席。寛政十年(1798)七月十日年寄帰役。文化六年(1809)一月十一日御用人。文化九年(1812)七月四日年寄郷村方掛り。文政元年(1818)四月十二日大郡代勝手方金許馬用掛り。文政十一年(1828)大郡代御免年寄御免番頭格。 |
義信 | ( ? ) 泰忠の子。義礼、弁吉、弼、直矩と称す。田部井岬の養子となる。山鹿流兵学を修め、のち小野寺披呂見忠武と改め、三河および本藩にて軍学を教授した。天保三年(1832)十一月二十九日御小姓。 |
男 | ( ? ) 泰忠の子。弓五。直記孚元と称す。細川内蔵助忠元の養子となる。 |
男 | ( ? ) 泰忠の子。稲吉。 |
市太夫 | ( ? 〜1868) 景忠の子。諱、字ともに不明。通称弁五郎、のち市大夫といった。天保元年(1830)部屋住のまま持弓組支配物頭となり、同三年七月、持弓組支配に転じ、その年十月二日家を継ぎ、四百石を与えられる。天保六年(1835)一月御用人、ついで年寄(年次不詳)、天保十年(1839)九月から弘化元年(1844)十一月まで御年寄再役、嘉永二年(1849)三月番頭、安政三(1856)年八月三度御年寄役となった。慶応三年(1867)十月、藩重役の秋田斎、学長奥村清酒、同族小野寺金兵衛らが、渡田虎雄の周旋でフランス人と蚕種紙の取り引きをし、契約不履行で訴訟事件に発展。藩費をもって決済し、藩関係者を厳に処した。学長奥村清酒は最も重く、知行召し放し、永蟄居、兄奥村権之助に預けとなった。縁坐法によって多数の処罰者を出した。これらの扱いは、小野寺市大夫であった。この十月、朝廷は列藩主を京都に召集。三春藩は、小野寺市大夫を応急出張させ、新政府との連絡折衝にあたらせた。市大夫は、十一月十八日祐筆茅根幸大夫らを従えて江戸をたち、十二月十一日、後続の御近習目付湊宗左衛門に事務を引き継ぎ、二十一日京都をたち、その年末、江戸についた。藩主は在封中だが、後見秋田主税は在府中であったので、鳥羽・伏見の報を受けると、主税、御留守居の吉見連蔵らと協議をしながら、藩の対応策を講じていった。閏四月からは、藩兵、藩士子女が国元へ引き揚げ、六月に入ると吉見連蔵も西軍の軍艦に便乗して帰国した。六月十七日、こうした手薄な藩邸に、渡田虎雄一味が襲撃してきた。高齢の市大夫は、剣のたつ虎雄の刀にかかり、愛妾とともに無残な最期を遂げた。この事件後の六月二十七日、嫡子舎人が家を継ぎ、御年寄に就任した。市大夫は、七十余歳の高齢と推定されるが、この年まで、両三度にわたって御年寄を勤め、戊辰戦争の最中の江戸藩邸を守り、もし巷説のとおりであれば、藩政の不祥事の処断をめぐって渡田らの私怨を買い、非業の死を遂げたことになり、全く藩政に殉じたともいえるものであった。棚倉城主阿部誠之助の家中秋山惣右衛門の女を妻とし、舎人をもうけた。なお、嫡子舎人は、明治二年の改革で、二十人扶持、隊長となったのち、父の敵を打つため職を辞したという。菩提寺は三春紫雲寺。 |
舎人 | ( ? ) 市太夫の子。午之助と称す。嘉永六年(1853)七月二十日持弓組。安政三年(1856)八月二十二日弓組二十二人。万延元年(1860)七月二十五日御用人。明治元年(1868)六月二十八日年寄。小野寺舎人の子。母は阿部誠之助家中秋山惣右衛門娘。明治二年(1869)隊長席二十人扶持。のちに父の敵を打つため職を辞したという。 |
【小野寺正成流金兵衛系概説】 |
重忠の弟正成を祖とする。兄重忠の家同様、 秋田家の重席を担った。通字は「成」。 |
人物 | 列伝 |
正成 | ( ? ) 九郎右衛門。妻は天野五右衛門の娘、後妻二本松家中吉田庄助の娘妙行。兄重忠と共に宍戸藩秋田家へ仕官。万治二年(1659)二百石。寛文頃(元年=1661)青貝持槍。 |
成忠 | ( ? ) 正成の子。弥五四郎、のち土栖と号す。延宝六年(1678)一月五日大目付、延宝七年(1679)十月十六日町奉行、貞享元年五月五日(1684)二百石。貞享三年(1686)十二月十六日先筒(北向町) |
女 | ( ? ) 正成の子。岡玄竹に嫁ぐ。 |
成栄 | ( ? ) 正成の子。金兵衛、兄成忠の養子となる。詳細は下条参照。 |
女 | ( ? ) 正成の子。日野に嫁ぐ。 |
女 | ( ? ) 正成の子。山下源五左衛門に嫁ぐ。 |
女 | ( ? ) 正成の子。矢嶋掃部左衛門に嫁ぐ。 |
成栄 | ( ? ) 正成の子。残雲、始め成言。加藤越中守へ仕えたのち兄成忠の養子となる。後妻は相馬弾正小弼佐々木五兵衛の娘。宝永八年五十石加増。享保二年五十石加増。元禄六年(1693)十二月大目付。享保五年(1720)二月十八日先筒(化粧坂) |
女 | ( ? ) 成栄の子。チサ。高津、佐川、永井の三家に嫁ぐ。 |
成珍 | ( ? ) 成栄の子。孫二郎、新右衛門。横死という。 |
男 | ( ? ) 成栄の子。藤之助、早世。 |
為忠 | ( ? ) 成栄の子。三之助、軍治、始めは成喜。実父は小野寺治忠、禄三百石を給わる。 |
成陳 | ( ? ) 成栄の子。政右衛門、市郎太夫、九郎右衛門、金兵衛。実父は本多下野守家中岩沢弥五右衛門。 妻は三坂長左衛門正仲の娘。離縁ののち堀田相模守浪人山田次右衛門妹。宝暦七年(1757)八月二十六日刀番。宝暦十一年(1761)二月六日作事奉行。明和四年(1767)一月十一日御近習目付。明和八年(1771)五月三日奥家老。 |
男 | ( ? ) 成陳の子。金之助、此面と称す。妻は河尻四郎右衛門季知の次女キノ。 |
女 | ( ? ) 成陳の子。ルン。早世。 |
男 | ( ? ) 成陳の子。鉄三郎。早世。 |
女 | ( ? ) 成陳の子。モン。 |
女 | ( ? ) 金之助の子。ルイ。 |
【小野寺匡廣流順司系概説】 |
小野寺順司源匡廣を初代とする。 上記の二家の分家と思われるが、繋がりは不明。 源姓を称している。 |
三春藩秋田家中 小野寺順司系家紋 |
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丸に二つ引き |
人物 | 列伝 |
匡廣 | (1794〜1865) 小野寺順司源匡廣。初代順司。文政八年(1825)五月二十二日郡奉行御免。天保二年(1831)八月二十八日、大目付。天保八年(1837)十一月十七日、大目付御免奥家老。天保十二年(1841)一月十一日大目付再役。弘化二年(1845)七月二十六日大目付御免。享保十五年(1730)以降、屋敷坪数三百七十八坪 畑九十歩。妻は板倉内膳正家中浅井善太夫の娘フキ。慶応元年三月九日没。行年七十二歳。自芳院安誉泰民居士。墓地は紫雲寺。家紋は丸に二つ引き。 |
匡道 | (1830〜1900) 小野寺順司源匡道 順司二代目養父小野寺順司匡廣、養母板倉内膳正家中浅井善太夫の娘フキ。実父は丹羽左京大夫家中熊谷伝兵衛直温、実母は同家中野田丈左衛門の娘いし。「慶応三年家中礼席」の秋田広記組に見える。禄百石。明治二年(1869)年一月二十三日、御武具奉行。同年、器械司。 明治三十三年一月十二日 没 行年七十一歳。淨祐院稟譽了善居士。菩提寺は紫雲寺。 |
【詳細不明の一族概説】 |
分限帳や家中礼席などから 人名を拾い上げたが、 系図が途中で終わっているために、 その血脈を判断できなかった。 三春藩小野寺氏であるものの、 系図上判明しなかった一族。 |
人物 | 列伝 |
三弥 | ( ? ) 万治二年(1659)金八両三人口。 |
重兵衛 | ( ? ) 安永元年(1772)七月二十五日作事奉行。 |
十太夫 | ( ? ) 安政五年(1776)十一月十八日刀番。寛政五年(1793)一月二十三日大目付御免。 |
顕蔵(見蔵) | ( ? ) 文化二年(1805)十一月十六日大目付。文化七年(1810)二月二十六日大目付御免。文政元年(1818)七月七日郡奉行御献上物方兼帯。文政十年(1827)十一月三日西郷御扱。文政十一年(1828)四月十六日、郡奉行御免。天保三年(1833)御武具奉行。天保十年(1839)九月晦新槍。天保十二年(1841)十月八日先筒二十五人 |
十郎左衛門 | ( ? ) 「慶応三年家中礼席」の秋田作兵衛組に見える。十三人扶持。真心流剣術師範。菩提寺は紫雲寺。 |
金兵衛 | ( ? ) 「慶応三年家中礼席」の秋田中之助組に見える。百石菩提寺は州伝寺。 |
清 | ( ? ) 金兵衛の子。母は小野寺顕蔵養女。継母は大浦恵三養姉。明治二年(1869)十五人扶持。 |
仲渡 | ( ? ) 蔵田を称す。小野寺市太夫の子。母は阿部播磨守家中秋山惣左衛門妹。慶応元年(1865)一月十一日小姓。明治二年(1869)三人扶持。 |
衛士 | ( ? ) 長女は、千葉弥作。次女は山地純之助に嫁ぐ。 |
慵斎 | ( ? 〜1861) 兵学者。土浦藩士、若林監之助の推薦で土浦藩に招聘された。桜田門外の変に関係したため文久元年土浦で自刃。事件陰の参謀の一人といわれる。 |
【秋田家領知変遷】
藩主 | 元号/西暦 | 領地 | 知行高 | 備考 |
愛季(ちかすえ) | 出羽秋田城主 | |||
@実季(さねすえ) | 常陸宍戸 | 五万石 | ||
A俊季(としすえ) | 正保二年/1644 | 陸奥三春 | 五万五千石 | |
B盛季(もりすえ) | 慶安二年/1649 | 五万石 | ||
C輝季(てるすえ) | ||||
D頼季(よりすえ) | ||||
E延季(のぶすえ) | ||||
F定季(さだすえ) | ||||
G倩季(よしすえ) | ||||
H謐季(やすすえ) | ||||
I孝季(たかすえ) | ||||
J肥季(ともすえ) | ||||
K映季(あきすえ) |