新田小野寺家臣「金藤次入道」の謎に迫る。




 新田小野寺の家臣と思われる人物に「金藤次入道」がいる。この名は「金藤次入道の事御消息」(年代不明)、また日興上人の御本尊脇書きにも「駿河国富士下方前住人金藤次」(1308)にとあり、さらに、「新田頼綱譲状」(1312)にも「金藤次がうちおこししんでん二丁一段」とあることから、すべて同一人物であると考えられる。彼の事跡は不明であるが、新田小野寺氏の譲状にその名が見えることから同家の家臣と考えられている。
 それと関連して「日本城郭大系第3巻」(新人物往来社)には「霜降館」(宮城県登米郡中田町石森)とある。別称称「金堂館」で、正しくは登米郡石越町今道(こんどう)に標柱は存在する。ちょうど館跡は町境を跨いでおり、「今堂」は石越町の大字名で、一方の「霜降館」は中田町石森の小字名となっている。館主は藤原秀衡の家臣金堂駿河守」と記録されている。「金堂姓」の由来は「中尊寺金色堂」に拠るものであろうか。
 両者の読みは共に「こんどう」で、なおかつ新田小野寺氏の居住していた地域とほぼ同じである。金堂氏の「駿河守」、金藤氏の「駿河国」は単なる偶然であろうか。霜降館に関する伝承を裏付ける史料が見つからないので、正確性を欠くが、金藤次入道は金堂駿河守と同一人物もしくは、その後裔であったのではないか。
 同じ平泉の郎党を例に挙げれば、平泉の郎党で二藤次忠季がいる。彼は大河次郎兼任の弟で秋田県鹿角地方に、その足跡を残している。吾妻鏡、文治六年(1190)に兄兼任に背き、長兄の新田三郎とともに幕府に忠誠を誓い御家人となった。「二藤次忠季」に関して「姓氏大辞典」のなかで太田亮氏は「次」は姓ではなく「次郎の意味か」とで述べている。また、吾妻鏡承久三年(1223)六月にも「二藤太三郎」が登場し、彼は忠季の子、または一族と考えられ、同じく御家人として活躍していることがわかる。
 共に特徴がある「次」の表記、小野寺道綱の奥州征伐従軍。新田領はかつて奥州藤原氏の領地であったことを考慮すれば、「平泉金堂一族」が新田小野寺氏の家臣になったとも十分考えられる。「二藤次忠季」の例ように幕府は率先して奥州藤原氏の旧臣を鎌倉御家人として取り立てたり、御家人達の家臣として組み入れることにより反幕府勢力を減少させ東北地方の情勢安定を目指したのではないか。
 金堂氏は「秀衡の家臣」と言う伝承を裏付ける史料は見つかっていないが、「金藤次入道」は平泉の滅亡と共に幕府の組織に編入された平泉郎党の子孫かもしれない。
 金藤氏は代々金堂館(霜降館)を拠点とした一族で、奥州藤原氏滅亡後、在地領主としての手腕を買われ、小野寺系新田氏に仕えたのではないか。

【参考】
 烟田文書に「金藤五郎」が登場する。「在陸奥国岩崎郡東郷下矢田村の□□田六反在家はん分の事、右の田在家ハ、よもぎの佐古の金藤五郎の在家(後略)」 「陸奥国」の文字に注視すれば、前述の「金藤次入道」と近い関係ではと考えたが、「岩崎郡」「下矢田」の地名も見られ、これは現在の福島県いわき市鹿島であることが明らかになる。「よもぎの佐古」は「蓬作」であろう。この人物が「金藤次入道」と同族であるという確証はないが、同じ陸奥国内の人物として参考までに掲載する。




【金堂館(霜降館)跡】(宮城県登米郡石越町今道)
金堂館跡 残された水堀
金堂館跡 残された水堀
中田町との境に広がる水田地帯  金堂館(霜降館)跡

 平泉藤原氏の金採掘の守り本尊である、
 蔵王権現がまつられており旧迫川の
 流路の袋地帯で砂金採集の場所と
 推察される。
 古記に藤原秀衡の臣金堂駿河守住居
 と伝えられている。現在は水堀が
 残されている。
中田町との境に広がる水田地帯 標柱より