新田小野寺氏の謎に迫る




 新田小野寺氏の足跡は建武元年(1334年)の「新田孫五郎(道章)宛国宣状」(大石寺文書)を最後として途絶え、その姿を眼にすることは出来ない。一族は伊豆国仁田郷にも所領を保有していたため移り住んだとも、南北朝の争乱が東北地方最大の合戦が三迫で起き、所領を失い散逸したとも、諸説考えられている。しかし「葛西氏家臣団事典」には登米郡内に葛西系と称する新井田氏が見える。新井田氏に関連する部分を掲載する。

新井田(葛西)氏
新井田城(千葉館)登米郡中田町沼田

新井田氏は平姓千葉氏。「古城書上」に城主千葉掃部、新井田村「風土記」に葛西新左衛門尉、一に葛西一門千葉掃部之助とある。
「登米郡史」宝江村沿革の中に「弘安六年秋、森の上行寺、新井田の本源寺開創以前に新田重綱当地を領したるを見れば其の由来なく、且正応二年九月千葉掃部新井田を草創せり云々」とあり、鎌倉時代における新田重綱の事績は不明ながら、同時代末期、正応二年(1289)に千葉掃部が入来し、当地の支配者となったと伝える。千葉、葛西、新井田は同姓であろう。観応二年(1351)三月三日登米郡黒沼城に水(米)谷右馬権守、葛西伯耆守籠城、吉良貞永その将宮野豊後等一統これを攻め、佐沼橋本にて合戦敗れる(大石寺文書)。
 千葉掃部之助について「中田町史」では次のように述べている。「千葉掃部なる者は信胤の孫である。その祖は康胤で、康胤−元胤−保胤−勝胤−実胤−祐胤−昌胤−利胤−弘胤−胤定と継統、その子十一代信胤(前名不明)は主家葛西晴信の偏諱を授けられ信胤と名乗り、新井田を称した。信胤の孫が新左衛門(掃部之助)である云々」(紫桃一部加筆)。 掃部之助は天正十八年没落し黒沼に隠れ、その数代孫の龍作が大槻と改姓、代々登米郡の大肝入を勤仕した。
 新井田氏没落後寛永五年、伊達家臣高泉長門定康が新地頭として新井田城に入来する。

新井田新左衛門(にいだしんざえもん)
 新井田城、天正没落期の城主。葛西、千葉と称す。掃部、あるいは掃部之助。千葉信胤の孫。没落後黒沼に帰農、その子孫は大槻と改姓する。


 これには新井田(新田)氏が葛西氏の出自で小野寺系新田氏と入れ替わって居住した旨が記されている。これが事実ならば新田小野寺氏は忽然とその姿を消したことになる。この新井田氏は小野寺系新田氏とは無縁なのであろうか。
 その謎を解明するヒントは「葛西奉賀帳」にある。「葛西奉賀帳」は葛西氏の一族家臣の繁栄を願って熊野速玉神社に寄進したものであり、紫桃氏によれば大永年間(1521〜1527)に流行したスタイルであるという。葛西氏は平家出身なので、別名でこれを「平家奉賀帳」とも呼ぶ。
 その4段目には今回注目すべき人物「藤原新田行盛」「同蔵松丸」とある。併記されていることや「蔵松丸」の童名から両者の関係は親子と考えられる。
この人物たちこそがが「新田小野寺氏」の後裔ではないだろうか。
 早速検証してみたい。まず、「藤原」を本姓としている点である。正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」には「藤原頼道 藤原行道 藤原行時」とあり新田小野寺氏は藤原氏が出自であることを理解していた。また諱に「行」の字を使っている点。新田小野寺氏の通字の特徴として初期には「重」のちに「道」と「行」が多く使われている。
これらを考慮すれば「新田孫五郎(道章)」と「藤原新田行盛」「同蔵松丸」という点が線で繋がる。ただ「道章」の「道」の字を通字としていないことから「行盛」は「道章」直系ではなく、新田小野寺氏の庶流とも考えられる。
 先述の「葛西氏家臣団事典」中の「新井田氏」は正応二年(1289年)に新田城に入ったとされるが、「沙彌道意譲状」(1264)、「新田頼綱譲状」(1312)、「葛西奉賀帳」の「藤原新田」の文字の事実から、新田小野寺氏の領有は明白であり、葛西系新井田氏が当地に入植する余地は無かったと考えられる。葛西氏出身の人物が養子として新田小野寺家に迎え入れられた可能性も否定できないが、新田小野寺氏が葛西氏家臣となったという要因もあり、その世系は次第に混乱し歪められていったとのではないか。
 以上のように新田小野寺氏の血は絶えることなく脈々とその後裔「藤原新田行盛」と「蔵松丸」に引き継がれ、新田孫五郎(道章)の文書から約二百年後の大永年間に至り葛西氏の一家臣となったものの、新田郷の領有は変わらなかった。




【新井田城跡】(宮城県登米郡中田町宝江新井田字舘)
本丸跡付近
新井田城「千葉館」の護城河

新井田城は天正の頃、千葉掃部助、のちに新井田新右衛門を城主とする城で、東西五十間、南北六十間の平城として有名であり、周囲は護城河「護館堀」により固め、下新井田には要害があり要塞として固めていた由緒ある「護城河」であり文化財として貴重な「お堀」である。仙台領古城書上に「新井田城、東西五十間、南北六十間、城主千葉掃部」とあり、また菊地素隆は「新井田城は天正の頃、千葉掃部助、後、新井田新右衛門」と補している。更に、新井田村風土記御用書出には「古館壱つ、但葛西新左衛門尉と申人城主之由承伝得共右年月等相知不申、一説ニ葛西家一門千葉掃部助城主之所天正之頃落城之由承伝候、往古ハ新井田新左衛門ト申人居城ノ由ニ御座候処時代相知兼申候、本丸、東西五十間、南北六十間、今以三ノ堀迄右跡相残候事」とある。
又、登米郡史、宝江村沿革に「弘安六年(一二八三年)秋、森の上行寺、新井田の本源寺開創以前に新田重綱当地を領したるに見ればその由来古く、且、正応二年(一二八九年)九月千葉掃部、新井田を草創せり」とある。
本丸跡付近、標柱が立つ
案内板
案内板 案内板より