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新井田城「千葉館」の護城河
新井田城は天正の頃、千葉掃部助、のちに新井田新右衛門を城主とする城で、東西五十間、南北六十間の平城として有名であり、周囲は護城河「護館堀」により固め、下新井田には要害があり要塞として固めていた由緒ある「護城河」であり文化財として貴重な「お堀」である。仙台領古城書上に「新井田城、東西五十間、南北六十間、城主千葉掃部」とあり、また菊地素隆は「新井田城は天正の頃、千葉掃部助、後、新井田新右衛門」と補している。更に、新井田村風土記御用書出には「古館壱つ、但葛西新左衛門尉と申人城主之由承伝得共右年月等相知不申、一説ニ葛西家一門千葉掃部助城主之所天正之頃落城之由承伝候、往古ハ新井田新左衛門ト申人居城ノ由ニ御座候処時代相知兼申候、本丸、東西五十間、南北六十間、今以三ノ堀迄右跡相残候事」とある。
又、登米郡史、宝江村沿革に「弘安六年(一二八三年)秋、森の上行寺、新井田の本源寺開創以前に新田重綱当地を領したるに見ればその由来古く、且、正応二年(一二八九年)九月千葉掃部、新井田を草創せり」とある。
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