奥州三迫加賀野氏の謎に迫る

登米郡中田町石森字加賀野の史跡
登米郡中田町石森字加賀野の史跡



1.【はじめに】


 奥州三迫加賀野氏(宮城県登米郡中田町石森字加賀野)は日蓮宗に帰依し、大石寺第五世日行上人を輩出した武家として知られ、大石寺文書等や日蓮宗関係の文書にその名が多く見られる。しかし、その系譜は依然不明で出自もはっきりしない。また、その末裔がどのようになったかも判然としない。のちにこの地方の中小勢力は例外なく奥州惣奉行と称された大族葛西氏の支配下に置かれることになる。戦国時代末期における葛西氏、大崎氏の紛争、またその後の葛西氏滅亡の影響を加賀野氏も受け、残された史料は数少なく、断片的である。ここでは葛西家臣団の一端を占めた加賀野氏の系譜を明らかにするとともにその出自や末裔についても併せて論じていきたい。




2.【加賀野氏の系譜】


 日蓮宗関連の文書には「加賀野三郎」「加賀野三郎次郎」「加賀野太郎三郎」「加賀野彦三郎行重」「加賀野殿」の名が残されているものの、加賀野氏の系図は存在せず、史料も断片的で系譜の組み立ては困難を極める。 私見ではあるが単に通称を考慮してこれらの人物を順序通りに繋げば以下の通りになる。

太郎─太郎三郎(三郎)┬彦三郎行重
               └三郎次郎

 「太郎」は文書に登場しないが、「太郎三郎」の通称から父が「太郎」であったことが推測でき、この人物は加賀野氏の始祖で鎌倉時代初期に当地へ最初に入植した人物と考えられる。つぎに「太郎三郎」は太郎の子で「三郎」を称したことがわかる。つづいて「彦三郎」の「彦」は「曾孫(ひこ)」を意味し、広くは曾孫を指す通称であるが、場合によっては孫を指すこともあった。始祖太郎から見て彦三郎は孫に当たる。「三郎次郎」は三郎の子で次男を意味している。また南条氏系譜に拠れば、南条時光の女子が加賀野氏に嫁ぎ、その脇書きには「加賀野太郎三郎夫人 行師母」(行師は日行を指す)とあり、日行上人は、太郎三郎の子で「三郎次郎」に該当するのではないかと考えられている。




3.【加賀野氏は小野寺氏か】


 『富士門家中見聞抄』(1662年頃成立)には、「釈の日行(中略)本名は加賀野殿、目師の一家なり」とあり、また『中世の小野寺氏』でも前述の記事をもとにしたのだろうか「加賀野氏は新田氏の一族といわれる」と記している。さらには『南条時光全伝』所収の南条家系譜にも南条氏の女子が新田氏と加賀野氏に嫁ぎ両家は南条氏を通じて縁戚同士であることが確認できる。
 『富士門家中見聞抄』中の「目師の一家なり」の文言が単なる縁戚関係を示すのか、または同じ流れを汲む一族を指すのかは判然としない。加賀野氏と新田小野寺氏の縁戚関係は確認できたが、出自が小野寺氏であったかは断定できない。それについては次項以降でさらに検証したい。




4.【六条八幡宮造営注文に見える河原毛太郎】


 『六条八幡宮造営注文』(1275)の「陸奥国」に「河原毛太郎跡 三貫」が見える。下図参照。またその下には「新田太郎跡 三貫」とあり、七海雅人氏は『鎌倉府と奥州』のなかで「新田太郎」を新田(小野寺)重房であると比定している。また「河原毛氏」に関する部分を同書より掲載すれば以下の通り。なお、文中のJは河原毛太郎。Kは新田太郎を指す。

 河原毛の地名を東北地方の中に探れば、秋田県湯沢市の温泉地河原毛地獄が思いうかぶだろう。そして都合のよいことに、出羽国雄勝郡に属するこの地の中世領主もまた、小野寺氏なのである。したがって、その名字と建治注文における一族配列の付合性から推測して、J人名もまた、K人名とともに奥羽いずれかの新恩所領へ早い段階で拠点を構え、陸奥国御家人へ編入された小野寺氏一族の一人だったのではないかと考えてみたい。また雄勝郡惣地頭職が小野寺氏宗家通綱の子孫に相伝され、一分地頭の形で庶子家が郡内に展開したとする指摘[遠藤一九八八]をふまえれば、Jは宗家庶子、もしくは庶流のうちの一人であったともみなせるだろう。ただし、なぜ出羽国内の地名を名字に冠した人物が、陸奥国内の御家人役負担単位として所見するのかは不明とせざるを得ない(この点たとえば、雄勝郡の中でも陸奥国境に近接して位置することから、河原毛地区には奥羽両国の境界・両属的な性格があり、それが反映しているとは考えられないか)。

 七海氏はまた河原毛氏に関しても、「出羽国」と「陸奥国」の違いを疑問視しながらも湯沢市高松河原毛を領有する小野寺氏庶流の可能性を指摘している。
 しかし、陸奥国三迫加賀野地内にも河原毛に関係する地名が残されている。現在の地名を正確に記せば「川原毛」「上川原毛」「下川原毛」「西川原毛」「中川原毛」であり、登米郡中田町石森の小字名になっている。つまり河原毛太郎は登米郡河原毛を領有した人物だったのではないか。またさらに偶然にも「河原毛」「加賀野」は共に一部を包有する地域であり、ほぼ同地区といってよい環境にある。これらを鑑みれば、「河原毛太郎」は加賀野太郎三郎の父「太郎」と同一人物だったのではないのか。入植当初は河原毛を称していたが、その後、何らかの変化により、「加賀野」に改姓したのではないだろうか。そうであれば加賀野(川原毛)と新田は隣接の地域のため、『六条八幡宮造営注文』に「河原毛太郎」「新田太郎」が同じ行に書かれたのも理解できる。



『六条八幡宮造営注文』(1275)
『六条八幡宮造営注文』(1275)
「陸奥国」の部分を抜粋


5.【森の地頭三浦氏】



 紫桃正隆氏の『葛西氏家臣団事典』から森の三浦氏を引用すれば以下の通り。

 森 三浦氏 登米 寺田城登米郡迫町森 
森三浦氏は登米郡佐沼南部に栄えた家歴の古い地頭と伝わる。小島村「風土記」によると、「小島館」について、「三浦式部様御一円ノ御知行所二付御代々御仮屋等二相成リ候」とあり三浦氏の権勢のさまが推量できる(注伊達式部か三浦式部か不明)。「迫町史」(年譜)に、弘安六年(1283)この年森村に日目上人が上行寺を開基し、同十年、寺田城主三浦対馬の帰依により日目上人は法栄山上行寺を建て、柏木の大養坊から移る、と見える。上行寺の建立には地頭三浦氏の献身があったことが知られる。

三浦式部(みうらしきぶ)
 諱不明。「家臣衆座列」には登米郡森邑住人三浦式部と、「古城書上」にも同三浦式部とあり、別書に三浦対馬とある。鎌倉時代末から栄えた有力豪族と推考されるが、世系事績ともに不明である。


 森は新田、加賀野と隣接する地域である。これによると三浦氏は森氏を称した可能性が高い。日蓮関係の文書『富士門家中見聞抄』(1662年頃成立)には「森の本名は加賀野と申すなり」とあり、両者の関係を窺わせる。この書は江戸時代の成立で何を元に書かれたかはわからないのが残念である。森氏と加賀野氏、両氏の関係を裏付ける史料は存在せず、森氏は加賀野氏であったかどうかは判然としない。




6.【加賀野の飯塚氏】


 紫桃正隆氏の『葛西氏家臣団事典』に拠ると飯塚氏(加賀野氏)の概要は以下の通り。

 飯塚(加賀野)氏 登米 加賀野城 登米郡中田町加賀野
 飯塚氏は平姓千葉氏、米谷城主亀卦川千葉の分流である。加賀野は苗字(地名)であろう。「亀卦川千葉系図」によると、登米郡米谷(東和町)米谷城主六代亀卦川盛胤の弟長明に四子があり、長子常明(主膳)は七代当主を嗣ぎ、二子常春(市右衛門)は流荘日形千葉氏の養子となり、三子重明(美濃)は加賀野に分族して飯塚氏を称し、四子信明(筑後)は水越に分れて水越氏を称した。飯塚(加賀野)氏の祖は美濃重明で、分立の時代は応永二十二年春である。幕紋輪中三柏。「中田町史一所載飯塚氏族譜その一によると、飯塚氏の祖は飯塚四郎忠重(一に宮内)に発し、その間不明であるが、貞和年間(1245年頃)に真義(宮内少輔)が現われ、以来五代相続して真満の代に飯塚山城を称したとある。「飯塚氏族譜」その二は没落期に近い天正年間における飯塚山城・同主計(修理)の親子二代と、その孫の系譜である。右三者の申、「その一」の系譜は後世の聞書とある(「中田町史」)ので疑問が多い。

亀卦川美濃重明(きけがわみのしげあき)(明徳二年1391〜文安四年1447)
 加賀野城飯塚氏の祖。登米郡米谷城、亀卦川千葉長明三男、母曽我左衛門祐景女、明徳二年米谷城に生れる。源四郎。応永二十二年春葛西持信より米谷地二百余町を賜り、登米郡に移り加賀野邑に住む。文安四年二月九日没、行年五十七歳。

飯塚山城持親(いいづかやましろもちちか)(   〜天正十九年1591)
 天正年間の加賀野城主、一に真満。天正十九年六月、葛西一揆に参陣。七月四日伊達氏の攻撃を受け、同六日に(天正十九年七月六日)討死。加賀野城外竹林中に葬られる。今も田圃の中に小島があり竹林となり、里人は飯塚と呼称する。佐藤権左衛門の伝え「同町史」によると、飯塚氏の家人は同地の蕎麦畑で自殺したため、現在も蕎麦は稔らず禁忌という。「家臣衆座列」に居館豊懸(登米)加賀野村飯塚遠江山城とある。

飯塚修理(いいづかしゆり)
 持親嫡男。諱不明。主計。父山城戦死の時は疾病ありて従わず、父没後十四日後に(天正十九年七月二十日)に没した。法名理源自影禅定門。母は佐沼城主佐沼入道保山女(同女はのちに高泉高景に嫁し、一女を挙げ寛永三年没)修理には三男二女があった。「古城書上」加賀野村「風土記」ともに加賀野城主飯塚修理と伝える。


 飯塚氏は加賀野を支配し、加賀野氏をも称していたことが明らかになる。
 文中では亀掛川氏系図を典拠とし飯塚氏は葛西氏の流れを汲むと記されている。しかし『葛西奉賀帳』には「飯塚藤原清親」なる人物が記されている。この隣には「石森氏」も記されていることから、この飯塚氏は「加賀野の飯塚氏」であることは間違いない。ここで飯塚氏の出自に関して矛盾が生じてしまう。同時期に藤原氏を出自とする飯塚氏と平氏を出自とする飯塚氏が加賀野に居たとは考えにくい。はたして飯塚氏は平家の血を引く葛西氏、また藤原氏のいずれであったのであろうか。
 加賀野氏の出自に関してはやはり「葛西奉賀帳」の「飯塚藤原清親」が事実で、加賀野氏は万世一系だったのではないだろうか。文中の記事は必ずしも加賀野氏の経略を正確に語っているとは言えないが、その一部分から加賀野氏の動向を垣間見ることが出来よう。以上のことから加賀野氏は藤原氏出身であり、のちに飯塚氏に改名したと考える。



【飯塚館址】(宮城県登米郡中田町石森字加賀野)
飯塚館址の標柱 跡に残された八幡神社
飯塚館址の標柱 跡に残された八幡神社
飯塚館遠景  飯塚館址
 
 加賀野城ともいわれ、東西二十五間、
 南北三十間城主は葛西の臣、飯塚修理。
 父山城は天正十九年(1591)六月、
 葛西大崎一揆に佐沼城に拠ったが、
 七月四日伊達氏の攻撃を受けて戦死、
 加賀野城外竹林の中に葬られた。
飯塚館遠景 標柱より


6.【石森の一族】


 『葛西家臣団事典』から石森氏に該当するところを書き出せば以下のよう。

 石森 石森氏 登米
石森城登米郡中田町石森「家臣衆座列」に諸士として、居住石森村、石森兵部同讃岐氏は葛西一族(平姓。但し「奉賀帳」には藤原とある)で、石森右近将監康次を祖とし、康次は葛西清重に従って平泉役に参陣。戦功によって承久三年(1221)登米郡石森城に拠って石森氏を称した。「平守寛系図」によれば、葛西朝清(清重の子)に七子があり、その六男清見が石森に千余貫を領知して来住し、葛西大老臣、石森葛西氏の祖となると書いている。「葛西奉賀帳」に、一貫文石森藤原宗親の名が見える。石森氏歴代の世系事績ともに不明であるが、左近晴康の代に天正十八年の没落となり、石森氏の主力は牡鹿半島の大原城に亡命し牡鹿大原石森氏に転身した(「大原石森氏」参照)。その後、石森城旧跡には寛永二十一年、伊達家臣笠原出雲盛康が来住した。

石森右近将監康次(いしもりうこんしようげんやすつぐ)
登米石森城祖。葛西家親族という。承久三年平泉藤原氏討伐参戦の功で、登米郡内に封領を得て石森城に拠る。

石森左近晴康(いしもりさこんはるやす)
天正十八年没落期の当主。「家臣衆座列」の石森兵部に擬定され、石森讃岐頼信はその弟であろう。牡鹿にあって天正十八年に晴信より知行宛行われた石森掃部左衛門は、讃岐の嫡男である。


 文中述べられているように『葛西奉賀帳』には「石森藤原宗親」の名が見える。その前には先述の「飯塚藤原清親」とあり両者は並んで書かれている。現在、石森は加賀野を包有する地域であるが、中世当時はそれぞれ独立した地名で、共に隣接する土地であった。並記の状況、同じ「藤原氏」、また「親」の通字から、藤原清親・宗親は兄弟もしくは同族であったように見える。どちらも共に「一貫文」を寄進しているが、「飯塚氏」が先に書かれていることを考慮すれば家格は加賀野飯塚氏が上で、石森氏は飯塚氏から分出した一族かも知れない。また、笠原城(石森城)の由来(写真参照)には「平泉藤原氏の臣猪塚修理が居住した」とある。「猪塚修理」は加賀野の「飯塚修理」のことをいっているのだろうか。であるとすれば伝承に時代の錯誤がみられるが、飯塚氏と石森の関係を窺わせる見逃せない記述である。


また石森の二ツ木城主には「小野寺堯明」(二ツ木氏を称す)がいた。『葛西氏家臣団事典』の「二ツ木氏」の項によると以下の通り。

 ニツ木城(隻樹城) 登米郡中田町石森

ニツ木氏は本姓小野寺氏。その先不明。葛西一族石森将監康次が石森城に拠るに及び、小野寺三五郎堯明がニツ木城に住み、ニツ木氏を称して石森城の後衛に当った。「古城書上」、石森村「風土記」に城主ニツ木三五郎とある。

二ツ木(小野寺)堯明
ニツ木城主。三五郎。天正十八年、石森氏、小塚氏らと共に伊達家に降る。「地方人物史」に「これより先、葛西の家臣、石森城主石森頼信、小塚の城主小塚式部、ニツ木城主ニツ木三五郎と共に修験者全海阿闍梨をして主家のために武運長久、敵軍降伏の大護摩供を修すること七日七夜に及ぶ。既にして敵軍の囲むこと数十日、城東に小島崎あり、小塚氏の居館と対せたまたまり。故に常に矢文を以て軍状を応答せりと云う。偶々友を謀るひそものあり、深夜私かに其の主を殺して伊達氏に降る。伊達氏不信を悪みて之を新田村に斬る云々」とある。ニツ木三五郎は家臣のために命を奪われた。三五郎の子孫は旧姓小野寺に復し、上沼に走る者は医者となり石森に残る者は農に帰した。


 二ツ木城主も小野寺氏であったことがわかる。堯明より前の代が不明なので、どの小野寺氏に繋がるかはわからないが、文中の「石森城の後衛」の文言に注視すれば、石森氏の分家であったかも知れない。
そのほか、二ツ木に隣接する城として小塚城があったことがわかる。両城の距離は約1キロで城主小塚式部則安は二ツ木堯明と密接な関係にあったと様子が窺えるが出自が不明なのが残念である。



【石森城跡】別称笠原城(宮城県登米郡中田町石森)
跡に残された八幡神社  笠原城の由来

 文治の初(1185〜1186)平泉藤原氏
 の臣猪塚修理が居住したが藤原氏没落後
 承久三年(1221)葛西氏の一族石森右近
 将監康次が居住した、天正十八年(1590)
 主家葛西氏が豊臣秀吉の小田原出陣に
 参陣しなかった左近晴康の代所領を
 没収され没落した。
 天正十八年(1591)遠藤出雲守高康が
 居住、寛永八年(1631)間野四郎左衛門
 が居住した。
 寛永十六年(1639)伊達氏の家臣
 笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移居。
 天和元年(1881)の古絵図に画かれている
 環境がめぐり、当時を忍ぶ護城河である。
 城跡屋敷の北四方には笠原家の廟所があり、
 その西に守護神である石大神社が
 祀られている。笠原出雲盛康が
 寛永十六年(1639)に建立したとつたえら
 れている。


    平成六年三月三十一日
            中田町教育委員会


               「環境」は「環濠」の誤りか
跡に残された八幡神社
堀の跡
堀の跡 案内板より



【二ツ木館跡】(宮城県登米郡中田町石森)
二ツ木館跡 館への登山道
二ツ木館跡 館への登山道
二ツ木館遠景  二ツ木館(双樹館・二次館)跡

 葛西氏の家臣二ツ木三五郎堯明は
 この山を館し、石森館の後衛にあたった。
 本丸は東西一〇〇メートル、
 南北六〇メートル、標高三六メートル、
 三段の土壇が巡り西側には空堀跡が残る。
 山上に八雲神社が祀られてあった。
 天正一八年(1590)主家葛西晴信が
 豊臣秀吉の奥羽仕置きで所領を没収
 されるに及び、石森氏、
 小塚氏と共に没落した。
二ツ木館遠景 標柱より



8.【おわりに】

 
 以上参考文献をもとにいろいろと論じてきたが、加賀野氏(河原毛氏、飯塚氏)は一系であったと判断する。その系譜を再度整理すれば以下の通り。


加賀野氏系図


 登米郡一帯は小野寺道綱が恩賞で賜った土地であったこと、また、『葛西奉賀帳』で加賀野飯塚氏は藤原氏を本姓としていること、さらに『六条八幡宮造営注文』に「河原毛太郎」が「新田太郎」と同行に書かれていることを考慮すれば、加賀野氏は鎌倉時代中期に当地へ赴いた小野寺氏庶流であったのではないか。また「新田太郎」「河原毛太郎」の「太郎」はこの場合、長男を意味するのではなく、その土地に最初に入った人を意味する「太郎」だったのではないか、そうであれば「新田太郎」「河原毛太郎」はともに小野寺氏庶流で兄弟であったと考えられる。鎌倉期に於いての諱は「行重」しか判明していないが新田氏との関連を考慮すれば「重」「行」の字が頻繁に用いられたであろうか。飯塚氏を称するようになってからは「親」の字を用いた。
 最後に加賀野氏の概略をまとめて述べれば以下の通り。
鎌倉初期に小野寺氏庶流の太郎某が河原毛へ入植し土地の名を名字として負った。彼は鎌倉御家人であったため、1275年には六条八幡宮造営に際して寄進を促され、三貫を寄進。この時すでに太郎は死去しており、子の太郎三郎が、これを負担した。この間名字を河原毛から加賀野に改めたと考えられる。また、代々同族で新田小野寺の日目上人の影響を受け日蓮宗に帰依する。行重の代になり、その弟日行が日目上人に師事し大石寺第五世となる。その後の数代の動向は不明であるが、鎌倉幕府の崩壊、南北朝の争乱、応仁の乱など紆余曲折を経つつも葛西氏の麾下になることにより生き延び、名を加賀野から飯塚に改名。この頃石森にも分家を輩出する。しかし持親、修理の代になり葛西氏衰退の影響は避けられず、天正年間に伊達家の攻撃に遭い滅びた。
 小野寺道綱が地頭として給わった登米郡は広大で、数多くの小野寺氏が入植し、或いは、これから数多くの枝分かれした一族がいたと思われるが、現在その一部である新田氏、加賀野氏、登米氏の存在しか明らかでない。登米郡内の他の地域にも小野寺氏が繁栄したと考えられるが、それらに関してはまた追って記すことにし、ひとまず本稿をおえたい。




追記 9.【太子堂(加賀野)のお話】


 脱稿後、河原毛と加賀野氏に関して大変興味深いお話を見つけました。本稿のテーマをさらに掘り下げる意味でも大変貴重な伝承と言えるでしょう。中田町のご協力をいただき、原文を紹介いたします。
 
むかしむかしの話です。
 加賀野藤原家一門の殿様が、ある夜、聖徳太子が阿弥陀のご尊像を胸に抱かれて、白馬にまたがり、天馬空を行く夢を見ました。 
 殿様は、はて、不思議な夢を見るものと思い、家来どもに、自分の領地内を隅々まで調べさせました。
 ところが、茶畑の「川原毛」の地が、古くから良馬、特に白馬の産地で、数々の名将の乗馬を産していたことが分かりました。
 殿様は、自分の見た夢とよく符合し、正夢であったことを大変喜ばれました。 それからは、聖徳太子の像を「川原毛」の地に納め、毎年、お祭りをたててあがめました。
 その後も、「川原毛」やその近辺からは、ますます良い馬を産するようになりました。土地の人々も、それを誇りとして住んできました。
 後の世に、海蔵寺の境内に今日ある太子堂を建て、常日頃信仰しました。
 疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)、流行病に御利益があり、また、学問、特に書道が上達すると言われ、お参りの人が後を断ちません。
(原話 中田町史)

※「川原毛」とは馬の毛色で、黄身色を帯びた灰白色で、たてがみの黒いものを言います。大変品があり、気高く、数も少なく、昔の侍大将など、一軍を指揮する武将の乗馬になりました。

宮城県登米郡中田町ホームページ 「ちょっと一服 むかしあったとさ」「太子堂(加賀野)」より引用。