奥州三迫加賀野氏の謎に迫る
![]() |
登米郡中田町石森字加賀野の史跡 |
1.【はじめに】 |
|
2.【加賀野氏の系譜】 |
|
3.【加賀野氏は小野寺氏か】 |
|
4.【六条八幡宮造営注文に見える河原毛太郎】 |
|
『六条八幡宮造営注文』(1275) |
![]() |
「陸奥国」の部分を抜粋 |
5.【森の地頭三浦氏】 |
|
6.【加賀野の飯塚氏】 |
|
【飯塚館址】(宮城県登米郡中田町石森字加賀野) | |
![]() |
![]() |
飯塚館址の標柱 | 跡に残された八幡神社 |
![]() |
飯塚館址 加賀野城ともいわれ、東西二十五間、 南北三十間城主は葛西の臣、飯塚修理。 父山城は天正十九年(1591)六月、 葛西大崎一揆に佐沼城に拠ったが、 七月四日伊達氏の攻撃を受けて戦死、 加賀野城外竹林の中に葬られた。 |
飯塚館遠景 | 標柱より |
6.【石森の一族】 |
|
【石森城跡】別称笠原城(宮城県登米郡中田町石森) | |
![]() |
笠原城の由来 文治の初(1185〜1186)平泉藤原氏 の臣猪塚修理が居住したが藤原氏没落後 承久三年(1221)葛西氏の一族石森右近 将監康次が居住した、天正十八年(1590) 主家葛西氏が豊臣秀吉の小田原出陣に 参陣しなかった左近晴康の代所領を 没収され没落した。 天正十八年(1591)遠藤出雲守高康が 居住、寛永八年(1631)間野四郎左衛門 が居住した。 寛永十六年(1639)伊達氏の家臣 笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移居。 天和元年(1881)の古絵図に画かれている 環境がめぐり、当時を忍ぶ護城河である。 城跡屋敷の北四方には笠原家の廟所があり、 その西に守護神である石大神社が 祀られている。笠原出雲盛康が 寛永十六年(1639)に建立したとつたえら れている。 平成六年三月三十一日 中田町教育委員会 「環境」は「環濠」の誤りか |
跡に残された八幡神社 | |
![]() |
|
堀の跡 | 案内板より |
【二ツ木館跡】(宮城県登米郡中田町石森) | ||
![]() |
![]() |
|
二ツ木館跡 | 館への登山道 | |
![]() |
二ツ木館(双樹館・二次館)跡 葛西氏の家臣二ツ木三五郎堯明は この山を館し、石森館の後衛にあたった。 本丸は東西一〇〇メートル、 南北六〇メートル、標高三六メートル、 三段の土壇が巡り西側には空堀跡が残る。 山上に八雲神社が祀られてあった。 天正一八年(1590)主家葛西晴信が 豊臣秀吉の奥羽仕置きで所領を没収 されるに及び、石森氏、 小塚氏と共に没落した。 |
|
二ツ木館遠景 | 標柱より |
8.【おわりに】 | |
|
追記 9.【太子堂(加賀野)のお話】 |
|