新田小野寺氏





【新田小野寺氏概説】

下野国より陸奥国登米郡上新田(宮城県登米郡中田町)に移住した一族。姓を小野寺より新田(にいだ)に改め、また、その庶流は加賀野、登米などそれぞれ一所懸命の土地の名を負った。鎌倉御家人として幕府に仕え、伊豆国田方郡仁田郷畠村も所有することとなり、その系統は日蓮宗の大石寺第三世日目上人を輩出した。一族は日蓮宗に帰依し、陸奥・伊豆にて大いに繁栄したと思われるが、南北朝の争乱以降の記録が残っておらず、その後の消息は不明である。






【新田小野寺氏関係所領】
新田小野寺氏関係所領





【新田小野寺氏系図】(系図2−1)諸系図を参照して管理人作成。
新田小野寺氏系図





人   物 列      伝
重房 ( ? 〜1263)
秀道の嫡子。祖父道綱が賜った陸奥国登米郡上新田を拝領し、新田太郎と称す。新田小野寺氏の始祖。弘長三年(1263)死去。妻は尾張某の娘。剃髪して妙法尼御前と称す。義兄は尾張次郎兵衛。弘安元年六月二十二日死去。

『六条八幡宮造営注文(1275)』にみえる「陸奥国 新田太郎(跡)」を七海雅人氏は「新田重房」と比定している。
( ? )
重房の子。加賀野に入り加賀野太郎三郎と称す。
重秀 ( ? )
重房の子。四郎と称す。詳細不明。
重綱 ( ? 〜1264)
重房の子。新田五郎と称す。弘長三年(1263)六月八日『妙法尼譲状』に母妙法尼より伊豆国田方郡仁田郷畠村を譲り受けたことが見える。文永元年八月譲状が作れずに亡くなったことから、急死と考えられている。妻は南条七郎入道行増の娘で南条次郎左衛門時光の姉。蓮阿尼と称した。
行重 ( ? )
某の子。加賀野彦三郎と称す。
重道 ( ? )
重道の子。十郎と称す。
頼綱 ( ? )
重綱の次男。新田次郎・入道日善と称す。重綱の跡を継ぎ新田家の惣領となる。妻は安藤又太郎信乃の娘。
両目を患っていたため正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」により兄弟、頼道・行道。子息行時・日道立会のもと、孫五郎道章を惣領として一族に所領を相伝させた。
頼道 ( ? )
重綱の三男。登米小三郎と称す。
正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」に「登米小三郎」「藤原頼道」と見える。
信綱 ( ? )
重綱の四男。新田四郎と称す。
日目 (1260〜1333)
重綱の五男。日蓮宗富士大石寺三世。蓮蔵房。文応元年(1260)、伊豆国田方郡仁田郷畠村にて生まれる。母は南条時光の姉でのちに蓮阿尼と称した。十三歳にして、伊豆走湯山円蔵坊に入門、文永十一年(1274)日興上人の弟子となる。弘安二年(1279)、十五歳になり身延山に詣でて日蓮大聖人に仕え本尊を授与されている。甲州より武州池上の地へはいる。
日蓮没後、師日興が身延を離去するやこれに随い駿河富士に至り、日興の教化をたすけた。永仁六年(1298)の日興の「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(本尊分与帳)に日華・日秀・日禅・日仙・日乗とともに「日興第一の弟子しと記されている。元弘三年(1333)日興示寂の折、法門を奏上すべき遺命をうけて日尊・日郷を伴い上洛しようとしたが、十一月十五日途中美濃国垂井で遷化した。七十四歳。墓所は大石寺。
行道 ( ? )
重綱の六男。新田六郎と称す。
正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」に「新田六郎入道殿」「藤原行道」と見える。
日行 ( ? 〜1369)
行重の子。日蓮宗富士大石寺五世。正平二十四年(1369)遷化。
重行 ( ? )
重道の子。孫太郎と称す。
行時 ( ? )
頼綱の子。孫太郎と称す。
正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」に「藤原行時」と見える。
日道 (1260〜1341)
頼綱の次子。伯耆房、弁阿闍梨と称す。日蓮宗富士大石寺四世。弘安六年(1260)、伊豆国田方郡仁田郷畠村にて生まれる。正安元年(1299)日運と共に日目により出家得度。正安三年(1301)重須行泉坊を創建。つづいて加賀野に本道寺を建てた。嘉暦二年(1327)日目より加賀野、伊豆国南条の一部を譲られる。
興国二年(1341)二月二十六日、五十九才で遷化した。
道章 ( ? )
頼綱の五男。孫五郎と称す。
正和元年(1312)の「新田頼綱譲状」に「孫五郎をそうりょうとして」とあり新田氏の惣領としてその名跡を継いだ。建武元年(1334)陸奥国岩手郡二王郷の沙汰に関し多賀国府より「新田孫五郎」宛に国宣状が出されている。
国道 ( ? )
頼綱の子。孫三郎と称す。
正和元年(1312)「新田頼綱譲状」に「まご三郎」の名が見える。
行道 ( ? )
頼道の子。三郎五郎と称す。
正和元年(1312)「新田頼綱譲状」に「三郎五郎」の名が見える。正中元年(1324)日興上人より本尊書写を授与される。
幸松丸 ( ? )
行時の子。嘉暦二年(1327)「日目譲状」に上新田坊(本源寺)を日道に譲り滅後は幸松へ譲る旨、記されている。譲状が内容通り引き継がれていれば、幸松は本源寺四世日領と比定できる。