西馬音内氏家紋 |
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五葉木瓜 |
【概説】 |
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【西馬音内小野寺氏系図】 |
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人 物 | 列 伝 |
茂道 | ( ? ) 輝道の三男。肥前守と称す。西馬音内の地を与えられ、西馬音内氏を称す。兄義道に次ぐ勢力を保持し、数多くの合戦に参戦。多くの勲功を挙げた。義道改易の際には、自城を焼き払い、庄内地方へ逃走した。こののち、茂道の行方はしれないが、西馬音内の御嶽山西蔵寺に葬られるとある。法名 佛光院対山茂道。 |
市正 | ( ? 〜1600) 茂道の子。、式部大輔と称す。「奥羽永慶軍記」では、頼道という名で登場する。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には名護屋の陣まで出兵する。慶長五年死去。 |
女子 | ( ? ) 茂道の子。由利矢島城主大江満安の妻。 |
孫六郎 | ( ? 〜1600) 茂道の子。慶長五年死去。 |
女子 | ( ? ) 茂道の子。最上義光の家臣土肥半左衛門の妻。 |
則道 | ( ? 〜1663) 茂道の子。八之丞、小野寺佐渡守、後に式部大輔と称す。西馬音内城陥落後は、父茂道と共に、庄内へ逃亡。光安寺と言う寺に逗留後、姉婿土肥半左衛門を頼り、最上義光の家臣となる。しかし、後に土肥半左衛門が讒言により切腹の命をうけ自害。則道は行き場を失い、姪おつやを伴い、戸沢政盛に仕える。寛文三年十二月十一日死去。 |
於鶴 | ( ? 〜1664) 父は矢島満安、矢島落城の時、三、四歳であった於鶴を百姓が隠し育て、それを知った庄内の菊地五郎兵衛という者がこれを預かり受け、そののち東禅寺右馬守が菊地より預かる。於鶴は希なる美人であったため、仁賀保兵庫頭の子、蔵主の妻として迎えられた。しかし子供ができなかったため、寛永八年離別し、寛文四年矢島宝鏡院にて死去。法名 妙日と号す。 |
女子 | ( ? ) 土肥半左衛門の子。おつや。父半左衛門が最上義光の命により切腹。その後、叔父小野寺八之丞則道と共に新庄藩主戸沢政盛のもとへ逃れる。 |
道清 | (1727〜1707) 則道の養子。源五兵衛と称す。戸沢家家臣大鎌平三郎の長子。母は梅沢右衛門の娘。宝永四年四月二十四日死去。享年八十一歳。法名安心中可。円通山観喜寺に葬る。 |
土肥源八郎 | ( ? ) 父は土肥半左衛門。母は小野寺氏。父の切腹により、最上氏から逃れ、新庄藩戸沢氏の家臣となる。 |
道昌 | (1662〜1734) 道清の子。八之丞・六郎左衛門と称す。母は則道の娘。新庄戸沢家を去り、西馬音内に戻り、小野寺の旧家臣で佐竹家に仕えていた黒沢甚兵衛を頼り、元禄十四年久保田藩佐竹氏に仕える。義処公より大小姓を命ぜられ、享保七年義峯公より大小姓組頭を拝命。享保十九年七十三歳にて死去。法名絶参道学。 |
女子 | ( ? ) 道昌の子。宮村惣蔵某の妻となる。母は津田平右衛門の娘。 |
道武 | (1693〜1715) 道昌の子。八之丞・四郎兵衛と称す。母は津田平右衛門の娘。正徳五年十二月十六日死去。享年二十三歳。法名氷屋祖参。経来山白馬寺に葬る。 |
道潁 | (1706〜1740) 道昌の養子。八右衛門と称す。高瀬治部左衛門家重の三男。母は寺崎弥左衛門広方の娘。元文五年十月三十一日死去。三十五歳。法名無庵體住。 |
道英 | ( ? ) 道昌の子。小野寺検校と称す。側室の子。江戸に住むという。 |
道方 | ( ? 〜1725) 道武の子。伊三郎と称す。母は長瀬徳右衛門某の娘。享保十年八月十三日死去。 |
道春 | (1733〜1773)道潁の子。左伝治と称す。母は片岡治左衛門政昭の娘。元文五年十二月八歳にて家督を嗣ぐ。安永二年六月二十三日、四十一歳にて死去。法名武山全雄。白馬寺に葬る。妻は桐沢亦兵衛長年の娘。 |
宗正 | ( ? ) 道潁の子。三十郎と称す。母は片岡治左衛門政昭の娘。小室友之丞宗房の養子となる。 |
女子 | ( ? ) 道英の子。江戸幕府御旗本杉浦藤右衛門勝昌の妻。 |
忠知 | ( ? ) 道英の子。江戸幕府御旗本伊藤五左衛門の養子となる。 |
道忠 | ( ? ) 道英の子。善太郎と称す。 |
道賢 | ( ? ) 道春の養子。万蔵・六郎右衛門と称する。黒沢伊兵衛道康の三男。母は小野岡市太夫義亮の娘。安永二年(1773)七月、十三歳で家督を嗣ぐ。妻は加藤嘉内景高の娘。 |
女子 | ( ? ) 道賢の子。那可亦右衛門の妻となる。母は加藤嘉内景高の娘。 |
女子 | ( ? 〜1804) 道賢の子。文化元年四月二十七日死去。法名蓮容台円。 |
某 | ( ? 〜1797) 道賢の子。鉄治と称す。早世。寛政九年二月二十三日死去。 |
女子 | ( ? ) 道賢の子。母は加藤嘉内景高の娘。 |
【西馬音内城主の系譜】 |
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西馬音内城は築城建治三年(1277)廃城慶長六年(1601)と伝わる。 小野寺領の要害の故、多くの一族が送り込まれてきたが、 伝承による城主の系譜は上記の通り。 |